シリアの聖イサアク『修行訓話』現代語訳

シリアの聖イサアク『修行訓話』現代語訳

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ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にも出てくる名著。全文の邦訳は明治以来初、現代日本人に読みやすく訳しました。 至聖三者セルギイ大修道院で発行された最新版(2019年版)を底本としています。

第1訓話 世を捨てることと修道生活について

神を畏れることは、徳の始まりである。神を畏れる心は信仰の産物といわれ、世の中のことをあれこれ考えず、ただ来たる復活のことだけを考えるようになったときに芽生えてくる。

もし徳の土台を据えたいならば、いちばん良いのは世の務めを離れて光の法に向き合うことだ。つまり聖神が聖詠者ダヴィドをとおして名づけた「聖なる義の道」を学ぶことだ聖詠 22 : 3, 118 : 35。どだい人間なんぞ、たとい天使のような心の持ち主でさえ名誉を受けた途端にぐらついてしまう。どうもころころ変わりやすく生まれついていることが原因らしい。

さて、いかにして救いに至る道を踏み出してゆこうか。いつも神の言葉を学ぶこと、そして清貧に暮らすに尽きる。この二点には相乗効果がある。神の言葉に没頭していればたやすく貧しくなれるし、貧しい暮らしに慣れれば神の言葉を学ぶ余暇が増える。この二点を両立させれば、あっという間に徳の家を築き上げることができるだろう。

そもそも世を離れずして神に近づける者などいない。「世を離れる」とは、体から離脱せよと言っているのではなく、世の務めから遠ざかれという意味である。世の諸事で頭をいっぱいにしないこと、ここに徳がある。まだ外部の物事に気を取られているうちは、夢見がちな心を鎮めにくい。荒野で暮らさなければ体の慾も収まらず、邪念も枯渇することがない。要は、精魂を傾けて神を信じきった陶酔に至れるかどうかだ。ただ、この「神を信じきった陶酔」に至る日までは、どうしても感じやすい性質が治っていないので、つい目に見える物に気を奪われてなかなか内面に向かえない。ゆえに理性の指令どおりに動けず、慾の罠に絡まったまま「自由」を感じられないのである。したがって、こう言いきれるだろう。世を離れず(初級)して、神を信じきった陶酔(中級)など味わえない。ひとえに神を信じきって正しく陶酔できたとき、はじめて自由を操れるようになるのである(上級)

人は豊かに恩寵に恵まれると、正しくあろうとするあまり死を恐れてなんぞいられなくなり、ここはいかに辛くとも神を畏れて耐えるべきだと思える理由を次々と見出す。そして体の負傷や自然災害でさえ取るに足らぬものとみなすようになる。将来に桁違いのものを望んでいるからだ。だいたい試練を受けずして真実を知ることなどできない。真実を知る道において試練が欠かせないことは、とくに神に身を捧げて迫害に耐えた人々を見ればよく分かる。現にわれわれがこうして生きているのも、ひとえに神の偉大な摂理のおかげであり、誰一人として摂理に導かれていない人などいないではないか。だからこそ、どんなつらい目に遭ったとしても真実を知るために耐えるべきなのである。

ところが、恩寵を得られなくなると、右記したことはすべてほぼ真逆の形で現れてくる。つまり研究を重ねて信仰よりも知識を増やすようになり、もはやすっかり神に期待することなどできなくなり、神の摂理も違う風に捉えるようになる。すると「闇に矢を放つ輩」聖詠10 : 2参照)の陰謀に嵌まって、神の摂理を信じられずに苛まされることになる。

真の人生は、神を畏れることから始まる。ところが、あれこれ世俗のことを思いめぐらしているうちは神を畏れることができない。気が散っているようでは神を知る楽しみを味わえないからだ。というのも、何かを思いめぐらそうとするときに内へ向かうべき思考が外へ向かっていると、どうしても外の方へ引っ張られてしまうからである。

疑念を抱けば怖気づく。だが、信仰を持てば四肢を切られても揺らがないほど意志が強まる。肉体を愛する気持ちが強ければ強いほど、その愛する肉体を四方から攻めてくるものに対して大胆に立ち向かうことなどできまい。

名誉を求めているうちは、あれこれ思うようにいかずがっかりする。人は置かれた状況が変わっただけで、取り組んできたことが従来とは違って見えてくるものだ。もし「感覚をとおして欲望が生じる」と言われているとおりであるならば、遊興に身を委ねたまま冷徹に考えうるなどと豪語する輩は口をつぐむがよい。

貞潔な人というのは、苦行中に下品な想念が止むようになったと公言する人のことではない。むしろ心底から心眼を清め、ふしだらな想念を厚かましく覗きこまなくなった人のことを指す。そして、どれほど誠実に物事を見てきたかという点で良心が痛まなくなったとき、想念の至聖所に恥じらいという幕が掛かって淫らな思いを遮断するようになる。こうして貞潔な処女のごとく、ハリストスへの信仰でもって心身を汚さないようにするのだ。

かつて心を奪われたふしだらなものへの愛着を断ち、肉体に湧く乱れた思い出から遠ざかって炎の渦を逃れたければ、聖書をこよなく愛して学び、聖書の深い考えを悟ろうとすることほどためになるものはない。頭が聖句に秘められた叡智を悟る楽しみでいっぱいになると、聖句から理解を汲み取った分だけ世から離れていく。すると世に関する記憶も薄れ、生々しい具体的な形状も忘れ、思い出も心の中からどんどん消えてゆく。生理現象としてやってくる想念さえ消してしまうことも稀ではない。なにせ聖書という神秘の海の中を泳いでいるので、次々と新しいことを見出しては胸を躍らせているからである。

それどころか、たとい知性が水面を泳ぐだけであったとしても、つまり聖書という海の表面に触れるだけで根底の考えまでは悟れず、根底に秘められた宝をすべて捉えきれなかったとしても、その行為自体、すなわち聖書を理解しようと必死に頭を働かせていたこと自体が、すでに想念を縛りつけておくのに十分なのだ。それは、誘惑にやられて邪念に打ち負かされている惨状であっても変わらない。「体の慾を満たしたくなる気持ちを抑えるには、聖書の驚嘆すべき奇蹟をちょっとでも思い出せば足りる」と、ある捧神者が述べたとおりである。もはや心得ているでしょう。邪念というやつがどれほどやりきれないものか。要するに、心というものは知恵で満たしておかないと、体の欲求の嵐に耐えきれないのだ。

そう、天秤に重いおもりを載せておくと嵐の中でも揺れにくくなるように、心にも「恥じらい」と「畏れ」という重りを載せておけば揺れにくくなる。心というものは「恥じらい」と「畏れ」という重りが足りなければ足りないほど飛び回りたくなり、心という天秤は畏れを失えば失うほど空っぽになってふわふわ揺れ動く。しかし天秤にどっしりした重荷を置いておけば風に吹かれてもたやすく揺れることがないように、心にも「畏れ」と「恥じらい」という重荷を置いておけばふるいにかけられてもそう簡単には揺れない。他方、畏れを失えば失うほど、たやすく思いが乱れて気移りするようになる。だからこそ、こう進んでゆこうと決めたその道の礎に、神を畏れる心を置いて賢く歩め。そうすれば数日もしないうちに、道に迷うことなく天国の門前に立っている自分に気づくだろう。

聖なる書物を読むときには、つねに言葉に込められた目的を探し当てよ。聖人の深い考えを洞察し、その考えをきっちり正しく理解するためである。神の恩寵に導かれて生活していれば、頭脳が明晰になるにつれて感じ取れるものがある。まるで光のようなものが文面に差し込んできて、いかにそれが霊的本質をうがった意味深長な文章であるか見えてくるのだ。たましいでうまく悟ったときに得られる聖なる力も楽しみも得られない。

およそ万物はおのれに近いものに引かれてゆく。だから聖神の恩寵に多少なりとも与っている者は、属神力を秘めた話を耳にするなりその内容を熱心に取り込もうとする。だが偉大な力を秘めた属神的な話は、だれもが聞いて驚嘆できるような代物ではない。心を世から離さなければ、徳に関する話は聴けたものではない。過ぎ去る事柄に振り回されて忙しいうちは、せっかく徳を目の前にしても愛し求めて身につける気になれない。

まずは物質を断たなければ、神と結ばれることはない。むろん万物を司るお方の恩寵のおかげで、物質を断つ前に神に結ばれることもある。なにせ神を愛するなり物質に惹かれなくなるからそうなるわけだが、それは恩寵が先に降ってきた場合の話であって、人類共通の順序とは異なる。われわれとしては人類共通の順序を守ったほうがよい。万が一、恩寵が先に降ってきたとしたら、それは恩寵の自由だ。もしも恩寵が先に降ってこないのであれば、先人たちが歩んだ道にそって属神の塔の高みへ登ってゆこうではないか。

思いの戒めを守っていても、その様子は何ひとつ肉眼には見えてこない。しかし、実践の戒めを守るときには、領域をまたがるようにして守ることになる。なぜなら「○○を行なうべし」という戒めは、じつは目に見える領域と目に見えない領域にまたがっており、「思い」と「行動」の両領域で同時に行なう必要があるからだ。そもそも思いと行動は、表裏一体のものだからである。

どんなに清くあろうと励んでいても、犯した罪を思い出すたびにざわつく感情を抑えることはできない。しかし犯した罪を思い出すなり悲痛が胸を貫くのなら、その痛みは賢慮から来たものだ。そしてそう胸が痛むようになった時から、罪を思い出すことが知恵を深めるのに役立つようになる。つまり、何が何でも徳を身につけたいと思っていれば、その思いは身体的欲求よりも強い渇望となるのだ。ただし、何事にも節度というものがある。もしも節度を越えたりしたら、活かせるものでも逆効果となってしまう。

さて、感覚にまどわされない楽しみを感じ、知的に神と交わっていたいだろうか。ならば、施しなさい。喜捨の精神を持てば、かの聖なる美があなたのうちに描き出されて神に似た者となるであろう。施せばこそほどなく霊的に神性に交わり、唯一の光栄なる神性に結びつく。

この神性との属神的一体感は忘れがたく、愛の炎となって心のなかで燃えつづける。そして人性を強いることも人性によることもなく、ただ戒めを守ることによってのみ一体感を保ちつづける。戒めを守っていればこそ、しっかり霊的に観えてくるからである。道理で、肉慾も邪念も断ちきるなり心が躍るわけだ。要するに、何はさておき父が完全であるのと同じくらい気前良くなろうとしなければ、属神的な愛へ至って神に似ることなどできない。まさに主が、主に従う者に対して「まずは施しなさい」と戒めたとおりであるルカ 6 : 36, マトフェイ 19 : 21, 同 5 : 48参照)

体験から滲み出た言葉は、饒舌に語りかける言葉とは違う。そう、身をもって体験していなくても、小賢しい麗句を並べて知りもせずに真実を語ることはできる。巷には、徳を体験せずに徳について解説できる人がいる。だが体験から滲み出た言葉が希望をよぶ宝であるのに対し、未体験の事柄をひけらかす賢さなど恥さらしのもとだ。

体験に裏打ちされていない訓話は、ちょうど画家が本物っぽく描きあげた水と同じで人の渇きを癒せない。それは眠りながらすてきな夢を見ているようなものだ。だが身をもって体験した徳を語る人は、まるで苦労して稼いだお金を他人にあげるかのように聞き手に徳を伝えることができる。そして、そのようにして自ら汗水垂らして得た教えを蒔きながら大胆に語り、属神的な教え子を育てていく。まさに年老いたイアコフが貞潔なイオシフに向かって、「お前には兄弟たちよりも多く、わが剣と弓をもってアモリ人の手から取った分け前の一部を与えることにする」創世記 48 : 22と言ったとおりである。

清く生きていないから、あるいは善とはどういうものであるか知らないから、この世の人生が愛おしいのである。「人は良心に咎があると、死ぬのが怖くて悲しむものだ」と言った人がいる。じつに言い得て妙ではないか。だが、心に善き証があるならば、生を求めるのと同じくらい死を待ち望むものだ。生き長らえようとしてびくびく怖がっているような人を真の賢者と思うな。肉体に生じることはすべて、良いことも悪いこともたかが夢でしかないと捉えよ。現に、肉体的な良し悪しなんぞ死んだらおさらばするだけでなく、しばしば生きている間にもこの身から遠のいていくではないか。ただ、何にせよ愛着を持ったものが、現世で得た財産として来世まで付いてくる。その財産が何がしか良いものであれば、喜んで神に感謝せよ。もしも悪いものであれば悲しんで嘆き、まだ体の中にいるうちに何とかしてその悪いものから逃れられるようにせよ。

そうする気があったにせよ無かったにせよ、何か善いことができたときにはハリストスを信じて受洗したおかげだと心得よ。われわれは信じて受洗して召し出されたからこそ、ありがたいことに主イイスス・ハリストスの善行へ向かえるのだ。光栄と尊貴と感謝と伏拝は父と子と聖神に帰す、今もいつも世々に。アミン。

 

第2訓話 神への感謝について。簡潔に述べた初歩的な教訓を含む

受けとった側が感謝をすれば、与えた側としてはもっと大きな賜を与えたくなるものだ。だいたい小さなものにも感謝できないような者が、大きな物事を正しく忠実に扱えるわけがない。

病人は、病身であることを把握したら治療法を探さなければならない。病んでいる身を自覚すれば治りやすく、治療法も見つけやすい。だが意地を張って強がるのであれば、病は悪化するしかなかろう。いちいち医者の言うことに逆らおうものならば、痛みも倍増せざるを得ない。赦されない罪はただ一つ、犯したくせに悔い改めていない罪だけだ。また、増えない賜もただ一つ、与えられたのに感謝しなかった賜のみである。愚か者の目には、与えられたものがちっぽけなものとしてしか映らない。

自分よりも高徳な人々のことをいつも思い出し、その水準に対してどれほど足りていないか常に省察せよ。また、ひどい目に遭って苦しみを耐えている人々のことを絶えず思い出し、取るに足らない目下の些細な苦難にどう感謝すべきか思い、その与えられた苦難を喜んで耐えられる人となれ。

闘いに負けて落胆したり怠けてしまった時、または敵にやられて重罪の中で苦しんだりする時は、かつての熱意を思い出せ。以前、どれほど何もかも細部まで気を配っていたか、いかなる苦行を見せたか、歩みを妨げてくる力にどれほど激しく逆らったことか。さらに怠けてつまずいたことをどれほど深く嘆いたことか。そしてそういうことを思い出した上で、さらにどうやって勝利の冠を受けたかも思い出せ。なぜなら、そうすることでたましいはあたかも深い眠りから醒めて覇気を帯び、まるで死者が起き上がるかのようにどん底から立ち上がって昇り出し、ついには悪魔や罪に対して決戦を挑んで元の地位に戻るからである。

強者でさえ堕落することがあったという史実を思い出し、なにか徳行をした気がしても遜れ。逆に堕落しきってから悔改して見事に栄誉を授かった人々のことも思い出し、勇気を出して悔い改めていくことだ。

自分自身を追及する手をゆるめるな。ゆるめなければ敵は耐えきれずに離れ去るだろう。自分自身と和解せよ。和解すれば天とも地とも和解できるだろう。何とかして自分の内の倉に入れ。そうすれば天の倉を見出すだろう。なぜなら内の倉も天の倉も同じものであり、一方に入れば両方とも見出せるからだ。天国への梯子はわれわれの内、たましいの内に秘められている。罪を離れて自分自身の内に潜っていれば、そこに一歩一歩昇りゆく階段を見出すだろう。

聖書は、あの世でどんな福楽が待っているか解き明かさなかった。ただ、恩寵によって天に上げられないかぎり永福など感じとれまい、とだけ教えてくれた。たしかにわれわれが永福を欲するよう、「目いまだ見ず、耳いまだ聞」いたことのないほど途轍もない福楽が天にあると説明してくれたのだがコリンフ前 2 : 9、むしろそう説明することで、将来の福楽なんぞ理解できるような代物ではなく、この世の福楽とは似ても似つかぬものだと宣言されたのである。

属神的に楽しむということは、人の外側に独立自存している物質を利用して楽しむことではない。でなければ「神の国はなんじらの内にあり」ルカ17 : 21とか「なんじの国は来たり」マトフェイ6 : 10という聖句が、あろうことか物質的な何かを取り入れて楽しむという意味になってしまう。第一、得るべき財産と担保には類似性がなければならず、全体と各部分には類似性がなければならない以上、属神的な事柄は属神的に感じるしかない。現に「鏡によりて見るがごとく」コリンフ前 13 : 13参照)と書いてあるように、独立自存するもの自体(神の国)は捉えられずとも、それに似たものは得られるはずなのだ。そして、聖書を説き明かした師父の証言どおりであるならば、属神的な手応えを感じたとき、その知的変化が聖神の作用なのである。つまりそのような知的変化こそ、すでにかの全体の一部分をなしているに違いないのだ。

徳を愛するということは、ただ必死に徳を行なうことではない。それどころか、徳行のつらさに耐えることでもなければ、快感の渦中で断固として理性的に善を選ぶことでもない。むしろ徳行の後に降ってくる苦難を喜んで甘受することこそ、徳を愛している姿勢だといえるのである。

高齢になって慾の嵐が収まってから悔いてみせたとしても、そんな後悔にはなんの喜びも褒美も与えられまい。

罪を犯した者を見たら、とばっちりを受けないかぎり庇ってあげよ。庇うことでその人を元気づけ、自分自身に主宰の憐みを呼び寄せるだろう。病人や悲しんでいる人には、手にしている物と言葉でめいっぱい支えよ。そうすれば、万物を治める全能者の御手があなたを支えてくれるだろう。嘆いている人とは、交流して心にかけて祈りつづけよ。そうすれば、あなたの願いに対しても憐みが降り注いでくるだろう。

いつも清らかな思いを抱き、傷感に満ちた心で神に祈るようにせよ。そういう心で祈っていれば、ふしだらな邪念を神に遠ざけてもらえるし、あなたのせいで神の道が非難されるような事にもならない。

つねに聖書を読んで正しく理解しながら、じっくり思索することだ。つい知性が暇を持てあまし、他人の卑しい不品行をみて美意識を汚してしまわないように。

何のこれしきと思う時でさえ、あえてふしだらな想念や惹かれる顔を見つめて理性を試練にかけてはならない。賢者ですら、そうやって理性がくらんで狂ってしまったのだ。炎を懐にかきこんで、肉体が激痛を受けずにいられようか箴言 6 : 27 参照)

青年期には属神的修行の仕方を教わらないと、なかなか聖なる重荷を負えないものだ。どうも奉神礼に出るのも私祈祷を挙げるのもおっくうになったなと感じたときには、それが何よりも知性の暗みはじめた証拠たましいの暗みはじめた兆候)である。というのも、まずはこの点でたましいが落ちないかぎり、霊的に惑うことはないからだ。たましいは神から離れて神の助けを失うなり、敵の手に落ちやすくなる。

それと同様に、たましいは徳への関心が薄らぐや、必ず徳の反対側のものに引き寄せられる。なぜなら、どちら側からにせよ「居場所を移す」ということは、すでに反対側への第一歩だからだ。そもそも徳行とは霊的なものに気を配ることであって、この世のことに気を配ることではない。いつも弱さを痛感しながら神に祈っていれば、ご加護を失って孤立することもなく、よそ者の罠にかかることもない。

十字架は、二通りの背負い方がある。まずは体で背負い、後に心で背負う。これは人間が心と体からできているからである。

初期のうちは、慾と闘って肉体的辛苦を耐えしのぶことになる。体からくる苦痛を耐えしのぶため、その実態どおり「実動」と呼ばれている。

後期には、内面的修行に励んだり神聖なことを思い巡らしたり、祈りつづけたりするようになる。こちらは内から希求するため「観照」と呼ばれている。

初期すなわち「実動」の方は、覇気でもって欲情を清める。いっぽう後期の「観照」に達すると、心から溢れる愛を、すなわち生まれもった希求心を清めるようになる。すると物事を遠くまで見抜けるようになる。

初期の業に習熟していないまま、(さすがに初期の業がおっくうになって、とは言わないにしても)この後期の甘さに魅かれて後期の業へ踏み出す者は、あらかじめ「地にある肢体」コロサイ3 : 5を殺さなかったことに対して怒りを食らうことになる。つまり、十字架の恥辱に耐えて想念の病を治そうともせずに、さっさと十字架の光栄を夢見たからだ。これぞ古代の聖人たちが、「感覚の病を治してもいないのに黙修に入り、十字架に昇ろうなどと夢見れば神の怒りを買う」と述べた言葉の意味である。

きちんと初期の辛苦に耐えているのであれば、つまり肉体を磔にしているのであれば、そそくさと「十字架に昇る」こともなく神の怒りを買うこともない。むしろ初期の業をおろそかにして土足のまま、たましいの治療後に入るべき後期の観照に入ってゆくから怒りを買うのである。まだ恥ずべき慾で知性も汚れたまま、あれこれ高度なことを思い描いているから罰せられるのである。というのも辛苦で肉欲を抑えて知性を浄めようともせず、耳でかじったり読んだりしたことを頼りにして盲目のまま、真っ暗な道をいきなり前へ向かって走り出したからである。そもそも慧眼の士が恩寵に導かれてはっきり見えている状態にあっても、やはり日夜危険な状態にあるというのだ。かれらがはっきり見えているのに目を涙で潤し、朝から晩まで嘆いて祈って夜間も奉仕しているのも、ひとえにこの道の行き手には恐ろしい断崖があり、真実に見えてしまう偽物があちこちで待ち伏せてしているのを知っているからである。そう、この道には、真実に見せかけた似像が待ち伏せしているのである。

よく「神がくださるものは自ずと降ってくるものなので、感じることすらできない」という。それはそのとおりなのだが、ただし受け入れる場所が清ければの話であって、汚れている場合は話が別である。たましいの瞳が汚れているならば、その汚れた瞳で太陽の球体を見たりするな。しいて見たりすれば、いま見えている小さな光線(つまり単純な信仰、謙虚さ、心からの信仰表明、なしうる小さな行い)まで失って、「外の闇」と呼ばれている霊的領域に堕ちてしまう。一歩たりとも神から離れた場所など地獄みたいなものだ。だから、かつて不遜にも汚れた服で婚礼に出向いた者が追放されたように、まちがっても汚れた服で婚礼に出向いたりして「外の闇」に放り出されないようにせよ。

ひたすら心身を守っていれば、清く想えるようになって分別がつくようになる。すると五感では捉えがたく学びようのなかったものを、恩寵に助けられて知的に観るようになる。

かりに徳行を「体」のようなものとし、観照を「たましい」のようなものとして捉えてみよう。その両者がそろってはじめて、ちょうど感覚と知恵が神゜でつながったひとりの人間のごとくなるわけだ。そしてわれわれのたましいというものが、先に体ができあがらないことには勝手に生じて存在することなどできないように、この観照という「たましい」もまた、先に「体」となる徳行を成しとげておかなければ生じえない。ひとえに徳行を積んだ者だけが属神的に生まれ変わる可能性を持ち、この後期の観照に入って啓示を観るのである。まさに、分別によって啓示を授かる世界である。

そもそも観照とは、事物とその原因の奥にある神秘を実感することである。「世を離れる」とか「世を捨てる」とか「世のすべてから解放された清らかさ」とか聞いた際には、次の点を心得ておくべきだ。この「世」という呼称自体が、まさに一般的概念としてではなく属神的概念として何を意味し、いかなる多様性を秘めているのか。この点を押さえておけば、あなたも自分のたましいがどれほど世から離れ、逆に世から何を混ぜてしまったか見破ることができるだろう。

「世」という単語は集合名詞であり、「慾」と呼ばれているものを何もかも含む。あらかじめ世とは何であるか見破っておかないと、自分の体がどの部分で世から離れ、どの部分で世に縛られているのかきちんと認識できない。実際、肢体の二~三ヶ所では世を断ち切り、その箇所では世との交流が途絶え、ほれ世とは無縁になったぞと思い込んでいる人は多い。なぜなら肢体の二ヶ所で世に対して死んだ自分を目にして、じつはまだ他の部分では世に対して生きている自分を見抜けなかったからである。もっとも慾という奴を自覚できなかったわけだ。慾を自覚できなかった以上、その治療についても考慮できなかったわけだ。

ちなみに思弁的考察において「世」というときには、この集合名詞の元となる「成分」(諸慾)を意味することもある。ふつう諸慾をまとめて示したいときには「世」と呼び、諸慾の違いを区別したいときには「慾」と呼び分けている。そもそも慾とは、世の潮流からくる構成分子である。ゆえに、われわれが慾を断ち切れば、世はわれわれの外で堂々巡りすることになる。慾には以下の種類がある。富への執着(収集癖)、身体的快楽(ここから肉欲が生じる)、名誉欲(ここから嫉妬が生じる)。そして、人の上に立って仕切りたくなる欲や、権力を見せて威張りたくなる傲慢。さらに、美しく着飾って気に入られたいという欲求や、名声の追求(これがしばしば怨念の原因となる)。要するに、体にまつわる不安である。

これらの慾が生じなくなったところでは、世もまた死んだと言えるだろう。そして心の中で右の構成分子のどれかが欠ければ欠けるほど、世は心の外に留まってその分子には作用しなくなる。聖人というのは生ける死者だ、と言った人がいるが、まさに聖人は肉体で生きながら肉体によらずに生きていたのである。だから、あなた自身も右のどの分子によって生きているのか見極めよ。そうすれば、自分がどの構成分子で生きていて、どの分子で世に対して死んでいるのか見抜くことができるだろう。そして世とは何であるか悟ったとき、いったいどの点で世に縛られ、どの点で断ち切れたのか、右記した分子の種類の違いに基づいて正確に知ることができるだろう。

以上を端的に言えば、世とはつまり「肉的な生活」と「肉の思い」なのである。この二点から離れたか否かによって、その人が世から抜け出たか否かが分かる。現に世と無縁になった人には、次の二点を見出せるであろう。すなわち、とびぬけた生活形態と、考えていることの比類なき高尚さである。そして、ここから導き出される結論はこうだ。あなたの思考内では、あなたの理解水準で思いめぐらしている物事の見方が生じているのである。

したがって、自分が何を考えているのかを注視して自分の生活レベルを把握せよ。はたして本性は強いずともそれを渇望しているだろうか、なかなか引っこ抜けない悪の芽や、ふとした拍子に生じてしまう芽はなかろうか、知性はまったく目に見えない事柄について考えられるようになったか、それとも丸っきり物質上でうごめいているか、しかもその物質的な事柄に捕らわれてしまったか。というのも、具体的にどう徳行すべきか思いめぐらすこと自体は徳だからである。まさにその想像のおかげでひるまない集中力を得、身体的にも善良な目的に向かって一心不乱に突き進めるからである(ただしその想像が、徳を渇望するような想像であり、慾を刺激するような想像でなければの話だが)。とにかく、この秘めた想像を思い浮かべたときに、頭がくらみやしないか注意せよ。知性が神を求めてより良い方向に燃えていれば、くだらない思い出など断ち切れるものだ。

以上の点を押さえておけば、隠遁する黙修者の知性を照らすには充分だ。もはや多くの書物を読みあさるまでもなかろう。体に対する恐れはあまりにも大きい。それが理由で誉れ高いことや高潔なことを行えなくなる人もいるくらいだ。だが、その不安にたましいにまつわる不安がもたれかかれば、そんな不安はまるで火をつけられた蝋燭のように萎えるであろう。光栄は神に世々に帰す、アミン。

 

第3訓話 世と雑念から離れて黙修していれば、たやすく神の叡智と創造物を知ることができる。そしてたましいの本性とその内に隠れた宝を知ることができる、ということについて

世の煩いを断ち切ってたましいを本性の状態に保っていれば、しばらく努力しただけで神の叡智に通じるようになる。なぜなら世を離れて黙修していれば、おのずと神の創造物を見極めたくなり、見極めながら神へ向かってたましいが昇りつめ、じつに素晴らしいと驚嘆しつつ神と共に留まるようになるからだ。というのもたましいの泉には生来の水が湧いており、そこに外部からの水を取り入れなければ、絶えず神の奇跡をおもう思索が湧いてくるからである。ところが、くだらないことを思い出したり、意識が何らかの事象に触れてかき乱されたりすれば、そういう神の奇跡をおもう思索は途絶えてしまう。

黙修に閉じこもって意識を外へ向けず、黙修のおかげで思い出も薄れてゆくとき、たましいの本性からくる想念がどのようものであるか悟るだろう。そしてたましいの本性を見抜き、たましいに秘められた宝のありようを見極めるだろう。たましいに秘められた宝とは、霊界の認識である。この認識はたましいの中に、あえて思い描くことも努力することもなく自ずと生じてくる。当の本人ですら、このような想念が人間に備わっていることを知らない。なにせだれに教わったというのだろう。他者に説明できないような認識をどうやって手に入れたというのだろう。露ほども教わっていないのに、どうしてそれを認識できるようになったのだろう。

そう、まさにたましいの本質とはそういうものなのだ。したがって、慾とはつまり後から付加されたものであり、それについて咎を負っているのもたましい自身なのである。というのも、そもそもたましいとは無慾なものだからだ。よって、聖書の中で心身の慾に関する記述を読むときには、むしろ慾の原因を指しているのだと思うがよい。というのは、たましいは造られたままの状態であれば無慾だからである。たしかに異教の哲学者やその後継者たちはこの事実を受け入れられない。だがわれわれは、神がご自分に似せて人間を造られた以上、人は無慾なるものとして造られたと信じる。ここで「ご自分に似せて人を造られた」というのは、もちろん体ではなく目に見えないたましいを指す。というのは、およそ像というものは原像から写し取るものだからである。いかなる像も、まずはその原像を目にしていなければ思い描くことすらできない。したがって、上述したように、たましいにはもともと慾が無いということを確信すべきなのだ。もしもこれに反論する人がいたとしたら質問しよう。ぜひとも答えてもらおうではないか。

質問  たましいとは元々いかなるものか。その本来の性質は、何かしら無慾で光に満ちたものなのか、それとも慾深くて暗いものなのか。

回答  たましいは、かつて福なる光に照らされて明るく清かったことがある以上、また元来の状態に戻るなり照らされて清まる以上、慾で動いた途端に本性から逸れているのだと断言できる(師父もそう主張している)。だから、たしかに慾のせいで動じてしまうとはいえ、後になってから慾に入りこまれたからには、生まれつき慾を植え付けられていたなどと言うのは理不尽なのだ。むしろよそ者に動かされており、生まれもった性質で動いているわけではないことは自明であろう。

それでも「たましいに慾がある」と言うのなら(たしかに体を伴わずとも、慾に動かされることがあるため)、いっそ飢えや渇きや眠気でさえもたましいの慾だと言わねばならない。なぜならたましいは飢えや渇きや眠気のような身体的慾求においても、やはり四肢が切られたときや熱病や疾患にかかった時と同じように、体と一緒に苦しんだり嘆いたりするからである。なにせ人間の心身というのは、互いに苦痛を分かち合うようにできているのだ。現に、心理的苦痛を受ければ体も堪えるし、身体的苦痛を受ければ心も痛む。したがってたましいというものは、体が満たされると心地良くなるのと同じように、体が苦しむ時には共に痛むものなのである。光栄と国は神に世々に帰す、アミン。

 

第4訓話 たましい、慾、知性の清さについて。質問と回答

質問  たましいは、どういうときに自然な状態なのでしょうか。また、どういうときに反自然な状態であり、どういうときに超自然な状態なのでしょうか。

回答  たましいは、自然な状態にあるときには、見えると見えざる受造物を観ている。超自然な状態にあるときには、奮い立って存在のなかの存在である神性を観照しようとする。しかし反自然な状態にあるときには、慾の渦に突き上げられて動揺してしまう。かの聖大ワシリイが述べたとおり、霊(たましい)は本性にそって動いていれば高みへ昇ってゆくが、本性から逸れるなり地の谷に落ちることになる。実際、高みへ昇っているあいだは無慾であるにもかかわらず、生まれつきの階級からずり落ちるなり慾が出てくる。

