ロシアの十字架

ロシアの十字架

ニコライ・メリニコフ
(14 4.7 分の 5)

天才詩人メリニコフ(1966~2006)の傑作。2023年にボヤコフ監督が映画化した。悔い改めとは何かを考えさせられる韻文[1]

 

第一章

とっぷり夜もふけたので

いがみ合っていた雄鶏も寝た

しなやかな柳の枝も

垣根を打つのをやめた

物音ひとつしない朧月夜

あたりは怖いくらい静か

大地の眠りに合わせて

ペトロフ村も眠っている

いずれの方角を見渡しても

ひとけも無ければ灯りもない

ただ霧の中 一筋の川が

不気味なほどひっそりと流れるのみ

そして門の近くで

ネズミが遊んでいるだけ

ただ よく目を凝らしてみると

墓地にそって動いていく怪光が見える

しかも このしんとした真夜中に

あのふわふわ徘徊している影は 何だ?

何か不吉なことでも起きるのか

どうも嫌な予感がする

おい なぜそんなにそわそわし始めたのだ?

せっかくみんな眠っているのに脅かさないでくれ

生活苦のなか必死に働いて

くたくたになっているのだから

 

イワン・ロストクは 右腕を失くした障害者

この村の番人だ

すっかり酔いも醒めて

つまらなそうに東の空を眺めている

のんびり手製のタバコを燻らし

ぼそぼそとつぶやいていた

百姓なんてやりきれたものじゃないさ

集団農場だっていかに大変か

50 年も生きてきたというのに

目にするのは 土埃や 農地や

毎日食べている芋っこだけ

それに 犂とか牛糞以外に見たものといえば

そう 集団農場の親方の

目にあまる横領くらいじゃないか

それが イワンの全人生だった

思い描いた夢も 叶わず

望んだことも 実現せず

持っていたものまで 失った

何もかも あっという間に過ぎ去った

なんとも落ちぶれた人生じゃないか

心の中も 家の中も

むしゃくしゃしていて しっくりこない……

「身内」といえるものなんて

このボロの作業着と長靴ぐらいだろうさ

とくにやましいことなく生きてきたが

ウォッカだけは手放せなかった

酒を買うために全部売り払い

すべて一杯の酒と化した

かつては威勢よく犂を振るっていたイワンも

いまでは ただの呑んだくれだ

 

じきに森の彼方から少しずつ

すーっと朝日が差しこんでくるだろう

まるでその光線から一日が始まるかのように

ちょうど黒ずんだ壺から流れ出るミルクのように

新しい一日が 東からやってくるだろう

その清流さえ受ければ

気分も朗らかになって楽になる

そして酪農家が はいしい はいしい と叫びながら

牛の群れを草原へ連れ去るころには

やい起きろ そこの親父!

いっそ全部忘れて元気に暮らせ!

となるわけだ……

でも まだ夜の帳が下りているうちは

何もかも嘆かわしい

イワンは首を垂れたまま 目をつぶっていた

すると 睡魔に襲われて

しばし気分もほぐれた

夢の中では

鬼神のごとき駿馬にまたがった豪傑が

矢のごとく馳せていくさまを見た

七色のオーラを放ち

剣のごとく光を操り

おぞましい敵をやっつけている

その格闘が 入り乱れて雲散して

ふと気づくと 虹だけが残っていた

おや ここは生まれ育った村じゃないか

しかも驚いたことに

家を出ていった娘らが窓際にいる

亡くなったはずの女房もいる

笑い声が聞こえ

数年前のように長椅子に腰掛けた

そう いつだったか実際にこうして

家族そろって腰掛けたことがあったじゃないか

そりゃイワンだって妻子を失くせば心細いし

しょんぼりするのも無理もない

まあ 娘たちはいいんだ

いまごろ旦那と一緒に幸せに暮らしているだろう

なんせ左手だけじゃ

夕飯のスープひとつ 作れやしないのだが

要するに 娘には慕われなかったってことだ

こうなるしかなかったってことだ

でも女房は……!

イワンは長いこと妻を待ちわびていた

だからこうして妻に会うなり その手と首と

色鮮やかなスカーフを嬉しさのあまり撫でた

病みきった心の中で

すでに遅すぎる赦しを乞おうとして……

しかし撫でたかと思いきや

かの豪傑も 娘も 女房も 消え失せた

ああ 夢を見ていたのか と

ようやく我に返った

しかしヘンな夢だな どうしろというのだ?

いったい何のお告げなのだ?

イワンには分からなかった

その謎を 解く知恵もなかった

 

その日は 一日中

何にも手がつかなかった

「こっちへ来い」と呼ばれた気がするが

どっちへ行ったらよいのか分からない

お手製の酒を一杯ひっかけてみたが

酔いもしないし うまくもない

だいたい呑む気もしない

このわびしい気持ちを聞いてくれて

相談にのってくれる人はいないだろうか

ちまたには 人がわんさといるが

分かってくれそうな人はいない

なにせ みんな忙しいんだ

定刻になったら耕して

家業と 集団農場の業務を

両立させなきゃいけない

種植えして 刈入れして 収穫

年がら年中 農繁期だ

片時も休めやしない

そうやって時が あっという間に流れていく

 

第二章

そうやって時が流れて……

20 世紀も終わるというのに

この国では 相変わらず

ボロボロになった百姓家ひとつ修復できない

すでに その半数くらいは潰れた

インフレも止まらず 必需品も買えず

百姓は 憂鬱になるばかり

この村はおろか この国自体が

今後どうなってしまうか知れたものではない

それこそ足枷に繋がれた奴隷のように

やれ兵役だ 流刑だ 日雇いだ などといって

駆り出されたり 騙されたりする

もはや溜息もつけず 気も晴れず

ただ不信の眼差しをモスクワに向けるのみ

まるで敵が首都に居座って

何もかもぶち壊しているみたいだ……

だが 敗戦とか 財政破綻よりも

もっとたちの悪いものがある

気づかないうちにロシア人のたましいが

外部から侵されているのだ

少しずつ年を追うごとに

どんどん落ちぶれて下劣になるように

自由主義のプロパガンダに洗脳されているのだ

今が楽しけりゃええという 唾棄すべき思想に!

 

なぜ農村までそんな波に呑まれたのか?

新聞のせいだ

都会で落ちぶれたゴロツキが 路頭に迷った挙句

新聞記事を見て 押し寄せてきた[2]

今ではもう

村人の三人に一人くらいはいるだろうか

はじめは 村に馴染もうとしてくれた なにせ

ようやく「ふつうに」暮らせるようになったのだ

お気に召してご機嫌になったが

額に汗して働こうとはしなかった

そんな連中が

まるで洪水で運ばれてくるゴミのように

どしどしこちらへやって来て

このロシアの田舎村までやって来て

理解し合えない「よそ者」になった

やつらにしてみれば この村に大事なものはない

代々の墓もなければ 血のつながった兄弟もいない

だからこうなる

「どっこい これまでみたく暮らせばいいのさ

呑んできたのだから ここでも呑め

分捕ってきたのだから 分捕れ

こいつらは何を耕している?

