お手紙、拝読しました。「主イイススの救いの御業についてもう少し教えてほしい」とは、素晴らしいご依頼ですね。実際、学んでおくに越したことはありません。(中略)
この世の旅人にすぎない私たちにとって、真の故郷は地上にありません。誰しも旅路のようにこの世を通りすぎ、地上のものを全部ここに残して旅立ちます。あの世へ携えていくことができるのは、自分自身の霊だけ。だからこそ、霊にとって真の糧となるもの、つまり死んでも失わず天の故郷へ持っていけるものについて思い巡らし、心を配っておくべきでしょう。
主イイススは使徒たちに、前もってご自身がイエルサリムで苦しみを受けて人類を救うために死ぬべきことを伝えられました。そして、ご受難に向かう少し前に、三人の使徒――ペトル、イアコフ、イオアン――を伴って高い山に登られました。そこで変容(顕栄)された時、お顔は太陽のように輝き、お召し物は光のように白くなりました。
その時、二人の預言者モイセイとイリヤが栄光のうちに現れ、主と語り合いました。やがて、彼らを覆った輝く雲の中から声がしました。「これは我の至愛の子、わが喜べる者なり、彼に聴け」(マトフェイ 17 : 2~5)と。使徒たちはこの声を聞くなりひれ伏し、激しい恐れに包まれました。
さて、この変容という救いの御業に、何を見て取ることができるでしょうか。4点ほど上げることができます。
1) 主イイススの神性と栄光の現れ
まず押さえておきたいことは、主イイススご自身が父の光であり、神であり主であり、栄光の王である身を示されたという点です。その日までは神としての威光を隠され、へりくだった人間の姿をまとっておられたため、見た目は他の人々と同じ人間にすぎませんでした。ただし、内に神性を宿しておられたのです。
使徒たちは、すでに度重なる奇跡を見て主の栄光を目にしてきたとはいえ、この日ばかりは主イイススの栄光そのものを目の当たりにしたのでした。御顔が太陽のように輝き、衣が光のようになったのを見て、使徒自身も「私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であった」(イオアン 1 : 14)と証言しています。
ハリストスは、その日以前にも神にしかできない御業をとおして栄光を現されていました。しかしこの日、神としての栄光そのものを目に見えるかたちで顕されたのでした。太陽のように輝くお顔と光のような衣、そして神父の声がその事実を明らかに証しています。
2) 自発的受難と使徒への励まし
次に、ご受難に対する主の自発性が示された点です。
主イイススは神である以上、すべてを成し得るお方です。この事実を弁えていれば、ご受難が主のご意志に基づいていたことが自ずと理解できるでしょう。そもそも万物の上に立たれ、森羅万象がその御言葉と御旨に従うようなお方なのです。いったいどこに、そのようなお方を受難に追いこみ得るものなどありましょう。ひとえに哀れな人類を思う主の深い慈愛のみが、主をその道へと進ませたのです。
そして、ご自身の栄光を見せることで使徒たちを励まされたのでした。もうすぐ弟子たちが恩師である主の苦しむ姿を目にして、つまずいたり怖がったり、主から離れたりしないようにするためでした。
つまり、いかなる受難もご自身の意志に基づくという点を、弟子たちに悟らせておきたかったのです。主ご自身からしてみれば、そもそも敵対者の悪意なんぞ立ちどころに止めることもできるのですが、あえてそうされませんでした。滅びゆく人類を救うため、すすんで苦しんで耐え忍ぶことを望まれたからです。
3) 来世で受ける栄光と歓喜
いっぽう使徒たちからしてみれば、この時、栄光に包まれた救主だけを見たわけではありませんでした。同じ栄光にあずかっている預言者たちの姿も目にしたのです。この点から汲み取れることがあります。聖人というのは永世に入ると、ハリストスの栄光と似た栄光を帯びるということです。「私たちは主に似る者となり、主をありのままに見る」(イオアン一 3 : 2 参照)と書いてあるとおりです。
タボル山の上で、ハリストスのお顔は太陽のように輝きましたね。いずれ御父の国で、「義人たちは太陽のように輝く」(マトフェイ 13 : 43)ことでしょう。また、「主はわたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」とも言われています(フィリッピ 3 : 21)。
そうなれば、どんなに喜ばしいことでしょう。かの日、神の栄光を目の当たりにしたペトルは、あまりにも嬉しくて山を下りる気さえしませんでした。ずっとその場所に留まっていたくて、イイススに「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです」(マトフェイ17 : 4)と叫んだのでした。
ほんのちょっと神の栄光を見せてもらっただけなのに、弟子たちはかくも大きな喜びに満たされて恍惚としたのです。だとしたら、神の栄光が惜しみなく現れるところでは、つまり神に「顔と顔とを合わせて」まみえる天国においては、一体どれほど喜んでときめくことになるのでしょう(コリンフ前 13 : 12)。
ただし、その喜びと栄光にあずかりたければ、この世においてハリストスの苦しみと辱めにもあずからなければなりませんよ。私たちは「ハリストスと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける」という約束を受け、また、「多くの艱難を経て」神の国に入るべしと教えられているからです(ロマ 8 : 17、使徒 14 : 22)。つまり、一度や二度つらい目に遭うだけでなく、何度も何度も辛酸をなめてこそ天国へ入ることができるのです。
4) 「彼に聴け」という天命
最後に、雲の中から「これは我の至愛の子、わが喜べる者なり、彼に聴け」と響いた父の御声についてですが、これは使徒たちに限定して向けられた言葉ではありませんよ。私たち全員に向けて発せられた御言葉なのです。
たしかにその時、神は雲の中から使徒たちにお命じになりました。とはいえ、使徒たちを通して現代の私たちの耳にも届いており、今もなお私たちに命じておられます。「これは我の至愛の子、わが喜べる者なり、彼に聴け」と。
福音書を読んだり聞いたりするたびに、私たちは神の子の声を聞いています。その声に耳を傾ければ、どこに「救いの道」があるのか分かり、タボル山で垣間見た神の栄光まで辿りつくことができます。もしあなたが神の栄光にあずかりたければ、必ずやこの道を歩まねばなりません。
巷には神の言葉に耳を傾けず、御言葉に従って生きようとしない人もいます。そのような人は、人に従っていないのではありません。神御自身に従っていないのです。
したがって、天の父に勧められたように、私たちも神の子に聞き従おうではありませんか。俗っぽい欲望を捨て、各自与えられた十字架を負い、主に従って歩む。そのとき、主は私たちを天の父のもとへ導いてくださるに違いありません。
ぜひともそのように主に従って走り抜き、目標を達成しましょう。主と共に苦しみ、主と共に栄光を受けましょう。主の辱めを負うことを恥じなければ、主も栄光のうちに再臨される時、私たちのうけた辱めにも報いてくださることでしょう。
どうか主が私たちのことを御国で覚えていてくださいますように。
(※『聖ティーホン書簡集』より抜粋。和訳では便宜上、小題を追加した)
原文: https://pravoslavie.ru/48149.html
https://azbyka.ru/otechnik/Tihon_Zadonskij/pisma-kelejnye/
(Свт. Тихон Задонский. Письма келейные. Письмо 122)
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