だから、いわゆる「霊的な慾」と呼ばれている慾は、文字どおりに「たましいの慾」というわけではないのだ。飢えや渇きのような慾においてたましいに咎はない。たといこういう身体的慾求が満たされない極限においてたましいがよろめくとしても、真に咎めるべき慾との見境もなく「たましいにはもともと慾がある」などと言ってたましいを咎めるべきではない。だいたいこういう目に見えない慾はおろか、あきらかに悪事に見えることでさえ神に赦されることがあるではないか。たとえば姦通の女をめとった預言者オシヤなどがその例だ。オシヤ以外にも、神への熱意から人を殺めた預言者イリヤや、モイセイに命じられて剣で親を殺した人々は、神に咎められるどころか報賞を受けたのである。とはいうものの、たしかにたましいは身体的本性を取り除いたとしても肉欲を抱いたり興奮したりするので、そういうのが霊的な慾だ、という人もいる。

質問  ではたましいは、その希求心がどちらへ向かっているときにより自然な状態なのでしょうか。神聖なものに向かって燃えているときなのか、それとも地上的で肉的なものに向かっているときなのか。

それに、なぜ熱意を帯びるなり興奮するようにできているのでしょうか。しかもそれが自然な興奮だと言えるのは、一体どういうときなのでしょう。たとえば嫉妬や虚栄など肉欲によって興奮しているときなのか、それともそういうものとは正反対のものに発奮しているときなのか。どなたか答えられる人は答えてください。お言葉に従うことにいたしましょう。

回答  そもそも聖書は多くの意味をこめて記された書なので、使われている単語もそれ自体の意味で使っていないことが多い。たとえば、体に使う単語でもってたましいのことを述べていたり、たましいをさす表現でもって体のことを述べていたりする。しかも両者の違いを明確に区別しないまま、ただ知恵ある者が正しく理解するのに委ねている。だから主の神性ならではの用語で、つまり人性にはそぐわない表現でもって主の至聖なる「身体」のことを述べていたり、その逆に、主の卑しめられた人性にしか相応しくない単語でもって主の「神性」について述べていたりする。このため、神の言葉にこめられた狙いを理解できず、聖書を読んで立ち直れないほど罪を犯した人も多い。とかく聖書では「たましいに属するものは何々で、体に属するものは何々である」というように、厳密に用語を使い分けてはいるわけではないのだ。

したがって、次のように考えることができるだろう。もし徳に生きることがたましいの健康状態であるならば、とうぜん慾に動かされているときはその病的状態だということになる。つまり時と場合によって一時的に生じる慾という奴は、しょせんたましいの本性に後から入ってきて霊魂固有の健康状態を崩しているものなのだ。ということは、つまり一時的に生じる疾患よりも以前に、もともとは健康状態というものが本性に備わっていたということになる。そして、もしそれがその通りであるならば(そしてそう考えるのは理に適っているだろう)、たましいは、まさに徳を求めているときこそ自然な状態であり、一時的な慾に動かされているときには自然な状態ではない、と言い切れるのである。

質問  それでは、体に慾があるというのは理に適った捉え方なのでしょうか、それともただそう捉えられているだけなのでしょうか。また、体とつながりのあるたましいにも慾があるというのは理に適った捉え方なのでしょうか。それとも本来の意味ではなく「霊的慾求」などと呼ばれているだけなのでしょうか。

回答  身体的慾求に関しては、それが本来の意味ではなくそう呼ばれていると言える人はいないだろう。しかし霊的慾求に関して言えば、もし皆が「たましいはもともと清い」ということを悟って認めることができるのなら、慾などたましいにとって毫も自然なものではないと断言すべきだ。というのは、まずは健康があり、病はその後からやってくるものだからである。それに、元来の性質が同時に善くも悪くもあることなどありえない以上、いずれか一方の性質がもう一方の性質に先立っている必要がある。つまり、ほかの性質よりも先にあった性質こそ本性だ、ということになる。なぜなら時に応じて生じるものはつねに本性から来るわけではなく、よそからやって来ると言われているからだ。それに時に応じて後から入ってくるものは変化するが、本性というものは変質したり変化したりしないからである。

人生に役立つような慾は、どれも神の賜である。体の慾も、体の成長に役立てるために備わっているし、その意味ではたましいの慾も同じように役立つものである。しかし慾が役立つために備わっていればこそ、逆にいうと体は栄養失調になるなり弱りきってたましいに従うしかなくなるし、たましいも持ち前のものを捨て去るなり弱りきって体に従うしかなくなるのだ。これは聖使徒が「肉の欲するところは神゜に逆らい、神゜の欲するところは肉に逆らう、この二つのもの相敵す」と述べたとおりであるガラティヤ 5 : 17。かといって、「われわれはそもそも神に罪慾を植え付けられたのだ」などと言って神を冒涜してはならない。神は、われわれのたましいと体に、それぞれ成長を促すものを入れておいてくださったのだ。ただし一方の本性が他方の本性に歩み寄るとき、その本性は固有の状態から離れて正反対の状態に陥ることとなる。そう、もしたましいがもともと慾を植え付けられていたのならば、なにゆえたましいは慾から害を蒙るのか。もともと本性にあったものなのであれば、決して本性に害を及ぼさないはずだ。

質問  たしかに体の方は、身体的慾求を満たすことで成長したり健康になったりします。でもたましいの方は、なぜ霊的慾求といえる慾を満たすと害を蒙ってしまうのでしょうか。しかも体にとってきつい徳行をすると霊的に成長するのは、どうしてでしょうか。

回答  これまで生きてきた中で、「生来の性質は異質なものに触れると害を蒙る」という現象に心当たりはないだろうか。現に、いずれの本性もおのれに近い性質に近づくと喜びに満たされるではないか。でもあなたとしては「身体的本性に近いものは何で、霊的本性に近いものは何か」を訊ねたいのだろう。いいかい、本性を助けてくれるものこそ、本性に近いものなのだ。逆に害を及ぼすものは、その本性に異質であって外からやってきたものなのだ。

というわけで、もはや「体の慾」と「たましいの慾」が正反対のものであると判明した以上、少しでも体が救われて安らぐものは体に近いもの、つまり体に固有なものと考えてよい。しかし、たましいがこの身体固有のものと肩を組んだときに、これを霊魂固有のものだと言うことはできない。たましいに固有なもの(神゜)は、体に死をもたらすからである。もっとも、これは別の意味でたましいの特徴だとも言えるだろう。たしかにたましいというものは、まだ体の内部にいるうちは体の弱さや痛みから自由になれない。なにせたましいの動きは神の測りがたい叡智によって体の動きと繋げられているので、体の痛みを共に痛むようにできているからだ。しかし、それほどにも体と連動しているにもかかわらず、やはり体とは異なる動きを持ち、体とは異なる意志を持ち、体とは異なる神゜を持っている。生来の性質は、別物になることはないのだ。それどころか体にせよたましいにせよ、生まれつき罪へ走ったり徳へ向かったりして揺らぎやすいとはいえ、いずれも固有の意志で動いている。だからこそたましいは体のことをまったく心配しなくなったとき、ついに丸ごと神゜になりきって自由に動きまわり、天上の悟りがたいことを思いめぐらすのである。もっともかくなる状態においてさえ、体に対して身体固有のことを忘れさせたりはしない。これと同じことが、逆の場合にも起こる。どんなに体が罪に堕ちている最中でも、たましいの思念は知性のうちで湧きつづけているのだ。

質問  いったい知性の清らかさとは何でしょうか。

回答  知性が清い人とは、悪を知らない人のことではない(そんな人がいたとしたら、ほぼ動物並みになってしまうだろう)。また、幼い児童のことでもないし、いかにも清そうに見える人のことでもない。むしろひたすら徳を実践した末に、聖なるものが見えてきたときに知性が清まったと言えるのである。また、想念の試練を受けなければ知性は清まらない。かりに想念の試練を受けずとも知性が清まるとしたら、それは肉体を着ていない身だということになってしまう。というのも、われわれの本性がご覧のとおりの性質である以上は、息を引き取るその瞬間まで、闘うことなく痛手を蒙ることなく生きていくことなどできっこないからである。ここでいう「想念の試練」とは、決して想念に負けてしまうことではなく、むしろ想念と闘おうとする決意を指す。

想念の動き 一覧

人の中で想念を動かしているのは、次の四点である。まずは生まれつき備わっている肉欲。次に、いろいろと見聞する世の事象を思い浮かべる感覚的想像。そして、過去に刻みこんだ記憶と心の嗜好。さらに、これらの原因を利用して慾へと誘う悪鬼の攻撃である。

よって、人は息を引き取るその瞬間まで、まだこの肉体における人生を生きているあいだは、想念と闘わずに生きることなどできないのである。というのも、考えてもみよ。人が世から去る瞬間までに、つまり死を迎える瞬間までに右の四つの原因の一つでも止めることなどできようか。あるいは体が必要物資を欲しからず、何か現世のものを求めずにいられることなどありえようか。もしもそんな状態を想像するのさえ憚れるのであれば(なにせ本性はそういう物資を必要としているため)、体を持った者である以上は、何人なんぴとたりとも当人の意志とは関係なく慾の影響下にある、ということになる。したがって、どの人も体を持つ人間として、常時はっきりうごめいている慾の一つや二つだけではなく、多くの慾から自分自身を守る必要があるわけだ。徳を積んで我慾に打ち勝った者は、たとい右に書いた四つの想念や攻撃にたじろくことがあろうとも、決して打ち負かされることはない。なぜなら力を帯びており、知性が福なることや神聖なことを思い出しては感激しているからである。

質問  知性の清らかさというのは、心の清らかさと何がどう違うのでしょうか。

回答  知性の清らかさというのは、心の清らかさとは全く異なるものだ。というのは、知性が霊的感覚の一つでしかないのに対し、心とは内なる感覚を司る総括的存在だからである。心こそ、根っこである。根が聖であれば、枝も聖なるものとなる。つまり、心が清くなれば、いかなる感覚も清まってゆくことが自明なのである。

知性は、汚れた生活をやめて聖書読解に励み、しばらく斎をして儆醒して黙修していれば、それまでの考え方を忘れて清くなれる。でも不変の清らかさを持つには至らない。というのも、すぐに清まることができる分、すぐに汚れてしまうからである。

いっぽう心は、しこたま困苦や欠乏を耐え忍び、すっかり俗世との交わりから離れ、世に対して死ぬことによって清らかさに至る。もし心が清らかさに至ったのであれば、その清さはつまらない何かで汚れることはなく、あからさまな挑発、つまり戦慄を覚えるような激戦に見舞われたとしても怖気づかない。なぜならば丈夫な胃袋を獲得し、病弱な人が消化できないような食物でさえも即座に消化できるようになったからである。ちょうど医者も言うように、丈夫な胃袋であれば消化しにくい肉料理も消化して、健康体に多くの力をもたらすからである。というわけで、人は短期間で少しの努力で清くなったときには、いかなる清さであろうともすぐに損ねて汚してしまうものである。しかしうんと苦労して長期間をかけて清くなったときには、許容量さえ越えなければたましいのどの部分に攻撃を受けても怖気づくことはない。なぜならば、たましいが神に力づけられているからである。光栄は、たましいを力づけてくださる神に世々に帰す、アミン。

 

第5訓話 感覚と試練について

感覚を貞潔にして引き締めていれば、霊的に落ち着いて物事に魅了されなくなる。そしてたましいがいろいろな感触を受け入れずにいれば、勝利は闘わずして君のものだ。もし怠慢に陥って敵に想念の突破口を与えてしまうのならば、もはや闘わざるを得ない。すると元来の、ごく単純でむらのない清らかさは乱れてしまう。なにせこの怠慢によって人類の大半、もしくは全世界の人々が本来の清らかな状態から外れていくのである。ゆえに世間で生活する人や世俗人と親しい人々は、悪習を知りすぎたせいで知性を浄めることができない。知性を元来の清らかさに取り戻せる状態にある人はほんの僅かだ。よって、だれしもつねに用心して感覚を守り、知性に邪念を入れないようにしなければならない。大いに覚醒して眠らずに警戒していなければ、清くなれないからである。じつに純朴でありきることこそ、すばらしい。

人間の性質として、神へ聴従しきるためには畏れを必要とする。神を愛すれば徳行も愛せるようになり、そのようにして善行に励むようになる。すべての土台には、神を畏れる心がある。畏れと愛を持てば徳行に励むようになり、徳行を積んだ後に属神的知恵が与えられるのだ。ぬけぬけと前者(畏れと愛)なくして後者(徳行や属神的知恵)を得られると言いのける者は、まちがいなく霊的滅びへの一歩を踏み出してしまった連中だ。まさに畏れと愛があればこそ、徳行や属神的知恵が与えられるからである。それが、主の道である。

兄弟に対する愛を、物とかに対する愛に替えてはならない。なぜなら兄弟は万物よりも貴いお方(ハリストス)を己れのうちに秘めているからである。偉大なものを得たければ、小さなものは捨てよ。高級なものを手に入れたければ、余計なものや安価なものは気にしないことだ。いつか死ぬ日に生きんがためには、今生において死者であれ。だらだらと生きるのではなく、修行して死すべく献身せよ。ハリストスへの信仰ゆえに致命した者だけが致命者なのではない。ハリストスの戒めを守ろうとして死にゆく者もまた致命者なのだ。ちゃちな知恵で神を侮辱しないよう、つまらない願い事はするな。光栄に与れるよう、祈るときには賢くあれ。賢い欲求に対して誉れをもらえるよう、妬まず与えられるお方には尊いものを求めることだ。

ソロモンは叡智を求めた。そして大いなる王(神)に賢く求めたために、叡智だけでなく地上の王国をも授かった。また、エリセイは師が手にしていた聖神の恩寵を二倍求めた。二倍も求めて、それが叶わずに取り残されることはなかった。

だが、イズライリ人はつまらないものを求めたので、天誅が下った。なにせ神のなさる畏るべき奇蹟に驚嘆する代わりに、腹を満たすことを求めたからである。ゆえに「ただかれらの慾未だ去らず、食のなおその口にある時、神の怒りはかれらに臨みて、その肥えたる者を殺し、イズライリの若き者を倒せり」聖詠 77 : 30~31となるほどの罰が下ったのである。

神の前では神に喜ばれるよう、堂々と神の光栄にふさわしい願い事を捧げよ。もし王に対して厩肥(肥料用の糞)を求めたりしたら、無礼な要求で愚かさを露呈して自分自身を貶めるだけでなく、王をも侮辱してしまうだろう。祈るときに神に対して地上の福を求める者は、そういう要求をしている。なにせ王(神)の高官である天使や大天使は、あなたが何を願って主宰に祈っているのか見ているのだ。そして土くれにすぎないあなたが肉体を捨てて天のものを求めている姿を見ては、驚いて喜んでいる。逆に、天のものを捨てて厩肥を求めている姿を見ては、がっかりするのである。

神が慮っていてくださるものを、まさにこちらから願うまでもなく与えてくださるようなものを願い求めたりするな。しかも神に愛されている敬虔な信徒はおろか、神を知らぬ者にまで与えてくださるものを求めたりするな。なにせ祈るときには「異邦人のごとく無駄事をいうなかれ」マトフェイ 6 : 7と言われているからだ。主は、「無駄事」とは体にまつわる事柄であり、異邦人が切に求めているものだと解き明かされた。まさに「何を食らい、何を飲み、(中略)何を着んと慮るなかれ。(中略)なんじらの天の父は」これらの物がすべてなんじらに必要であることを「知」っておられるからだマトフェイ 6 : 25, 32、と。そもそも息子であれば父に対してパンを求めたりはせず、父の家にあるもっと高級で大いなるものを求めるはずだ。というのも、主は人間の知力が弱いため日々の糧を求めよと戒めたのであって、たましいが健康で完全な知恵を持つ者には次のように戒めたからである。「食べ物や着る物については慮るな。もし神が、言葉をもたぬ動植物のことを慮り、生命なき受造物のことまで慮っておられるのなら、いったいあなたがた人間のことをどれほど深く慮っていらっしゃることか」と。そう、だからこそ「まず神の国とその義とを求めよ、しからばこれらの物皆なんじらに加わらん」マトフェイ 6 : 33と告げられたのである。

もし神に何かを願い、その願いがすぐ聞き入れられなかったとしても悲しんではならない。なぜなら人が神よりも賢いわけがないからだ。時々なかなか神に聞き入れてもらえないことがあるのは、まさに求めた事柄を受けとる資格がなかったり、心の道が願い事にそぐわなかったり反していたり、まだその賜を受けられる水準に達していなかったりするからである。とにかく神の賜をたやすく入手すると駄目にしてしまうことがあるため、時期尚早に高度なものに触れてはならないのだ。なぜなら、たやすく入手したものほど失いやすいからである。だが心痛を伴って手に入れたものは、どれもこれも気をつけて大事に保とうとする。

喉が渇いていてもハリストスのために耐えよ。耐えていればハリストスの愛に潤されるだろう。快適な生活を目に入れるな。目に入れなければ神の平安に満たされるだろう。目に見えるものを断ち切れ。そうすれば属神的な喜びを得られるだろう。たいして神を喜ばせることができていないのであれば、飛びぬけた恩賜を求めたりするな。でないと、神を試す者のごとくなってしまう。人は生活形態に応じて祈らなければならない。というのも、地に縛られた者が天のものを要求することなどできず、世に追われている者が神聖なものを求めることなどできないからだ。なにせ本心は行動に出るものだし、そもそも人は打ちこんでいるものこそ祈り求めるものだからだ。偉大なものを求めている者は、つまらないものに追われることはない。

体に縛られていようとも自由であれ、そしてハリストスゆえに聴従できる自由人であることを証明せよ。また、純朴でありながらも徳を盗られないよう賢明であれ。何をするにしても謙遜を愛し、思い上がるなり引っかかる見えない罠から逃れよ。ただし苦難からは逃げるな、苦難をとおして真実を知るからだ。それに試練も恐れるな、試練をとおして尊いものを得られるからだ。ただ霊的試練には陥らないように祈れ、いっぽう身体的試練にはあらん限りの力をもって備えよ。というのも、身体的試練なくして神に近づくことはできないからだ。まさに試練のうちに、神聖なる安息が用意されているのである。試練となる誘惑いざないから逃げる者は徳からも逃げる。むろん肉欲をつつくような誘惑いざないではなく、苦難という誘惑いざないを意味して言っている。

質問  どうやって次の聖句に整合性を持たせましょうか。主は、いっぽうでは誘惑いざないに陥らないよう、「祈祷せよ、誘惑いざないらざらんためなり」マトフェイ26 : 41と命じておられるのに、他の箇所ではむしろ誘惑いざないを受けて耐えることを促して「力を尽くして狭き門よりれ」ルカ13 : 24とか、「身を殺して魂を殺す能わざる者を恐るるなかれ」マトフェイ 10 : 28とか、「わがためにその命を失う者はこれを得ん」マトフェイ10 : 39などとおっしゃったのです。

なぜ、こうしてあちこちで誘惑いざないを受けて耐えよと励まされたにもかかわらず、ここの箇所では「祈祷せよ、誘惑いざないに入らざらんためなり」などと命じられたのでしょうか。だいたい徳の道で困苦や誘惑いざないに遭わないことなどありましょうか。しかも「自分を滅ぼすこと」以上にむごい誘惑いざないなどないはずなのに、主はあえて「主のために自分を滅ぼすような誘惑いざないを受けよ」と命じられたのです。そうです、まさに「おのれの十字架を負いてわれに従わざる者は、われに宜しからず」マトフェイ 10 : 38とまで告げられたのです。

このように、あらゆるところで誘惑いざない(試練)を受けよと命じておかれながら、なぜここでは誘惑いざないに「入らないように」祈れと命じられたのでしょうか。なにせ使徒でさえも誘惑いざないを受けるべきことを示して「われらが多くの艱難を経て、神の国に入るべき」行実 14 : 22と言い残しましたし、主ご自身も「世にありてなんじら患難を受けん」イオアン 16 : 33とか、「忍耐をもってなんじらのたましいを救え」ルカ 21 : 19という聖句で、誘惑いざないに耐えるべきことを宣言されたではありませんか。

ああ主よ、ご教示された道を理解するには、どれほど知性を研ぎ澄ませておかなければならないのでしょう。まちがって意味を理解したが最後、つねに主の道の外にいることになるのです。主よ、たしかにあなたは、かつてゼヴェダイの息子とその母が主と共に王国に座りたいと申し出たときにも、ひどい誘惑いざないが待っていることを意味して「なんじらわが飲まんとする杯を飲むことをよくするか、わが受くる洗を受くることを能するか」マトフェイ 20 : 22と問いただされましたよね。それなのに、どうしてここでは「誘惑いざないに入らざらんため」に祈れ、などと命じられたのでしょうか。どんな誘惑いざないについて「入らざらんため」に祈れ、と命令されたのでしょうか。

回答  要するにこういうことだ。信仰がぶれるような誘惑いざないに遭わないように祈れ。傲慢な悪鬼に釣られて、自分は頭が良いと思い上がってしまう誘惑いざないに陥らないよう祈れ。脳裏に思い描いていた邪念のせいで、もろに悪魔的誘惑に嵌まってしまわないよう祈れ。まさに貞操の守護天使が離れていかないように祈れ。かの罪深い炎との闘いに負けてしまったら、守護天使を去らせてしまうからだ。また、人を苛立たせて仲を裂いたり、人を裏切ったり疑ったりするような誘惑いざないに陥らないよう祈れ。人を裏切ったり疑ったりしたが最後、たましいはしんどい戦いを強いられることになる。しかし身体的な誘惑いざないに関しては、心底から受けて立つ用意をせよ。体のどの部分でも誘惑いざないに耐え、目に涙を溜めて守護天使に去らないでくれと祈ることだ。というのも、誘惑いざないを避けて過ごしているうちは神の摂理が見えず、神の前で大胆になれず聖神の叡智も学べず、心から神を愛せるようにならないからである。人は誘惑いざないを受けるまでは神に対して他人行儀で祈っているものだ。ところが神を愛するがゆえに誘惑いざないに入って揺るがずにいられれば、そのとき神に貸しがあるかのごとく、あたかも神の親友であるかのごとく神の前に立つことができる。なぜなら神の意志を遂行すべく、神の敵と戦ってその敵を打ち破ったからである。以上が、「祈祷せよ、誘惑いざないに入らざらんためなり」という聖句の意味するところである。

なお、うぬぼれているせいで恐るべき悪魔的誘惑に陥らないよう祈れ。むしろ神を愛したために神に助けられ、神の敵を打ち破ることができますように。また、ふしだらな邪念や行為のせいで、右に述べたような誘惑いざないに入らないよう祈れ。むしろあなたの神への愛が試されて、その忍耐のうちに神の力が光栄を受けますように。光栄と国は神に世々に帰す。アミン。

 

第6訓話 神の慈憐について。神がその慈憐によって大いなる高みから人間の弱さまでへりくだられたことについて。そして試練について

しかもよく考えてみれば、主はあまりにも憐み深くわれわれのことを慮ってくださるがゆえに、身体的試練についても祈りなさいと命じられたのである。なにせ人が土でできた体であるために弱く、誘惑いざないに遭うなり逆らえずに真実から逃げて打ち沈んでしまうため、そういう誘惑いざないなくして神に仕えうるかぎり、ふいに試練に打たれないで済むよう祈りなさいと命じられたのである。たとい高徳めがけて歩んでいたとしても、ふいに大きな試練に打たれて負けてしまうのなら、そのとき完徳に手が届くことはない。

そもそもたましいは試練という高潔な闘いに挑むことで生きるのだ。いやそんな闘いに挑むなんて怖くてできないと尻込みし、気の弱さをごまかす口実や教えを並べあげて自分自身や他人を欺こうとしてはならない。それこそ「祈祷せよ、誘惑いざないに入らざらんためなり」マトフェイ 26 : 41という聖句などを持ち出してはならない。というのも、そうやってうそぶく連中は「戒めを持ち出してひそかに罪を犯す者」と言われているからだ。というわけで、もしあるとき事が起こって誘惑に負け、やむなく主の戒めを犯してしまった場合(すなわち貞操を破る、修道生活を離れる、信仰を捨てる、ハリストスへの修行を止める、戒めを無視するなどした場合)、すぐに畏れをなして誘惑に雄々しく立ち向かわないのであれば、真実から離れ去って堕落することになる。

もうこれからは体の声には耳を貸さずたましいをひたすら神に委ねて、主の名によって降りかかってくる試練と闘おうではないか。そもそも思い出してみてほしい。われわれはどういうお方に守られているのか。われわれを守ってくださる神は、むかしエギぺトの地でイオシフを救われ、そのイオシフをとおして貞潔の模範を示されたお方だ。また、ライオンの穴でダニイルを無傷に守られ、火の釜で少年三人を傷なく守られ、イエレミヤを泥の穴より救い出してハルデイの陣営で憐れまれたお方だ。さらにぺトルを獄中から救い出され、パウェルをイウデヤの会堂より救い出されたお方である。つまり簡潔に言うと、いつでもどこでも忠実な僕に付き添って力と勝利を与えられ、苦境に置かれた僕をいくたびも守って艱難から救いつづけてこられたお方なのだ。ならば、きっとわれわれのことも力づけ、われわれを呑みこもうとする荒波から救ってくださるに違いない。アミン。

さらにマカヴェイ(旧約続編『マカバイ記』に登場するユダヤの民族的英雄)をはじめ、聖預言者らの雄姿を見よ。同じく心身もろとも危険な状況に負けないどころか勇敢に打ち勝った使徒や、致命者や克肖者や義者を見よ。われわれとしても、かれらと同じくらい悪魔とその手下に対して闘志を燃やそうではないか。右に列挙した聖人たちは、恐怖政治の下にありながらも律法や属神的戒律を定め、こっぴどい試練に打たれながらも義を貫いて世も体も捨てきった。そのため、すでにハリストスのご降誕以前に生命の書(天国の名簿)にその名を記された者もいるくらいだ。そして使徒も証言したとおり、われわれとしてもかれらの教えを忠実に守って教訓や励みとしてきたわけだがロマ 15 : 4、それもこれも神に命じられたとおり神の道を悟って賢明になり、聖人の雄姿を仰いで奮い立ち、聖人の道を歩いて聖人に近づかんがためであった。ああ、神聖な言葉というのは、思慮深いたましいにとってなんと味わい深く響くことか。まるで体を養う食糧のように、たましいを養ってくださる。ちょうど植えたばかりの植物が雨水をふんだんに必要とするように、柔和な耳は義人伝を聞きたがるものだ。

というわけで、愛する者よ。ちょうど見えづらい両目を治す薬をつけるようにして、神の摂理を脳裏に刻み込め。太古から現在まで万物を守ってこられた摂理をいつも思い起こし、どうすれば神に喜ばれるかとくと考えよ。これまでの摂理から教訓を引き出して、いつどんなときでもたましいが神の大いなる光栄を思い起こして永遠の生命を得られるようにせよ。永遠の生命は、まさに神と人を仲立ちされた神人、主イイスス・ハリストスのうちにある。そもそも天使階級でさえ主の光栄の宝座に近づけないというのに、なんと主はわれわれのために卑しく遜られたお姿で現れてくださったのだ。まさにイサイヤが「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」イサイヤ 53 : 2と告げたほど、へりくだったお姿で現れてくださったのだ。考えてもみたまえ。だいたい受造物の目では見ることのかなわない至聖なるお方が、なんと肉身をまとって万民の生命を救うご計画を成就され、浄化への道を開いてくださったのである。光栄と国は主に世々に帰す。アミン。

 

第7訓話 意図的に犯した罪と、つい犯してしまった罪、また、状況に追い込まれて犯した罪について

弱さゆえについ犯してしまう罪がある。いっぽう意図的に犯す罪もあれば、罪と知らずに犯してしまう罪もある。また、何かの拍子に罪を犯すこともあれば、延々と罪深い状態に嵌まったまま抜け出られないこともある。いろいろな罪の種類を分ければこんな風になるだろうか。いずれの罪も非難に値するとはいえ、その見返りとして受ける罰を比べてみると、より大きな罪とより小さな罪があることがわかる。厳しく断罪されるうえに悔改しにくい罪もあれば、逆に赦されやすい罪もある。

アダムとエヴァと蛇がよい例だ。三者とも、神から罪に対する報いを受けたとはいえ、それぞれ異なる度合いの呪いを受けた。アダムとエヴァの子孫であるわれわれも同じである。つまりどういった動機や執着心で罪を犯したかによって、受ける罰の重さが変わってくるのである。たとえば、罪を犯すつもりはなかったのに徳行を怠ったせいで罪にのめり込んだとしたら、罪の中にいるのが苦しいし受ける罰も重い。いっぽう必死に徳行に励んでいたのに誘惑に負けて罪を犯してしまった場合、その罪は情状酌量の余地があるため間違いなく赦されやすいし清めやすい。

たとえばだ。徳に励んで精進しつづけているときに、つまり、励んでいることが無に帰さないよう夜も眠らず、昼も重荷を背負い、徳のことしか頭にないというのに罪を犯してしまうことがある。いやいや知恵が足りなかったせいなのか、それとも徳の道にある障害や肉慾に負けたせいなのか、はたまた自由意志を試しにくる誘惑に足を取られたせいなのかは分からない。いずれにせよ心の秤がやや左傾して、体の弱さゆえ罪の一つにのめり込んだとする。そのとき、まんまと敵にやられた不幸を悲しんで嘆き、たましいを思って胸を叩いて嘆息をつくならば、そういう罪を重い罪だと言えるだろうか。

だがやる気もなく徳にも励まず、徳の道をすっかり手放し、すすんで罪の快楽にのめり込んだとする。より強い快感を求めてあの手この手を尽くし、奴隷みたく敵の言いなりになって体まで悪魔の武器として差し出し、もはや悔改して徳に近づこうとか、悪を断ち切って滅びの道から足を洗おうだなんてこれっぽっちも思っていなかったとする。こういう類の罪は、先述した罪とはまったく別物だ。

あるいは徳義の道にはよくあるのだが、つい滑って転んでしくじったとする。こういう罪もまた別物である。なにせ師父も言っているように、徳義の道を歩んでいれば負けたり躓いたりすることは避けられないからである。

いっぽうたましいが堕落しきった状態、つまりずたずたに罪にやられて孤独に陥っている場合などは別次元だ。あきらかにその状態にある身だと思う者は、堕ちてゆく最中でも神の父なる愛を忘れるな。ありとあらゆる罪過に陥ったとしても善に励むことを諦めず、これまでのように歩み続けよ。たとえ負けたとしてもふたたび敵との闘いに乗り出し、壊れてしまった家を毎朝一から建て直せ。そして息を引き取る瞬間まで預言者の言葉を口ずさむのだ。「わが敵よ、堕ちたわれを喜ぶな。たとえ倒れても、ふたたび起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光」ミカ 7 : 8と。最期の最期まで片時も闘うことを止めてはならない。息のあるかぎり闘って、惨敗の渦中にあってもたましいを敵に渡すな。たとい毎日ぼろ舟が難破して積み荷を残らず失おうとも、やはり積み続けて備えようとする手を休めるな。たとい借金をしてでも他の船に乗せてもらい、希望をもって航海せよ。いずれ主がその修行をご覧になり、難破の惨状を憐れに思って慈しみを垂れてくださるその瞬間まで、つまり敵の火矢を受けて立とうという勇気が降ってくるまで備えつづけるのだ。これぞ、神の教えてくださった賢慮というものである。これぞ、望みを捨てない賢い病人の姿である。すべて放り出して裁かれるよりは、よほど何かし損じて裁かれるほうがましである。だからこそ師父マルティニアンは、どんなに辛くても修行を止めるなと主張したのだ。そう、「たとえ義の道で休みなく闘うことになっても気を落とすな、背を向けるな、面目を失ってまで敵に勝利を譲るな」と諭されたのである。というのも子を愛する父として、はっきりと次のように述べたからである。

克肖者マルティニアンの助言

子よ。真に修行者として徳を求めているのであれば、そしてたましいが熱く燃えているのであれば、ハリストスの前で知性を清く保ち、ハリストスに喜ばれることをしたいと強く希いなさい。というのもハリストスに喜ばれることをするためには、あらゆる闘いを耐えるしかないからだ。まさに慾や世との闘いに耐え、悪鬼の底知れぬ怨恨との闘いに耐え、奴らのあらゆる策略に耐えねばならない。激闘が長引いて休めなくても弱音を吐くな。長期戦になってもたじろぐな。敵に襲われてもひるんだり怯えたりするな。いわんやちょっと滑って罪を犯したとしてもいちいち絶望してはならぬ。というよりか、この険しい闘いにおいては、たとえ傷を負って面目丸つぶれになったとしても善い目的めがけた歩みを止めてはならないのだ。むしろひとたび選んだ道を突き進み、あこがれた誉れ高い品性を獲得せよ。つまり負け知らずの強い男として、たとえ傷口が血まみれになろうとも、敵にあらがう拳を断じて下げてはならないのだ。