わざわざ刈り入れて何になる?

だいたいお前らは 農業の仕方が下手糞なんだ!」

お人好しの田舎者は あっという間に

連中の物言いに慣れてしまった

その始終むかむかした態度にも慣れ

その乱暴な言い方にも慣れ

もはや不快に響かなくなってしまった

だから生計に苦しむ老婆までも

手製の酒を連中に売ったりして

食いつないでいる始末

なのに さして驚く者もなく

ましてやぞっとする者もなく

みんなして愚行に走っている

どうでもいい民族になり下がったのだ

あろうことか女までもが

なけなしの金をはたいて

何週間も呑み続けているというのに

だれ一人として驚かない……

いわば豊穣な農業用地に

雑草が植え付けられたようなものだ

そうやって「よそ者」はひっそりと

敵でもやってのけられないことをしている

 

こんな状態がいつまで続くのか

働き盛りの若者が

年がら年じゅう呑んだくれた挙句

コロッと逝ってしまうとは!

それも人目につくところで

畑のど真ん中で 頓死するとは!

あんなに笑顔で

みんなに喜ばれていたじゃないか……

なのに酔いつぶれて 息絶えて

帰らぬ人となる……

しかも その後を追うようにして

次世代の人材まで旅立っていく……

旅立った末に どこへたどり着くのか

天国か それとも またもや地獄か

そうやって浮足立った若者が

大事にされず 皇帝の庇護も受けず

この世を放浪しているようなものだ

そして命の花を徒らに散らす

信仰もなければ悔い改めようともしない

あんなに考えたり夢を語り合ったりしたのに

その苦労も涙も 水の泡じゃないか

ロシア人は 涙なんぞ重く見ない

ずっと昔から泣いて暮らしてきたんだ……

だというのに この不撓不屈の民族も

一気に若死にする人が増えた

 

第三章

ペトロフ村のはずれの 深い森の奥では

長老フェドセイが 独りきりで修行している

滅多に訪ねてくる者はいない

昔からこんな決まりがあったのだ

ミミズクしか 長老を起こしてはいけません

エゾ松しか 窓を叩いてはいけません

長老は 人里離れて独りきり

給与もなければ薬局もなく

他人とは異なる独自の法則にのっとって

何十年も過ごしてきた

あることないこと囁かれ

すっかり噂の的になっていた

「ものすごく敬虔な正教徒らしいぞ」

という者もいれば

「いやあれは魔法使いだ 詐欺師だ」という者もいた

何も知らないくせに

「オレなんて あの爺さんが狼に化けて

一度ならず夜ふけに遠吠えしている姿を見たぞ」

などと のたまう者まで出てきた……

何という馬鹿さ加減か

この長老の聖なる祈りをなじるとは!

わが国の窮状を見よ

空腹のあまり夜も寝つけず

頭を壁に叩きつけている貧窮者が

ごまんといるではないか

打てども響かぬ虚空の下で

慟哭を押し殺してすすり泣いているではないか

 

一日が過ぎた へこんでいたイワンは

寝ころんだまま天井を見据えていた

そして どういう風の吹き回しか

よし 長老を訪ねよう と思い立った

先日の夢に苛まされ どうも気が気でない

長老ならば何か知っているかもしれん

少しは分かってくれるかもしれん

ワン と最愛の飼い犬も

飛び寄ってきて尻尾を振っている

そこで イワンは犬と連れ立って

身を守り合いながら暗い森に入った

森の中は 樹齢何百年もの松が

それこそ生き物であるかのように

ゆさゆさ揺れたり ギシギシ言ったりしている

どうやら夜中でも寝入ることがないらしい

ふいに足元から 鳥が飛び立って

ピイピイ鳴きわめいて責めてくる

「びっくりしたのは こっちだよ」と強がってみたが

ワンちゃんは もうビクビクして歩くのがやっと

それでも ついに隠遁庵に着いた おお これぞ家だ

かすかに明かりが灯り

まるで来客を待っていたかのようだ

長老自身も百寿になるというのに寝ていなかった

訪問者を待っていたのだ

開け放たれた扉から 光が漏れている

「今晩は」と挨拶したら

「まあ『晩』といえる時分でもないが お入りなされ」

と迎え入れてくれた

家に入って扉を閉めると まっすぐ目を見つめてきた

手織りの服を着て

救世主の銅製イコン[3]を首から下げている

チョークよりも白い髭を生やし

眉の下には 何もかも見とおすような瞳……

イワンとしても おどおどしながら

隠遁者の暮らしぶりを眺めてみた

暖炉には灰一つないし どこもかしこも整理されて

隅々まで気が行き届いている

それに 嗅いだことのない薬草の香りが

家中に漂っている燈明ランパーダが穏やかに灯っていて

どの聖像画にもルシニク[4]が掛かっている

ああ いかにもロシアだ

この家も この長老も まさにロシアそのものだ

先ほどまで不安だった気持ちもすっと消え

まるで万事無事であったかのようだ……

「さあ まずはお茶でも飲みなされ」

と言いながら

長老が把手付茶碗を出してくれた

イワンは左手で持ちやすいように把手を掴み

一口飲んで もう一口飲んだ

何が起こったのか分からない

ただ 文字どおりたった二口飲んだだけで

人生が逆方向に向かったのだ

青年期を経て幼少期へ そして何百年も前の昔へ!

口にしたこともない稀有な旨味を味わい

薬草のたっぷり入ったお茶の芳香を嗅いだら

苛まされていたたましい

遠い先祖のところへ吹っ飛んでしまったのだ

現代を生きる男の前に

ロシアではなく 聖ルシ[5]

その威容とともに 現出したのだ

……すると胸がうずいて 涙がこみ上げ

心臓が張り裂けそうになった

ああ これだ これぞ心が探していたものだ

こんなところに 救いがあったのか!