これぞ、偉大な師父の教えである。こうも闘いつづけなければならないと聞いて肩を落としたり気落ちしたりしてはならない。修道士ともあろう者が、ひとたび立てた誓願を破って良心を踏みにじり、いろいろな罪へいざなう悪魔に手を貸すようになったら禍だ。そんな事態に陥ったら、もはや悔改の心でもって敵に盾突けなくなってしまう。いったいどんな面を下げて、神の畏るべき審判に立つつもりなのか。その日は、友が互いに清さを極めて再会する日。ところが友人らと道中で別れて滅びの道を歩み、克肖者のように清い心で大胆に祈れなくなってしまったとしたら、つまりまっすぐに天軍よりも高く昇って願いを叶えて返ってくる喜びの祈りを失くしてしまったとしたら、いったいどんな顔をして神の審判に立つのか。しかも最も恐ろしいことは、その日、つまり清く輝く体だけが明るい雲に運ばれて天国の門の前に置かれる日、かつて人生途上で離れ離れになってしまったのと同じように、またもやハリストスによって友人らと引き裂かれてしまうことだ。それもこれも、だいたい断罪されるようなことを地上でしてきたせいで、万人復活の日に「悪人は(最後の)審判に立つを得ず、罪人は(天上の)義人の会に立つを得ざらん」聖詠 1 : 5となるような事態を招いてしまったのである。

 

第8訓話 だらだら怠けている人々から自分を守ることについて。そのような人に近づくと、やる気を失って怠惰心が芽生え、不浄な慾の渦に呑まれてしまうためである。また、知性が要らぬ想念で汚れてしまわないよう、青少年との距離を保つことについて

人の悪口を言うまいと踏み止まる者は、心を慾念から守るだろう。心を慾念から守っていれば、つねに主を見ることができるだろう。つねに神に思いを馳せていれば、悪鬼を追い払ってその怨恨の種を抜き取ることができる。いつもたましいの動きを注視していれば、いろいろなことが見えてきて心から楽しめるだろう。内側に心眼をこらしていれば、属神的な曙を見る。思いが飛び回らないようにしていれば、心の中に主宰を見る。全受造物の主宰を見る清さを愛するのなら、だれの悪口も言うな。そして兄弟の悪口を言う人には耳を貸すな。喧嘩している人がいたら、その罵り合いを耳にしたばかりにたましいが命を失って死んでしまわないよう、耳を塞いでその場から逃げよ。苛立つ心は神の奥義を受け入れられないが、温柔で謙遜であれば来世の奥義を湧き出す泉となる。

というわけで、清ければ内面に天がある。自分自身の中に天使とその光を見、天使とともにおられる主宰を見るだろう。褒められるべくして褒められた者は害を受けないが、褒め言葉が甘く感じるようではいくら修行していても水の泡だ。謙遜であれば内面に主という宝を秘めている。発言に気をつけていれば決して口で失敗することはない。重い口は神秘を解き明かすが、すぐ話したがる口は造物主から離れていく。

善良なたましいは太陽よりも明るく輝き、朝な夕な神の啓示を観て喜んでいる。神を愛する人に従うならば神の奥義に満たされるが、間違ったことを平気でする者に従うならば神から離れて友にも嫌われる。口数が少なければ見るからに謙遜の風格を帯び、たやすく慾を支配できる。ひたすら神に没頭することこそ慾を殺す剣であり、その剣で慾を根こそぎにできる。ちょうど波立たない穏やかな海でイルカが泳ぎ回るように、苛立ちや怒りを鎮めた穏やかな心の海に、神の奥義や啓示が見えてくるのだ。

内面に主を見たければ、絶えず神を思って心を清めようと努めるものだ。そうやって磨きをかけた心眼で、つねに主を見られるようになるのである。知性は、神を記憶することを止めて世を思いめぐらすとき、ちょうど泳ぐのを止めて水揚げされた魚と同じようになる。逆に、人との会話から離れれば離れるほど大胆に神と対話でき、世の慰めを断てば断つほど聖神による喜びに与れる。したがって、修道士がしょっちゅう世俗人と過ごすのなら、魚が水不足で息絶えるように、その心も神という源泉を失って知的に動かなくなってしまうだろう。

修道士が世俗人と時を過ごして苦しんでいるよりも、世俗人が生活に追われて苦しんでいる方がましである。昼夜、熱心に神を探して心の敵を撃退していれば、悪鬼には恐れられ、神や天使には愛される。心の清い人は、おもに内面を思いめぐらしているものだ。まさに太陽のように聖三者の光を浴び、全能の慰むる聖神を空気のように吸う。傍にいるのは目に見えない聖天使。そして光よりの光、つまりハリストスを生命とし、喜びとし、楽しみとするのである。

そういう人は、いつも霊的に観照していて喜び、じつに太陽の光よりも百倍明るい自らの美しさに驚く。これぞ、イエルサリムにして「神の国」、主がわれわれの中にあると言われた王国なのだルカ 17 : 21。ただ心の清き者だけが、この神の光栄なる天雲へ入って主宰に会い、その光線を受けて知性が照らされてゆく。

いっぽう苛々して怒りっぽい者や、名誉や富を愛する者、大食いで低俗で我儘な者や、短気で強欲な者はみな、あたかも夜の暗闇を相手どって乱闘し、生命と光の領域の外にいるようなものだ。というのは、生命と光の領域というのは善人の分け前であり、心を浄めた謙遜な者にしか与えられないからである。人はあらゆる外面的な美を疎んじて厭わなければ、内面にある美を見ることはできない。すっかり世に背を向けなければ、神にまっすぐ視線を向けることはできない。自ら卑しめて遜る者は、神から賢さを授かる。自ら賢いと思う者は、神の叡智から離れる。おしゃべりをやめればやめた分だけ、理性が光に照らされて想念を見分けられるようになる。たくさん話していると、最も賢い理性でさえも混乱する。

世俗的な意味で貧しくなれば神において豊かになるが、富豪の友となれば神において乏しくなる。へりくだって貞潔に生き、発言に気をつけて心から苛立ちを追い出した者は、(確信をもって言うが)祈祷に立つなりたましいに聖神の光を見、その光に照らされて舞うことだろう。そして輝く光栄を見て楽しみ、自らも変容して光栄に肖るまで喜びつづけるだろう。神における観照以上に、汚れた悪鬼の軍を追い払える行為は他にない。

ある師父がこんな話をしてくれた。「ある日、座っていたら観照に没頭して、我に返るなり深く息を吐いた。すると目の前にいた悪霊がその吐息を聞くなりびくびくし、稲妻に打たれたように叫んだかと思いきや、追われるようにして逃げ去った」と。

この世を去る日を念頭におきながら、世の快楽にしがみつかないよう自制する者は幸いである。なぜなら臨終時には数倍に膨れ上がった幸福感になみなみと満たされるからだ。そうなれるのは、神から生まれて聖神に育てられた者。まさに聖神の懐に抱かれて活力を吸い、聖神の匂いを嗅いで喜んでいる。しかし世と世の安楽にしがみついて交流したがる者は、永遠の生命を得られない。そういう人については何と言えようか。心を引き裂く慰めがたい号泣で嘆き悲しむほかない。

闇の中にいる者よ、首を挙げよ。顔面いっぱいに光を浴びて、世の慾の支配下から抜け出すのだ。そうすれば父よりの光(ハリストス)が会いに来てくださるだろう。そして天使らに足枷を解いてあげなさいとお命じになって、ハリストスについて父のもとへ歩んでゆけるようにしてくださるだろう。ああ、どうしてわれわれはこうも縛られているのか。何に引っ張られて主の光栄が見えなくなっているのか。おお、この足枷を解き放ち、神を探し求めて見つけることさえできたならば。

人の本心を知りたくてもまだ神゜で見抜けないうちは、せめて頭を働かせて語調や生き方や仕事ぶりでその人を知れ。たましいが清くて無垢な生き方をしている人は、いつでも貞潔に聖神の言葉を発し、あたうかぎり神と自分自身を考究している。しかしたましいが慾にやられた者は、慾に突かれて言葉を発する。ゆえに属神的な議論に加わった日には慾によって考察し、不正でもって勝利を得ようとする。賢人はそのような者を初対面で見抜き、清い人はそのような者の悪臭を嗅ぎ分ける。

いい気になって無駄話ばかりしている者は淫行者である。そういう人に賛同して話に加わる者は姦通者であり、さらに交流までする者は偶像崇拝者だ。青少年との友情は、神が厭う淫行である。そのような者を治す薬はない。だが同情心から分け隔てなく公平に人々を愛する者は、完徳の域に達している。若者が若者を追いかけるとき、知者は嘆き悲しむことになる。だが老人が若者を追いかけるとき、その慾は若者の慾よりも臭い。たとえ徳について語り合っていようとも心は病んでいる。その若者が人々を離れてつつましく黙修し、羨やんだり苛々したりしないよう心を浄めて自己注視しているのであれば、即座に怠けた老人の慾を見抜くだろう。そして老人が年配よりも若者を好んでいるのを目にしたら、そんな老人とは力づくでも関係を断ち切って離れ去った方がよい。

取り繕って清く見せておきながら、じつは慾を満たしているような怠け者は禍だ。だが想念を清く保ったまま老年に至り、舌を制して善良に生きた者は、この世にいながら属神的知恵の実を満喫し、体から離れる時には神の光栄を受けるだろう。人と会っておしゃべりすることほど強く、聖神の火をかき消して成聖の道から逸らすものもない。もちろん神の知恵を増すような会話や、神に近づこうとするような会話は別だ。というのも、人はとくにそういう会話によって属神的に生きたくなり、慾や汚れた想念を忘れるからである。ゆえに、よろけて主の道から逸れてしまわないよう、属神的な会話のできる者以外には友や親睦者を持つな。ますます神を愛して神から離れないようにし、腐りきった「世への愛」に惑わされないようにしよう。

修行者の傍にいて交流させてもらえれば、たがいに神の奥義を分かち合って豊かになれるだろう。しかしやる気のない怠け者を愛するならば、ともに思考が浮ついて際限なく腹を満たすことになる。そういう連中は、友のいないところで食べることがしんどく思えて「ひとりぼっちで食らうやつは哀れだ。おいしくないじゃないか」などと言う。そしてたがいに宴会へ招き、あたかも借りを返すかのように支払いあう。こんな呪われた愛、ふしだらで不敬虔な時間の過ごし方を絶対にしてはならない。兄弟よ。こういった暮らし方に慣れた人々から逃げよ、そしてどんなに必要に迫られても彼らと食事をとるな。なぜならその食卓は汚れており、悪霊が給仕しているからだ。花婿ハリストスの友たるもの、そのような食事は口にしない。

しょっちゅう宴会を開く者は、人々の肉慾を満たしながら謙遜なたましいをも汚す。逆に慎ましい粗食を差し出す人は、それを食する者のたましいを清めてゆく。無教養な者は、ちょうど野良犬が肉屋の匂いに釣られるがごとく、美食家の食卓からくるおいしいご馳走の匂いに釣られてしまう。だが、いかなる香水や香油よりも香しいのは、昼夜祈っている者の食卓だ。神を愛する者は、高価な宝のごとくその食卓を慕う。

ぜひとも徹夜で主に仕えている斎行者のもとへ行き、その食卓で食生活を正してもらって自分の死んだたましいを呼び覚ませ。というのは、斎行者のそばには愛すべき主がおられるからだ。主は斎行者を成聖され、斎行者の苦行をご自分のたとえようのない甘味へ変えてくださっている。それに加えて、主に仕えている天使らも属神的に斎行者に聖号を画し、その聖なる食卓にも聖号を画しているという。その様子をこの目ではっきりと見たと言った兄弟もいる。

造物主を遠ざけてしまうような甘味に対して口を閉ざした者は幸いだ。そして天より降って世に生命を与えるハリストスを糧とするならばもっと幸いだ。おのが田畑(心身)に御父の懐より降る「生命の慈雨」(尊血)を見届け、その慈雨を賜わる主を仰ぎ見る者は幸いである。というのは、主の尊血を飲むことで活気づいて心が花開き、喜び楽しむことになるからだ。そうやって主に養っていただいていることを悟ってからは、人々から隠れて独りきりで領聖するようになる。要らぬしがらみに捕らわれて主の光照を失ってしまわないよう、ふさわしからぬ者とは関わろうとしない。ところが食生活に致命的な毒(慾)を混ぜたが最後、友人なしではおいしく食べることができなくなる。すると、おいしく食べるために友達をつくるようになり、死体を食らう狼となる。浅はかな者よ、だらだら食べて腹を満たすだけでなく、たましいまで慾で満たしたいとはなんたる卑しさか。腹を自制できる者にとっては、右の警告だけで充分であろう。

斎行者からは芳香がするものだ。だから思慮深い人は斎行者と出会うなり心から喜ぶ。しかし美食家は斎行者を目にするなり背筋が凍り、何とかして一緒に食事しないで済むよう工夫を凝らす。

自制する生き方は神に喜ばれるが、あれもこれも欲しがる者からしてみれば見ているだけでもつらい。寡黙な者はハリストスに大いに褒められるが、悪霊に釣られて楽しんでいるお調子者からしてみれば近づくだけでもごめんだ。はたして奥ゆかしい謙遜者を嫌がる者など、その修行に縁もゆかりもない毒舌な高慢ちき以外にいるだろうか。そういえば、次のような経験談を話してくれた人がいる。

「人と会話をした日には、乾パンを3片か4片いただいているのですが、祈ろうとしてもなかなか知性が神へ向かわず、思いが神へ飛んでいきません。しかし、話し相手から離れて黙修すると、初日は乾パンを1片半食べきるのがやっととなり、二日目にはほんの1片しか喉を通らなくなります。さらに黙修が軌道に乗ってくると、せめて1片くらいは食べきろうとするのですが、どうにも食べきれなくなってしまいます。知性は絶えず大胆に神と語らい、あえて強いなくても曇りなく照らされて、神の美しい光にうっとりしているのです。ところが、黙修中に誰かがやってきて一時間でも話して行くと、その日には食事量を増やさずにはいられません。祈りの規定も何かしら諦めなくてはなりませんし、くだんの光を観照する知力が弱まってしまうのです」。

兄弟よ、聞いただろうか。孤独に耐えることがどれほど素晴らしくためになることか。どれほど修行しやすくしてくれる力が湧いてくることか。とにかく神のために黙修して独りきりでパンを食らう者は幸いである。なぜならいつも神と対話しているからである。光栄と国は神に帰す、今もいつも世々に、アミン。

 

第9訓話 初心者の振る舞いや規定、初心者に相応しいことについて

神に喜ばれる貞潔な振る舞いとは、下記のとおりである。

あちこちに目を向けず、つねに視線を前に向けること。無駄口を叩かず、必要最低限のことのみ話すこと。服は粗末なもので満足し、暑さ寒さをしのげれば十分とせよ。食事は満腹になるためではなく、体力を維持するために摂れ。何でも少しずつ食べ、これは嫌だとか、あれをもっと食べたいとか言って偏食しないように。徳の道では、判断力こそ肝心だ。酒は友といるとき以外、または病床に伏したり体力が落ちたりしたとき以外には飲むな。人が話しているときに遮ってはならない。愚か者みたく言い返さず、賢者のように寡黙たれ。そしてどんな場面でも最も卑しい者と思い、兄弟に仕える者となれ。人前では肢体の一部たりとも見せるな。やむをえぬ理由なくして他人の体に近づくな。いわゆる避けがたい理由でもない限り、この身に近づくことを誰にも許してはならない。あたかも死を厭うかのように、大胆な話し方を避けよ。眠るときにも貞潔な佇まいを保て、そうすれば守護天使の力が去ることはないだろう。どこで寝ることになろうと、なるべく人目につかないようにせよ。人前でよだれを出したりするな。食事中に咳をしたくなったら顔を背けて咳払いし、神の子にふさわしく貞潔に飲み食いすることだ。

無遠慮にも手を伸ばして、友に差し出されているものを取ろうとするな。もし旅人が近くに座っていたら「どうぞ召し上がれ」と一度か二度誘い、投げやりではなく丁寧に食事を差し出すこと。座るときは礼儀正しく控えめに座り、肢体の一部たりとも見せてはならない。あくびが出そうになったら、人に見られないように口を閉じよ。息を止めればあくびは止まるからだ。他人の僧房に入ったら、それが修道院長の僧房か、友人の僧房か、弟子の僧房であるかを問わず、そこに何があるのか見ようとするな。もし想念が「見ちゃえ」と迫ってきても自戒して逆らい、あちこち目を向けるな。というのも、この点において恥知らずな者は、こういう生き方を賜ったハリストスご自身や修道生活に縁がないからだ。友の僧房では、物のしまってある場所に視線を向けるな。おのれの僧房であろうと友人の僧房であろうと、扉は静かに開け閉めせよ。人の部屋へ入るときには突然入り込むな。まず外側からノックして許可をいただいてから、畏れ入りつつ入ることだ。

急用があるときでもない限り、あくせく歩いてはならない。善行においては誰に対しても聴き従え。ただし悪魔の業を行なうことにならないよう、所有欲や金銭欲や執着心の強い者の言うことに従ってはならない。だれに対しても柔和に語れ、すべての人を貞潔な目で見よ、どんな顔も見つめてはならない。道を歩くときには年上を追い越すな。もし同行者が後れを取ってしまったら少し前に進んだところで待て。待てないのは作法のない豚のようなものだ。もしも同行者が人と会って語り始めたら、しばらく待って急かすな。健康な者ならば病人に対して、「なすべきことはきちんとやっておきましょう」と優しく言うものだ。

他人の過失を目にしても、暴いてはならない。むしろこうなったのは自分のせいだと思うようにせよ。いかに卑しい仕事であってもへりくだって行ない、断ったり逃げ出したりするな。笑わなければならないときには、歯をあらわに見せないこと。女と話さなければならないときには顔を背けてそのまま話せ。修道女と会って話すことや顔を見ることを火のごとく恐れ、悪魔の罠と思って避けよ。神への愛が冷えて慾の泥で心を汚さないためだ。たとい修道女が実の姉妹であったとしても、他人の女と思って身を守れ。心の中で神への愛が冷えないよう、家族と近づくことさえ気をつけよ。

また、気の向くまま青少年と会って話さないようにせよ。悪魔と友情を結ぶようなものだからだ。親しい話し相手を作るのなら、つねに自己省察して神を畏れる者や、貧乏でも神の奥義に富む者に絞れ。自分の神秘的経験や修行や闘いをだれにも見せるな。どうしようもない例外の場合を除いて、人前で修道帽を被らないまま腰掛けてはならない。用を足すときは貞潔に足せ。それも守護天使に対して敬虔の念を持ちながら、神を畏れつつ用を足すことだ。たといそうするのが不愉快であったとしても、死ぬときまでそうするように努めよ。

実の母や姉妹といえども女と一緒に食事するよりは、致死量の毒を食らう方がましだ。実の弟といえども若者と一枚の布団の下で横になって寝るよりは、蛇と暮らす方がましだ。道を歩いていて、年上に「こっちへ来い、歌おうじゃないか」と言われたら素直に従っておけ。言われなかったら口をつぐんだまま心の中で神を讃美せよ。だれにも逆らわず、言い争わず、嘘をつかず、主・神の名によって誓うな。蔑まれても蔑まず、傷つけられても傷つけるな。身体的なことは体と一緒に滅びるがいい。ただ霊的なものが何かしら痛手を蒙らないようにすることだ。裁判を起こしてはならない。だが、裁かれるべきでない身なのに裁かれたときには耐えよ。世の何かに愛着を持たないようにしつつ、修道院長をはじめ高位の者には従うこと。ただしかれらとの近い関わりは持つな。なぜなら権力者との近しい関係は罠であり、怠け者を釣って滅ぼすものだからだ。

いつも食欲旺盛で腹いっぱいにしないと気がすまない者は、君主や高位聖職者のご馳走を食らうよりも焼け炭を呑みこんだ方がましだ。すべての人を憐れみつつ、だれからも相手にされないほうがよい。しゃべり過ぎないように気をつけよ。しゃべり過ぎると、神がよこしてくださる思考活動が心の中で途絶えてしまうからだ。飛びかかってくるライオンから逃れるように、教義にまつわる議論を避けよ。これについては相手が信徒であろうと未信徒であろうと関わらない方がよい。つい頭にきてたましいが迷妄の闇に陥らないよう、怒りっぽく口うるさい連中には近寄るな。たましいが聖神の働きを受けられなくなって邪念の巣窟とならないよう、傲慢な者と暮らしてはならない。人間よ、もし右の警告を守っていつも神を思うようにしていれば、じつにたましいのうちにハリストスの光を見、もはや永遠に闇に覆われることはないだろう。光栄と権能はハリストスに世々に帰す、アミン。

 

第10訓話 聖師父の話。その克肖なる言葉と、驚くべき生活

そういえば聖なる兄の僧房へお邪魔して、部屋の片隅で寝泊まりさせてもらったことがある。なにせ病床に伏したというのに近くに知り合いが他にいなかったので、神の名に免じて兄に看病してもらったのである。

兄はいつも夜になると定刻よりも早く起き、他の修道士たちよりも先に祈祷規程を行なっていた。ずいぶん長く聖詠を唱えていたかと思いきや、ふいに口をつぐんで突っ伏して百回かそれ以上、心が恩寵に燃やされるまま熱心に頭を地に打ちつけていた。しばらくすると起き上がって主宰の十字架に接吻し、ふたたび伏拝し、また立ち上がって十字架に接吻しては伏拝していた。このような習慣をずっと守ってきたというのだから、いったい一生の間にどれほど伏拝してきたのだろう。そもそも毎晩どれくらい伏拝していたかも数えようがないのだ。敬虔な愛と畏れをもって熱心に二十回ほど十字架に接吻しては、ふたたび聖詠を唱えていることもあったし、ときには全身を貫く熱い想いから、あまりに熱い炎に耐えきれず喜びに負けて(というのも喜びに堪えきれなかったため)賛嘆の声をあげていることもあった。だから私は、これほどにも神に向かって目覚めて修行できるものなのかと、その恩寵のすごさに驚いたのである。

さらに毎朝、一時課を終えるなり腰を掛けて読書していた。すぐにのめり込んで章をひとつ読み上げるまでに一度ならず首を垂れ、ときどき読んだ一文を噛みしめては両手を天に上げて神を讃美していた。年は四十歳くらいであった。食事はパサパサに乾いたものを少しだけ。そういう力量を超えた苦行のせいで全身が影のように痩せこけていた。こちらとしても、疲れきって指二本もないほど痩せこけた顔を見ていて可哀想になり、一度ならず次のように言って聞かせたのである。「兄よ、そのすばらしい習慣を続けるためにも、どうか修行しつつお体も労わってあげてください。せっかくこれまで属神的に生きつづけてきた日々が、暗礁に乗り上げて途切れてしまいませんように。つまり、もっと苦行を積もうとするあまりつんのめって、倒れてしまうことがありませんように。どうか何ひとつ喉に通らなくなる前に、適度にお召し上がりください。どうか疲れ切って身動きひとつできなくなる前に、努力しすぎることのないようお気をつけください」と。

憐み深い人だった。とても控えめな方で、喜んで憐みを施していた。生まれつき清い心の持ち主で、他人に優しく神において賢かった。清くて柔和なので誰からも慕われていた。兄弟に人手を求められたら共に3~4日働くことも稀ではなかったが、夕方には必ず僧房に帰っていた。いかなる奉仕にも長けていたからである。目上か目下かを問わず人々を深く敬っていたので、たとい入手した物が自分に必要な物であっても、それを求められたら「持っていません」とは言えなかった。そのうえ兄弟と働くときにも、ほとんど敬意から自らを強いているようであり、できれば僧房に留まっていたい様子だった。じつに驚くべき兄の生活と人々への接し方は以上のとおりである。光栄はわれらの神に世々に帰す、アミン。

 

第11訓話 年老いた長老について

また、立派に高徳を積んだ長老のもとへ出向いたこともある。私のことをこよなく愛してくださる長老で、口下手でも知恵と心が深く、恩寵に導かれるままに語られる方だった。つねに自己省察して黙修していらしたので、聖奉事に赴くとき以外は僧房から出られることは滅多になかった。

あるとき長老にこう話してみた。「父よ、こんな想念が湧くのです。『主日になったら教会へ行って門の前に座れ。そこで朝早くから食らってみせ、出入りする人々にけなされるがよい』と」。長老はこれに対して次のように答えてくれた。

「しかし世俗人をつまずかせる者は光を見ない、と書いてある。それに、この辺りで君のことを知っている人はいない。君がどんな生活をしているか知っている人はいないから、『修道士が朝から食べているぞ』と噂になるだろう。しかもここにいる兄弟たちは、初心者なので想念が弱い。君を信じて教訓を得ている兄弟も多いというのに、そんなことをした姿を目にしたらつまずいてしまうだろう。古代の師父があえてそのような行為をしたのは、次々と奇跡の業をなして有名になってしまったからだ。だからそうやって自分自身を貶めることで誉れ高き生活を隠し、思い上がる原因を取り除こうとしたわけだ。だからといって、君が同じことをしなければならない謂われなどあるまい。まさか『時期にかなった生活形態』があるということを知らないのか。さしてすごい生活をしているわけでもなければ有名でもない、たかが他の兄弟と同じように暮らしている分際ではないか。だからそんなことをしでかしたら自分のためにならないばかりか、他人にもよくないであろう。ひとえに偉大な完徳者のみが、そのような行為をしてもためになるのだ。なにせ徳行で鍛え上げて思うように意識を操れるようになったからである。でも中級者や初級者がそんなことをしたら百害あって一利なし、まだ大いに気をつけて意識を手なづけてゆく必要があるからだ。たしかに長老らは警戒期を生き抜いたため、どんなことでも好きなように役立てることができるだろう。だが未熟な商人(初心者)の場合、まわりの状況が激変すると大損失を蒙ってしまうものだが、小さな変化であればうまく乗って前進できるのだ。そして先ほども述べたが、物事にはふさわしい順序というものがあり、時期にかなった生き方というものがある。だから時期尚早に力の及ばないことまで手掛けたりしたら、何も得られないばかりか傷口を広げてしまう。もしけなされたいと思うのなら、自分からそう仕向けるのではなく、神の摂理によって顔に泥を塗られたときに喜んで耐えることだ。そして名誉を傷つけられようともうろたえず、けなしてくる相手を憎まないことだ」と。

この長老は青年期から晩年まで汗を流して、生命の木の実を味わった有能な方だった。この長老と、もう一度話す機会があった。そう、徳に関していろいろなことを教えてくださった後にこうおっしゃっていた。「そもそも汗もかかず心痛も伴わない祈りなど、流産した胎児と何ら変わらない。そういう祈りはたましいを伴っていないからだ」と。さらに「自分の意見を押し通そうとする論争好きは、ずる賢いうえに強引だ。そういう人には何も言ってはならないし、何も聴き入れてはならない。でないと苦労して得られた清さを失って、ただ心が悶々として訳がわからなくなる」と。

 

第12訓話 他の長老について

さらに、別の師父の僧房も訪ねたことがある。この聖人は来訪者に対してあまり門を開くことがなかった。しかし窓越しに私が近づいてくるのを見るなり「入りたいか」と聞いてくださったので、「はい、尊貴なる父よ」とお答えした。そして僧房内へお邪魔させていただいて、祈りの句を唱えてから座らせてもらった。色々と話をした後でこう聞いてみた。「ひとつ質問があるのですが……。じつは無駄話をしに来る人たちがいるのです。でも何も得られませんし何のためにもなりません。かといって『来ないでください』とも言うのも憚れます。しかも何とか定刻どおりに祈りたいと思っているのに、しょっちゅう邪魔されてしまうので悲しくなるのです」と。福なる長老は次のように答えてくださった。

「そういう暇人がやってきたら、少しばかり一緒に座って、その後で祈りたいという素振りをみせて叩拝してこう言いなさい。『さあ、もう定刻になりましたので共に祈りましょう。この祈りは後でしようと思ってもなかなかできない規程ですので、破るわけにもいきません。破ると後で困ることになるので、よほどのことでもない限り破ってしまうわけにはいかないのです。さて、今はどうでしょう。これといって祈りを後回しする必要はなさそうですよね』と。そして共に祈ってくれるまで、その人を去らしてはならない。もし『それならば一人で祈ったらいい、私はもうお暇する』と言われたら、伏拝して乞いなさい。『愛ゆえに、せめてこの祈りだけでも共に祈っていただけませんか。あなたの祈りから益を得たいのです』と。そして祈り始めたら、ふだん以上に長く祈るがよい。そのように振る舞っていれば、ああこの人は無駄なことが嫌いなので甘やかしてもらえないと分かり、君がいると言われる場所には寄りつかなくなるだろう。要するに、人の顔色をうかがって神の奉事を疎かにしないよう気をつけることだ。もし師父や疲れた旅人がやってきたら、そういう人たちと共に時を過ごすことは最も長い祈りの代わりになる。しかし、その旅人が無駄話を好む人だった場合には、できる限りもてなした上で、平安を祈って送り出しなさい」と。

ある長老はこう言っていた。「いやはや僧房で手仕事もして祈祷規程も完璧にこなせて、そのうえ困惑せずにいられる人がいるとは何ということか」と。そして驚嘆に値する言葉を放った。「私などは、現にちょっとばかり水を汲みに僧房から離れただけでも、いつもの習慣が乱されたような気がするものだ。その習慣をいくら立て直そうとしてみても、なかなか想念の良し悪しを分別できるようにならない」と。

 

第13訓話 ある兄弟の質問について

右の長老は、あるとき兄弟からこんな質問を受けていた。「よく何らかの物が、弱さゆえに必要になったり、任務上必要になったり、他の理由で必要になったりします。だからそれがないと黙修できないにもかかわらず、つい必要としている人を見ると可哀想になってそれを渡してしまうのです。しかも求められて差し出すことも少なくありません。いくら必要な物でも愛と戒めゆえに譲らずにはいられないのです。しかし後々、その物を失ったことで不安を覚えて想念が乱れてきます。すると、もはや黙修に没頭しているどころではなくなり、ときには黙修を諦めて同じ物を探すために出かけなければなりません。かりに黙修にこもったまま頑張れたとしても、しんどくて頭が混乱してきます。だから、どうしたらよいのか分からないのです。つまり黙修を止めてまでも兄弟のためになることであるならば実行すべきなのか、それとも依頼を無視して黙修に留まるべきなのか、どちらを選ぶべきなのでしょう」と。

長老は次のように答えていた。「たしかに喜捨とか愛とか慈悲とか、神の前で正しいとされる行為というものがある。しかしだ、よく聴きなさい。黙修者がそのような行為によって、もしも黙修できなくなって世間に気が向き、不安になって神への思いが陰るのであれば、もしも祈れなくなって思いが乱れ、聖書つまり思考を集中させる武器を捨てて警戒心が緩むのであれば、もしも今まで自粛していたのにふいに歩き出し、僧房に帰るなり俗世間を思い出すのであれば、もしも埋もれていた慾がうごめき、抑えていた感覚が解き放たれるのであれば、もしも一度死んだはずの世がまたもや復活し、唯一考えるべき天使の行いからずり落ちて俗世間に埋没するのであれば……、そんな正義とやらは滅びてしまえ。というのも、衣食住のために愛の責務を果たすことは世俗人の仕事であり、かりに修道士の仕事でもあるとしたら、それは中途半端な修道士や黙修できない修道士の仕事であるか、あるいはよく共住修道院に出入りして支え合って黙修している修道士の仕事だからだ。そういう者たちにとっては、人に喜捨とか愛や慈悲を施すことは素晴らしい行為であり、驚嘆に値する行為である。しかし、真に心身ともに世から離れて独居することを選んだ者には別の道がある。そういう者は孤独の中で祈りながら考え方を改め、およそ過ぎゆくものに対して死ぬ。そしてこの世のものを見ようとせず、この世のものに対する記憶からも遠ざかろうとする。ゆえに目に見える正義や身体的奉仕をしてハリストスの前で申し開きをする必要がない。むしろ使徒の言うとおり、おのれの「地にある」コロサイ 3 : 5肢体を殺すことでハリストスに仕えるべきなのだ。つまり成長できた最初のしるしとして汚れなき清い想念をハリストスに捧げ、身体的困窮や危険に耐えながら天国を待ち望むべきなのだ。とにかく修道士の生活というのは天使に等しい生活である。だから、天の務めを止めて世俗の務めに向かってはならないのである」と。

光栄はわれらの神に帰す、アミン。

 

第14訓話 咎められた兄弟について

あるとき、喜捨をしなかったことを咎められた修道士がいた。しかも、咎めてきた人に対して厚かましくも「修道士は喜捨をする必要がない」と言い返した。しかし、咎めた方はこう反論した。「喜捨をしなくてよい修道士は見るからに分かる。たしかにハリストスに面と向かって『見よ、われら一切を捨ててなんじに従えり』マトフェイ 19 : 27と言えるような人に、喜捨する義務はないからだ。つまり地上で何も持たず、身体的なことを行わず、目に見えることを何も考えず、何か持とうとすら慮らない者、また、人から何か貰っても必要最小限しか取らず、余った分には見向きもしないでまさに鳥のように生きる者は喜捨すべきではない。なにせ自分自身が必要としていないものを、どうやって他人にあげることなどできようか。しかし生活の煩いに奔走し、自分の手で働いて他人から手に入れている者ならば喜捨すべきことは言うまでもない。そしてもしそういう人が喜捨しようとしないなら、そんな無慈悲は神の戒めに背くことになる。というのも、しょせん内なる祈りで神に近づくこともできず、神゜で神に奉仕することもできない者が、明らかにできる務めすら疎かにするとしたら、救われる望みはどこにある。どう見ても無理な話ではないか」と。

いっぽう別の長老は「黙修しながら他人の生活まで気にかける者には驚かざるをえない」と言っていた。そしてこう言葉をつないでいた。「黙修するならば、黙修以外のことを思い悩んではならない。黙修にまで世俗の心労を混ぜることにならないよう、万事はそれぞれの場で尊まれるべきだ。というのも、多くのことに気を回す者は、多くの奴隷だからである。何もかも捨ててたましいの良き状態を気にする者は、神の友である。考えてみれば、世の中には衣食住に困っている隣人に施して愛を全うする者は多い。しかし、みごとに黙修しきって神への思いに没頭できる者は滅多にいない。ためしに施しをしたり、体にまつわる正義を行なったりする世俗人の中で、黙修者が神から授かった賜を一つでも得た者がいようか」と。そしてさらに言った。「あなたがもし世俗人ならば、ふつうに良い仕事をして過ごしなさい。もし修道士ならば、修道士ならではの仕事をして身を飾りなさい。もし両方の仕事を掛け持ちしようとしたら、両方ともうまくいかないだろう。修道士の仕事というのは衣食にまつわる心労から自由になり、祈りを献じつつ肉体を駆使して働き、絶えず心で神を覚えていることだ。こういう仕事を放ったらかして、世俗的な徳を行なって満足できるものかどうか自分の頭で考えよ」と。

質問  修道士が黙修という苦行を積んでいるとき、二つの業を同時に行うことはできるでしょうか。つまり神のことを思いめぐらしながら、同時に心の中で他のことを慮るということです。

回答  たとい黙修すべく何もかも捨ててたましいのことだけを慮っていたとしても、とうてい落ち度なく黙修しきれるものではない。もし世のことを思わずにいても黙修しきれるものではないのであれば、なおのこと他の事柄まで慮っていたら黙修などできるわけがなかろう。主は、人々の世話をして主に仕える者たちを世に残された。そして、ただ主の前で仕えられそうな者たちを召し出された。というのは、地上の王国のみに臣民の階級の違いがあるわけではないからである。たとえば地上の王国の場合、いつも王の傍に立って王の機密に参加している者の方が、外面的な業務に携わっている者よりも誉れ高い。これと同じことが、天の王への務めにおいても言えるのだ。つまり、いつも祈りながら神の対話者かつ側近となった者は、いかに世俗人が富や善行で神に仕えていようとも(もちろんこういう務めも大変重要ですばらしいものだが)、それとは比肩できない大胆さを身につけるのである。そうして天上と地上の恵みを得、万物に対して大いに力を発揮するのである。したがって、われわれは神に仕えきっているとはいえない世俗人を見本とするのではなく、歴代の修行者や聖なる闘士をこそ見本とすべきなのだ。それこそ美しく人生を送り、この世のものを何もかも捨てて地上にて天国を耕した方たちである。ひとたび決めたが最後、きっぱりと地上的なものに背を向けて、その両手を天の門に伸ばし続けた方たちなのである。

古代の聖人はこのような生き方をわれわれに残してくれたわけだが、それで一体どうやって神に奉仕していたといえるのだろうか。たとえばフィヴェイの聖イオアンといえば、「徳の宝」とか「預言の源」と称されるほどの聖人だが、はたして隠居しながら兄弟の衣食住を満たすことで神に仕えていたのだろうか。それとも、むしろ祈りや黙修によって仕えていたのだろうか。

もちろん、兄弟を助けることで神に奉仕していた聖人も大勢いることは確かだ。しかしそういう奉仕は、何もかも捨てて祈りに徹した者がなしとげた奉仕には敵わない。なぜなら黙修に成功した者は、ある意味それ自体で兄弟にあからさまな助力をもたらしているからである。つまり、いざという時に、われわれはかれらの言葉や文章に助けられ、祈ってもらって支えられているのである。そして、かれらにしてみれば、そうする以外の助け方は(いかに心の奥で人々の暮らしを慮っていたとしても)属神的には賢い助け方とはいえない。なにせ主は黙修者に向かってではなく、黙修せずに暮らしている人々に向かって「ケサリの物をケサリに納め、神の物を神に納めよ」マトフェイ 22 : 21と告げられたのだ。つまり「相手に属するものを与えよ」と言われたわけで、「隣人に属するものは隣人に、神に属するものは神に与えよ」とおっしゃったのである。ゆえに天使階級にて暮らす者には、すなわちたましいのことを慮っている者には、「世に属するもので神に仕えよ」という戒めは存在しない。つまり手仕事をせよとか、もらった物を人に与えよという戒めはないわけだ。だからこそ修道士たるもの、神から目がそれてしまう事柄について一切慮ってはならないのである。

もしだれかがこれに反論し、使徒パウェルを引き合いに出して「パウェルは汗水たらして働いた上に喜捨もしたはずだ」とでも言おうものならこう答えよう。パウェルは一人で何もかもできたのだ、と。しかし、パウェルと同じくらい何でもできてしまう「もう一人のパウェル」がいるとは耳にしたこともない。なにせそういうもう一人のパウェルがいるのなら、ぜひともそのお方を見せてくれ。見せてくれたらあなたの言いたいことも信じよう。それに神の摂理で起こったような奇蹟は、普遍的な務めの見本にしてはならないはずだ。しかも福音宣教をするとなれば、黙修とは逆の働き方をしなければならないではないか。もしあなたが黙修に励もうと思うのなら、一切合切生活のことを慮らないヘルヴィムのような者となれ。そして先代の師父が教えてくれたように、この地上には自分と神以外に慮るべき存在はないと思うことだ。だいたい心を鬼にして一定期間ただ祈りのみに専念しなければ、つまり神への善行であろうと生活のための善行であろうと、世を心配したくなる慈悲心を無理やり押し殺さなければ、心がぐらついて不安を覚えて黙修になど留まっていられたものではない。

ゆえに、美徳の言い訳のように見せかけて「もっと〇〇ことについて気にかけるべきではないか」という考えが心の静寂をかき乱してきたときには、ぜひこう言ってやるがよい。「愛の道はすばらしい。神のために行う慈善も立派だ。しかし私は神のためにこそ、そういう慈善をする気はない」と。ある師父は、修道士に「父よ、どうか立ち止まってください。神のためにあなたを追いかけているのです」と呼び止められたとき、「こっちだって神のためにあなたから逃げているのだ」と答えたという。そう、かの師父アルセニイは、神のために人を避け、たましいのためになることもそれ以外のことも一切話そうとしなかった。周囲を見渡せば神のために朝から晩まで口を開き、どんな訪問者でも受け入れている師父が身近にいたにもかかわらず、ひたすら沈黙して黙修するほうを選んだのである。そして、今生の海の波間にあって聖神と語らい、黙修の舟に乗って大いなる静けさのうちにこの海を渡り終えた。これは師父アルセニイのことを神に問うてやまなかった修行者らが、明らかに目にしたことである。かくして、「すべてに対して黙れ」という黙修の鉄則が生まれたのだ。かくなる鉄則があるにもかかわらず、もしも黙修中にひどく心がぐらつき、手仕事をして体をこき使い、だれかのことを気にかけてたましいを乱すのなら、なんたる黙修をしているのか自ら判断せよ。あれもこれも気にしながら神に仕えているつもりなのか、と。というのも、捨て切れない何かを持ったまま、つまり頭から離れない慮りを抱いたまま、黙修生活で成功しようなどとは口にするのも恥ずかしいことだからだ。光栄はわれらの神にこそ帰すべし。

 

第15訓話 黙修の長点について。知性の支配力と、いかに知性が様々な祈りの中でも考えうるかについて。祈りには、もともとどのような限界があるのか。人はいかなる限界まで祈りによって祈れるのか。たとえ「祈り」と呼ばれていても、どの限界を超えるとすでに祈りではなくなるのか

光栄は、人々に豊かに賜をくださる主に帰すべし。主は、肉体をまとう者(人間)が天使階級で仕えることを良しとされ、土くれにすぎない人間に奥義を語らう口を与えてくださった。しかもわれわれのように奥義を聴くに値しない罪人の心の盲まで解かれ、聖書や偉大な師父の教えを理解できるようにしてくださった。というのも、私自身も修行してきたとはいえ、こうして書いてきたことの千分の一でさえ体験的には知らないのである。とくにこの書物はあなた方のたましいを呼び覚まして照らすため、またあらゆる読者のために書いているのだが、もしや立ち上がってこうなりたいと思い、行動に移してくれる人が出てこないかと望んでいるだけである。

祈りによって得られる甘美というものは、祈りによって得られる観照とは別物である。観照は甘美に対して、成人が少年と異なるくらい高度なものである。ときに唱えている祈祷句が甘く感じ、同じ句を数えきれないくらい祈っていても次の句へ移れないことがある。しかもそれでも満足しきれない。また、ときに祈りから観照が生じ、その観照によって口で祈りを唱えられなくなり、驚嘆して体が釘付けになることがある。この状態を、祈りによる観照と呼ぶ。この状態は、いわゆる異象だとか象徴だとか、もしくは浅はかな者が言うように夢想だとかいうものではない。それにこの観照は賜の桁が違ったりいろいろな種類があったりするが、やはりまだ祈りの範疇に留まるものである。なぜなら知性がまだ祈りのやむ領域までは踏み込んでおらず、祈りよりも高度な状態には達していないからである。なにせ祈るときの舌や心の動きというのは、ほんの鍵のようなものにすぎない。祈祷者はその鍵で開いた後に、秘められた宝庫へ入っていくことになる。この宝庫へ入ったとき、どの口も舌も黙するしかない。そこでは、心という想念の弁護人も黙し、知性という意識の首謀者も黙し、思考という速くて恥知らずな鳥も黙し、それらの策略が押しなべて黙すことになる。そう、探し求めてきた者はここで立ち止まるのだ。なぜならば、家の主人(神)が訪れたからである。

 

第16訓話 清らかな祈りについて

師父によると、律法や戒めというものは、人がそれらによって「心の清さ」に至ったときに効力を失うという。祈りもそれと同じだ。どんな祈り方であろうと「清い祈り」に至ったときに力を持たなくなる。というのは、嘆いたり伏拝したり熱く願ったり甘く泣いたりといった祈り方はすべて、いま言ったように清い祈りを極限とし、人は祈りによってそこまでしかたどり着けないからである。そして清い祈りという極限を超えて以降、内面の清さに至るまでの間は、もはや祈ることも泣くこともなくなり、自由に考えることも願うことも求めることも、わくわくしながら現世や来世に対して何かを期待することもなくなる。だから、清い祈りの後にはもはや他の祈りはない、と言ったのだ。知性はこの限界点までしか、祈りの自由な動きによってたどり着くことができない。だからこそ、われわれは祈りの次元で修行しているわけだ。ただしこの限界点を超えた後には、すでに驚嘆こそあれども祈りはない。なぜなら、およそ祈りらしきものは止み、すでに何らかの観照が訪れるからである。そのとき、知性は祈りによって祈っているわけではない。

祈りというものは、どのような形で祈っていようともつねに動きのなかで息づいている。しかし知性が属神的動きに入るなり、すでに「祈る」ということはしない。たしかに「祈り」と「観照」は互いに生み出し合うものではあるとはいえ、それでも両者はやはり異なる行為である。ちょうど「祈り」が種まきのようなものであるのに対し、「観照」は刈り取った穂を束ねて積み上げるようなものだ。そのとき収穫者は、かつて自分の手で地面に蒔き散らしたわずかな種が、突如これほど見事な穀物の山になったのを目のあたりにして、その言いようのない直観に目をみはる。そして、あらゆる動きを失くしてたたずむのだ。なにせ祈りとは、そもそも願いや感謝や讃美を神にささげる動的行為を意味するからである。はたして知性が極限を超えてかの領域に入ってゆくとき、これらの祈願がどれか一つでも生じうるかどうか、より抜かりなく分析してみよ。これは真実を知っている人に問い質している。だが皆がこの点を見極めているわけではない。ただ祈りを観察しながら祈りに仕えた者、あるいはそうした師父に習った者、または師父から教わって真実を知っていて、師父の言葉に基づいて人生を送った者のみが見極めていることだからである。

ほぼ抜かりなく戒めと律法を守ってたましいの清さに達した者など、幾万人に一人いるかいないかであろう。同じく、ものすごく気をつけて清い祈りに達してこの極限を突破し、かの機密にあずかった者も幾万人に一人いるかいないかだ。なぜなら、どうあがいても清い祈りにあずかれなかった者の方が圧倒的に多いからである。清い祈りにあずかれた者などごく少数のみ。さらにこの清い祈りの向こう側にある機密にまで達した者など、神の恩寵によって幾世代に一人いたかどうかという数に違いない。

祈るということは、つまり何かを願ったり心配したりこいねがったりすることである。たとえば「現世の誘惑から救い出し、来世での試練からもお救いください」とか「師父の知恵を継がせてください」と求めることである。つまりそうやって祈願することで神の助力を得ているわけだ。祈りは、このような領域を超えない中で動いており、その清さや汚れは次の点によって決まる。もし願いなり感謝なり讃美なりを献げようとしたその時に、何かしら脳裏に余計な考えや心配事が思い浮かぶならば、その祈りは清い祈りでない。なぜなら知性は主の奉献台(つまり心、この属神的な神の奉献台)に汚れた生贄を持ってきたからである。ところが師父の至言をろくに解せないまま、師父のいう属神的祈りとやらを引き合いに出して「いや、心配事を抱えた祈りだって、属神的祈りの範疇だろう」と主張する人がいたとしよう。もし厳密に「属神的」という概念を突き止めるならば、しょせん受造物にすぎない分際が、いうなれば「属神的祈りでさえ、逸れてしまうことはあるさ」などと言いのけるのは冒涜というものだ。というのは、逸れてしまうような祈りは「属神的祈り」よりも次元が低いからである。およそ属神的祈りと言われている祈りは、あらゆる動きを超越した祈りなのだ。しかも辛うじて清く祈れる人がいるかいないかというときに、そのもっと上にある属神的祈りを持ち出すなど笑止千万ではないか。

聖師父は代々、およそ善き動きや属神的な営みをすべてひっくるめて「祈り」と名づける習わしがあった。そして師父だけではなく知恵に照らされた人々もみな、あらゆる優れた営みをほぼ祈りと同じものとして捉える向きがあった。そもそも「祈り」と「営み」といえば、両者が異なる行為であることくらいは自明の理ではないか。にもかかわらず師父たちは、属神的祈りのことを文脈にあわせて「道」と呼んでみたり「知恵」と呼んでみたり「知性の直観」と呼んでみたりしている。こうして師父たちが属神的対象について呼び分けている点に注意してほしい。というのは、名称が帯びる正確な意味というのは、この世の事物に裏付けられて確立するものであるが、来世の対象には真に正確な呼び名というものが存在しないからである。そこにはただ純粋な知恵があるのみで、この来世に関わる知恵はあらゆる名称よりも高みにあり、それは構成要素・像・色・輪郭など、およそ言葉で紡げる綾を超越したところに存在する。だから師父が物質界を超えた霊的知恵に至ったとき、そこで見たものを意味して気に入った名称を用いるのも、だれ一人として正確な名称を知らないからである。しかしながら、かの聖ディオニシイが「よく聴き手に分かりやすい比喩や文体を用いたり、ピタっとくる名称や慣用表現を用いたりすることがある」と述べたように、師父としても知恵を得たときには、その霊的思索を論証しようとして名称や比喩を用いるのである。とはいえ、われわれのたましいが聖神によって神聖な領域まで昇りきったときには、そういう分かりやすい論証も不要となる。それはちょうど属神的なたましいが、悟りがたく神に結ばれて神に似た者となって天の光を浴びて輝いているその時に、もはや修行するまでもないのと同じである。

というわけで兄弟よ。知性というものは、しょせん清い祈りという限界点までしか自分自身の動きを見分けられないのだ。この限界点へ達したが最後、もといたところへ戻るか、あるいはさらに突き進んで祈りを放棄するかしなければ、その祈りは「霊的祈り」とも「属神的祈り」ともつかない祈りのごとくなるだろう。まだ知性が動いているうちは霊的領域に留まることになる。しかし知性が属神的領域へ入るなり祈りも途切れることになる。なにせ聖人は、来世に踏みこんで知性が聖神に呑まれてゆくとき、祈りで祈るのではなく、すばらしいと讃えて光栄のうちに住みついて楽しませてもらっているからである。これと同じことが、われわれにも起こる。知性は来世の福を感じるや否や、自分自身とこの世のすべてを忘れ、もはや何かに向かおうする動きを失うのだ。だから次のように確信を持って言いきる人がいる。「人は、そもそも自由意志を働かせて徳をなしたり祈ったりする。まずは自由意志でこうせよと意識に働きかけたからこそ、体をつかって徳をなしたり祈ったり、思いのうちに徳をなしたり祈ったりすることができるわけだ。しかも「知性」という、この慾を支配する王ですらも、日頃から自由意志で操っている。ところがだ。こうして日頃われわれの意識や想念を作りだしている知性が、かの統治者たる聖神に掌握されたときには、われわれの本性から自由も奪われることとなる。そのとき、自由意志は聖神に誘導されこそはすれ、もはや自ら誘導することなどできなくなるのである」と。

このとき、つまり本性が自己統御力を失い、他力に誘導されてどこに向かっているのかも分からないとき、いったいどこに祈りがあるというのか。まさに、考えたいようにも考えられず、すっかり虜にされてどこで誘導されているのかも感じられないというその時に、いったいどんな祈りがあるのか。そのとき人は欲求を持たず、しかも聖書が証しているように体の中にいるのか外にいるのかも分からないというコリンフ後 12 : 2。それに、それほど強く捕らわれて自分自身すらも認識できないような人間が、もはや祈ろうとすることすらできようか。だからこそ言っておく。属神的祈りで祈れるなどと大言壮語して、冒涜してはならない。まさに鼻高々と祈る者や無教養な者、また祈ろうと思えば属神的祈りで祈れるなどとうそぶく者が、そういう暴言を吐く。しかし謙遜に事を弁えている者ならば、師父のもとで本性の限界を学ぼうとするので、そんな不遜な考えに走ることはない。

質問  もしそのような言いがたい恩寵を受けた状態が「祈り」ではないならば、なぜ祈りという名で呼ばれているのでしょうか。

回答  なぜかと言うと、この恩寵は、たしかに人がふさわしく祈っているときに降ってくるし、ちょうど祈りに応えるようにして与えられるものだからだ。師父たちも、この誉れ高い恩寵は祈祷中以外には宿りようがないと言いきっている。でもなぜ「祈り」と呼ばれているのかと言えば、まさに祈ればこそ、知性がかの至福へ導かれるからであり、しばしば祈りながらその至福へ至るからである。師父たちも、祈祷中を除いてこの至福を受けられるような状態はない、と書いている。そう、あなたも聖人伝を読んで知っているだろう。よく聖人は祈りの最中に知性もろとも昇華したことを――。

しかしどうしてこの大いなる賜は祈祷中にしか与えられないのだろうか、と問うかもしれない。その理由は、人は祈っている時こそ他のどんなときよりも自己に集中しているからである。まさに神の声を聴こうとし、神の憐みを乞うて待ち望んでいるからである。端的にいうと、それは王門の前に立って王に乞い願っている瞬間なのだ。ゆえにそのような時に、乞願して呼び掛ける者の願いが叶うのは理に適っていると言えるだろう。なにせ祈りに向かっている時以外に、人が祈祷時と同じくらいの心構えで自己注視している時間帯などあろうか。はたして何かそういう賜を受けるに際しては、よほど睡眠中や労働中や怒気を帯びている時のほうが相応しいとでも言うのか。いかにも聖人を見よ。いつも属神的なことに励んで無為に時間を過ごさなかったとはいえ、そんな彼らでさえ祈りに向かえない時がないわけではなかった。身近に起きた出来事を考えたり、受造物を観察したり、そのほか実際にためになることを学んだりして過ごすことも少なからずあったわけだ。しかし祈りに立つなり心眼による観照をただ神へ向かわせ、おのが動きをすべて神へ向け、真心からひたすら熱心に神に祈願を献げていた。そしてそれゆえに、たましいがただ一つのことを慮っていたがゆえに、神の恩寵が降り注ぐのに最適な状態だったのである。

現にわれわれも日頃、司祭が心して神の憐みを祈りながら知性を一か所に集中させているとき、奉献台に供えたパンとぶどう酒に聖神が降ってくるのを見ているではないか。かのザハリヤも祈祷中に、天使がやって来て前駆イオアンが誕生するという予言を耳にした。また使徒ペトルも第六時に部屋で祈っていた際に、天から動物を乗せた布が降ってくるという異象を見て異邦人へ布教し始めた。さらに、コルニリイも祈祷中に、天使が現れて自分自身について書かれたことを耳にした。同じようにナヴィンの息子イイススも頭を垂れて祈っていた時、神のお告げを受けたのである。ちなみに古代の祭司のことも思い出しておこう。かれらは聖像箱の上に置いたたらいを見て知るべきことを知りえていたのだが、まさにどういう時にたらいをとおして神の異象を目にしていたのであったか。まさに年に一度のみ、イズライリ全部族の末裔がこぞって幕屋の外で祈りを献じている中、大祭司だけが至聖所へ入って突っ伏して祈りを唱えるという、慄きの瞬間ではなかったか。大祭司は、この慄くべき言いがたい異象の中で、神の声を耳にしたのである。おお、大祭司が仕えていたこの機密というのは、なんと恐ろしい機密であったことか。このように、聖人が目にした異象というのは、すべて祈祷中に起きた出来事なのである。

そもそもこれほど聖なる賜を受けるにあたり、神と語らうことになる祈祷時よりも聖なる時間が他にあろうか。人は祈りを唱えて神と語らうとき、ありとあらゆる思いを一点に集中させてただ神のことだけを思い、心も神によって満たされる。だからこそ、悟りがたいことを理解するのだ。なにせ聖神は個々人の力量に応じて働くものなので、まさに人が祈っていることの中から動因を借りて働くためである。ゆえに集中すればするほど祈りの動きは止み、知性は驚嘆の渦に呑まれて何を願い求めていたかも忘れ、知的な動きがどんどん深く陶酔していってこの世に存在しなくなる。そのとき、たましいと体の違いはなくなり、いかなる記憶もなくなる。まさに福なる聖大グリゴリイが「祈れているとき、それは知性が清いという証拠である。知性が清いだけで、驚くべきことに聖三者の光の分け前に与るのだ」と言ったとおりである。

さあ、人が祈って見晴らしが良くなったとき、いかなる分け前に与っているか分かっただろうか。この訓話の冒頭や他の箇所に書いてあることを読んで、それを確認できただろうか。聖大グリゴリイは、「知性は余計なことを考えなくなったときに清まる。それは天に咲く花のようなもので、祈祷中に聖三者の光を受けて輝く」とも言っている。

質問  いったいどんな時に、そのような恩寵に与ることができるのでしょうか。

回答  祈祷中だと言われている。知性が「古き人」を脱ぎ捨てて、恩寵に満ちた「新しい人」を着たとき、天の花に似た清らかさを自らのうちに見る。まさに、かのイズライリの族長が山上で神を見た折に「神の場所」出エギペト 24 : 10と呼ぶことになった、あの清らかさである。したがって、すでに述べたとおり、かくなる恩寵や賜のことを(まるで自力の及ぶ範囲にあるかのように)「属神的祈り」などと呼ぶべきではないのだ。むしろ聖神から送られてくる「清い祈りの産物」とでも呼んでおくべきものなのである。そのとき、知性は祈りよりも清いところにあり、より良きものを得たために祈りを止める。もはや祈りでもって祈るわけではなく、むしろ朽ちる世の限界を超えた理解しがたいことを観て感嘆し、およそ現世にあるものに対して無知となって黙りこむのだ。この無知こそ、最高の知と呼ばれている知である。まさに「祈りと一体となった無知に達した者は幸いである」と言われているところの「無知」である。われわれも神の独り子の恩寵によって、この無知に与ることができますように。あらゆる光栄と尊貴と伏拝は神子に帰す、今もいつも世々に、アミン。

 

第17訓話 霊的に深く観照したいとき、どうすれば事物を思いめぐらす肉的な想念を離れて観照へ沈むことができるかについて

より上にあるものは、より下にあるものには秘められている。そしてこれは、なにも上にあるものが幕のような何かに覆われていて、その幕さえ開けば秘められたものが見えてくるとかいう話ではない。およそ知能体(知能ある生命体。つまり天使やたましいや悪鬼)というものは、その特性を外から入手するのではなく、逆に自己内でどう動いているかによってその特性を決めている。つまり自己内の動きでもって、じかに原初の光に近づいていくこともできれば、いっそ他の階級の知能体のようになることもできるのだ。ここでいう「他の階級」とは、当然地位の違いからくる階級ではなく、むしろどれだけ清く受けとめて清い身であれるか、どれほど天上の暗示や力を理解できるかという能力の差異による階級という意味である。いずれの知能体も、おのれより下の知能体からは見えない。それも生まれつきではなく、徳の動きが違うから見えない。

何を言おうとしているのかというと、聖天使やたましいや悪鬼のことだ。天使はたましいからは見えないし、たましいは悪鬼からは見えない。単に生まれつき見えないだけでなく、居場所も違うし動きも違うので見えない。いかなる知能体も(肉眼で見える知能体かどうかを問わず)、知恵をつけなければ自分自身も見えないだけでなく、同じ階級にいる知能体同士も互いに見えない。だが、より下位の階級にいる知能体からは、その見えない。なぜならば、霊的実体というものは身体的実体とは異なり、おのれの外にあるものを見ているわけではないからだ。むしろ霊的実体が互いを「見る」ということは、つまり自分が見ている実体の動きの内に、徳と動きでもって「いる」ということなのだ。したがって、同じ宿命を負う身として敬うべき知能体同士ならば、たとい互いに離れていたとしても、たしかに幻としてではなく真に本性のままの相手を見る。唯一、見ることができない対象は、全受造物の原因たる神だけである。神は唯一伏拝されるべき方として、かくなる差異を超越されたお方だからである。

悪鬼はひどく汚れているが、悪鬼階級の中では互いに見えないというわけではない。だが、おのれよりも上位にある二つの階級を見ることはできない。なぜなら、属神的直観というのは動きによる光であり、この光こそ見ようとする者の鏡となり目となるものだからである。だから動きが曇ったが最後、その知能体はより上位にある階級が見えなくなる。悪鬼同士が互いに見えるのは、属神的階級(天使やたましいよりも肥っているからだ。

人のたましいの場合、汚れていて暗いうちは互いのことも見えなければ自分自身のことも見えない。だが、清めて古来の受造時の状態に帰れば、これら三つの階級をはっきり見るようになる。つまり下位階級と上位階級と、自分自身の階級にいる者同士が見えるようになる。しかも、天使や悪鬼やたましいが体をまとってくれたから見えるようになったのではなく、むしろそれらの本性がそれぞれの属神的階級にあるがままの姿で見えてくる。ところが「変身して見える形でもとってもらわない限り、天使や悪鬼が見えるわけがないじゃないか」と言う人がいたとしよう。しかしそう言っていること自体がすでに、心眼ではなく肉眼で見ていることを示している。肉眼で見るくらいなら、なにもわざわざ清めるまでもなかろう。なにせ汚れた人々でさえ天使や悪鬼を目にすることがあるではないか。ただ、そういう人たちは肉眼でしか物事を見ない以上、あえて清めるまでもないだけのことだ。ところが、たましいが清さに達したときには、汚れた人々とはちがって属神的に見るようになる。つまり本性の目で、知恵の目で、洞察眼で見るようになる。それに、たましいが体の中にありながら互いに見ることができると聞いて驚いてはならない。ここに真実の証人による明証があるからだ。まさに、福なる聖大アファナシイが『聖大アントニイ伝』の中で記したくだりである。

あるとき、聖大アントニイは祈祷中に、ある人のたましいが大いなる栄誉を受けて昇ってゆくさまを見た。そして、そのような栄誉に与った者を褒め称えた。ニトリアの福アンモンのたましいであった。しかし、ニトリアといえば聖アントニイの祈っていた山から徒歩で十三日もかかるほど、遠く離れたところにある土地だったのである。

この事例は、すでに先述した三つの階級があるということ、つまり属神的本性は離れていても互いに見ることができ、五感や距離に左右されないことを裏づけている。そしてこの事例にも書いてあるように、たましいは清まると身体的にではなく属神的に見るようになるのだ。なにせ身体的視力では目前のものしか見られないため、かけ離れたものは別の直観を利用しなければ見えないからである。

天使階級は数えきれないほど多く存在し、特権や階級の違いによって呼び分けられている。実際、なぜ「権天使」とか「能天使」とか「力天使」と呼び分けられているのだろうか。「主天使」と呼ばれているのは、とくに名誉ある存在だからかもしれない。アテネの主教ディオニシイが述べたように、そういう上位階級の天使らは数としては下位階級よりも少ないが、より多くの権力と知恵を持っており、より大いなる階級として他より隔てられている。なにせ階級が上がるごとに遠のいていって、かの強大なる諸天使をすべて超えた頭首、すなわち全受造物の礎たる頭首との一致に行きつくからだ。ここでいう頭首とは創造主のことではなく、神の奇蹟的創造のはじめにあった摂理のことである。なぜならほとんどの天使が、創造主や創造主の叡智に満ちた摂理よりも下位にあり、それがどれほど低いかと言えば、各々その足下の存在が彼ら自身に及ばないのと同じくらいに低い。「低い」と言ったのは、居場所の高低を意味しているわけではなく、むしろ隣りあった階級と比べてどれくらい知恵があるかで決まる上下関係を意味する。現に、聖書はこれらの属神的実体(天使)を9つの属神的名称で呼び分けたうえに、3つの等級に区分しているからである。

1等級に入るのは、大いに崇高で至聖なる「座天使」、多くの目を持つ「智天使」(ヘルヴィム)、6つの翼を持った「熾天使」(セラフィム)である。2等級には「主天使」「力天使」「能天使」が入り、3等級には「権天使」「大天使」「天使」が入る。上記の呼称にはヘブライ語で以下のような意味がある。熾天使(セラフィム)とは「温めて火をつける者」。智天使(ヘルヴィム)とは「知恵と叡智に富む賢者」。座天使とは「神のくつろぐ土台」。ちなみにこれらの呼称は、階級固有の働きをも示している。それゆえにわれわれは、「称えるべき者」として座天使と呼び、「どの王国にも権威をもつ者」として主天使と呼ぶ。「天空を整備する者」として権天使と呼び、「民族や個人を支配する者」として能天使と呼ぶ。「恐ろしい見た目をもつ強者」として力天使と呼び、「成聖する者」として熾天使(セラフィム)と呼ぶ。「知恵を帯びる者」として智天使(ヘルヴィム)と呼び、「眠らず護衛する者」として大天使、また「使者」として天使と呼ぶ。