ただ その聖なる領域への道は

長らく隠蔽されて 忘却の彼方に沈んでいた

なにせ

「奴隷のように働いて くたばってしまえ!」と

罵られてきたようなものだから……

イワンは ぽかんと口を開けて

「もぬけの殻」になって 座っていた

生きれば生きるほど 何もかも失って

もう何ができるのかも分からなくなっていた

それに同胞がいかなる力を奪われていたのかも

見えなくなっていた

なぜなら「捧神の民」[6]といわれる国民の目から

神性というものが こすからく隠されてきたのだ

いくら薬草の入ったお茶とはいえ

二口飲んだだけじゃ話にもなるまい

しかし イワンにとっては

人生をひっくり返すほどの効力があった

 

「相談したくてやってきたのだろう」 と

長老は静かに語り始めた

「ここに来ることは 分かっていたよ

しるしが与えられたからね

こんな奥地まで訪ねてきたからには

今から話すことを心に留めておくがよい……

おぬしは ご先祖がペトル・ロストフさんなのだから

その血を継いでいることになる

ただペトルさんがどのような方だったかは

知る由もない

何百年も前の話だからね

それでも 村名に選ばれるほど皆に慕われ

こうして今でもペトロフ村と呼ばれているほどだ

そもそもロストフ家の一族といえば

みな剛健な体つきをしていて長身ロスト

馬の装蹄もひん曲げることができたというではないか

農業のコツを知り尽くしていて

信仰深く 汗水垂らして生活し

敵に強襲されたときなどは

一斉に立ち上がって祖国の救い手となったこともある

村民と一緒に 神の十字架を背負っていたのだ……

そのロストフ家[7]の血筋から やがて呑兵衛が生まれて

単なるロストク爺ちゃんに成り下がってしまうなんて

いったい誰が想像できただろうか」

長老は そう言って溜息をついた

イワンは 決まり悪くなってうな垂れた

戸外では 犬がクゥーンと吠えて

苦しそうに悶えている

「夢を見たのです……」

「その夢はな 神様がおぬしに

聖ゲオルギイ[8]が蛇と闘うさまを

お見せになったのだ

まさに 聖人と悪魔の軍との闘いだ

おぬしは半世紀も生きてきた身でありながら

いつもわれわれ一人一人のために

たましいの防衛戦が行われていることを

知らなかったのだ

その闘いはどんどんあからさまに激しくなり

闇が 光に対して軍勢を整えている[9]

だがな いずれ蛇が退治されるときに

おぬしはどこに住まうおつもりか?

イワンよ 自分自身を忘れた者よ

その手で哀れな妻を殴った者よ

何のお役にも立てず 全財産を呑み干し

少しずつ落ちぶれていったのう

やさぐれて罪ばかり犯していたが

主が憐れんで制約を加えてくださった

そう 悪酔いした翌日に右腕が

妻を殴打した右腕が 切断されたのだ

それ以降 片腕一本で苦労を負い

一人ぼっちで悔し泣きし

ろくに働くことも 十字をくこともできず

妻子をそっと撫でることもできなくなったのだ……

 

そう言って 長老は押し黙った と突然

まるで棍棒でぶん殴られたかのように

イワンは堪えきれなくなり

赤ん坊のように ギャアギャアと

涙にむせび 胸を打ち

大声で泣き叫んだ

身につけていたシャツの袖も

あっという間にぐしょぐしょになった

聖像画の下で嗚咽しながら

一切人目を気にすることなく

決して誰かのせいにすることもなく

ただ自分自身だけを責め

この一介のロシアの百姓は 声を上げて泣いた

泣きながら これまでの人生を思い出していた

花柄のブラウスの袖に腕をとおした妻のことを

子供や 家族全員のことを

父母や 祖父母のことを思い出していた

さらに 村を襲ったひどい飢饉や 戦争や

「勝ったぞ!」という雄叫びを思い出していた

そして戦時中をしのいだパンの味も[10]……

男泣きに泣いて 泣きつくして

とうとう泣き止んだ すると長老はこう言った

「堕落するときは 呑み仲間とつるんだろうが

救いへ至る道は 一人で歩むしかない

イワン いいかい

その夢を見たのは

かけがえのない賜であるおぬしのたましい

これ以上 滅びないようにするためだったのだ

だから 夢で呼んでくれたお方の御旨を行いなさい

ずいぶん長いこと彷徨ってきたのだから

いまこそ足を洗って 光を見据え

光に向かって 這い上がるのだ

たしかに おぬしの十字架は重たいが

きっと担いでいける

行く先々で どんな障害や困難に遭おうとも

まっすぐに進むことだ」

「でも わたしの十字架とは何でしょう

全然理解できませんし 不安です」

「すべて神様が 示してくださるだろう

どんな比喩も明かしてくださるに違いない

きっと分かるはずだから 追い込まれても

責められても 血が流れても ひるむな……

もはや終末の時は近い 準備しなければならぬ

さあ 急ぐのだ! イワン」

 

もはや終末の時は近い……

もうすぐ天上で天使がラッパを吹き

この地上にいる人々は皆

神を恐れて震え上がることだろう

そして方々から押し寄せてくるだろう……

王も奴隷と肩を組み

古代人も終末時の人々と一緒になり

殉教者も迫害者と並び立つ

そして「生命の書」に記された各人の生きざまが

人生をお与えになった神によって

すべてを見通されていた神によって

おごそかに読み上げられるのだ

そのとき 不信心だった者でさえ

慾や肉体を呪って神を信じるが

主のほうとしても 相手の心を推し量って

次のように告げることだろう

「わが子よ 心の頑なな者よ どこにいたのか

その心の扉を叩いてみせたではないか

預言者を送り 永遠の生命について語り

病気になったときには治し

落ちこんだときには慰めてあげたではないか

だが どんなに待っていても……

甲斐がなかった……

いくら呼んでも 聞く耳を持ってくれなかった

その病んだたましいのために

ゴルゴタの十字架に掛けられてまで

嘆願したのに…… 耳を貸してくれなかった

そのようにして みずから地獄へ行く準備をしたのだ

実際 この世の美しさや 権力や栄光に目がくらみ

都合のよい道を選んで

私のことをあざ笑っていたではないか

心の中で放蕩のかぎりをつくして

私の努力を踏みにじったではないか

罪を犯しても悔い改めず

ふんぞり返っていたではないか

腹を満たすためだけに生きてたましいを殺し

野獣のごとく

祈りもしなければ 涙も見せなかった……

それで いまさらどうしてほしいと言うのだ?」

 

第四章

聖堂が新築されるときには

どの聖堂にも

天から天使が遣わされてきて

できたての聖堂に仕えてくれることになる

その天使は 肉眼では見えないが

世の終末までいてくれて

人々はその羽に守られながら

神に祈ったり 奉神礼を挙げたり

領聖[11]という恩寵にあずかったりする

つまり目には見えないが

いつもその天使に見守られているのだ

たとい聖堂が破壊されて

瓦礫や雑草ばかりになろうとも

天使は御旨にしたがって一歩たりとも離れない

無神論者が聖堂を壊して

神を冒瀆した場所でさえ

天使の清い心から湧き出ずる

静かな泣き声が聞こえてくる

雨が降ろうが 寒波に見舞われようが

痛々しく ずっと泣き続けることになる

最後の審判の くる日まで

 

そういえば ペトロフ村にあったという

生神女就寝聖堂は

いまだに半壊状態のまま放ったらかしだ

円天井も 傍屋も 崩壊したため

昔から変わらないのは

そこらに生えている雑草や浜藜はまあかざくらい

あれは いつの時代のことだっただろうか

もう記憶がぼやけるほど昔の話だが

近くの農村から 群衆が徒歩や馬車で

教会にかけつけていた時代があった

当時は きちんと奉神礼が挙げられていたのだが

それも1917年までのことだった……

それ以降は お屋敷も庭園も焼かれ

領主や神父たちも 「あの世」に送られ

五年ごとの計画に基づいて

地上における天国をこしらえようとした[12]