神は、天地創造の第一の日、無言のまま9つの属神的本性を創られ、言葉によって1つの本性を造られた。つまり、光である。第二の日には天空を造られた。第三の日には水を造って集められ、植物を生えさせられた。第四の日には光を分けられた。第五の日には鳥と爬虫類と魚を造られ、第六の日には動物と人間を造られた。全世界は、東西南北に開かれている。始まりは東、終わりは西。右側が北で、左側が南。神は大地を隅々まで床のように敷き、いちばん高い天を皮でも張るように円天井のごとく立体的にした。いっぽう空(われわれの視界に入る空間)は、その最高天に接する輪のようにして天地をつなぐ役割を果たしている。海洋は空と地を囲む帯のようであり、その中には空まで手の届く高い山々がある。山々の向こう側では太陽が夜のあいだ過ごし、山々に囲まれた海は地表のほぼ四分の三を占める。光栄は、われらの神にこそ帰すべし。

 

第18訓話 肉体をもたない本性を見る直観について。質問と回答

質問  人が肉体をもたない者(霊)を見るには、どんな方法があるのでしょうか。

回答  人が生まれつきの知覚でもって、すうっと透きとおった霊体をありのままに見る方法は三つしかない。具現化して肥った相手を見るか、そっとかすかに相手を観るか、あるいは真に観照するか(つまり実体自体を観照するか)のいずれかである。人は具現化して肥った相手を見ているとき、感覚に牛耳られている。そっとかすかに相手を観ているとき、たましいでただ表面を見ているだけである。真に観照しているとき、必ず知力が働いている。人は意志と知力を駆使して、こうしてそっとかすかに観たり観照したりできるのだが、もとはといえばこうしようと決めるのは意志であるため、つまり意志によって知性が霊的に楽しんでいるということだ。そう、まさに意志が自由を生んでいるというわけだが、必要に迫られたときにはこの自由意志も押し黙り、おのが自由を用いずに直観の作用に任せることもある。あえて観ようという意志も真の知恵もないというのに、ただ直観の作用が示されてくるのだ。なぜならその気がなくても意識は一時的に起こる事柄を受けとる能力があるからである。われわれは天使と通じあうとき、これら三つの方法をとおして導いてもらい、人生を歩いてゆく手助けをしてもらっている。

ところが汚れた悪鬼ときたら、なにせ人の利益のためではなく人を滅ぼすために近づいてくるわけだ。でもわれわれの内に前者二つの方法しか作動させられないので、三つ目の方法で人を惑そうとしてもできない。なぜなら知性にとってしっくりくる想念を動かす力をまったく持ち合わせていないからである。というのも、たかが闇の落とし子の分際で光に近づけるわけがなかろう。かたや聖天使がこの力を帯び、人の想念を動かして照らすことができるのに対し、悪鬼はねじ曲がった思考の親玉かつ仕掛け役にすぎず、しょせん闇から生まれた私生児にすぎない。そもそも光ある者だからこそ光を与えられるのだが、黒ずんだ輩は闇しか与えられないのだ。

質問  なぜ一方には光が与えられて、もう一方には与えられていないのでしょうか。

回答  天使も悪鬼も教導者たるもの、まずは自己内でよく点検して調べて受け入れて味わってから、教える相手に知恵を提供している。まっとうな教導者(天使)は、身につけた健常な知恵に基づいて、物事の認識を正しく伝えている。洞察力に長けた清い知性で、すぐに何もかも素早く把握できるからである。ところが、悪鬼は迅速ではあっても光がない。迅速であるのと光があるのとはまったく別である。光を伴わない迅速さは、迅速な者自身を滅ぼしてしまう。光が真実を見せるのに対し、迅速さは真実の幻影しか見せられない。なぜなら光とは事物のありのままの姿を見せるものだが、それは生き方に応じて増えたり減ったりするものだからである。

われわれが物事の動きを認識しようとするとき、聖天使は知恵に基づいて認識させてくれる。つまりあらかじめ味わって悟った事柄を、われわれにも伝えてくれているのである。いっぽう邪な教導者(悪鬼)は、知っている範囲内でわれわれに物事の動きを思い描かせる。そうしないと、自分自身が体験したこともない正しい想念を、人の心に呼び起こさなければならなくなってしまうからだ。しかしすでに述べたように、かりにわれわれが学び得ることができたとしても、しょせん悪鬼ごときに真の観照を教えることはできない、という点は確信せよ。悪鬼は、かつてその観照を持っていたにもかかわらず教えようがないのだ。天使にせよ悪鬼にせよ、いずれもおのれの行動原理に基づいてあれこれ人のうちに呼び起しているにすぎない。ところが人の知性というものは、そもそも聖天使に助けられなくても学ばずして善に向かうことができるはずなのだ。これは事実だと思う。だから悪鬼が囁いてこなければ、われわれは悪を知ることもなく、悪に動くこともなく、知性もおのずと悪を行うことはできない。なにせ本性には善が植えつけられているのであって、悪は植えつけられていないからである。すべてよそ者にして外から入ってくるものは、それを知るためには何らかの仲介者が必要となる。だが事実として、内面で成長していくものはすべて教わらなくても本性にいくらか沁みこんでいる。そして本性というものがそういう性質であるならば、本性はおのずと善に向かい、天使による観照がなくても善において成長し、光り輝けるはずなのだ。とはいえ、それでもやはり天使はわれわれの教師にして、天使自身もまた互いに教師である。より下位にいる者は、より光を帯びていて寄り添ってくれる相手に学ぶものだ。そのようにして互いに上位者から学び、ひとにぎりの一級天使まで徐々に昇りつめてゆくのである。一級天使の教師たるものこそ、聖三者である。つまり最高階級にいる天使さえもが、自ら断言しているように、独学ではなくイイススという仲介者を教師として仰ぎ、イイススから学んだことを下の階級に伝えているのである。

知性は、もともと神聖なものを観照しようとする力が備わっていないのではなかろうか。まさにそういう不完全性を持っている点において、われわれは天使と等しい。なぜならば天使にも人間にも恩寵が働いているからである。天使も人間もこのような知力しかない以上、神聖なものを観照するようにはできていない。なぜなら神聖なものを観照するということは、他の事柄を観照するのとはまったく別次元のことだからである。まさに本性ではなく恩寵によってこそ、天と地にあるすべてを観照できるのだ。この本性では他の事柄ならば観照できても、天と地のすべてを悟ることなどできまい。

天使でさえ、ハリストスが藉身するまでは現在ほど聖なる奥義を観照したり直観できたりしたわけではなかった。しかし使徒の言うように、ついにことばが身を取られたとき、イイススによって天使に「門が開かれた」コリンフ後 2 : 12のである。だから、かりにわれわれが潔癖と言いきれるまで清くなれたとしても、天使に助けてもらえたのでなければ、とてもこの思考力ではかの「永遠の観照」(奥義の開示)への道を見つけたり知ったりすることなどできなかったはずなのだ(それに実際そのとおりであろう)。なぜなら、永遠の神からじかに啓示や観照を受けとっている天使ほどの知力を持ち合わせていないからである。第一、そんな天使でさえ啓示や観照というものを表象のうちに受けとっているのであり、赤裸々に一糸纏わず受けとっているわけではない。同じくわれわれも知力で啓示や観照を受けとろうとするとき、表象のうちに受けとる。というのも、どの階級も他の階級から受けとるときには、上から下へ伝授されるときの格差を重んじ、きちんと規律を守って受けとるものだからである。かくして、奥義は全階級へ伝えられていく。とはいえ、一等級に留まったまま二等級以下に伝播されない奥義も多い。なぜならこの一等級以外には、大いなる奥義を受け入れられる器をもった階級がないからである。しかし中には、一等級から出て二等級にのみ啓かれる奥義もある。でも二等級が啓かれた奥義を秘めて黙っているので、他の等級からしてみれば悟りようがない。もちろん三等級や四等級まで行きつく奥義もあるが、啓示というものは、そもそも聖天使でさえはっきり見えたりよく見えなかったりすることがあるものだ。

天使でさえそうならば、われわれが天使の助けなくしてそのような奥義を手に入れることなどできようか。むしろ聖人は、まさに天使から入手することで、奥義の啓示を感じとることがあるのだ。そして神が上位階級から下位階級へ啓示が受け継がれるのをお許しになり、しかもどうにかして人間の本性にまで行き着くことをお許しになれば、きちんと受けとれる方々のもとまで啓示が行き着くこともある。というのも、聖人は天使から観照用の光を入手し、学びがたい「光栄なる永在者」(神)という奥義までも観照するからである。そのうえ聖人同士も互いに奥義を分かち合っている。なぜなら「かれら」もまた「皆奉事する神゜(として、救われるべき人々のところへ)遣わされ」るからであるエウレイ 1 : 14 参照)

しかし来世においては、右のような規律は無に帰すだろう。なぜなら、そこでは神の光栄なる啓示は、もう他者から受けることによって讃えたり楽しんだりするものではなくなるからである。むしろどのくらい献身してきたかに応じて、じかに主宰者から然るべきものを堂々と受けとるのであり、現世のように他者から賜を受けとるわけではなくなるのである。というのは、来世では教える側も教わる側もなくなり、自分の足りないところを他者に補ってもらう必要がなくなるからである。そこには、ただ唯一の与え主がおられ、受容力ある者にじかに授けてくださるのだ。そこでは天の楽しみを見出せる者が、神からじかに天の楽しみを受けとる。もはや教える側とか教わる側とかいう階級の違いは存在しない。あらゆる願望が一気に、ただ唯一のお方に集中するのである。

だからこそ「地獄では、愛の鞭に打たれて苦しむことになる」と言っているのだ。ああ、この愛による苦しみはなんと辛くむごいものであることか。というのは、人は愛に逆らって犯してしまった罪を痛感したとき、どんなに胸の裂ける苦痛よりもむごい苦しみを嘗めることになるからだ。「こんなにも愛されていたというのに、どうしてこうも罪を犯してきたのか」という悲しみが心を貫く。この悲しみが、考えうるどんな刑罰よりも恐ろしい。「罪人は地獄で神の愛を失うだろう」だなんて、とんでもない誤解である。人は真実に出会ったときに愛を覚える以上、隠されていた本当のことを知って愛を覚えることは(だれもが頷くように)だれにでもあるからだ。ただし愛には、影響力が二通りある。すでに人間関係で味わったことがあるように咎のある者を苦しませ、本分を尽くした者を喜ばす。だから地獄の苦しみとは、まさに「悔恨」なのだと思う。いっぽう天の子となったたましいは、愛に慰められて満たされるだろう。

質問  ちなみに「どんなときに罪が赦されたと分かるのでしょうか」と問われたことがあるのですが。

回答  その問いにはこんな答えがある。「心底から罪を憎みきったと感じ、従来とは逆の方向にしっかり踏み出したときだ。すると良心が、すでに罪を憎んだことを裏づけてくれるので、たしかに神に罪を赦されたという望みを置くことができる。使徒も言ったように、良心が責めないということが、罪の赦されたことを証明しているのだロマ 2 : 15 参照)」。願わくはわれらも、父と子と聖神の仁愛と恩寵によって罪の赦しを得られんことを。光栄はわれらの神に世々に帰す。アミン。

 

第19訓話 思弁で描く主日と安息日(日曜日と土曜日)のかたち。その比喩的な意味について

主日というものは、われわれが血肉をもって生きているかぎり把握できるものではない。真実を知ったあとに辿りつくような奥義を、とても捉えられるわけがない。現世においては、真の意味での第八日目(日曜日)など存在せず、安息日(土曜日)もない。というのも、かつて預言者が「神は第七日に、(中略)やすめり」創世記 2 : 2と書いたのは、今生の臨終後に訪れる「安息」を意味していたのだ。なぜなら、かの墓というのは体のことであり、体は世から来たものだからである。人間は、六日間のあいだ戒めを守って生活を営む。七日目は墓の中で終日過ごし、八日目に墓から出て行く。

比喩にあずかれる者は、ここで暦の日曜日ではなく「主日の奥義」を読み取る。同じく修行者も、暦の土曜日ではなく「土曜日の奥義」を読み取る。(安息日)とは、あらゆる悲しみから憩い、不安を残らず取りのぞいた完全な安息である。というのも神は安息日に文字どおり休めと告げられたのではなく、ここで機密を与えられたのだ。真に比類なき安息日というのは、墓の中に入ってから迎えることとなる。墓こそ、心をかき乱す行為やしんどい慾などをきれいさっぱり忘れた安息を表わしている。人はみな墓の中で安息し、たましいも体も休ませるのだ。

神は、六日間でこの全宇宙の構成要素を組立てて自然界を整えられ、仕えさせるために自然界に絶え間ない運動を与えられ、それぞれ壊れる日まで止まらないようにされた。この止まらない力でもって、つまり原初の自然現象の力でもって、われわれの体をも造られた。ひいては自然現象に動きを止めることを授けなかったように、自然界から取ったわれわれの体にも仕事を休む暇をお与えにならなかった。そして人が仕事をついに手離してくつろげるのは体が原初状態へ戻る時、つまり、この世から旅立つ時とされた。アダムに「なんじは面に汗してなんじの食を食い」と言われたとおりである。われわれはこの「茨とあざみを出でさせる土」の上で、いつまで汗を流すのか。「なんじが取られし所の土に帰るときまで」(創世記 3 : 18, 19 参照)である。つまり、息あるうちは汗を流すことこそ、生を営むということの奥義なのである。

しかし主は、主ご自身が汗を流したあの夜以降、かの茨やあざみに悩まされた汗を、義をなして祈って流す汗に変えられた。神は、五千五百年あまりアダムが地上で汗を流して働くままに任された。なぜなら福なる使徒が述べたように「聖所の入る途のいまだ啓かれざる」エウレイ 9 : 8状態だったからである。だが世の終わりの日々を迎えて、その労苦の汗を祈りの汗に変えて自由の身になる戒めを授けに降臨され、ただ羽を伸ばして休むのではなく、まるっきり変容することをお許しになった。なぜなら、長期間にわたるわれわれの苦しみをご覧になって、慈愛をお示しになられたからである。

ゆえに地にて汗を流すことを止めるのであれば、茨を刈り取る羽目になることは避けられない。というのも祈ることを止めるということは、つまりもともと茨を生じさせる「地」(心)を肉慾化させる行動だからである。慾こそ、まさに体に蒔かれたものから萌え出ずる茨ではないかガラテア 6 : 8 参照)。アダムの姿をこの身にまとっているうちは、アダムの慾をもまとわぬわけにはいかない。なにせ地としては、地ならではの物を生じせないわけにもいかないからだ。そもそも土から生じた塵から、われわれの体は造られた。神の声が「なんじは、塵にして」創世記 3 : 19と証言されたとおりである。足元の地は、茨を萌え出でさせている。この知恵を帯びた「地」(心)は、慾を萌え出でさせている。

もしわれわれにとって主は、神秘的にも摂理の業においても模範であるならば、おまけに金曜日の第九時まで骨身を惜しまず汗を流され(これぞ最期まで働き切ることの奥義だ)、ようやく土曜日に墓に眠られたのであれば、もはや「人生にも安息日(土曜日)がある」つまり「慾から休める時間がある」などと豪語する連中はいったい何者だ。高尚すぎて主日(日曜日)のことなど口にするのも憚れる。われわれの安息日とは、つまり葬られる日のことである。墓の中で、われわれの本性はまさしく安息するに違いない。だが日々こうして「地」が生き延びているかぎり、この本性から茨を抜きつづけないわけにはいかない。ひとえにしぶとく抜きつづけることによってのみ、この茨は減っていくのだ。なにせこの「地」が丸っきり茨から清まることなどありえないからである。しかも少しでも怠れば茨がみるみる地を覆い、植えてきたものがやられ、流した汗が水の泡となってしまう以上、もはや毎日地をきれいに耕していくほかなかろう。抜くのを止めたが最後、茨がどんどん生えてきてしまうからだ。ぜひとも父と一体なる独生子の恩寵によって、この生えつづける茨から身を浄めてゆこうではないか。光栄は始めなき父と子と生命をほどこす聖神とに世々に帰す。アミン。

 

第20訓話 ただ自分自身のみを注視すべく僧房にこもった者が、毎日欠かさず思うべき有益なことについて

こんなことを書いて壁に貼り、いつも読みあげて忘れないようにしている人がいた。

「汚れた奴め、ずいぶん愚かに人生を過ごしてきたものだ。これではどんな目に遭ってもおかしくない。せめて残された日々のうち、今日くらいは気をつけて過ごせないか。ろくな善行もなく愚かなことばかりして徒らに過ごしてきたのだ。もう世の中がどうなったとか、人々がどう暮らしているかとか訊いたりするな。それに修道士の様子とか、修道士が何をしてどう生活してどれだけすごい修行をしているかとか、そういったことも一切気にかけるな。なにせ神秘的に世から抜け出て、ハリストスにおける死者となったようなものなのだ。これ以上、世と世にあるものに対して生きるな。そうすれば穏やかにハリストスのうちに生きられるようになるだろう。どんな暴言や侮辱を浴びても笑われても非難されても持ちこたえられるように武装せよ。何を言われようと『おっしゃるとおりです』と喜んで聞き入れ、苦労や苦難が相次いでもありがたく耐え忍べ。悪鬼の言いなりになった分際として悪鬼のよこす災難をも忍び、必需品に事欠いても潔く我慢して不運にも耐えよ。本当に必要ならば神が与えてくださると信じて、食糧が足りなかろうと涙をのめ。しょせん糞尿と化すだけのものじゃないか。万難を甘受しながら神に救われることを願い、つい逃げ道とか慰めてくれそうな人がいないかとか探したりするな。まさに『なんじの重任おもにを主に負わしめ』て聖詠 54 : 23、つまりあらゆる杞憂を神に委ねて、誘惑を受けるたびに自分を責め、とことん自分のせいだと思うのだ。他人の悪事を見ても真似るな。傷つけてられても咎めるな。なぜならお前自身も禁断の木の実を味わって、ありとあらゆる慾を身につけた分際ではないか。しんどい不運だって喜んで受け入れよ。そうすれば、いま少しばかりわなわなふるえても、後々きっと喜び楽しむことになるだろう。吐き気のするお前の名誉こそ禍のもとだ。あろうことか、その罪にまみれたたましいをよしよしと労わりながら、言葉と思いでもって片っ端から人を裁いてきたではないか。いい加減にしろ。こんな豚用の餌を今日まで食らい続けてきたうえに、さらに食らって生きつづけていく気か。汚らわしい奴め。どこに人間らしさがある。かくも愚かに過ごしておきながら、なおも人間社会に留まって恥ずかしいとも思わないのか。もし右に記したことを注意深くすべて守るのなら、あるいは神に助けられて救われることもあるかもしれない。もしも守らないのであれば、闇の国に入って悪鬼と暮らすようになるだけさ。鼻高々と悪鬼に盲従してきた身として当然の仕打ちだ。さあ、何もかも証言したぞ。胸に手を当てて考えよ。一生の間、その胸の中でどれだけ人を非難し、どれだけ冷水を浴びせてきたことか。もしも神がその人たちに対して『さあ、こやつに報いるために立ち上がれ』とでも命じようものならば、世界中の人々がお前のせいで忙殺されてしまうだろう。だからこそ、もう人を悪く思うのは止めろ。そして、降りかかってくる報いを耐え抜くのだ」と。

この修道士は、上に書いたことを毎日思い起こして、襲ってくる誘惑や苦難に対して備えていた。むしろそういう逆境を肥やしにして感謝できるようにするためである。ああ、われわれも人を愛する神の恩寵によって、降りかかってくる災難をありがたく忍んで肥やしにすることができたならば。光栄と権能は神に世々に帰す。アミン。

 

第21訓話 いろいろな事柄についての問答

質問  心が邪念に走らないようにするためには、どうしたら良いでしょうか。

回答  いつも叡智の道を歩み、人生の教訓にどっぷりと浸ることだ。思いが乱れないようにするうえで、これほど強い足枷はない。

質問  叡智を求める道に到達点はあるのでしょうか。どうなったときに叡智を学び終えたことになるのでしょうか。

回答 どこまで歩いていっても到達することなどありえない。なにせ聖人でさえ歩みつづけて理想には辿り着かなかったのである。叡智の道に終点はない。叡智を学べば学ぶほど、どんどん高く昇りつめ、やがては神に結ばれるだろう。これぞ、終点のない証拠である。なぜなら叡智とは、神ご自身だからだ。

質問  まず何をとおして叡智に近づけるのでしょうか。その出発点はどこにあるのでしょうか。

回答  まずは必死に神の叡智をこいねがい、そう希いながら死ぬまでひたすら邁進することだ。しかも神を愛するがゆえに、必要となったら命を捨てることまで厭わない勇気だ。

質問  本当に知恵のある人とは、どのような人でしょうか。

回答  この人生に終わりがあることを真に理解した人だ。死という境界線を悟った人は、自分の犯す罪にも境界線を設けることができる。そもそもこれ以上に悟るべき知恵はない。つまり欲情に汚れた臭い部分を体に持たず、甘い慾で穢れた痕をたましいに残さず、ただ傷なくしてこの世を去ることのみ考える――これほど深い洞察があろうか。というのも、かりに万物の神秘的な本質を見抜こうとして思いを凝らし、観察して発明して知恵に富んでいたとする。ところがたましいが罪に汚れていて天国へ行ける確信を持てないまま、まんまと待望の港に辿りついたぞと思っているとしたら、世の中にこれほどの愚者もいまい。しょせん世間に認められたい一心で活躍してきただけなので、この世的な希望を見出したにすぎないからだ。

質問  真の意味で、だれよりもしっかりしている人とはどういう人でしょうか。

回答  一時的な苦難を穏やかな心で受け入れられる人だ。苦難の中にこそ、救いと勝利の栄冠が秘められている。そして、安楽を欲しがらない人だ。安楽には恥ずべき汚臭が潜んでいるので、安楽を得るなり年中ため息をついて過ごすことになってしまう。

質問  神に向かって歩いていたのに、誘惑に負けて善行から逸れてしまった場合、どんな痛手を蒙るのでしょうか。

回答  神に近づこうとするとき、苦しまずに近づくことなどできない。苦しみを避けているようでは義を貫けないからだ。だから、義を増し加えてくれる修行を止めるのならば、義を守りぬく修行も止めることとなる。すると、警備をしない宝庫のようになる。または、敵中にいて武器を奪われた戦士か、備蓄をもたない船のようになる。あるいは、水源を失った園のようになる。

質問  道理に明るい人とは、どういう人のことですか。

回答  世の快楽に忍びこんだ苦味をしっかり見出して、もはや快楽の杯を口にしなくなった者のことだ。日夜どうやってたましいを救おうか考えながら、世を去る日までひたすら歩みつづける者のことだ。そして五感の門を閉ざして世に振り回されないようにし、秘めた宝を盗られないようにする者のことだ。

質問  世とは、いったい何なのでしょうか。どうやったら世を知ることができましょう。そして世を愛してしまうと、どんな害を蒙るのでしょうか。

回答  世というやつは淫婦だ。この淫婦の美貌を慕って見つめる者は、目を奪われて恋をしてしまう。少しでも世を好きになって世に足元をすくわれた者は、死ぬまで世の手中から逃れることはできない。そして臨終の時を迎え、何もかももぎ取られて家から運び出されてはじめて、ああ、世とはまことに媚びへつらう詐欺師であったのかと気づくのだ。世が身にしみこんでいるうちは、世の闇からどんなに抜け出ようともがいても世の罠を見抜けない。そうやって世は、世に縛られた者たちを手中に引き留めておくことはおろか、世の縛りを断ちきった清貧の修行者、つまり世を超えた者でさえも引き留めておくのだ。周知のとおり、あの手この手で修行者を引き寄せては足元に落として踏みつけているわけだ。

質問  病気にかかって体がだるくなると、あれほど善を求めていた初心も揺らいで意志もぐらつくことがあります。どうすれば良いでしょうか。

回答  よく半分だけ主に従っていって、もう半分は世に残っていることがある。心も現世のものを断ち切れずに自己分裂を起こし、前を見るときもあれば後ろを見るときもあるという具合だ。こうして自己分裂を起こしながら神の道に近づこうとする人々に対して、かの賢者は「二心をもって主に近づいてはならないシラ 1 : 28。むしろ蒔きながら刈り取る者となって主に近づくべきだシラ 6 : 19 参照)」と助言したのだと思う。ところが世をきっぱり断ち切れず、怖いとか悲しいとか泣き言を言って自己分裂を起こし、知性というよりか想念でもって後ろを振り返り、どうにも肉欲を捨て切れない者がいる。だから主は、そういう人の心理を踏まえて、その弱まった意識を払いのけようとして、「人もしわれに従わんと欲せば、(まずは)己を捨てよ」マトフェイ 16 : 24と明言されたのだ。

質問  「己を捨てよ」とはどういう意味なのでしょうか。

回答  そもそも十字架に昇る決心をした者は、ただ死ぬことしか頭にない。もはや生きて帰ることなど夢にも見ずに十字架に昇っていく。「己を捨てよ」という言葉を実践したい者も同じようにすると良い。なにせ十字架とは、いかなる苦難も呑みこむ覚悟をきめた意志だからである。主も「この世で生きたいと願えば、真の生命を失うことになる。この世で『我がために』自らを失えばこそ、あの世で自分自身を得るのだ」マトフェイ 10 : 39とおっしゃって、なぜ己を捨てるべきなのか教えられた。つまり「ひたすら十字架の道を歩みつづければこそ、あの世で自分自身を得られるだろう」と告げられたのである。

もし修行者が再びこの世のことを慮るのならば、かつて世を出て苦難に身を投じたときに抱いていた望みを捨てることになる。というのも世の事柄に心を砕いている以上は、神へ向かう苦難に近寄れなくなってしまうからだ。それに、世のことを慮っていると「福なる生命」をめざす修行から徐々に離れていき、世への思いが膨れあがり、いずれ完全に打ちのめされてしまう。しかし、神への愛ゆえに「我がためにその生命を失」おうとする者はマトフェイ 10 : 39、きれいに傷なく永遠の生命に入っていくだろう。「我がためにその生命を失う者は、これを得ん」マトフェイ 10 :39とは、そういう意味だ。まだここにいる間に、すすんでこの世に対してたましいがとことん死ぬようにせよ。そしてこの世の命に対して自分を捨て切ることができたとき、主にこう告げてもらえるだろう。「かつて約束したとおり、あなたに永遠の生命を与えようイオアン 10 :28。そうやってまだこの世で息をしている間でも、言ったことを実証してみせるだけなく来世の福楽も確証させてみせよう。人はこの世の命を軽んじたときに永遠の生命を得るのだ。そのように身構えて修行に取り掛かれば、難しそうで辛そうに思われたことのすべてが取るに足らないものとして目に映るようになるだろう」と。なにせそういう思いで武装していれば、たとい死の危険が身に迫ってこようとも不戦勝のまま苦にも感じないからだ。ゆえに、骨の髄まで心得ておけ。来世の福なる生命を求めて現世の人生を憎まないかぎり、次々と見舞ってくる苦難や悲哀に耐えきることなどできないのだ。

質問  以前の習慣から抜け出して、清貧や修行生活を学んでいくためにはどうすればよいのでしょうか。

回答  楽しくだらだらと過ごせる環境にいるうちは、身体的欲求を満たさずにいることを体が許さない。体にとってだらけたくなるものを何もかも遠ざけないかぎり、知性もそういう欲求を断つことなどできない。というのも、いつも快楽や喧騒を目の前にし、朝から晩まで楽な生き方を見つめていたら、自分だってそうやって生きたいと強く思うようになり、つい釣られて興奮してしまうからだ。ゆえに贖罪主は、主に従いますと誓った者に対し、いみじくも無一文になって世から出でよと戒められたのであるマトフェイ 19 : 21。なぜなら、人はだらけたくなるものをことごとく退けてはじめて、物事に取り掛かることができるからである。主ご自身でさえ、悪魔との闘いを始めるにあたり、まず人気ひとけなき荒野にて戦われたではないか。そしてパウェルも、ハリストスの十字架を受け入れた者へ向かって「われらは彼の辱めを担いて、営の外に出でて、彼に就くべし」エウレイ 13 : 13と呼びかけ、町から出でよと勧めている。なぜなら、主は郊外で苦しまれたからである。というのは、世と世の万事から離れればこそ、よりすみやかに以前の習慣や生き方を忘れて、長いことそれに振り回されずに済むからである。ところが、世と世にあるものに近づくなり、知力が弱まってしまう。ゆえに救いの道においては、どうすればうまく修行を闘い抜けるのかを、よくよく把握しておかなければならない。つまり、僧房内は貧しくして物をわずかしか置かず、楽になれるものが何一つない空っぽな状態にしておくことなのだ。なにせ遊惰をもたらす原因さえ取り除いておけば、「内なる闘い」と「外なる闘い」による双方攻撃をくらう危険がないからである。ゆえに、身の周りにだらけたくなるものを置いていない者は、慾を刺激するものを置いている者と比べて勝利しやすい。なぜなら慾を刺激するものを置いている者は、二重の修行を強いられているからである。生活必需品に事欠いたところに住んでいる者は、食欲もたやすく軽んじられる。食欲に程よく応えるべき時刻が訪れても、食い意地を張って食べるのではなく、せめて少しだけも食べよと体を強いる。むしろ食事なんぞ取るまでもなかろうと思いつつ、美味しいものを味わうために食卓につくのではなく、体を維持するために食事を摂る。そういう奮い立った心持ちでいれば、じきに憂いも悲しみもない想念のまま修行できるようになる。

かくして、熱心な修行者ならば即刻すべてを振り払って後ろを振り返ることなく、闘いを挑んでくるものから逃げ去るべきだ。闘いを強いてくるものとは交わらず、目をくれることさえ自制し、できるかぎりお近づきにならないように逃げることだ。これは胃袋に関してのみ言っているのではない。およそ修道士の自由意志が試される闘いや誘惑のすべてについて言っている。なにせ神へ向かうにあたって自制すると誓ったはずではないか。まさに女の顔を見つめないこと、美しい顔立ちを見ないこと、そして何に対しても慾を貪らず、贅沢をせず、お洒落な服装を見ないこと。さらに世俗人の暮らしぶりを目に入れず、世俗人の言葉に耳を貸さず、世俗人に好奇心を抱かないことである。慾とは、およそこういうものに近づくなり大きな力を得て、修行者を弱らせてその考えと目論見を変えてしまうからだ。何がしか良いものを見れば、よしっと奮い立って善を行いたくなるものだ。ということは、つまり逆に良くないものを見るならば、見ているだけで知性が虜にされやすいことは言うまでもない。そもそも黙修者が知性で修行すべきであるのに大したものも得られずに、ただ無闇に闘う修行だけに終始しているとしたら、それ自体がもはや大いなる損失ではないか。わざわざ穏やかな状態から、すすんで混沌状態へ嵌まっているからである。それに少しでも気を緩めている場合だろうか。ある長老など百戦錬磨の修行を積んだ身でありながらも、女みたいに髭のない青年を見たときに、想念を傷つけては修行が水の泡になると思って、僧房へ立ち入ってその青年に接吻することさえ憚ったのである。賢明にも「今夜ここに何か似たものがあると思うだけで大損害を蒙る」と考えた。そして入室せず青年にこう言ったのである。「これといって恐れているわけじゃない。だが、みだりに闘いをおびき寄せる必要があろうか。知性は何か似たものを思い出すだけで良からぬ思いに濁ってしまう。この体には、あちこちにおとりが隠れている。だから大いに闘わなければならないし、自分を守らなければならないし、おとりを介して迫りくる闘いを少しでも和らげる必要がある。逃げればこそ、闘いから救われるからだ。ところが闘いを呼び起こすものに近づくなり、必死に善に向かおうとしていようとも危険状態に陥ってしまう。人は、いつも目にしているものを欲しくなるからだ」。