そのせいで 民衆はさんざんな「幸福」を受け

川というよりは海のように とめどなく涙を流した

それで結局 神の国でも仏の国でもない

ろくでもない国ができあがった

むろん 地上の天国も天上の天国も得られず

手にしたものといえば身を切られるような憂鬱

全国どこを巡っても

そのやるせなさから抜け出せない男ばかりだった……

 

3

ちょうどイワンが番をしていた集団農場の管理棟から

百メートルほど離れたところに

廃墟となった生神女就寝聖堂があった

イワンは よく夜ふけに 窓越しに

なんとなく さしたる関心もなく

その方向に目をやることがあった

しかし 信仰だとか神だとか

そういったことは考えたこともない

ただし そう たしかに呑み仲間と

よく聖堂付近で呑みあかした日には

ひょっとしたら考えていたかもしれない

なにせこれほど打ってつけの場所なんてなかったのだ

川のほとりの小高い丘で

平日でも 祝日でも 給料日でも

旦那たちが心置きなくウォッカを呑める居場所

奥方たちは夜になると夫を探しに行き

家の中へ引きずりこんで わめいたものだ

「さっさと あの教会でも取り壊して

あんたらが呑めないようにするがいい!」

夫婦喧嘩や口論が止んだあとには

眠れる時間など ほんのわずか……

天使は そんな人々の堕落ぶりを見て

ひっそりと 音もたてずに泣いていた

 

第五章

冷えこんだ一帯に

夜明け前の霧がかかっていた

その森の小路をゆっくり歩いてくる

生まれ変わったイワンの姿があった

賢い長老の言葉に胸を打たれ

新しい人生の第一歩を踏み出そうとしていた

あたかも生まれ直してきたかのような

イワン・ロストフ[13]という一人の人間だった

理解しがたい不思議な力で

たましいの酔いから醒めたのだ

もしかして すべて夢だったんじゃないの?

「夢ではないよ」とイワンはつぶやいた

長老の正しい教えに心が温まり

神を畏れていたことは確かだった

しかも生まれて初めて

祈りを唱えながら歩いていた

そりゃ きちんと上手に

祈れていたわけではなかろう

しかし すでに天に向かって

「主よ お赦しください」という思いを馳せていた

恥ずかしいし くやしいし 自信もなかった

でも生き直せるものならば 生き直したかった……

義なる神様…… この一晩のうちに

どれだけ心が揺さぶられたことでしょう

 

イワンは まわりの森にも 庭にも 畑にも

一切目をくれることなく

まだ暗がりの残る夜明け前

ふるさとの村の聖堂に入った

聖堂に入るなり 背筋が凍った

がらくたの山 腐ったゴミ ボロボロの壁……

おっ と足を踏み外して すっころび

ガラガラと音を立てて がらくたの山に埋もれた

20 センチ級の錆びた大頭釘に

頬を引っ掻かれ 髭に血が滲んでいく

痛いし バカみたいだし 気も萎える

外では 雨がしとしと降り出して

にわかに雨足が強まって嵐になった

イワンは がらくたに埋もれたまま泣いていた

涙で 血の跡を拭っていた

「ご先祖様 すさんでしまったロストフ家の皆様

どこにおられるのですか

どうして こうも不幸ばかりなのですか

踏んだり蹴ったりなのですか

男親の皆さん 聞こえていますか

この国や この聖堂や この片腕のない末裔を見て

何とも思わないのですか!」

と突然 声に詰まった

見上げてみると

体じゅう血だらけで茨の冠をかぶった

ハリストス[14]が こちらを 見ている……

その瞬間 周囲のものは一切存在しなくなった

壁も 雨音も がらくたも 滅茶苦茶な状況も

人生そのものが消えて目線ひとつになった

その目線に 応えてくれる目線があった

このひどい廃墟の中で

ようやく半世紀ぶりに

十字架に掛けられた神が

人の呼び声に 目線で応えられたのだ

その目線から

目を逸らすことはできなかった

イワンは心苦しくなって

「主よ お赦しください」と思った

そして やっとの思いでこう言った

「さんざんバカをして罪を犯してきました

もし まだ死なずにいられるのでしたら

どうか 罪を贖うための時間をください

右腕がないので 十字を描くこともできません

せめて 少しだけでもよいので 時間をくれませんか

そうすれば あなたに向かって歩んでいる姿を

お見せすることができるでしょう

ただ 教養がないので

『自分の十字架』という言葉を

文字どおりにしか受けとれなかったとしても

どうか 厳しく裁かないでください」

 

第六章

三日間か それ以上

村からイワンがいなくなった……

行方不明者であることが判明したが

だれも 何も知らないと言う

村長は目を丸くして

「いったい どういうことでしょう

ワンちゃんは村役場で吠えているというのに

肝心なイワンがどこにもいないだなんて!」

イワンの家に人を送ったが

玄関には鍵が掛かっている

もしや 酔っ払って道に迷って

野垂れ死んだのか

あるいは毒入りの飲み物でも飲んで

ポックリ逝ったのか

村中のドブの中を探し 茂みの中も探してみたが

無駄だった どこにもいないのだ……

真っ先に見つけたのは

イワンの代母(洗礼母)だった

「見つけたよ! 悪霊にやられちまったのさ

気の毒なことに頭がいかれてしまったみたいだわ」

村長は 車に乗って触れ回った

村中の皆さん 見に来なさい

精神病者を捕らえて病院に送りこむ

滅多に見られない光景です

老人も若者も 急用以外の仕事を後回しにして

駆け参じてきた

「しーっ 静かに! 病人を苛立たせないで!」

みな人垣の中から覗いていた

「で どうなのさ 荒れているのかい」

「イワンさん かわいそう

もう精神病院に放りこまれちゃうなんて 」

イワンの家の垣根や門に 人だかりができた

村長も 傍にいる

でもイワンは居座って ぼうっと眺めているだけ

「あの人ったら奥さんがいなくなってから

ひどく呑みすぎるようになったわよね

だいたい男なんてそばで指図されてないと

すぐにヘンになってしまうものなのよ」

「しかし どうだい そろそろ近寄ってきたかい」

「いいえ 相変わらず

ぼうっと庭を眺めているだけよ

大丈夫 どうやら落ち着いているわ

ただね 手に斧を握っているのよ……!」

 

イワンの庭には 丸太が一組

要するに樫の木の幹が二本置いてあった

イワンは ようやく立ち上がると

手始めに斧でスコンスコンと

丸太の皮を剥いで きれいにした

そして渾身の力をこめて

左手一本で斧を握りしめ 丸太を削りはじめた

削れば削るほど 疲れてくる

それでも削りカスを散らしながら 斧を押し当てた

まるで これまでの人生で

こんなに重要な仕事などなかったとでもいうように

何か ものすごく大切なものを

自分のために作っているようだった……

丸太を二本とも削り終え

力尽きていたはずなのに

もう手も震えて 耳鳴りもしていたはずなのに

それでもなお足りないという面持ちで

腰をかけることも 一息つくこともせず

すぐさま手鋸を取ると二本とも溝を掘った

つづいて釘を取って両膝で上手に挟み

うまいこと斧を利用して

トントンと木材に打ちつけていた……

そして ついにイワンが立ち上がると

群衆はゆらりと動いた

疲れた表情で微笑んでいるイワン

左腕で 大きな十字架を抱いている

人々は 凍りついた

どう質問したり 声をかけたらよいだろう

もしや奥さんの墓に立ててある十字架でも

新調したかったのだろうか

それとも 酔っぱらってヘンなことを考えて

首でも吊ろうとしたのだろうか

村長は イワンに近寄った

話し合う必要があると思ったからである

「ええとですね

みんなで あなたのことを探したのです

でも 言ってみればそのせいで

村中の皆さんが お仕事できなかったのです……

何があったのか ひとつ教えてくれませんか」

イワンとしても さらさら隠す気はなかった

十字架を垣根に立てかけて 村民の顔を見た

一人一人と目を合わせてから こう言った

「ペトロフ村の皆さん

皆さんのことは良く知っているつもりです

でも この話を聞けば

責める人もいるかもしれませんし

理解してくださる方もいるかもしれません

もしわたしが これまでに何か過ちを犯したとしたら

どうかお赦しください

罪を犯したことはありました……」

そして 村民に頭を下げて

しばし黙ったまま立っていた

「酔っ払ってはいませんよ

たわ言を言っているわけでもありません

今後は一切 酒も口にしません

もちろん

信じてくださるかどうか分かりませんが……

この数日 何があったのかというと

とても伝えきれるようなことではないのです……

ただ わたしたちはずっと神様に見られてきたし

今も これからも見られているということが

分かったことだけは確かです

今日まで どれだけ愚行を重ねてきたことでしょう

でも主が 天から見ておられる以上

いつか主に『何をしていたのだ』と

問われることになるのです

そのとき どうしますか?

『人それぞれだろ』と思うでしょうか

そうですよね……

早い話 皆さんにお願いしたいことがあるのです

教会を 建て直してみませんか

ひょっとしたら

暮らしやすくなるかもしれませんよね?」

ペトロフ村の人々は 答えに詰まった

驚いて肩をすくめる者もいた

何だって? 事態を解明できる者はいないか?

こんなことがあっていいものか?

さんざん遊びほうけてきた挙句

ドカーン それ みんなで教会を建てようだと?!

それに 酒まで口にしない だと?

最初は 村民も疑わしく思っていた

しかし徐々に 心の目で真意を読み取った

どうもホラを吹いているわけではなさそうだぞ

言葉に心がこもっている

だいたい本当にそう思っていなかったら

こうも率直に 言えるはずがない

「より事態を明らかにしておくために

どこへ行ってきたかお話しておきましょう

じつはですね 主教さんにお会いしてきたのです

そして 教会のことを相談しました

主教さんは祝福してくださり

こうおっしゃいましたよ

『聖堂を建て直すには

当局の許可が必要です

それに大工さんにも給料を払わなければなりません

きちんと労働量に見合った

十分な賃金を支払うべきです

そうすれば 教会が皆にとって喜ばしい場所となり

何百年も受け継がれていくことになるでしょう』と

皆さんさえ この話を信じてくださるのなら

このわたしが 身をなげうって方々を巡り歩き

少しずつ献金を集めて

来年の夏までに再建費をご用意できると思います

え? 当局は……?

どうせ どうでもいいに決まっているでしょう

自分たちの立場のことしか考えていませんからね

何もしてくれませんよ

『そんな件は ゴホン やりたいようにしたまえ

何だったらイスラム教の寺院を建ててもよろしい

ただし資金だけは 乞わないこと』

せいぜいこんな回答くらいしか得られないでしょう

ですから わたしたち次第だと思うのです……

聖堂再建に 賛成か反対か

皆さんで決めてください」

イワンはそう言って離れると

またもや 水を打ったような沈黙が訪れた

5分ほど押し黙った後 心痛に貫かれたかのように

老いぼれの爺さんが声を上げた

「われわれは ロシア人じゃないのかね?

何を考えることがある!

イワンの言っていることは正しいじゃないか」

「本当にその通りだ

教会をこのままにしておいて良いわけがない」

皆ざわめき ガヤガヤし

先祖のことまで思い起こした

「質問です!

村長は許可されますか それとも反対でしょうか」

村長は 少年のように鼻をすすってから こう答えた

「私自身 クリシュナ教徒[15]でもあるまいし

皆さんと同じように この村で生まれ育った者です

どうして反対などできましょう

それに募金に関しましても

個人的には イワンにお任せしてよいと思いますよ

何があったのかよく分かりませんが

実際 別人を見ているようなのです……

ただイワンさん 一つだけ教えてくださいな

その樫の十字架は だれのために作ったのですか」

「わたし自身のためです」

イワンは落ち着いて 真剣な面持ちで言い放った

「こんなわたしでも

自分の十字架を背負っていることを

神様にご覧いただくためなのです……」

この言葉を聞いて かわいそうに思った人もいた

そっと涙を拭った者もいた

ただ「よそ者」だけが 薄笑いを浮かべていた

そこだけは 周囲から浮いていた

 

第七章

昔から ロシアでは

風来坊や流浪者が多かった

灼熱の太陽に焼かれても

冷たい雨にびしょ濡れになっても

さからえぬ運命に追われて

わらじを履いた者も 裸足の者も

ひとけなき野道や 大通りを

延々と歩いたのであった

陳情するために首都へ向かう者もあれば

小袋を持ち歩いてパンを乞う者もあり

祈るために歩いた巡礼者もいれば

戦場から帰郷する兵士もいた

シベリアからきた流刑囚や

家が全焼して焼け出された被災者に至っては

無窮の空を天井とし

食糧といったらパンと玉ねぎのみ

それと少々のお恵みくらいだけ

水は 湧き水でしのいでいた……

ずいぶん世代も変わったし 何世紀も経ったが

その様子は ほとんど変わっていない

 

村役場が発行した一枚の文書がある

「イワン・ロストフ氏は 村民の委託により

聖堂再建の募金活動をしていることを

ここに証明する」と書いてある

募金活動は 開始するにしても続けるにしても

どこかで ひょんな誤解が生じないとも限らない

公式文書があれば一助となるだろう……

イワンは この文書と十字架を持って歩いた

歩いた…… といえばそれまでだが

この一句の裏には いかなる苦労があったのか

夜は 家畜の乾し草や 低木の陰で横になったり

使用済みの物置で過ごしたりした

もちろん広野や森林の星空の下で

一夜を明かしたこともある

夜明けとともに起き上がり しゃがれた声を絞った

「神様 もうダメだ

とても背負いきれたものではない!」

何度も何度も祈りを唱え

背負ってきた十字架に接吻し

ちょうど戦地に赴く前の戦士のごとく

忍耐と力を 乞うた

もう後戻りできないことは 分かっていた

十字架なくして救われないことも 悟っていた

八方塞がりの逆境に陥ったならば

それこそ 歩け! 光に向かって這い上がるのだ!