地中には隠れた薬草がたくさんある。でも、夏には暑くてどこにあるのか分からない。ところが、ひんやり潤った風が吹くようになると、どの薬草がどこにあったのかが判明する。人間も同じだ。黙修して恩寵の温もりを浴びて自制しているあいだは、多くの慾から解放されて穏やかでいられることがある。ところが、この世の事柄に乗り出すなり、いかに慾が次々と立ち上がって頭をもたげることか目のあたりにするのだ。ことに安楽の匂いを嗅ぎとったときにそうなる。こんなことを話しておくのも、まだ体にいて息の絶えないかぎり、だれ一人として自己過信しないようにするためである。そして汚れた生活へ誘うものからことごとく逃げて遠のけば、修行上かなり闘いやすくなることを示しておきたかったからである。ふと思い出すだけでも恥ずかしくなるような事柄はつねに恐れるべきだ。良心の声を踏みにじったり侮ったりしてはならない。要するに、しばらく荒野に身をおこうではないか。そしてこの身に忍耐力をつけさせようではないか。とはいえ、どこに身をおいていようとも関係なくいちばん大事なのは、闘いをもたらすものから遠のこうとすることだ(たといそれがどんなに悲しくても、遠のくことができれば怖れるものは一切なくなるため)。欲求を満たすものさえ傍になければ、欲求が湧き起こったときに罪に陥らずに済むからである。

質問  あらゆる娯楽を捨てて修行に入ったとき、いかなる点から罪と闘い始めたらよいのでしょうか。そして、どのようにして闘い始めていったらよいのでしょうか。

回答  罪や欲求と闘うには、「まず儆醒(目を覚ましていること)し、斎せよ」と言われている。とくに内面で生じる罪と闘う者はそうすべきだ。儆醒して斎をする者こそ、見えざる戦いを闘っている修行者の中でも、ひときわ罪や欲求を憎んでいることを示している。まずは斎から始めて、斎が乗ってきたら儆醒の修行をするとよい。

斎と儆醒

一生好んで斎と儆醒に向き合う者は、貞潔の友となる。人は満腹して寝過ぎれば、淫欲が燃えてあらゆる愚行に走ることになる。逆に、斎して徹夜して日夜身体を磔にし、甘い眠りに逆らって奉神礼にて儆醒していれば、聖なる神の道を歩んで徳を積み重ねていく足場ができる。そもそも斎とは何か。斎とは、諸徳の砦にして修行の始まりだ。まさに自制者の冠にして童貞者の華であり、節操の美である。ハリスティアニンは、斎から歩み始めて操を守りやすくなり、祈りやすくなって知恵がつく。まさに斎によって黙修を学び、ありとあらゆる善行を知ってゆくのだ。ちょうど健康な目が光を見たがるように、賢く斎を守っていると祈りたくなる。

斎を守り始めると、知性で神と語らいたくなる。というのも、斎をしている体は一晩中床の上で眠ることなどできないからだ。斎して口を封じるなり、傷感することができるようになって心から祈りが湧き出ずる。表情は憂いて下品な想念も遠のき、楽しそうな眼差しも消えて、肉慾や無駄話を敵に回す。これまでだれ一人として、聡明な斎行者が劣悪な欲求の奴隷になった姿を見たことはない。よく判断して斎を守っていれば、あらゆる善が身につくようになるだろう。ただし斎に手を抜けば、善かったものが全部ぐらつくことになる。なぜなら斎とは、われわれが食事する際の注意事項として最初に与えられた戒めであり、この戒めを破ったせいで人間という受造物の先祖は堕ちてしまったからである。しかし最初に打ちのめされた点であればこそ、その点から神の法を守り始めていけば、神を畏れつつ立ち上がっていくことができるのだ。

救主もイオルダン川で世に現れたとき、まさに斎をすることから始められた。というのは、洗礼を受けられた後、聖神に導かれて荒野へ行かれ、40日と40夜も斎をされたからである。救主の後塵を拝した人々も、まずは斎から修行し始めたが、それもこれも斎こそ神に与えられた武器だからだ。だから、斎に手を抜く輩は咎められても当然である。法を造った方(神)でさえ斎をしたというのに、法を守る側が斎をしない謂われなどあろうか。そういう甘い考えだったからこそ人類は斎を守るまで勝つことができず、悪魔に負けっ放しだったのである。しかし、この武器を身につけるなり悪魔の力をぐいっと弱めることができた。まさに主イイスス・ハリストスが、斎の教導者として最初に悪魔に勝ち、われわれの本性の頭に最初の勝利の冠を被せてくださったのである。だから悪魔はわれわれに襲いかかろうとしても、この武器を持っている人を見るなり恐れをなし、かつて荒野で救主に負けたことをはっと思い出して肩を落とし、神が人類に与えたこの武器を目にしているだけで身を焼かれるのだ。これほど強い武器が他にあろうか。ハリストスの名のために空腹になることほど、大胆に悪魔と闘う気になれるものが他にあろうか。というのも人は悪霊の軍に取り囲まれたとき、斎をして体に苦労をかければかけるほど希望が持てるからである。斎という武器を装備した者は、いつも覇気に富んでいる。なにせ熱い預言者イリヤも、神の法を究明すべく全力を懸けていたとき、まさにこの業、つまり斎をしていたからだ。斎をしていると聖神の戒めを思い出し、旧約の律法とハリストスの恩寵が結びつく。斎に手を抜く者は、ほかの修行にも手を抜いてだらしなくひ弱で、そうやって気が弱りはじめた悪い兆しを見せて敵に勝たせる隙を与えている。なぜなら武装もせずに裸一貫で修行に向かうようなものだからだ。そんな姿で闘ってみたところで勝てるわけがない。だいたい肢体が斎による空腹からくる熱気を帯びていないからだ。斎とは、そういうものである。斎している者は理性が揺るがず、どんなにひどい慾に見舞われようとも迎え撃つ用意ができている。

かの致命者たちは、神からの知らせや友人を通してあらかじめ自分の処刑日を知っていた場合、致命の栄冠を待ち受けながら夜中なにも口にしないことが多かった。そして夕方から明け方まで奮い立って祈りに向かい、聖詠を唱えたり聖歌を歌ったりして神を讃栄し、結婚式にでも行くかのように喜び楽しみながらその時刻を待った。斎をしている身で剣を受けるためである。よって、目に見えない致命へ召されているわれわれも、聖なる栄冠を受けるために目を覚まし、指一本でも瞬き一つでも棄教する兆しなど敵に見せないようにしようではないか。

質問  ただ斎や儆醒を守っているはずなのに、静けさを感じない人も結構いますよね。しかも多くの場合、慾も収まらず想念も穏やかにならないのはなぜでしょうか。

回答  兄弟よ。たましいに秘められた慾というのは、体に労苦をかけるだけでは治せないのだ。身体的修行だけでは、五感をとおして四六時中湧き起こってくる想念を抑えることはできない。もっとも身体的修行をしていれば、慾にも溺れず悪魔にもやられずに済むのだが、平安や静けさまでたましいにもたらされることはない。というのは、身体的修行をしながら黙修も守ればこそ、つまり意識がしばらく外部からの刺激を受けず叡智の中で動くようになればこそ、たましいも無慾になって「地にある肢体」コロサイ 3 : 5も滅び、想念も鎮まるからである。人は、あらゆる交際を絶って浮ついた想念を一蹴して自分自身に集中しないかぎり、おのれの慾を認識できない。聖ワシリイの言うように、黙修こそ、たましいを清めてゆく出発点なのだ。というのも、人は五感が外の刺激に触れず、気が外に散らなくなってはじめて、頭も外界をめぐる楽しみから定位置に戻って落ち着き、心も内面にあるたましいの思いを探求したくなるからだ。そうやってうまく黙修に留まることができれば、少しずつたましいを清めてゆけるようになる。

質問  外にいながらもたましいは清められないものなのでしょうか。

回答  日々、木に水をかけていたら根っこが乾くことなどあろうか。毎日、盛りつけていたら器が空になることなどあろうか。もし清さというものが、気ままな生活や習慣を避けることであるならば、自ら、ないし他人とともに旧習に染まったまま五感で悪習を味わっている者は、いかにしてたましいの浄化など期待できようか。いかにしてたましいを悪習から清めて外敵に見向きもせず、せめて自分自身を見られる日が来ようか。来る日も来る日も心を汚すのならば、いつ穢れを落とすことなどできようか。だいたい敵軍に太刀打ちできない分際なのに、よりによって敵地に入ってひっきりなしに戦況報告を受ける身となったら、心を浄めている暇などあろうか。そんな戦闘状態で、どうやってたましいに「なんじに平安」などと告げられよう。敵地から離れることさえできれば、はじめは少しずつ内面をかき乱していた波が収まっていくだろう。そもそも川上にて水を堰き止めないかぎり、川下で水が尽きることはないわけだ。だからこそ黙修に身を置けば、人はたましいの慾を峻別でき、たましいの奥に隠れていた英知を見抜けるようになる。そのとき「内なる人」も属神的な事柄に目覚め、たましいの奥に隠れていた英知が日に日に芽吹いていくのを感じるだろう。

質問  たましいの奥に隠れていた英知を見出したとき、どういう兆しがあるのでしょうか。はっきりこれだと言えるしるしは何でしょうか。

回答  強いずとも涙があふれ出てくるという恩寵に与ったときだ。なぜなら知性が身体的事柄から属神的事柄へ移る際、つまり慾の状態から清い状態へ移る際に出てくるものが涙であり、涙があたかもその境界をなしているからだ。人は、涙の賜を得るまでは「外なる人」のみで修行しており、属神的に生きる人が内に秘めている現実を何ひとつ感じていない。というのも、もしこの世の身体的なものに目もくれず、本性に備わる境界線を越えることさえできれば、すみやかにこの涙の恩寵に出会うからである。その涙は神秘的生活をしていく最初の段階で流れ出し、人を完全な神の愛へ導いてゆく涙である。人は上達すればするほどこの涙の恩寵に富み、延々ととめどなく涙を流しているうちに、やがて飲食物と一緒に涙を口にするようになる。

これぞ知性が世を離れて、かの属神的な世界を感じたといえる確かなしるしである。でもこの涙は、この世に近づけば近づいた分だけ渇いていく。そして知性がすっぽりこの世に埋まるなり渇ききってしまう。涙が渇ききったとき、それは人が慾に埋没してしまった証拠なのだ。

涙の区別について

泣いて悶え苦しむ涙もあれば、泣いて元気づく涙もある。心底から罪を悔いて泣くときは、体も悶え苦しんでやつれる。そういう涙で泣いているときは、たましいの最高司令部(知恵)でさえ傷を受けることがある。しかも、まずはこの涙の段階に入らざるをえないわけだが、しかしこの段階に入ることによって、より優れた次の段階へ入る門が開くのだ。その門を開いた先には喜びの国が待っていて、そこで憐みを頂くことになる。この段階における涙は、もはや思慮深く流す涙である。つまり体を美しくして元気づけ、強いずとも自ら溢れ出てくる。しかもただ人体を元気づけるだけでなく、人の見た目も変わっていく。というのも、「心に楽しみあれば顔色喜ばしく、心に憂いあれば気塞ぐ」箴言 15 : 13と言われているとおりだからだ。

質問  ちなみに使徒の言うところの「たましいの復活」とは何を意味するのでしょうか。使徒は「なんじらもしハリストスと共に復活せしならば」コロサイ 3 : 1と表現していますが。

回答  使徒は他の箇所で「暗闇より光の照ることを命ぜし神は、われらの心を照せり」コリンフ後 4 : 6とも告げていることから、「たましいの復活」とは「古き人」を脱ぎ捨てることであることが分かる。まさに神が「我なんじらに新しき心を与え、なんじらのうちに新しき霊を置く」イエゼキイリ 36 : 26と告げられたように、「古き人」のかけらも残ってない「新しき人」に生まれ変わることこそ「たましいの復活」なのだ。というのは「古き人」を脱ぎ捨てたとき、われわれのうちで聖神がハリストスを形づくり、叡智を啓いて神を知らしめてくれるからである。

質問  黙修の力とは、(端的に言って)どういう点にあるのでしょうか。

回答  黙修すれば外側の感覚を殺し、内側の動きを呼び起こすことができる。でも外側の用事に忙しくしていると、これとは逆の現象が起こる。つまり外側の感覚が目覚めて、内側の動きが殺されてしまうのだ。

質問  どうして異象や啓示を受けることがあるのでしょうか。なぜ異象を得ている人よりも努力を積んでいるというのに、異象など得られない人もいるのでしょうか。

回答  その理由はいろいろとある。まずは全人類に役立つように神が配分されているためである。または弱い人が慰めを受けたり、奮い立ったり、学んだりできるようにするためである。そもそも異象や啓示とは神の憐みによって授かるものである。たいてい異象や啓示を受けるような人というのは、次の三種類のどれかにあてはまる。ほとんど悪意を持たない純朴な人か、完璧な人か聖人か、あるいは神への熱意に燃えてすっかりこの世を捨て、世を離れて目に見える援助を一切期待せずに神に従った者だ。こういう者は、その排他的環境ゆえに恐怖に襲われたり、飢えて死にそうになったり病気になったり、状況が悪くなったり苦難に見舞われたりして絶望に陥りそうになることがある。ゆえに、もしそういう隠遁者には慰めが与えられて、かたや隠遁者よりもよほど努力しているのに慰めが与えられない人がいるとしたら、その一番の理由は、どれだけ清いか汚いか、まさに良心の清さの違いによるわけだ。それに加えて、次のような理由があることも確かである。人は、もともと人間的な慰めや何かしら目に見える慰めを得るなり、異象や啓示などの慰めは得られなくなると言われている。むろん例外として全人類に役立つために神に配分されることもあるにはあるが、いまここでは隠遁者の話をしている。よって、この原則は次の聖伝によって裏づけられるだろう。ある師父が慰めを得ようとして祈っていたら、「そうやって人々と語らって癒されているだけでも十分ではないか」と告げられたのである。

さらにこの師父と似たような師父も、独りきりで隠遁していたときには常に恩寵に慰められていたというのに、世に近づくなりその慰めを得ようとしても得られなくなったという。なぜこれまでどおり得られなくなったのか知りたくて、「主よ、まさか主教職ゆえに恩寵が取り去られたのでしょうか」と尋ねたところ、「いや、そうではない。神はただ荒野で生きる者たちのことを気にかけて、あのような慰めを与えているのだ」と告げられたのである。というのも、概して目に見える慰めを手にしていながら、恩寵の慰めまで得ることは不可能だからだ。もちろん先ほども触れたように例外として、神のみぞ知る理由によって、秘められたご計画に基づいて分け与えられることもあるわけだが。

質問  「異象」と「啓示」とは同じものでしょうか。それとも違うものでしょうか。

回答  違うものだ。しかも明らかに違う。ただ二つともしばしば「啓示」という言葉で言い表してしまうこともある。なぜなら異象を観ていると神秘が見えてくるため、どんな異象も啓示と呼ばれてしまうのだ。しかし、啓示のことを異象と呼ぶことはできない。啓示とは、おおかた認識できるものを指し、知性でとらえて理解できるものを啓示と呼ぶ。いっぽう異象とは、どんな手段であろうと把握できるすべてを意味するため、たとえば表象とか予象とか、古くは旧約時代に見られるように深く眠っている時とか覚醒している時とか、細部まではっきり観ることもあれば幻のうちにおぼろげに観ることもあるのだ。だから異象にあずかった者自身も、目覚めて観ていたのか夢で観ていたのか判別できなかったこともあるくらいである。そこでは助言を耳にすることもできたし、何らかの予象が観えることもあった。ときには面と向かって明らかに対面し、一問一答できたりしたこともあった。観えた相手は尊厳を帯びた天使で、啓示を作りだしていた。そしてそのような異象は、どれもこれも荒野など特に人々から離れた場所で生じたのである。居場所自体からは他に何の助けも慰めも得られなかったため、隠遁者はそういう助けや慰めを必要としていたのである。他方、啓示とは知性で捉えるものだ。清ければ受け入れやすくなるものだが、ひとえに完徳の者や理解できる者のみに与えられる。

質問  心の清さに至った場合、どんな兆しがあるでしょうか。はたして、いつの日か「心が清くなった」と認識できるものなのでしょうか。

回答  どの人も良い人に見えて、どの人も汚れなく見えたとき、真に心が清い状態になったと言える。というのも、まず「善き目は悪を見ず」ハバクク 1 : 13という心の状態に至らなかったら、使徒の「たがいに人をもって己より優れりとせよ」フィリッピ 2 : 3という心境をどうやって実現できようか。なにせ、どの人を見てもひとしく「己よりも優れている」と真心から感じることができなければならないのだ。

質問  清さとは何でしょうか。そして、清さの極みとはどういう状態でしょうか。

回答  清さとは、世間ではふつうとされる「慾をとおしたものの見方」を忘れることである。では、「慾をとおしたものの見方」から解放されて、その部外者となるためにはどうしたらよいか。まさに原初に賜っていたように純朴になり、もともと本性が帯びていた柔和さに至って赤子のようになることである。ただし赤子の欠点はもたず、悪意を一切もたない心である。ここに清さの極みがある。

質問  そのような高みに上ることなどできるのでしょうか。

回答  もちろんだ。というのも、現にそういう水準に至った者がいるではないか。師父シソイもそういう水準に至って、さきほど摂ったばかりの食事について「そういえばもう食べただろうか、まだ食べてないだろうか」と弟子に訊いたほどだった。他にもそういう原初の純朴さに至った師父が、ほぼ赤子並みの無邪気に至って世のことをすべて忘れ去り、領聖前に食べようとしたところを弟子に止められて、赤子みたく弟子に介助してもらって領聖したことすらあるではないか。しかし世から見ると赤子だった師父も、神の前では霊的に完璧だったのである。

質問  修行者は静かな僧房で黙修しているとき、何について思いめぐらすべきでしょうか。そして、どんなことを絶えずしていれば、空しい想念が知性に入り込んでくるのを防げるでしょうか。

回答  僧房で死者となろうとする者が、何について思うべきかなどと訊ねるか。霊的に熱心に目覚めている身であるならば、ひとりきりで自分自身と向き合っているときに何をしたら良いかなど訊ねるまでもあるまい。修道士が僧房にいるとき、泣くこと以外にどんな仕事があろう。泣くのを止めて違う想念で過ごしている暇などないはずだ。それに、涕泣よりも優れた課題などあろうか。修道士がそこに独りでいること自体、人間的な喜びからかけ離れた墓の中にいるようなものであり、修道士の活動とはまさに涕泣だと教えている。それに修道士という呼称の意味も、泣けと言って諭している。なぜならこの呼称は「嘆く者」、つまり「心に哀傷を負う者」という意味なのだ。だから聖人はみな涙を流しながら今世から来世へと移った。もし聖人ともあろう方々が泣いていたのなら、そのうえ来世へ移る日までいつもその目に涙が溢れていたのなら、いったいだれが泣かずにいられよう。修道士は泣くことで慰められる。そもそも完璧に勝ち抜いた聖人がここで泣いていたというのに、傷だらけの身で泣くのをやめたりしたらどんな目に遭ってしまうことか。目の前に横たわる死者を見て「むしろ私こそ罪に殺られた死者だ」と自覚する者ならば、泣いて何を思うべきかなど教わるまでもあるまい。なにせ全世界よりも大切なたましいが、そのあなたのたましいが、こうして罪に殺られて目の前に横たわっているというのに、どうして泣かずにいられようか。だから、われわれも人里離れて辛抱強く黙修に留まろう。黙修に留まっていれば、きっと涙を流せるようになる。頭の中で頻繁に、どうか涙を与えてくださいと主に祈ろう。というのも、このとびっきり優れた賜である涙の恩寵を手にすれば、恩寵に助けられて清さに至ることができるからだ。しかもそういう清さに至ったのであれば、もはやこの世を去る瞬間までその清さが無くなることはない。

かくして、心の清き者は幸いなのだ。なぜなら、途切れることなくこの恩寵の涙で楽しんでいるからである。そしてこの恩寵の中でいつも主を見ているからである。目から涙がこぼれ落ちるか落ちないかというときに、すでに祈りの高みにあって主の啓示を観るに与り、涙を流さずに祈ることもない。これこそ、主が「泣く者は幸いなり、かれら慰めを得んとすればなり」マトフェイ5 : 4と告げられた聖句の意味である。人は泣くことによって、心の清さに至るからである。ゆえに主は「かれら慰めを得んとすればなり」と告げただけで、その慰めがいったいどんな慰めなのかわざわざ説明されなかった。というのも、いみじくも修道士が泣いて慾の峠を越えて「清い心」という平野にたどり着ければ、おのずとこの慰めに包まれるからである。したがって、もし現世で慰めを探し求める者が「清い心」という平野に達して、現世では得がたい慰めを見出したのであれば、その時こそ、まさに泣き尽くすとどんな慰めが待っているのか、心が清いとどんな慰めに与ることになるのか目の当たりにするだろう。なぜなら絶えず泣く者は、慾に思い悩まされることがないからだ。ただ無慾になった者だけが、涙を流して泣くという賜を授かる。さらに言っておくと、しばらく泣き嘆いただけでも無慾に近づける上に、知性も慾の記憶をさっぱり洗い流して自由になれるのだとしたら、はたして日夜この業に賢く励んでいる者は、いったいどれほどの状態に至るのであろうか。だから、この業に全霊を投じた者以外に、涙がもたらす助力を知っている者はいないのである。聖人がみなこの入口に寄ってたかるのも、ひとえに涙で門を開いて慰めの国へ入っていけるからである。そして慰めの国へ入るなり表象をとおして啓示を受け、救いをもたらす至善なる神の跡を観ることになる。

質問  ただ、体力がなくて絶えず泣くことなどできない人もいるではありませんか。そのような人は知性を守るために何をすべきでしょうか。無為にしているせいで慾が暴れ出してしまわないようにするためです。

回答  もし修行者が人里離れた所へ隠遁し、その心も世に埋もれていなければ、よほど任務を怠る無精者でもないかぎり、霊(たましい)が慾の渦に悩まされることはない。こと聖書の研究に勤しんでいれば、聖句の意味を探しながらいささかも慾に悩まされずにいられる。というのは、聖書を深く理解して心に埋め込んでいくと空しい想念が逃げていき、もっと聖書を読んで知の糧にしたいと思わずにいられなくなるからだ。そしてこの世の生活には目もくれず、取り組んでいる業があまりにも楽しくて、索漠とした荒野の静寂の中で空しいことを思わなくなる。そうすると自分自身のことも本性のことも忘れ去り、まるで有頂天になった人のように現世をまったく振り返らず、ひたすら神の偉大さを思いめぐらして没頭してこう言うのだ。「光栄は聖なる神に帰し、神のなす奇蹟に帰すべし。その御業はなんと偉大にして驚くべきことか。なんという高みまでこの罪深い身を昇らせてくださったことか。おかげでこんなにも素晴らしいことを学び、どんどんすごいことを思えるようになってこの胸が躍っていることか」と。こうして昼夜御業を思って感嘆しながら陶酔し、あたかも復活後の生命をすでに味わっているのも、ひとえに黙修がこのような恩寵を強く呼び寄せるからである。なにせ黙修のおかげで知性が安らいで、知性が頭の内に留まれるようになったのだ。そして黙修者らしい生き方を忘れなくなったのだ。というのも、義人や修行者のいただく来世の光栄や福楽を思い描きながら万人の復活を思いめぐらしていると、現世によせる思いや追憶など跡形もなく消え去るからである。

そしてこの陶酔に満ち足りて、ふたたび来世から今生きている現世に観照を移すと、究めがたき神の摂理や善慮を見届けて「ああ深いかな神の富と智慧と知識や、その定めはいかに測りがたく、その道はいかに究めがたき」ロマ 11 : 33と驚嘆する。というのも、はたして神がかつて、こんな素晴らしい時空をどこか別の時空に整え、そこに理性的存在(天使や人間)を住まわせて終わりなく生かそうとしたことなどあっただろうか。なぜ神はこのような前段階といえる世界を造り、全世界を広げてこれほど豊かに満たし、いろいろな種属や生物をふんだんにこしらえて慾の誘因の入る余地も与え、生物がそれによって成長したり克己したりするようにされたのだろうか。それにしてもなぜ、まずは現世にわれわれを置いてこの世で長生きしたいと思わせておきながら、あるとき突然死によってここからもぎ取り、しばらく無感覚で動けない状態にしてこの人間という像を打ち砕かれるのか。つまり遺体を粉々にして土と同化させ、人体が原型をとどめないほど朽ちて消えるのに任せたのだろうか。そして、いったんそうしておいた後で、さらに崇高なる叡智が定めた時、つまり神が欲された時、神のみぞ知る新しい像に変えてわれわれを呼び起こし、いまとは違う新しい状態へ連れ出されるのだろうか。しかもわれわれだけがその新しい状態になることを願っているのではない。現世を生きる必要のない聖天使さえも願っているのだ。聖天使は飛びぬけた本性で限りなく完全にちかい存在なのに、われわれ人類が腐敗から立ち上がり、塵から起き上がって生まれ変わるのを待っている。というのも、われわれのせいで入口が閉じて入れなくなってしまったため、新時空の門がいつか開かれるのをずっと待っているのである。いずれ今流れている時空の構成全体が木端微塵に砕け、人間の本性も原初の状態に立ち返れば、ついにこの受造物(天使)もわれわれと共に、重たかった人体が軽くなるのを見て安らぐだろう。使徒も「それ受造物は甚だ慕いて、神の諸子のあらわれを待つ。すなわち受造物自らもまた敗壊のより解かれて、神の諸子の光栄の自由にらんことこれなり」ロマ 8 : 19, 21と言ったとおりである。

まさにこのような眺望から、黙修者はさらに知力を働かせてこの世が造られる以前に何があったかを思うだろう。そう、何一つ造られた物がなく、空もなければ地も天使もなく、存在を得たものが一つとしてなかった時代のことを。そして神がただ仁慈であるがゆえに何もなかったところから一気にすべてに存在を与え、どの受造物も神の前で完璧な形で現れたことを思うだろう。そしてふたたび知性でもって全受造物に目を向け、神の造った作品の比類なき美しさと智慧を注視し、考えれば考えるほど舌を巻くのである。

なんという奇蹟か。神はなんと捉えがたい高みにて摂理して動かされていることか。なんという驚くべき巨大な力が受造物に働きかけていることか。どうやってこの数えきれない多様な受造物を次々と無から有に導き出されたのか。しかも、なぜまたその受造物を木端微塵に打ち砕かれるのか。この見事に調和した世界の構造を根底から崩し、この美しい自然をぐちゃぐちゃにし、このきちんとした年月・昼夜の移り変わりや、年をきざむ季節の移ろいを叩きつぶされるのか。さらに、土から萌え出ずる多様な花々をずたずたにし、この立派な都会の建築物や華麗な宮殿を吹き飛ばし、この奔走する人々と「人が生きていること」自体を打ちのめし、この世に生まれて息を引き取るまで苦労を負い続けた人生を押しつぶされるのか。そしてこの見事な秩序が突如止まって異なる時空が訪れたが最後、だれも以前の時空にあった受造物について思い起こすことはなく、人の容姿も思慮もことごとく変り果てるという。人の本性すらも、この世のことやそもそも自分がどんな状態だったか覚えていない。なぜなら知性は次世の状態を観照するのに夢中になるため、いまさら血肉との闘いに戻る余裕などなくなるからだ。というのもこの時空が崩壊するとき、ほぼ同時に次の時空がやってくるのである。そのとき、だれもが口をそろえて言うだろう。「ああ、子供たちに忘れられてしまった母よ。これまで生み育てて教えてきたというのに、子供たちが一瞬でよそ者に取られ、生んだ試しもない石女の実子となり果ててしまったとは。さあ石女よ、いまこそ『妊まず、生まざる者、楽しめ』イサイヤ 54 : 1。なにせ地がなんじのために生み育ててくれた子供たちを、その懐に抱けたのだから」と。

ここまで思いめぐらした挙句に、きっと自問自答するに違いない。「この時空は、あとどれくらい持つのだろうか。そして次の時空はいつ始まるのだろうか。あとどれくらいの間、建物は現状のままびくともせず、身体は土くれを含んだままなのか。次はどんな生命が待っているのだろうか。この本性はどんな形で復活し、どんな仕組みとなり、どんなふうに新しい受造物へ移り変わっていくのだろうか」と。そして、そうこう考えているうちに歓喜に至り、感嘆のあまり言葉を失って立ち上がっては跪き、とめどなく涙を流して感謝と讃美を神に献げるだろう。ちょうどこれまでにも叡智の御業を見抜いた人々が神を讃美してきたように――。

ああ、このような状態にあずかった者は幸いである。こういうことを日夜考えている者は幸いである。こういった事柄を生涯思いめぐらしている者こそ幸いなのだ。かといって、黙修し始めたばかりの段階で、どうもまだ知性が浮ついてしまうせいでこういう観照力がなく、右記したような神の大いなる奇蹟まで昇りきることができなかったとしても、がっかりして黙修生活の静けさから離れたりしてはいけない。というのも、農夫でさえ種まきをする時点では、種を蒔いてすぐ実がたわわにつくのを目にするわけではなかろう。種まきをするとなれば、途方に暮れたり粉骨砕身してくたびれたり、友人や家族と離れて汗を流さなければならないことだってある。でもそういうことを何もかも耐え抜けば、やがてしかるべき時が訪れるなり飛び跳ねて喜び祝うことになるだろう。まさに汗水垂らして手に入れた属神的な糧を味わい、黙修の内から思慮が出なくなった時に喜び祝うことになるのだ。なにせ黙修に耐えて思いめぐらしていればこそ、心には底知れぬ深い満足感が生じ、知性は言いがたい驚嘆に至るからである。とにかく黙修を耐え忍ぶ者は幸いである。なぜなら目の前で神聖な泉が湧き出すからである。その泉を飲んで楽しみ、昼夜いつも飲み続け、いずれこの過ぎゆく人生の最後の一息をつく瞬間まで、ひたすら飲み続けることになるからである。

質問  黙修して修行しているときに最も重要なこととは何でしょうか。黙修生活において完徳に至ったと分かるのはどんなときでしょうか。

回答  絶え間ない祈りに与ったときだ。というのも、人は絶え間なく祈るようになったとき、あらゆる徳の高みへ昇り、もはや聖神の住処となるからである。この慰むる者(聖神)の恩寵を確実に得なければ、絶え間なく自由に祈ることなどできない。なぜならよく言われているように、聖神が宿るなり人が祈っているというよりも聖神自身が人のうちでいつも祈るようになるからであるロマ 8 : 26 参照)。こうなると、寝ても覚めてもたましいのうちで絶えず祈るようになり、食べていようと飲んでいようと寝ていようと仕事していようと、たといぐっすり熟睡していたとしても、心から香高い蒸気のごとく祈りがやすやすと昇っていくのだ。そうなるともはや祈りを手放さず、たとい見た目では黙っているように見えても、つねに見えない形で奉神礼を挙げていることになる。というのもある捧神者が述べたように、清い者の沈黙とは、祈りだからだ。なぜなら聖なることを思いめぐらしており、その思いも考えも柔和な歌声となって、見えない形で見えない神を讃美しているからである。

質問  属神的な祈りとは何でしょうか。どのようにして修行者はその祈りに与れるのでしょうか。

回答  人は抜かりなく汚れなく清まると、たましいが聖神の働きをけて動くようになる。しかもそのような聖神の働きにあずかるのは何十万人に一人いるかいないかだ。それは神秘的な来世の状態にして来世の生き方だからである。本性も昇華していった末、まったく動かくなって現世を忘れて機能しなくなる。たましいも祈祷して祈るのではなく、むしろ感覚的にかの時世の属神的事柄を捉えるようになる。その事柄は人知を超えているため聖神の力なくして捉えられない。これぞ祈りによる動きや探求ではなく、知性による観照なのだ。もちろん祈りから始まった観照であることは確かだが……。というのも、この観照やそれに似たものを通してすでに完全な清さに至った人が数名いる。そして先述したように、かれらは内なる動きで一時も祈りから離れることはなかったし、聖神が降ってきたとき常に祈っている状態であった。そしてこの祈りから聖神に導かれて属神的直観と呼ばれる観照へ昇ったのである。というのも長々と祈ってみたり、延々とつづく奉神礼に立ったまま参祷してみたりする必要などなかったのだ。ただ神を思い出すだけで充分であり、思い出したかと思いきや神への愛に捕らわれていた。といっても、決して公祈祷に立つことを怠けていたわけではない。むしろ公祈祷で参祷すべきときには参祷し、参祷後も絶え間なく祈っていた上に、なおかつ定刻が来るなり祈祷に立ったというわけだ。

というのも周知のとおり、聖アントニイなどは九時課の祈祷中に、知性が昇華したのを感じたというではないか。他にも、手を挙げて立って祈りながら四日間も有頂天のままだったという師父もいるし、そういう風に祈りながら強く神を思って没頭し、神を愛するあまり恍惚に至ったという師父も多い。人が、罪を殺す主の戒めを守り、内面でも外面でも罪を脱ぎ捨てたとき、このような状態に与ることができるのである。主の戒めを愛し、きちんと主の戒めを活かしたいならば、人間的な諸用事から自由になる必要がある。つまり体を脱ぎ捨てて体の外に出ることだ。ただし体自体を脱ぎ捨てよという意味ではなく、いわば体の基本的欲求を脱ぎ捨てて、飲み食いとはかけ離れたかたちで生きなければならないという意味である。いつも法を定めた方(神)の生き方に倣って生活し、主の戒めを指針として暮らしているならば、その人の内に罪の居場所はなくなるだろう。だからこそ主は、戒めを守る者の内に住処を作る、と福音書において約束されたのであるイオアン 14 : 23 参照)

質問  次々と聖神の賜を授かった末に、完徳に至るのはどういう時でしょうか。

回答  完全な神の愛に与ったときだ。

質問  どのような徴候によって、そのような愛にたどり着いたと分かるのでしょうか。

回答  神への思いが募るなり、心も神への愛に目覚めて目から涙が止まらなくなったときだ。なにせ愛する相手を思い出すと涙が出るのは自然なことだろう。神を愛しつづける者が涙に乾くことがないのも、いつも神を思う材料に事欠かないからである。すると睡眠中も神と対話するようになる。というのも、ふつう愛していればそんな風になるものであり、修行者がそのような領域に至ったということは、つまり完徳に至ったということである。

質問  たとえば苦労してへとへとになるまで闘った後で、傲慢な想いが入りこんできたとします。つい、あれだけひどい苦労に耐えて、よくぞ見事に徳行を成しとげたものだと思ってしまったからです。このような場合、どうやって傲慢な想いに打ち勝ったらよいでしょうか。傲慢の想念にやられてしまわないようにするためです。

回答  ちょうど木から落ちる枯れ葉のように神から落ちていく自分を認識したとき、たましいの力量を悟ることだろう。あれほど闘って徳を身につけてこられたのは、はたして自力によるものだったのだろうか、と。だが実際には、日頃からただ主に助けてもらってきたにすぎず、うかつにも妙な思いを抱いたせいで主に助けてもらえず悪魔と一対一で闘わされたが最後、おのれの力量、というか惨敗ぶりや四苦八苦ぶりがあらわになっただけのことなのだ。というのも、いつも修行者を支える神の摂理があなたにも寄り添ってくれていたのであり、神の摂理こそ聖人を守って力づけているものだからある。つまり人は、いかなる身分であっても神のために修行したり致命の苦痛を耐えたり困難を忍んでいれば、まさに神の摂理の力によって勝てるのだ。この事実は火を見るよりも明らかにして疑う余地はない。第一、このような本性でありながら、どうやって肢体に生じる快感に打ち勝つことなどできようか。快感に負ければ無念な思いをするに決まっているのに、手強い相手でなかなか抗おうにも抗えない。しかも快感に打ち勝ちたいと熱望しているにもかかわらず、なぜ快感に襲われるなり克服できない人たちがいるのか。克服できないどころか、毎日のように身体的快感に負けては辛酸を舐め、傷ついたたましいのことを泣いては無力感に陥っているのか。そういう人たちもいる中で、なぜあなたはこんなにも抗いがたい体の要求を楽々と持ちこたえ、取り乱さずにいられるのか。そしてこんなにも痛みに弱く、爪の裏を茨でちくんと刺されるのすら耐えがたい体が、鉄斧で切り刻まれようとも、あらゆる苦痛で肢体を打ちのめされようとも忍んでめげず、ふつう感じるようには苦痛を感じずにいられるのか。もし本性の力以外の他力が外からやってきて激痛を退けているのでなければ、こんなことが可能となるわけがなかろう。いやはや神の摂理について語り出した以上は、ここでしっかりたましいのためになる話をしておこう。まさに、闘う人を称える話である。

あるときフェオドルという青年が、迫害に遭って全身痛めつけられていた。「痛みを感じたでしょうか」と訊かれてこう答えたという。「打たれ始めたときは痛いと思いました。でもしばらくすると青年のような方が来て、汗を拭いてくれました。闘っているこの身を力づけて、苦しみを和らげてくれたのです」と。ああ、神の慈悲はなんと限りなく深いことか。神のために苦行を耐える者は、どれほど神の恩寵に寄り添ってもらえることか。恩寵に寄り添ってもらえるお陰で、神の名のために喜んで迫害を耐え忍ぶことができるのだ。

というわけで、人間よ。あなたのことを慮っていてくださる神の摂理に対して感謝の念を忘れてはならない。たといあなたが主の道具のようなもので明らかに勝利者ではなかったとしても、現に主があなたをとおして闘ってきてくれたおかげで勝利者の一人と思われているのだとしたら、どうしてつねに主の力を乞わずにいられようか。主の力でこれからも打ち勝って称賛を受け、神を讃えたとして何がいけないのか。いったいどれほど多くの修行者が、この恩寵に対する感謝の念を忘れたせいで高度な生活や修行から転落したことか、まさか知らないわけでもあるまい。神のもとには人々のためにいろいろな賜が用意されている。だから受けとれる賜にもいろいろとあるわけだが、それは受けとる側の水準に合わせて与えられる。大小いかなる賜も高級で素晴らしい賜だが、その賜が誉れ高ければ誉れ高いほど、受領者に求められる水準もより高くなる。これと同じことが、われわれの授かった修道士という賜にも言えるのだ。つまり「神に献身して徳に生きる道」という賜もハリストスの大いなる賜の一つなのだが、どうも恩寵のおかげで人里離れて神に献身できるようなったことを忘れてしまう者が多い。ひとえに神の恩寵に選ばれたおかげで、このような賜にあずかって神に献身できる身になったというのに、その事実を忘れて傲慢と自己過信に陥ってしまうわけだ。本来であれば、神のおかげで人里離れて奥義を知ることができたことに絶えず感謝し、恩寵に助けられながら清く生きて属神的に神に仕えるべきところを、われこそは神に慈しみを垂れてみせたのだなどと自負してしまうのである。そして、そんなふうに考えているので少しも震えおののかないどころか、かつて先人が同じ考えに陥った途端に尊厳を失ったという話を聞いても、つまり自負のせいで築き上げてきた栄誉の高みから瞬く間に主に落とされたという話を聞いてもびくともしない。ゆえに、汚れに手を染めて堕落していき、ほぼ家畜に成り下がって恥ずべき行為に溺れてしまうのである。なにせおのれの力量を弁えず、恩寵をくださったお方を常に記憶していなかったからである。それに恩寵のおかげで奉仕して神の国へ入れたことや、恩寵のおかげで天使のように生きて神に近づけたという事実を忘れてしまった以上、神に天の生活(修道生活)から追い払われてしまうのだ。そして黙修とかそういう生き方を後にしてはじめて、いかにこれまで本能にも悪魔の抵抗にも悩まされずに敬虔に生きてこられたとしても、それが自力でできた生活ではなかったと思い知るのである。自力でなかったどころか、すべて神の恩寵の力だったからである。そのうえ(これは世間には測りがたく理解できないことかもしれないが)、どれだけ長いこと恩寵のおかげで負けずにこられたか思い知るのである。当然いつも守り抜いてくださる力が、しっかり寄り添って助けてくださってきたわけだ。それなのに、この力を忘れてしまうのなら、使徒の言葉どおり「彼らは神をその思いに存するを願わざりしによりて、神は彼らを、戻れる心を抱きて、不当なることを行うにわたせり」ロマ 1 : 28となるだろう。要するに、土くれの分際にすぎないわれわれが、もし属神的な修行へ呼び寄せてくださったお方のことを忘れてしまうのなら、当然、その迷いに見合った恥を被ることになるのである。

質問  とつぜん思いきって共同生活を捨てた人が、よき熱意からひと気ない荒野に引きこもったせいで、欠乏のあまり飢えて死んでしまったとかいう話はないでしょうか。

回答  神は動物を造るときでさえ、まずは棲み処を用意して霊智なきものが生きられるように気遣ってくださった。であれば尚のこと、とくに試すわけでなく素直な気持ちで神に畏れ従っていこうとする者を軽視されるわけがない。おのが意志をことごとく神に献げきった者は、もはや衣食が足りるだろうとか病気にならないだろうかとか思い煩わない。それどころか隠遁して細々と生きようと思っているので苦難なんぞ恐れやしないのだ。むしろ清い生活ゆえに世界中から見放されることを快い甘味と捉え、丘や山に入って自分を弱らせつつ霊智なき動物とともに放浪者のごとく生きる。少しは体を休めろよとか、よほど汚れた人生の方がましじゃないかと囁かれても屈しやしない。そしてとうとう死にそうになったとき、どうしても神における清い生き方を失いたくなくて泣きながら祈りつづける。そのとき、神の助けが降ってくるのだ。光栄と栄誉は神に帰すべし。願わくは、われわれも主の清さのうちに守られて聖神の恩寵によって成聖されんことを。そして主の清さのうちに、主の聖なる名が讃栄せられんことを。今もいつも世々に、アミン。

 

第22訓話 貧窮を恐れる体は、罪の友となることについて

貧窮を恐れる体は罪の友となる、と述べた師父がいる。体を極限まで追い込んだら死んでしまうと叫ぶ者は罪の友となるということだ。だからこそ、聖神はあえて体が死ぬように仕向けてくるのだ。というのも、体が死ななければ罪に勝てないことを知っているからである。もし主に住みこんでもらいたければ、体を神に仕えさせて聖神の戒めにそって働き、使徒のいう「肉の行い」を避けてたましいを守ることだガラティヤ 5 : 19 参照)。体で罪を犯せば肉慾の行為にとろけてしまい、そうなると聖神の宿る余地はない。なにせ斎をして体をしずめて弱めればこそ、たましいでしっかり祈れるようになるからである。しかし黙修のひどい欠乏にあえいで死にそうになると、よく体からこんな頼りない声が聞こえてくる。「ちょっとくらい気を抜いてふつうに生きさせてくれ。もうしっかり生きられるようになったじゃないか。これでもさんざん苦しめられて色々な試練に耐えてきたのだぞ」と。そして同情心から体への苦しみを解き、いくらか休ませてあげたが最後、それほど長く休んだわけでもないのに徐々に甘い言葉で囁いてくる。しかもこの囁きはかなり強力なため、荒野から出るまで追いかけてくるだろう。「だいたいさ、世の近くにいたって立派に生きることはできるよね。だってかなり修行を積んできたじゃないか。だから、いままで規則を守りながら俗世にいたってきちんと生きられるはずさ。そう、ほんのちょっとだけでいいから試してみないか。もしやってみて気に入らなかったら荒野に戻ってくればいい。まさか荒野が消えてなくなるわけでもあるまい」と。こんなたわごとを信じるな。たとえひどく頼み込まれても、あれやこれや約束されても信じるな。体は言ったことを守りやしない。もし体の要求に応えようとするならば、ひどい堕落に陥って二度と抜け出せなくなってしまうだろう。

次々と試練に見舞われて落ちこんだときには、「また恥ずべき汚れた生活をしたいのか」と自分に言い聞かせるといい。そして体が「自分自身を殺すことは重罪だ」と口答えしてきたら、こう言い返してやれ。「ふしだらに生きられないから自分を殺すのだ。ここで死んでおけばたましいが真の死を見ることはない、つまり神の前で死ぬことはない。いっそ清さゆえにここで死んだ方がましだ。世間で忌まわしく生きることよりもずっとましだ。だいたい罪を犯してしまったから、あえてここで死ぬという道を選んだのだ。主に対して罪を犯してしまったからこそ、自分で自分を痛めつけるのだ。神から離れた人生に、なんの価値があろうか。天国へ入る望みから遠のいてしまわないよう、この苦しみに耐えていくつもりだ。この世でひどく生きて神を怒らせたりしたら、そもそも生きている意味がどこにある」と。

 

第23訓話 黙修を愛する兄弟へ宛てた書簡

兄が黙修を慕っているようなので一筆執ることにした。どうやらその思いを悪魔に見抜かれて、一見善いものに見えるものでいろいろ惑わされてしまっているようだね。このままではすっかり気を奪われて、いろいろな善の元となる黙修という徳を諦めざるを得なくなってしまうだろう。だから善良なる兄よ、親友としてその善き願望を支えるべく、徳の賢人たちから学んだことや実体験して学んだこと、さらに聖書や師父から学んだ有益な言葉を書き送っておこうと思う。なにせ誉められてもけなされても気にしないぐらいでないと黙修はできないし、たとい笑われても罵られても殴られてもぐっと堪え、いっそ白痴とかバカとか呼ばれるくらいにならないと黙修という善き志を貫くことなどできないからだ。なぜなら、ひとたびそういう他者の評価に対して何らかの反応を示したが最後、悪魔にいろんなきっかけをこしらえられて、いくらでも人と会ってまたそういう反応をするように仕向けられてしまうからである。というわけで、もし兄が黙修という徳を真に愛し、古代の師父が打ち勝ったように気を散らしたり諦めたり投げ出したりしなければ、その見上げるべき願望をかなえてくれる道を見出すだろう。しかも師父に倣って師父のように歩もうとした途端に見出すことだろう。そもそも師父たちは、黙修に徹することを愛して隣人愛を見せようともしなかった。あえて隣人をなだめようともせず、地位の高い人との面会を避けることすら憚らなかった。

そうやって師父は歩んだのだ。だからといって賢人とかこの道を知る人たちから、「兄弟のことを突き放して見下げる気か」とか「単にだらけているだけか、あるいは分別を失ったのではないか」などと咎められることもなかった。むしろ社会活動よりも黙修や修道を敬う人々の一人に「人は僧房にて黙修の甘美を知ると、他人を見下げて避けるわけではなく、ただ黙修の成果を守ろうとして避けるようになる」とまで弁護されたのだ。その人は「なぜ師父アルセニイは人を避け、いつも人に出くわすなり逃げ出したのだろうか」とも問うている。師父フェオドルなど、人と出くわすなり剣に刺されたと思っていたそうだ。だから僧房の外で人に会っても一言も挨拶をしなかった。しかも聖アルセニイなど、にこやかに僧房を訪れてきた相手にさえ挨拶しなかったのである。というのは、別の師父が訪ねてきたとき、つい世話役かと思って扉を開けてしまったのだが、世話役ではないと分かるなり突っ伏して、いかに相手が「どうか立ち上がってください、祝福だけいただいたら必ず帰ります」と頼んでも、「いや、お帰りになるまで立てません」ときっぱり断ったのである。ひとたび迎え入れたら、きっとまたやってくるに違いないと考えたからである。

もしや「それは会いに来た師父が、単に身分の低い人だったからアルセニイとしても断ったのではなかろうか。たぶん相手の地位さえ高ければ、顔を合わせて話をしたに違いない」などと思うだろうか。そんなことはこの手紙を読み進めてくれれば言えなくなるだろう。それどころか、アルセニイは身分の貴賤に関係なくだれをも等しく避けたのである。肝に銘じていたことはただ一つ、相手が偉かろうと偉くなかろうと黙修ゆえに関わらないこと、そして黙修しきるという名誉を守るためならば、いかに非難されようとも構わないと覚悟していたのだ。そうそう、次の話は兄も聞いたことがあるだろう。あるとき最高裁判官が師父アルセニイを表敬訪問したいと言うので、かの大主教福フェオフィルがその裁判官を連れてアルセニイを訪問したという。ところが師父アルセニイときたら、二人がどんなに言葉を聴きたそうにしていても、訪問者の栄職に対するご挨拶さえまともに述べなかったのである。ついに大主教から何かひとこと言ってくださいと頼み込まれると、しばらく黙ってから「何か申し上げたら守ってくださるでしょうか」と訊いたという。そして「もちろんですとも」という賛同を得るや、「ぜひ、どこそこにアルセニイがいるという噂を耳にされたら、どうかそこへは近寄らないでください」と返したのである。この善良な長老の尋常ならぬ精神に気づいただろうか。どれほど会話を軽んじていたか分かっただろうか。これぞ、黙修の実を刈り取った人間である。こんな奥地まで全世界の教師かつ教会のかしらがご足労くださったなどとは思いもせず、ひたすら「いちど世に対して永久に死んだ身だ。その死者がどうやって生者のお役になど立てようか」と念じていたのである。さらに、かの師父マカリイからも「なぜそんなに逃げようとされるのですか」と優しく問い詰められたとき、ものの見事に「あなた方を愛していることは神様がご存じです。ただ神と共にいながら、同時に人々と一緒にいることはできないのです」と弁明したという。はて、どこからこのような驚くべき知恵を得たのかというと、まさしく神の声以外のどこからでもなかった。なにせ「アルセニイよ、人々から逃げよ。そうすれば救われるだろう」というお告げを聴いたからである。

かりにあなたがどんなにおしゃべり好きな暇人であったとしても、アルセニイの言葉を踏みにじって「そんなのは、黙修を引き立てるために人間がひねり出した作り話でしょ」などと反論してはいけない。そんな厚顔無恥になってはいけない。むしろ、これは天上の教えなのだ。それに俗世から逃げればよいという話でもない。いっそ修道士兄弟からも逃げよという教えだったのである。現にアルセニイが世を捨てて大修道院に入った後にも何が起こったか。修道院でどう徳を積んだらよいか神に訊ねながら、「主よ、救われる道をお示しください」と祈ったとき、どういう答えを聞いたのか。きっと何か違うお告げを受けるだろうと思いきや、またもや「アルセニイよ、逃げよ。口をきかずに黙修せよ。たしかに兄弟と対話することで得られるものも沢山あるが、お前にとっては逃げた方がずっとためになる」と主宰の声に言われたではないか。そしてこの啓示を受けるなり、たしかに世俗人から離れるだけでは足りず、万人から等しく逃げないことには善き人生を送れないと確信したのである。なにせ俗世にいたときにも逃げろと言われ、修道院にいてもまた逃げろと命じられたのだ。はたして神の声に逆らって口答えできる者がいようか。それに、かの聖師父アントニイもまた、やはり啓示のうちに「黙修したければフィヴァイダに行くだけでなく、内面の奥深くにある砂漠に行け」と告げられたではないか。というわけで、神を愛する黙修者たちが、これほどにも人を避けて黙修を愛しなさいと神に命じられているというのに、どうして人々と睦まじく語らうことを正当化できようか。もしアルセニイとアントニイほどの聖人にとってさえ、慎重に逃げておくことが役に立ったのだとしたら、それこそ誘惑に弱いわれわれには逃げることがどれだけ役立つだろうか。そもそもアルセニイやアントニイといえば、世界中の人々から「ぜひお会いしてご助言を賜わりたい」と乞われていたような方々である。かかる聖人でさえ、全信徒、いや全人類に救いの手を差し伸べるよりも黙修した方が良いと神に告げられていたのだとしたら、まだ自分自身もろくに守れない者にとっては、どれほど黙修が欠かせないであろうか。

それに、こんな聖人の話も知っているだろう。その聖人は、あるとき属神の兄が病に倒れて別の僧房に隔離されたというのに、兄の闘病中に同情心に打ち勝って見舞いにも行かなかった。ゆえに差し迫る死を悟った兄から使いがよこされてこう告げられたという。「これまで見舞いにも来なかったのだから今くらいは足を運んでくれ。世を去る前に一目お会いしておきたいのだ。たとえば真夜中に来て、闇に隠れたままでもいい。君の手に接吻してから逝くことにしよう」と。しかし福なる聖人はこのような時でさえ、つまり人間であれば同情心からふつう折れざるを得ないような状況においてさえ、きっぱりと「もし行けば神の前で心が汚れてしまう。楽なほうをとって属神の兄を訪問し、ハリストスよりも本性を優先したことになるからだ」と言ったのである。そして病気の兄は逝き、この聖人に会うことはなかった。

ゆえに、だれ一人としてそんなの無理というふりをしてはならない。楽をして神の摂理に逆らって黙修を止めてはならない。もし聖人がこの勝ちがたい本性に打ち勝ち、黙修者が人々に疎んじられてもハリストスに愛されるのならば、もはや黙修を止めてまで優先すべき事柄などあろうか。福音書には、全世界も本性も二の次にして「心をつくし、たましいをつくし、おもいをつくして、主なんじの神を愛せよ」マトフェイ 22 : 37という戒めがあるが、この戒めは黙修の中でこそ実行しきれる戒めなのだ。そのうえ「隣人を愛せよ」という戒めもまた、黙修すればこそ可能となる戒めなのである。はたして戒めどおり、心に隣人愛を持ちたいと思うであろうか。持ちたければ、隣人から離れよ。離れればこそ、隣人への愛が炎のごとく燃え上がり、隣人を見るなり光の天使に会ったかと思うくらい胸がときめくことだろう。それと同じく、愛してくれている相手に、もっと会いたいと渇望してもらいたいだろうか。渇望してもらいたければ、そのような相手とは会う日を限定せよ。実際に限定してみれば、これがいかに効果覿面であるか分かると思う。どうか、お元気で。光栄と感謝はわれらの神に世々に帰す、アミン。

 

第24訓話 実兄に送付した書簡。世間で暮らす実兄から、ぜひとも会いに来てくれと頼み込まれた書簡数通に対する返信

お兄さんが思われているほど、私たちは強くありません。それに、もしかしたら私の弱さをご存じないために、まさかそんな些細ことで身を滅ぼすことなどあるまいと思われているのかもしれません。ゆえに気の向くままに思うべきではないことまで何度も頼み込んでくるのかもしれません。どうか肉体的な安らぎや機嫌を満たすことを要求しないでください。むしろこのたましいが救われるように慮ってください。あといくらもしないうちに私たちもこの世から去ることになるでしょう。万が一、お兄さんのところへ会いに行ったりしたら、道中どれほど大勢の人に出くわすことになるでしょうか。この僧房へ帰ってくるまでに、どれほど世間の慣習や状況が目に飛びこんでくるでしょうか。そしてそのたびに、どれほどこのたましいに想念の火種を受け入れてしまうでしょうか。やっとのことで慾が収まりかけてきたばかりだというのに、またもや慾がぶり返して、どれほどうろたえることになるでしょう。まさかご存じないわけではありますまい。どれほど修道士が世俗的なものを目にすると良くないか、きっとよくご存じのはずです。考えてもみてください。長いあいだ自分の内にこもっていた黙修者が、いきなり世俗に入って忘れていた事柄を見聞きしたときに、知性がどれほど変化を蒙るか。そもそも修行して敵(悪魔)と闘っている最中に、ただ苦行に無縁な修道士に会っただけでも被害を蒙るというのに、あろうことか世間に足を踏み入れたりした日には、どれほど深い井戸に落ちてしまうことでしょう。とくに何年も修行して知識を得た者ほど危険なのです。ああ、どうか敵の棘にやられませんように。ですから、どうしようもない事情でもないかぎり、たやすく来てくれなどと言わないでください。なかには目や耳から情報が入っても被害を受けないと言い切る人たちもいますが、そういう人たちの魅力に惑わされてはなりません。たしかに世の中には、荒野にいても世間にいても考えが変わらず、僧房にいても戸外にいても羽目を外さず、人や物を見ても慾が渦巻かない人もいるでしょう。そのように断言する人たちは、危害を加えられても何とも思わない人たちなのです。でも私たちは、まだ精神的にそこまでの健康状態には至っておりません。まだまだ傷口があちこちにあって悪臭を放っています。こんなに傷口があるというのに、もし一日でも放ったまま処置しなければ、つまりきちんと薬を塗って包帯を巻いてあげなければ、たちまち蛆虫にうじゃうじゃ覆われてしまうような分際なのですよ。

 

第25訓話 人が何かを知ろうとするときの手段は三通りあり、それぞれ「知り方」や「知り得るもの」が異なる。そのうち信仰とはたましいに秘められた富であり、その純朴さは世の知恵者が駆使する「知り方」とは掛け離れていることについて

信仰の道を歩んで人生の大半を過ごし、それなりに信じられるようになったというのに再び知恵に頼ろうとするならば、ほどなく信じにくくなって神゜で信じる力を失ってしまうだろう。なぜなら神゜による信仰力とは恩寵と手を組む純朴なものであり、自分のことを顧みて知恵を働かせたりしない清いたましいに宿るものだからである。ひとたび神を信じきって献身し、少しずつ経験を積んで神の助力を知りつくしたのなら、すでに自分のことまで思い煩わないはずだ。むしろ驚嘆して口をつぐみ、もはや自分の知恵を駆使しようなんぞ思わないはずなのである。なぜなら知恵を用いて逆らった日には、摂理による助力を失ってしまうからである。もとより神にひそかに見守られて始終いろいろ助けてもらっている分際にもかかわらず、こともあろうに知力だけでたましいの面倒を見られると夢見たようなものだからである。しかし信仰の光に目覚めている者ならば、神に祈りながら「これを与えてください」とか「これを取り除いてください」などという恥知らずな態度に出ることはなく、自分のことなど一切思い悩まないはずなのだ。なぜなら信仰による心眼で、いつも自分を照らしてくださる神父かみちちの摂理を見ているからである。現に、真の父はいかなる「父の愛」も及ばぬ無限の愛で、こちらが想像しうる量をはるかに超えて助けてくださっている。その溢れんばかりの絶対的な助力を心眼で見届けているからこそ、信じる者は自分のことを慮らないのである。

知恵は、信仰に逆らうものである。いっぽう信仰は、つねに信仰のおよぶ事柄にて知恵の法則を破っていく(ただし属神的知恵の法則は破らない)。知恵は、探求や研究なくしては何ひとつ実行できないどころか、むしろ考えたことや欲しいものが実現可能かどうか詮索せずにはいられない。その点、信仰はどうか。信仰は、信仰に対して曲がった心で近づく者を許さない。

人は知恵を増し加えていこうとする際、ひとまず探してみないことには見つけられず、いろいろ試してみないことには何の知恵も得られない。そしてこの点こそ、真理に対する迷いの兆しなのだ。いっぽう信仰をもつ際には、ただ清く単純に考えることだけが必要となり、裏から手を回したり工夫を凝らしたりすることは一切ない。かくして、信仰と知恵が互いにどれだけ相反するものであるのか分かっただろうか。信仰は、嬰児のごとき理解力と純朴な心に宿るものである。なにせ「歓喜よろこび朴直すなおなる心とをもって(中略)神を讃美し」行実 2 : 46とか、「なんじらもし転じて、幼児おさなごのごとくならずば、天国に入るを得ず」マトフェイ 18 : 3と言われているではないか。ところが知恵ときたら、この純朴であるべき知と心に罠をかけて自分の方へ引っ張るのだ。

知恵とは本性の限界内にあるため、本性の向かう先々で本性を守ろうとする。いっぽう信仰は、本性を超えた次元にて闊歩する。知恵は本性に危険なものには近づくことができず遠ざかろうとするが、信仰はやすやす近づいて「なんじ蝮と毒蛇とを踏み、獅子と大蛇とを踏まん」聖詠 90 : 13と宣言する。知恵は恐怖を伴うが、信仰は希望を伴う。人は知恵に頼れば頼るほど恐怖に包まれてその恐怖から逃れられなくなる。しかし信仰に従うのであれば、じきに自由な身になって独裁力を帯び、さながら神の子のように権威をもって自由に何でもできるようになる。このような信仰に生きた者は、神のごとく受造物の本性を統御できるようになる。なぜなら信仰を持つと、神にて新しい受造物を造り出す可能性が与えられるからである。聖書でも「望むなり」イオフ 23 : 13、すべてなんじの目の前に現れた、と言われているではないか。信仰はしばしば無から何かを引き起こすこともできる。しかし知恵は素材なしに何かを引き起こすことはできない。ゆえに自己過信して不可能なことをやろうとはしない。それにどうやってそんなことができようか。河面を歩けないのは当然だし、火に近寄れば燃えてしまうのは明白だ。たとえ、いっそ試してみるかと勇気を振り絞ってみたところで、とばっちりを食うことは目に見えている。

かくして、知恵はそういう危険から用心深く自分を守り、決してその一線を越えることはしない。だが信仰は独裁的に一線を越えて「火の中を歩いても焼かれず、大河の中を通っても押し流されない」イサイヤ 43 : 2 参照)と言い放つ。現にそういうことを全受造物の前で幾度となく起こしてきた。しかし知恵はそんなふうに行動する機会が与えられたとしても、まず試しやしないだろう。というのも人々は信仰によってこそ、しばしば炎に入って焼きつくす火力を抑えて無事に通り抜け、陸地を歩くようにして海上を歩いたからである。どれもこれも本性を超えた行為にして知恵の手段に反し、かつ知恵の手段や法則が空しいことを見せつけた事例である。さあ、どのようにして知恵が、本性の限界を固守しているか分かっただろうか。そして信仰が、どのように本性を超えた次元でいきいきと闊歩しているか分かっただろうか。こういった知恵の法則がおよそ五千年のあいだ世を支配してきたがゆえに、人間は地から頭を上げて造物主の力を知ることができなかったのである。しかしわれわれの信仰が輝いて以降、もはや考えあぐねて世の闇に隷属してしまう習性から解放された。ところがだ。こうしてようやく平穏な海と無尽蔵の宝を見つけたというのに、われわれときたらいまだに取るに足らない源泉に頼りたくなってしまう。でもどんなに知恵をつけたところで、しょせん人知には限界がある。しかし、信じれば地にも天にも収まりきらないほどの宝を得るのだ。人は信じて望んで心を強めると、何ひとつとして失うものがなくなる。たとえ何ひとつ手に持っていなくても、信仰によってすべてを持っているコリンフ後 6 : 10 参照)。じつに「およそ祈祷のとき信じて求むるところは、ことごとくこれを得ん」マトフェイ 21 : 22とか、「主は近し。何事をも慮るなかれ」フィリッピ 4 : 5~6と言われているとおりなのだ。

知恵はつねに得たものを何とかして守ろうとする。しかし信仰は「もし主家を造らずば、造る者徒に労し、もし主城を守らずば、守る者徒に儆醒す」聖詠 126 : 1 参照)と告げる。だから信じて祈っている者は、自分を守ろうとしたり、自己防衛の手段に頼ろうとしたりはしない。

しかも知恵は、いつの時代でも「恐れ」を讃えてきたのだ。それは「〈主を〉恐れる者のたましいは幸いなり」シラ 34 : 15)という知者ソロモンの言葉からも分かる。しかしその点、信仰はどうか。まさに信仰が揺らいだ途端に「恐れ、溺れんとし」たというではないかマトフェイ 14 : 30。よって聖書は、ハリストスのおかげで「なんじらは奴たる神゜、なお恐れを抱くものを受けたるにあらず、すなわち子たる神゜(を受けた)」のだと説くロマ 8 : 15。そして思うがままに神に信頼を寄せられるようになったのだという。だからこそ神に逆らう者たちを恐れて逃げ出すなともいうイエゼキイル 2 : 6 参照)。恐れを抱けば疑念が湧く。疑念が湧けばあれこれ詮索したくなる。そして詮索する際に用いる手段はただひとつ――知恵である。そのうえ探求して詮索している最中にも、いつの間にか恐れと疑いを抱いている自分を知る。なぜならすでに述べたように、知恵はいつでもどこでもうまく行くわけではないからだ。たとえば精神的に追い込まれたり不幸が重なったりした危機的状況下では、いくら知恵を絞っても何の解決にもならない。その逆に信仰は、全力を尽くしても頭をひねっても二進も三進もいかない逆境下であっても挫けることはない。だいたい知恵の力だけで、目に見えない霊や目に見える軍及びその他多くの敵ともろに闘って勝てるわけがあろうか。さあ、知恵と信仰の歴然とした力の差が分かっただろうか。人は知恵に頼るとき、本性にそぐわないものに近寄ることはできない。しかし信仰の力に頼るとき、まさにどうなるのか。主に「わが名によりて、魔鬼を追い出だし、蛇をり、毒を飲むとも、かれらを害せざらん」マルコ 16 : 17~18となるだろうと告げられている。