すると 訳のわからぬ力が

ふたたび体の中から湧き起こり

節々の痛みも吹っ飛んだ

おや これならば 座ったり立ったりできそうだぞ

では出発する前に

きれいな水溜まりで乾パンをふやかしておこう

よし これで大丈夫 神に光栄!

眠りから覚めた以上は 生きるのだ

十字架を 左肩に紐で括りつければ

またしても立ちはだかる何里もの道

同じように血を吹き

息も絶え絶えになって倒れるだろう……

それでも生きるのか くたばるのか

気の毒なことに 忠犬のワンちゃんは

そんな主人の見張り番をするしかなかった……

 

ほどなく噂が広まり

方々まで知れ渡った

なんでも 十字架を背負って

流浪している人がいるらしい

すごいと思う者もいれば 腰を抜かした者もいた

もちろん信じない者もいた…… だが

人々の心には 十字架を背負った風来坊の姿が

神秘的に刻み込まれたのである

何だって? だれが? どういう風の吹き回しで

そんな十字架を背負うことになったのだ?

ただでさえ右腕がないというのに

どうして十字架まで背負わなければならないんだ?

独り身か? 正気なのか?

子供はいるのか いないのか?

なぜ 中年にもなってから

万事は神に裁かれる と確信したのか?

そんな過酷な道を選んでヘンになってしまうほど

今生の人生というものは

生きづらいものなのだろうか?

あるいは ただ単にそうなったわけではなく

もしや それにも何かしら深い意味があり

理解しがたい神秘の力によって

その人のたましいが突き動かされているのだろうか?

……このようにして ロストフ家の末裔イワンは

ひそかに名声を馳せ

人々に尊敬されるようになっていたのである

もちろん 本人は何も知らなかったのだが……

 

イワンは一軒一軒を巡り歩き

垣根越しや玄関先で 募金を呼び掛けた

どうしてか分からなかったが

やがて大事なお客さんでも迎えるかのように

まるで数十年前から待っていたかのように

どこへ行っても歓迎されるようになった

暴飲して不幸のどん底にいた人々が

義人の言葉を待っていたのである

イワンが出向く前に すでに行く先々では

十字架を背負った人がいるという噂が

広まっていたのである

「とうとう うちの村にも来たよ!

せっかく来てくれたんだから見にきてごらん!

ほれ あそこにいる汚くて髭ぼうぼうの男が

十字架を背負って一軒一軒を回り

どの家でも祈ってくれて

聖堂のための資金を集めているんだとよ」

農民も 献金した

ケチらずに ありったけのものを差し出した

贅沢していたわけではないし

むしろその逆だったのだが……

ただ誰もが

イワンにこの一銭をあげたい と思ったのである

どうせ生きにくい時代だし

口をついて歌も出ないくらいなのだから

せめて 立派な聖堂ができればいい!

「イワンさん どうかこの不憫な一家のことを

祈っていてくださいな」

……すると イワンは厳しい表情で立ったまま

祈りを乞う人たちの目を見つめた

「わたし自身 罪ばかり犯してきた人間です

ただご覧のとおり いまは自分で祈っています……

自分のことや 母国のことや

やってしまった罪や

愚行の数々を神様に祈ったとしたら

はたして神様は 聴き入れてくださらないでしょうか

お赦しにならないわけがあるでしょうか」

腰まで深くお辞儀をして お別れの挨拶をした

肩まで十字架を持ち上げてから

背を向けて 出発した

でもどこへ? だれも知らなかった……

人々からしてみれば 神様の話をしてくれた人は

イワンが初めてではなかった

ただ…… これほどの強い信仰心を

目にしたのは初めてだった

 

イワン・ロストクは よく二週間ほどいなくなり

必ず予定日ぴったりに

やっとの思いでびっこを引きながら

十字架を背負って帰ってきた

忘れられた農村や 知られざる地方から

集めてきた大金を差し出すのは

いつも決まって

「資金集金係」のイワン・ロストフだった[16]

会計係は ごまかすことなく 一銭一厘まで数え上げ

金庫にしまい込んだ

そして イワンに目配せして言う

「少しくらい貰っておいてもよいでしょうに」

みるみるイワンは真剣な顔つきになった

「それは 言葉に出して言うだけでも良くありません

そのお金は 皆さんの苦労と涙の結晶です

たましいの救いのために献じられたお金です

口先だけでも 罪を犯してはいけません……」

そう言うなり 自宅のボロ家に帰っていった

ややうな垂れて 深刻な顔つきで

十字架を担いで飼い犬と帰宅するのだった

しかし なんと変わり果てたことか!

これほどの重労働をしながらも

斎は必ず守っていた

斎日は乾パンと水だけ

なんだか眉間にも皺が寄り

顔まで青白くなってきたようだ

でも眼差しは温かく 若返ってきたのだから

きっと精神は萎えていないのだろう!

村民は 急遽

額を寄せ合って討議した

「しかしごくありきたりの男が

一体どこからあんな力を得ているのか

どうやって生計を立てているのか知らないが

いつでもどこでも十字架とともに現れて

お金まで集めてきて

みるみる金庫を満杯にしてしまうんだ!」

「……一冬越えて 夏が来るころには

教会の再建工事に取りかかれそうだね」

そして 「もしや本当に暮らしやすくなるかしら」と

期待を膨らますのであった……

ペトロフ村の人々は みなイワンを誇りに思っていた

他でもない まさにこの村から

茨の道を歩んでゆく こんな男が現れたのだ

きっと聖堂を建てられるに違いない

ちなみに この聖堂にまつわる風聞は

実話に尾ひれがついて

広く知れ渡ることになった

こんな噂まであったという

「あれは神に導かれた聖人だ

あの人に会えば 病気も治るし

だれもが回心したくなるらしい」と……

 

9月に イワンは十字架と募金袋を持ち

町民センターを訪れた だが待っていたのは

「どうしてそんな格好で来たの!

みっともない! 帰って」という金切り声だった

人々は忙しそうに通りすがり

すずめは賑やかにさえずっている

ただイワンは 溜息をついて

「だって……」と言うのがやっと

そして 血のつながった娘の顔を眺めた

いっそぎゅっと抱きしめたかったが

めかし込んだ婦人たちは

むしろ遠ざかりたいと思っていたようだった

イワンは肩を落とし きまり悪くなった

「お前たちが顔も見せに来ないからさあ

ひとり寂しくしているのに……

そう みんなの夢を見てね

それがまた不思議な夢で……」

と そこまで言って絶句した

こんな話が何になる

だってわが子ではなく 赤の他人の子みたいに

責めるような目でこちらを見ているじゃないか

ナターシャも高飛車だし

ターニャも意地悪な目をしている

「パパ おうちに帰って

どうか あたしたちの顔を汚さないでちょうだい」

そしてコツコツと靴の音を立てて遠ざかり

また人込みに紛れて見えなくなった

涙も見せなければ 胸すらも痛まないのか

これが 血を分けた娘か 血のつながった娘たちか

 

もう長いこと

イワンは渡しいかだが来るのを待っていた

そして相変わらず 全生涯を思い出していた……

……そう かつては一介の若旦那 一家の主だった

伴侶のクラウディヤは 女房でもあり母でもあった

どこへ行っても評判の高い娘が二人

穏やかな幸福があった

クラウディヤのことはやさしく愛していた

ところが数年後…… 破綻したのである

都会だったならば

丸め込んで隠しきれたかもしれない

けれども田舎では村中に噂されてしまうので

皆が皆 誰が何をしているのか知ってしまうのだ

「惚れてしまったのかい」

「そうよ」とクラウディヤは恥じらいもなく答えた

イワンは いったい何をできただろう

呑むしかなかった 不幸に見舞われのだ

ずっと長年

家族や女房のことを自慢してきたというのに

そこへおべっか使いの色男がやってきて

妻の前にひょっこり現れたというわけだ

そいつと話し合いをするとき

のっけから ぶん殴ってやった

あわてて村から出ていったくらいだから

しょせん その程度の浮気心だったわけだ

さあ クラウディヤ…… もういいよ……

身を誤ってしまっただけだ……

赦し合って 添い遂げよう

また以前みたいに暮らしていこう

それに娘二人を育て上げなきゃいけないだろう?

え? 何か気に入らないの?

まさか本気で惚れこんでしまったのかい?

たしかに 見るからに恋焦がれているようだった

日に日にやつれ 落ち込んでいった

それでイワンは

もはや呑まずにいられなくなった……

そんなある日 畑で 乾草の山をこしらえた後

酔ったまま 収穫機に手を取られ

右前腕がもぎ取られたのである……

もうすぐ四十歳という年に

障害者になったわけだ……

これからどう生活していけばよいのだろう

毎日 家では喧嘩や口論が絶えなくなった……

いちど壊れたものは 元に戻せないのか!

ズタズタに心が切り裂かれた

家族がいるのに 家庭がなかった

一つ屋根の下に住んでいるのに 幸福がなかった

ウグイスは 歌うのを止めたのだ……

クラウディヤは そっと息を引き取った

そして土に還った

娘たちは 町へ引っ越した……

さあ だれが正しくて だれが間違っていたのか

できるものなら判定してみたまえ……

……イワンは 長いこと渡しいかだを待っていた

そして 川を渡り終えた

十字架を肩に担いで また一軒一軒を巡ってゆく

びっこを引きながら 聖堂資金を募りながら――

 

第八章

11 月 金口イオアンの祝日[17]の夜

激しい吹雪に見舞われた

村中真っ暗で ひとけもなかった

みな百姓家に入って 暖炉のそばにいた

容赦なく 村を襲ってくる吹雪

唸るように吹くので 鎧戸もギシギシ言っている

せめて暖炉が温かくてよかった

さあ 暖かくして ゆっくりおやすみ!

そして 深夜のこと

その聞きなれた吹雪の音に混ざって

独りぼっちの 身の毛のよだつような

異質な遠吠えが聞こえた

狼なのか 犬なのか

なんともやるせないし 重々しい

いや これは吠え声じゃない だれか泣いているのか

村中に向かって叫んでいる たましいの声だ

不気味だな 真っ暗だし 深夜だし……

強風に うめき声に 吹雪に 月

けれども だれも救助を呼ばなかった

つまりサタンが悪さをしていたのだろう……

ようやく夜が明けて 早朝になってからのこと

教会の近くの白樺の下で

イワンの遺体に鉢合わせたのだった……

そばには十字架と 死んだ犬……

村民は皆

涙も言葉も失って呆然と見つめていた

誰が? 何のために? なんと卑劣な!

いったいどうして? イワンが何をしたという?

……目は見開いたまま 首には深傷があった

募金袋もあったが 一銭も入っていない

さあ 家に帰れ! イワンはもういない

イワンのたましいは去ってしまったのだ

 

イワンの遺体は 自宅の机の上で

きれいに洗われ 髭を整えられて安置されていた

みんなのよく知っている村民の一人

右腕のない障害者だった

決まりどおりに 服を着せた

背広を差し出す者もあれば 革靴を提供する者もいた

細い蝋燭が灯っている

部屋の隅で 老人が聖詠経を唱えていた

お棺は 集団農場の木工機で

立派なものをこしらえた

娘たちには「お父様が永眠されました」と打電した

イワンの墓は

クラヴィアの墓の隣に掘ることになった

ただし地面が凍っていたので

金テコで穴を掘るにも骨が折れた

それでも葬儀の会食が 用意され

暖炉の煙も そよそよと昇り

雪っこも 寄る辺なく舞い

イワンも 身寄りなく横たわっていた

呑兵衛もいなかったし

天気も すばらしかった

……ただ一つだけ不安なことがあった

イワンの体というよりは むしろ村から

たましいが抜け出てしまったようだったのだ……

 

ペトロフ村でこれほど立派に故人を葬ったのは

もう何百年ぶりのことだろう

今ごろになって村民は

イワンが生前どういう人だったか悟ったのである

埋葬式に出て お別れをしようと

大勢の人が集まってきた

まるで「金塊 無料配布」というお触れでも

あったのかと思うほどだった

否 人々の波を押し寄せたのは

ありもしない金塊ではなく

神への聖なる信仰だった

そして その信仰に生きたイワンの生き方だった

みなイワンの遺体に接吻して お別れをした

老人老婆も 少年少女も

故人のたましいの安息を祈って

すすんで蝋燭を灯した

……いそいそと こんな打ち明け話をした老爺もいた

「あるときイワンさんに

せがれのために祈ってくださいな と

お願いしたことがあるんす したら

お祈りして救ってくれたんす……」

参列者が多すぎて

百姓家にはとても入りきらなかった

それなのに群衆は 行列をなして待っていた……

つまり そうまでしてでも参列したかったのである

 

村民は せめて神父に祈祷だけでも挙げてほしいと

町まで出向いて依頼した

司祭がやってきた

墓のそばで 教会の規程どおり

「至上者の覆いの下にる者は」[18]が唱えられた

カノンも 聖詠も 唱えられた

故人のたましいが哀しむことなく

闇から救われますように……

聖歌を詠い 墓地祈祷を終えた

すべて一昔前のようだった……

村民は 無言のまま立ちつくし

同じことばかり考えていた

奇妙といえば奇妙なことばかりなのだ

ロシアの民衆がうねるようにして

イワンを見送りにきた

見物にきた者も 涙を流しにきた者もいる

しかし なぜ人々は

偉人でも著名人でもない田舎者のところへ

しかも右腕のない障害者のところへ

こんなに多く集まってきたのか

なにせロシア中の人が 集まってきたのだ!

まさに 今を生きるロシア中の人が

つまり 虚偽情報や喪失感に疲れ

子供を産む気もせず

憂鬱にもだえている人々が

大挙して集まってきたのだ

ちょうどパンを乞うた末に倒れた身を

嫌な顔で見下してくる連中がいる

まさに隣人のうめき声を耳にしながら

鼻で笑ってくる連中がいる

そういう連中に疲れたロシア国民が

こうしてイワンのもとに

ぞくぞく集まってきたのだ

どうして聖なる国が こうも気づかぬうちに荒廃し

国力も品格も失って

あっという間にこんな姿になり果ててしまったのか

この国では 祖国を作っていくべき主人公たちが

さからえぬ運命によって奴隷となり

生きたいという情熱も希望もなく

ただただ震えて過ごしている

だから 蝋燭に囲まれたお棺の中で

かくも従順に横たわっているイワンを見るなり

だれもが自分の生き方に赤面し

言葉を失って唇を噛みしめている

なぜなら イワン・ロストフという人間は

意志を奮い立たせ

自分の進むべき道を見定め

人生の最期に 十字架の道を選んだからだ

そして 神を強く信じて

救いはあるということを 皆の目に示したからだ

つまり神や 聖ルシや 先祖をいかに敬うべきか

その大事な心を 最初に思い出した人だからだ!

 

イワンが背負いつづけてきた十字架が

故人の墓の上に立てられた……

これでおしまい 埋葬は済んだ

イワンの地上の旅は終わったのである

これからは 天国への茨の道を昇ることになる

もちろん救われることを望みながら……

いっぽう残された村民は 聖堂を再建することになる

 

* * *

 

……雪が降り出して 宵も深まった

群衆は 墓を背にして家路についた

ただ白い服を着た長老フェドセイだけが

独りぼっちで 佇んでいた

 

終章

春になり 雪が解け

大地が乾いたかと思いきや

村民は 一から 何もなかったところから

力を合わせて教会再建に取りかかった

ちなみにロシアでは こういうことはよくあった

いったん壊して粉々にして

その後で 灰塵の中から

空虚感に苛まされた中から

さんざん血を流して恐怖を味わった後で

ふたたび美しいものが

みるみる出来上がってゆく……

いの一番に 聖堂用の土地を成聖して祈祷を献じた

さあ いよいよ始めよう!

来る日も来る日も 朝早くから

木工機をグーンとうならせ

石や板を運びこみ

大量の木材を仕入れて セメントを練った

そして どの工程でも

教会建設の達人に点検してもらった

働いては疲れ 一息ついては喉を潤し

イワンのことを思い出して

その功績について語り合った

いかにイワンが前人未踏の広野を

ひたすら歩いたことか……

しかし その飛びぬけた功績が何だったかといえば

同胞を 一つの国民にまとめ上げたことだった

……ちなみに イワンを殺した犯人も見つけた

単にゴロツキたちが 酒代が足りなくて

イワンが持ち歩いていたお金を 強奪したのだ

しかも良心が痛むこともなく

手も震えることなく刺したという……

罪なきイワンを殺しておいて

赦されることなどありえようか

 

* * *

 

もし 読者の皆さんが いつの日か

ペトロフ村を訪れることがあったら

きっと工事も完了していて

すでに聖堂が建っていることでしょう

どうぞ 骨惜しみせず立ち寄ってみてください

天然の蝋燭を購入して 灯して

イワンのために 祈ってあげてください

同胞や 各国に眠るすべての正教徒のためにも

祈ってあげてください

どんなにたくさん祈っても 祈りすぎて

天に祈りが入りきらなくなることはありません

なぜなら天におられるのは 無限大の神様だからです

 

 

脚注

[1] ラフマニノフは「音楽の姉妹は韻文」と述べたが、その肝心な(長編の)韻文が日本文化には存在しない。音楽と韻文の共通点は、同一音型を保ちながら意味が変わっていき、最後にオチがある点である。本作品を読むと、韻文の律動感や音楽的展開、さらに痛悔の極みを見ることができる。底本は、Мельников Н.А. Русский крест. СПб.: «Царское село». 2011 г. 脚注は全て訳者による。

[2] 1990年代の荒廃したロシアの内情。ソ連が崩壊して鉄のカーテンが取り去られると、「自由と民主主義」というスローガンのもと、西側の大衆文化が一気に流入してきた。住民登録制度も自由化したため都会に人口が集中し、田舎では空き家が二束三文で投げ売りされるようになった。そのため、都会で食い詰まったゴロツキが新聞記事を読み、住居の安い田舎に押しかけた。当時、新聞は主流メディアの一つであった。

[3] 聖像画を鋳造したメダルのようなもの。

[4] おもに赤色で模様の施された白い布。ロシアの伝統的な民芸品。

[5] ロシアの雅称。

[6] ロシア人の雅称。「神の教えを正しく守る民族」(正教の民族)という意味。

[7]「ロストフ」は、主人公イワン・ロストクの元来の苗字。この苗字には「長身の強者」という意味がある。いっぽう「ロストク」は「ロストフ」の指小形のため、「強者になれなかった人」というニュアンスがある。

[8] 聖大致命者凱旋者ゲオルギイ。古代カッパドキアの大聖人。ある村の住民を困らせていた毒竜を退治し、信仰ゆえに致命(殉教)した。人々を悪の力から守る聖人として現在でも慕われている。

[9]「神に対する悪魔の戦闘準備」を意味する。次行の「蛇が退治されたとき」とは、黙示録20:1-10参照。

[10] 戦争中のパン。良質な小麦粉が足りず、粘っこく苦い味がした。

[11] キリストの聖体血をいただくこと。

[12]「ソ連国民経済発展5か年計画」のこと。1928年に第1次が始まり、ペレストロイカの第12次まで実行された。

[13] 注7参照。

[14]「キリスト」のこと。ここでは文字どおりハリストスの壁画をとおしてハリストスとの出会いが描かれている。

[15] ヒンズー教系のカルト。ソ連時代に若い世代に普及した。

[16] あえて「苦労人」としてのイワンと、「業績者」としてのイワンを苗字の違いで呼び分けている。注7参照。

[17] 11月26日(旧暦11月13日)。聖金口イオアンの永眠記憶日。

[18] 第90聖詠(詩編91)。

 

初出:「ロシアの十字架」尚絅学院大学紀要第86号

原文:Русский крест – Мельников Николай Алексеевич | читать онлайн, скачать(原著者による朗読付)

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