知恵に頼る者は知恵の法則に基づき、何をするにもまず着手以前に結果を探し求めてから取りかかろうとする。もしもその結果がひどい労苦を伴うものであるならば徒に汗を流すまいとし、また、着手後に力量不足で実現できなかったなんてことのないようにしようとするからである。だが、信仰に頼る者はどうなるか。「信ずる者にはよくせざることなし」マルコ 9 : 23と言われている。なぜなら神に不可能なことは何ひとつとしてないからである。ああ、なんという言いがたい富であることか。信仰やその力から溢れ出る宝の上には、なんという限りない賜が溢れていることか。信仰の道を歩むのであれば、どれだけ大胆になれて心地よい希望に満たされることであろうか。信仰の荷はなんと軽いのであろう。その行いはなんという甘美を伴っているのだろう。

質問  信仰の甘美を味わった後で、ふたたび知恵に頼る者は、どういう人に似ていると言えるでしょうか。

回答  高価な真珠を見つけたのに、それを銅貨に換えた人に似ている。完全に自由人であれる特権を持っていたのに、それを捨てて赤貧に戻って震え慄いている奴隷に似ている。

知恵は非難すべきものではないのだが、単に知恵よりも信仰の方が上なのだ。たとい非難するとしても知恵そのものを非難すべきではないし、知恵自体は非難してはならぬ。ただ知恵を信仰に反して悪用したり、それこそ悪知恵として使ったりすることが問題なのだ。この点については、次の諸点も含めて詳しく後述することにしよう。いったい知恵には、このように望ましくない方向へ上る階段が何段あり、上るごとにいかなる発見があるのか。そういう使い方をしていると、何を考えるようになるのか。そしてどのような使い方をしたときに信仰に反し、本性に背いてしまうのか。背いたとき、どんな特徴があるのか。その逆に、本来の目的に戻ってきたときには、いかなる水準で生来の性質に戻り、信仰に向かって敬虔に生き始めるのか。その敬虔な状態は、どこまで発展していけるのか。どうすれば現段階よりも上の段階に移れるのか。現段階や他の段階ないし上位段階には、どういった知恵の使い道があるのか。そして知恵が世を捨てて信仰と一体化して奮い立ち、神゜も燃えて無慾の翼を得るとき、いったいどんな方法で造物主の領域に昇ってゆくのか。もっとも、ふさわしい時の訪れるまでは、さしずめ信仰と信仰による上昇及びそれらの業が「知恵よりも上位である」と知っているだけで充分である。

知恵自体も信仰が加わってこそ円熟し、高みへ昇る力を得る。そしてあらゆる感覚を超えたものを感じ取り、受造物の知性や知恵では捉えがたい「かの光線」を観るようになる。知恵とは、階段である。人は知恵という階段を上って信仰の高みに昇るため、信仰の高みに至りしだい階段は要らなくなる。というのも、われわれは現時点では「知るところ全からず」、つまり知ることのできる部分もあれば想像するしかない部分もあるわけだが、「全き者の来るとき、全からざる者は止まん」コリンフ前 13 : 9~10 参照)となるからだ。というわけで、もはや実際に完徳というものがあることを思い描かせてくれるのは信仰なのだ。その測りがたき完徳は、信仰によって研究することはできても、探求や知恵でもって研究することはできない。

正義の業とは以下のとおりである。斎をしたり喜捨をしたり、儆醒して貞潔を守るなど体を介した行為。また、隣人愛や謙遜を育んで過失を赦し、天の福楽を思って聖書の奥義を究め、心の中でいかに慾を抑えて完徳を目指そうか思いめぐらす知的修行。いずれの業においても知恵が欠かせず、知恵でもってその業を守り抜く。どの業も、たましいが信仰という頂点に昇りきるまでの階段にすぎないとはいえ、やはり徳行と呼ばれている。しかるに信仰による生活というのは、徳行よりも上にある。そもそも信仰による修行とは、本質的に業ではなく、波ひとつ立たない平安であり慰安なのだ。そして心の中の言葉を聴こうとする霊的活動なのだ。さらに尋常ならぬ属神的生活を送り、属神的生命を感じて楽しみ、霊的に楽しみながら神を求めて喜ぶことなのである。それ以外にも、天の福楽にふさわしいたましいに与えられる賜は多い。それらは、信仰深く聖書に示されているように、恵み豊かな神によって現世にもたらされる奇蹟そのものなのである。

疑問  でもこう考える人が出ないでしょうか。「もし知恵でもってそういう徳行や福楽を得ているのなら、なにゆえ知恵が信仰に逆らうなどと言うのか。そもそも知恵を用いればこそ悪習を避けることができ、たましいに湧く微妙な想念を見極めて闘うこともでき、激しい慾にも立ち向かえると言ったではないか。知恵を働かせなければ、信仰だけでは霊的修行を行えないではないか」と。

疑問への解答  お答えしよう。知恵の使い道には三通りあり、人はこの三つのあいだを昇ったり降ったりしている。使い道が変わることもあるし、知恵自体も変化することがある。知恵はそういった変化によって、人に害を及ぼすこともあれば益をもたらすこともあるのだ。ここでいう三つの使い道とは、体のためか、たましいのためか、神゜のためかである。そして知恵自体は一つなのだが、こういった思惟や感覚の領域に合わせて鋭くなったり、使い道や考え方を変えたりする。よく心して聴きたまえ。三つの使い道とはどういうもので、何が原因となって害や益をもたらすのか。知恵というのは理性的実体が造られた当初から授かってきた賜であり、もとより日光のごとく純朴で区分できないものなのだが、いかに知恵を働かせているかによって変化したり区分できたりするものなのである。

 

第26訓話 知恵の第一段階について

知恵が肉欲の言いなりになっているとき、人は次のようなことしか考えない。「いかに富んで見栄を張り、お洒落をして体に楽をさせようか。どう賢く説き伏せて世を渡り、革新的な発明をしてみせようか」など。また、そういう抜け目なさで芸術作品や学説をこしらえて、目に見えるかたちで世俗的名誉を受けようとする。まさにこのような点において、知恵は信仰に逆らうのである。こういった知恵が不毛な知恵と呼ばれているのも、神慮を無視して体ばかり重視しているせいで知性が愚かにも無力となり、完全にこの世のことしか考えられなくなっているからである。これが、肉的な知恵の姿である。こんなふうに知恵を働かせることができるのも、じつは知恵というものがひそかに人を操る思惟力であり、まちがいなく当人のことを心にかけてくださっている神の慮りの力だからである。だから当人としても世を支配する神の摂理が見えず、まさに知恵のおかげで上手に暮らし、ここで知恵を絞ったからこそ危険を避け、あらゆる困難から逃れられたのだと思いこんでしまうのだ。頭でっかちな知恵者はこのように考えている。そして、すべて自分の思うように物事が進んでほしいと夢見ているので、その点では現世に支配者などいないと主張する連中と同じだ。もっとも、こういう知恵者は心配が絶えず、身の危険への恐怖が絶えないため、びくびくして悲しんだり絶望したり、魔鬼や人々に怯えたり、強盗の噂や訃報を受けて身震いする。さらに病気しないように用心し、必需品に事欠かないようあくせくしながら死も苦難も恐れ、禽獣に遭うことなども怖がっているので、まるで年がら年中荒れ狂う海を泳いでいるかのようだ。なぜなら心配事を神に預けて神を信じきるという術を知らないからである。だからこの身にまつわることをどうやって乗り越えようかと考えたり、抜け目ない手段を編み出したりするのに忙しい。そして編み出した手段がふとした拍子に失敗した日には、もしもその失敗に込められた摂理を見抜けなければ、進みたいと思っている前途に立ちはだかってくる人々といがみ合うことになる。

まさにこの知恵に「善悪を知る木」が植えつけられているため、ことごとく愛を干からびさせているのだ。だからこのような知恵をよりどころとする者は、他人の微々たる失敗を詮索し、他人の咎や弱さを非難し、説教を垂れて言い返したくなり、ずる賢い手や謀略を用いて人道に反する手段にまで触手を伸ばす。そこにあるのは思い上がった傲慢だ。なぜなら善いことはすべて自分に帰しており、神に帰さないからである。

いっぽう信仰は、自分で行なったことも恩寵によるものと捉える。ゆえに「われを堅むるイイスス・ハリストスによりて、われくせざるところなし」フィリッピ 4 : 13とか、「しかるに我にあらず、すなわち我と共にする神の恩寵なり」コリンフ前 15 : 10とあるように、思い上がることなどできない。しかも福なる使徒はこの肉的な知恵のことを指して、「知識は誇りを致す」コリンフ前 8 : 1と言ったのだ。つまり神への信仰や希望を伴わない知恵を指してそう言ったのであって、決して真実の知恵を指してそう言ったのではない。そんなことはありえない。

いっぽう真実の知恵は、人性にあたうかぎりくもりなき知恵へ至ったたましいをへりくだらせる。それは、かつてモイセイやダヴィドやイサイヤや、ペトルやパウェルをはじめとした聖人たちが、くもりなき真実の知恵に至って遜ったのと同じである。このような聖人に似た者たちも、いつも並みならぬ観照を目にしながら、神の啓示や属神的な事柄を洞察して得もいえぬ奥義を知ってゆく。すると、自分のたましいなど取るに足らない塵灰のごとく見えてくる。いっぽう肉の知恵は、闇の中を歩いているがゆえに驕り高ぶっている。そして地上の物事と見比べて自分の業績を評価し、何かもっと優れた物事があるということを知らない。概してそういう人たちは地上に根付き、他者との暮らしぶりを見比べて矜恃を抱いているので、自分の業績にあぐらをかいて、悟りがたきことなど考えようともしない。そしてこのような状態に留まっている限り、その状態から抜け出られない。しかし聖人たちは、誉れ高き神聖な徳のうちに成長してゆく。その行動が高みへ向かい、空しいことや新発明に対して見向きもしないのは、ひたすら光の中を歩んでいて迷いようがないからだ。ゆえに人間は、神の子を知る光から遠ざかって真実から逸れるなり、だれもがこういうちっぽけな路を歩むことになる。この小路こそ知恵の第一段階であり、知恵が肉欲に利用されている段階である。ゆえに、われわれはこの知恵を有害なものとし、信仰だけでなく諸徳にも逆らう知恵とみなしているのだ。

 

第27訓話 知恵の第二段階について

人は第一段階を捨てて霊的なことを渇き求めていれば、たましいの生来の光に照らされて五感でも霊的観照でも優れた修行をするようになる。つまり第二十五訓話でも述べたとおり、斎をして祈り、喜捨をして聖書を精読し、徳を積んで慾と闘うようになる。というのは、この段階にて知恵の力をとおして善行をするのは聖神ご自身であり、まさに聖神がたましいを善い状態にして正教徒らしく奉仕させてくれているからである。心もこの知恵が降ってくるおかげで信仰の道を見つけ、来世へ持ちこめる徳を積み上げてゆく。しかしこの段階においても、知恵はまだ目に見えるかたちでいろいろと思い描いている。たしかにしっかり信仰へ導いてくれる道であるとはいえ、実際にはこの段階よりももっと高度な知恵があるわけだ。ゆえに第二段階として人里離れて黙修に徹し、聖書を読んで祈り、その他この段階でなすべき善行に勤しんでいれば、あわよくばハリストスの助力を受けてより上位の段階へ行ける可能性も開けてくるであろう。第二段階の知恵によってこそ、すばらしいことが何もかも生じてくるのである。よって、第二段階の知恵は「修行の知恵」と呼ばれている。なぜなら五感を駆使した修行でもって、目に見える水準の修行を成しとげていくからである。アミン。

 

第28訓話 知恵の第三段階、つまり完徳の段階について

さあよく耳を傾けて、どうすれば人が研ぎ澄まされて属神的になり、天使の生活に近づけるのか見極めよ。天使は、目に見える形ではなく知性の注意力のみで仕えている。ゆえに、われわれも俗事を慮らずに知恵を地上から昇華させ、内なる思いを調べて慾の要因をいくらか軽んじることができたとき、そのとき天を仰いで信じたとおり来世を思えるようになり、約束された事柄や奥義も探求できるようになるのだ。すると知恵は、信仰の勢いに呑まれて新たな知恵に変容する。そう、丸ごと神゜となるのである。

そのとき知恵は、天使の領域を飛んでふれがたい海の底に触れ、もとより天使も人間も恩寵のおかげで知覚しているという奇蹟に思い至り、研ぎ澄まされた純朴な知性だけが悟りうる属神的奥義を探すようになる。すると内なる意識も属神的修行に目覚め、来世の朽ちない不死の生命を得ようとする。このように、まさに地上にいるうちに「内なる意識が目覚める」という現象自体が、すでに思考内で知恵がひそかに復活し、来るべき万人の復活を実証したということなのである。

以上の三段階が、知恵の使い道の違いである。まさに体のために使うか、たましいのために使うか、神゜のために使うか、の違いである。人は物心がついてから息を引き取る瞬間まで、たましいで物事をとらえる際にこの3つの次元を行き来する。そして3つのうちどの次元にいるかによって、恥ずべき不正を犯したり、優れた正義を行なったり、神゜の奥義の深みに触れたりするのである。そしてその3つの次元にわたる知恵を常時働かせて、善を目指したり悪に傾いたり、あるいは善悪の中間地点で迷ったりするのである。師父は、これらの次元を「本性的知恵」「反本性的知恵」「超本性的知恵」と名付けた。そしてこれぞ、知恵あるたましいが記憶の中で昇り降りする3つの方向性なのである。人はこの3つの方向性にそって、上述したように本性による正義を行なったり、あるいは本性を超えた正義を思い出したり、あるいは豚に成り下がって堕落し、分別という財産を無駄遣いして悪鬼に加担したりしてしまうのだ。

上述した知恵の三段階のまとめ

人は知恵の第一段階にいるとき、たましいが冷えて神への修行に向かえない。第二段階にいるとき、たましいが熱くなって信仰の水準にあるものへ邁進する。第三段階にいるとき、手をやすめて平安を得(これぞ来世の像である)、つねに知性で学んで来世の奥義を楽しむことができる。とうぜん前段階の逸れやすい知恵よりも優れているわけだ。しかし、そもそも重い肉体を着た死すべき身でありながら常にとびぬけた高みで属神的に洞察しつづけるわけにもいかない以上、第三段階の知恵も非の打ち所のない完全性に仕えることはできず、肉性を捨てきって霊界に留まり続けていることなどできない。むしろ人は肉体をもって生きている限り、つねに知恵の三段階を行き来する状態にあるのだ。ろくに何もできずみすぼらしかったたましいがいきなり第二段階、つまり徳の中級レベルで働き出すこともある。もしかしたら生来の徳をするよう体の本性に助けられたのかもしれない。そうかと思いきや、さながら神の子となる神゜を受けたかのように神秘の中で自由に、属神的恩寵を賜わった方にふさわしく楽しむこともある。その上で、ふたたびへりくだって身体的業務に戻るのだ。すると恩寵が、その人のたましいを守って偽りの世に釣られて敵に騙されないように防ぐだけでなく、どぎまぎさせるふしだらな思いからも守ろうとする。なにせ肉体をまとっているうちは信用できないからである。というのも、この不完全である時世において、完全な自由などありえないからだ。知恵というのは、どの段階であろうとも実地に活かしながら磨いていくものである。ただし信仰は、実地に活かすのではなく属神的思考で行なうものにして純粋に霊的行為であり、意識よりも上位にある行為である。というのは、五感で感じられる物よりも知恵の方が繊細なように、知恵よりも信仰のほうが繊細だからである。いかなる聖人も信仰によって暮らし(これぞ神への行進)、信仰力でもってかの超自然的生活を楽しんでいる。

ただしここで「信仰」と呼んでいるのは、なにも叩拝すべき神の三位の違いを信じるとか、さらに神性にしかない超越的本性を洞察して、神が藉身して人性をとったという驚くべき摂理を信じるとかいう話ではない(もちろんそれとて立派な信仰なのだが)。むしろたましいが恩寵の光を受けて信仰に燃え、知性に裏づけられて心を強め、まったく気負うことなく神に期待して毫も疑わない信仰を指す。そしてこのような信仰は、たくさん耳で聞いたことによって生じるものではなく、むしろたましいの内奥で神秘を観る属神的な心眼に見えてくるものなのだ。この目に見えない神妙な富は、肉体的な人の目には隠されており、ただハリストスの法則を学び、ハリストスの食卓で神゜に育まれていく者のみに啓かれてくるものである。まさに主が、わが戒めを守らば真実の神゜を、つまり慰むる者を送らんと言われたとおりである。さらに主は「世は彼を受くるあたわず」と告げられ、その世に受け入れられない聖神がおよその真実を「なんじらに教えん」イオアン 14 : 17, 26ともおっしゃった。主が示してくださったこの聖なる力は、いつも人の中で息づく庇護者として、かつ人を守る思惟の砦となって有害なものをことごとく退け、心身に危害が及ばないよう守ってくださる。属神的に物事が見えている知性は、まさにこの力を目にせずとも信仰の目にて感じとる。とくに聖人は実体験をとおしてこの力を知ってゆく。

そしてこの力こそ、「慰むる者」ご自身なのだ。たましいはこの力を受けると火がついたように強い信仰に目覚め、まっすぐ神を信頼しきってどんな危険も顧みず、ひたすら信仰の翼に乗って目に見える受造物を超えて昇ってゆく。そして日々まるで陶酔しているかのように神妙な摂理を見ては驚嘆し、純朴な観照に与り、神の本性を目にすることなく洞察する。すると知性も釣られて神の奥義を注意深く研究するようになる。というのは、まだ機密の執行者である「真実の神゜」がいらっしゃらず、まだはっきり真実の啓示に与っていないうちは、信仰こそが、神と聖人の間にあって得もいえぬ機密を行なってくれるからだ。願わくは、われわれもハリストスご自身の恩寵によって、その得もいえぬ機密をこの世にいながら受けて担保とし、なお神を愛する者たちとともに天国において実際に受けられんことを。アミン。

 

第29訓話 別の捉え方で区分した知恵の違いについて 

知恵の種類は、別の捉え方によれば以下のような区分になる。人が世のしきたりどおり地上の事柄を捉えているとき、その知恵は本性的知恵と呼ばれる。しかし知力でもって霊界の性質を考察するとき、その知恵は属神的知恵と呼ばれる。なぜなら意識ではなく神゜によって感じとっているからだ。人はこの本性的知恵と属神的知恵を外から取り入れて直感的に見分ける。しかし神聖なものに到達したときには、その知恵は超本性的知恵と呼ばれる。そして、こればかりはあらかじめ知りようがなく、知恵を超えた知恵なのだ。それにたましいがこの知恵で観照するときは、本性的知恵や属神的知恵のように外の物質に基づいて観照するわけではない。そうではなく、ただたましい自体の内部に非物質的に、無償で、いきなり期待以上に露わになり、内の内から啓かれてくるのだ。なぜならハリストスの言うとおり「神の国はなんじらの内にあり」ルカ 17 : 21だからである。この知恵は予想できるものでもなく、何かを遵守したから与えられるのでもなく、ただ知性の奥底に押印された内なる像から、観ようともしていないのにおのずと啓かれてくるものなのだ。なぜなら知性はそこになんの物質も見出さないからである。

本性的知恵というのは、ひたすら追究して骨身を惜しまず学習した末に得られる知恵である。いっぽう属神的知恵というのは、賢く信じて善良に生きてきた末に得られる知恵である。だが超本性的知恵ばかりは、ただ信仰だけに当たる籤なのだ。なぜなら信じることで知恵も不要となり、修行も打ち切られ、意識を活用するまでもなくなるからである。だから、この究極地点から下がれば下がるほど知恵は褒めそやされ、下れば下るほど褒め称えられる。そして地と世俗的なものに足がついたとき、知恵はすべてに対して君臨するのだ。そのとき、知恵なくしては何もできず何をやってもうまくいかない。しかしたましいが観照する目を高みへ向け、思いを天上にて繰り広げ、目に見えない領域や肉体に属さない事柄を渇き求めるとき、万事は信仰に貫かれる。願わくは「世々に祝讃せらるる者」である主イイスス・ハリストスが、この信仰を私たちにも与えてくださらんことを。アミンロマ 9 : 5

 

第30訓話 祈り方について。正しく守れば読者に役立つ事柄と、いつも覚えておくべきことについて

祈祷中に神に望みをかけきった状態になることは、信仰という恩寵の強みである。もちろん正教を信じることは基本だが、正教徒になったからといって神を信じきれるというものでもない。人は、その生き様で真実を知るのだ。「(行いを伴う)生きた信仰を持て」という聖書の教えは、未洗礼者や異端者でなく、正教徒に向けられた教えである。なぜなら気高く主の戒めどおりに生きればこそ、徐々に神に望みをかけきって毫も疑わない信仰に至るからである。

昼も夜も聖書を研究していれば霊的に明るくなる。どうやって慾に気をつけて清く祈って神の愛にとどまろうか考えたり、聖人の歩んだ平安の道が見えてきたりするからである。もっとも祈祷や読書をした後に、たとい奮起したり心を痛めつづけていたりできなくても、ふだん唱えている祈祷文の力を疑ってはならない。

経験に裏づけられた言葉であれば、たとい学者の言葉でなくても欠かさず受け入れよ。この地上で最も豊かなはずの国王でさえ、蔑まずに乞食の一銭を受領して私財に加えているではないか。それに一滴一滴が集まって川となり、大河となっているではないか。

記憶を守ることについて

もし善なることを思い出すだけで徳がよみがえるのであれば、当然ふしだらなことを思い出すだけで汚れた欲求がよみがえる。なぜなら人は思い出すとき、その思い出している事柄のもつ特徴を思い描くことで、いわば想念の汚れなり生活の高みなりを目にし、それを見ながら想いの動きを良い方にも悪い方にも強めてゆくからである。こうしてわれわれは知性の内奥でしばしば思いめぐらし、そこに自分の暮らしぶりをありのままに描いているため否応なくいつも自分自身を見ていることになる。もっと言ってしまうと、ただ思いめぐらして害を蒙っているだけでなく、心像からも、心像を映し出す記憶自体からも害を蒙っているのである。ゆえに徳行に励んでいれば、ただ徳行に助けられるだけではなく、徳を積んだ修行者の顔を思い出すだけでも救われる。

かくして、なぜ清さに達した人々が、よく夜になると夢の中で聖人に会ったかが分かるだろう。なぜなら知的訓練として一日中その聖人を思い描いては喜びの泉とし、たましいに刷り込んでいたからだ。だからこそ腕をまくって徳行に取り組み、何としてでも徳を成しとげたいと渇望できたのである。また聞くところによると、聖天使はたましいが思い煩っているときに、尊貴なる聖人の姿をまとって夢に現れてくるという。するとたましいは感嘆して喜び勇み、日が上りしだい想念を調べながら夢で見た姿をつねに思い起こし、それを見ながら喜んでいるので修行も楽になるという。そのようにして属神的に成長していくのだ。同じことが、慾と闘いつづけているときにも起こる。ふしだらな思いを抱く癖をもつと、悪鬼にいじられてそういう夢を見るようになる。たましいが夢想したその姿をまとって悪鬼が現れてくるわけだ。たましいはそれを見て震え慄くが、むしろ日中にそういうことを思い起こしていたからそういう悪夢を見るのである。しかもこういう悪夢を見ると、ほどなく疲れきってしまうだけでなく、もう人里離れた黙修生活なんて無理なのではないかと思ってしまうこともある。

よって兄弟よ、われわれは記憶と記憶からくるたましいの状態を注視するにあたり、今後はどういった思い出が頭を占めているのか識別しようではないか。かたや気を取られてしまうような思い出もあれば、かたや心に浮かび次第すぐに振り払うことができる思い出もあるわけだ。つまり、それは慾を刺激するために悪鬼がこしらえた追憶なのか、それとも自分から渇き求めて興奮した追憶なのか。あるいは聖天使が喜びや知恵を暗示してくれたときの追憶だったり、聖天使が近づいてきて想念で奮い立ったりしたときの追憶なのか。あるいはかつて捉えた印象から湧き起こる想像でもって一つの対象に執着してしまう追憶なのか、よくよくよく見極めておこうではないか。このように見極めて認識を深めたとき、人は二つの領域で力をつける。思い出に対する判断力と、思い出で悟った物事に対する行動力だ。ただし思い出を見極める際にも、見極めて悟った物事に対して行動を起こす際にも、つねにしっかり祈るよう努めよう。

愛の様々な段階について

何かしら物を原因として湧き起こる愛は、油でもって光を維持する小さな燈明のようなものだ。あるいは大雨で溢れた濁流のように雨がやめば絶えてしまうような代物だ。しかし神を起点とする愛は、地下からほとばしる湧き水のようである。その愛の流れは決して尽きることがなく(なぜなら神だけが愛の泉だからである)、愛そのものが涸れることもない。

思いめぐらすことなく祈るにはどうすべきか

祈りながら祈祷文を楽しみたいだろうか。つまり口で唱えている聖神の言葉の手応えを感じたいだろうか。ならば、祈りの量をまったく気にするな。どれだけその祈祷文を知りつくしたか顧みず、まさに祈りとして唱えよ。よくやってしまうように判で押したように読み上げるのではなく、いまから話す内容や、引用する師父の金言をよく理解せよ。まずは、没頭して聖神の言葉を学べ。そうすれば、神意に胸を打たれて聖書の言葉を会得したくなり、会得するばするほど神を讃美したり、よき悲哀に浸って悔改したりするようになるだろう。祈りの中で手応えを掴んだら、それを身につけるようにせよ。知性がそうやっているうちに揺るがなくなれば、思い煩いは消え去るだろう。というのも、知性としても奴隷のように仕方なく祈りを読み上げているうちは平安がないが、子のように自由になれば思い煩いがなくなるからだ。ふつう思い煩っていると意味も味わえず理解力も落ち、まるで蛭のように肢体にまとわりつかれて血も命も吸い取られてしまう。それに思い煩いは、もしそう言ってしまうのが許されるのであれば、悪魔の馬車と呼ぶにふさわしい。なぜならサタナは、よく騎手のごとく諸慾をたくさん抱えて知性を乗っ取り、哀れなたましいに踏み込んできて思い煩いで満たすからである。ただし次の点もよく心得ておけ。聖詠を唱えるとき、他人の言葉を借りてきたようにして唱えてはならない。それは永久に学びつづけているだけじゃないかと思わないようにするためでもあり、聖句から汲みとれるはずの傷感と喜びから遠のいてしまわないようにするためでもある。そうではなくて、むしろ傷感と分別をもって意味を汲みとり、自分の行為を真に理解している者として、まさに自分自身の祈りとして唱えることだ。

どこから倦怠は来るのか。どうしてあれこれ考えてしまうのか

倦怠は、あれこれ考えることから起こる。あれこれ考えることは、暇を持て余していることから起こる。あるいは読みすぎか、無駄話か、腹を満たすことから起こる。

邪念に言い返してはならず、ただ神に身を投げ出すべきことについて

敵に邪な想いを吹きこまれても言い返さず、ひとことも言い合わずに神に祈るとき、知性が恩寵によって英知を得た兆しである。まさに無駄事から離れて真の知恵に至り、ついに見つけた短い道を通ることであれこれ考える長い道のりを克服したしるしである。なぜならわれわれは、毎分毎妙どんな邪念にも言い返してやり込められるわけではないからだ。むしろしばしば邪念に傷つけられ、長らく治せないままでいるではないか。なにせ相手は六千年も経験を積んできた強者だ。そんな強者に教えを垂れてみせようなどという愚行に走ったが最後、その愚かさを逆手に取られてこっぴどくやられてしまう。どんなにあなたが賢くて聡明であろうと関係ない。たとい言い返して奴らに打ち勝つことができたとしても、やはり知性が邪念の汚れに穢され、その悪臭が鼻について長らくつきまとってくるであろう。だから冒頭で述べた方法を用いれば、これらの問題や恐れから一切解放されるのだ。なぜなら神を差し置いて、他の助力は存在しないからである。

涙について

祈っているときに涙が流れたら、たましいが悔改して神に憐れんでもらえた兆しである。どうやら祈りが受け入れられて、涙でもって清い平野へ入りはじめたようだ。なにせ過ぎ去る物事への想念を断ち切り、現世への希望を捨てないかぎり涙が流れることはないからである。それに、現世のことがどうでもよくなり、少しでも美しく来世へ移れるよう備え、来世でどうなるかたましいの中で思いめぐらすようにならないかぎり目が涙で潤うことはない。なぜなら涙というのは、思いが微塵の汚れもなく高ぶらなくなった成果であり、ぶれない想念が次々と湧いている結果だからである。それこそ脳裏で属神的な何かを記憶している証であり、その記憶によって心に悲哀がもたらされているのだ。この悲哀から涙が溢れ出て、どんどん流れてゆくのである。

手仕事と金銭欲ついて

黙修中に手仕事をするときには、いくら師父が手仕事をせよと言ったからといって、その言葉を盾にしてひと儲けしてやろうなどと思ってはならない。倦怠に陥るのを防ぐために、知性を煩わせない手ごろな仕事があるのは良いだろう。しかし、もっと仕事を増やして喜捨でもしようかなと思いついたときには、喜捨よりも祈りの方が上だと心得よ。あるいは、もっと働いて衣食住に回そうなどと思いついたときには、よほど貪欲でもない限り、神に与えられたもので十分に満足できるはずだ。なにせ神の奉仕者が貧窮するのを神に放っておかれた試しはないからである。主は「なんじらまず神の国とその義を求めよ、しからばこれらのもの皆なんじらに加わらん」マタイ 6 : 33と告げられたではないか。まさにこちらから願うまでもなく、「これらのもの皆なんじらに加わらん」とおっしゃったのである。

ある聖人はこう言った。「隠修士は何のために生活しているのか。決して飢えた人々に食を与えたり旅人を泊まらせたりするために生活しているのではない。それは世俗人の仕事であって、たとい世俗人には素晴らしい仕事であっても隠修士のする仕事ではない。目に見える慮りから自由の身となって祈りつつ知性を守ること、これこそ隠修士というものだ」。

 

第31訓話 隠修について。恐れずに神を信頼して心を固く保つべきことについて。われわれは神に警備されて守られている以上、疑わない信仰を持って穏やかでいるべきことについて

ありがたくも自由の王国で軽い荷をになう隠修士になれたのであれば、以前のように不安に駆られて次から次へと想念にやられないようにせよ。そうではなくて、守護天使が傍にいることをもっと深く確信し、あらゆる受造物と同じく唯一の主宰の手のうちにあることをしっかり弁えて悟れ。主宰たる神は指一本であらゆる物を動かしたり揺るがしたり、制御したり創造したりできるお方だ。そのうえ、すべてを見通される主が許可されなければ、いかなる僕もおのれにそっくりな僕に対して危害を加えることなどできない。だからもう立ち上がって勇気を持て。たとい悪鬼や猛獣や強盗に自由があったとしても、万事において自由があるわけではない。万物を支配される神に時と場所や量を許されなければ、しょせん好き勝手に危害を加えたり滅ぼしたりすることはできないからだ。自由意志だって、神に許されなければすべてが思うようになるわけではない。もしそうでなかったら、肉体あるものは皆とっくに滅んでいたであろう。悪鬼や権力者が思うままに受造物を操ることは、主に許されていないのだ。したがって、いつも自分にこう言い聞かせるがよい。「この身はいつも守護者に守られている。よほど天からの命令でもない限り、目の前に姿を現わせる者はいないのだ」と。そう、いかなる受造物もあなた前に躍り出ることはできないし、その耳に脅し文句を聴かせることもできないということを確信せよ。そもそも、もし天の神に許されたのであれば、その受造物がそうしたいと思った瞬間にそうなっているはずであり、わざわざ脅しかけてくるまでもないからだ。

同じく自分自身にこう言いなさい。「もし凶悪者に牛耳られてしまうことが御旨なのであれば、気落ちせずにその御旨を受け入れよう。でないと、御旨の成就を望まない者になってしまう」と。このように、試練の渦中にあっても、たしかに主宰に導かれて養ってもらっていると自覚した者として喜びなさい。何よりも、主を信頼して心を固く保つことだ。そうすれば「夜のおどしと昼の流れ矢」聖詠 90 : 5をも恐れなくなるだろう。なにせ神を信じる義人の前では、猛獣でさえ羊のようにおとなしくなると言われているではないかエウレイ 11 : 33 参照)

「いや、小生は義人ではありませんので、そこまで強く主を信頼することなどできません」と言うだろうか。でも実際、あなたは義の修行のためにつらい荒野に出て、苦難を耐えて御旨に従う者となったではないか。だいたいこの苦労をただ苦労するために負っているとしたら空しいことだ。なぜなら神へ捧げる愛の犠牲として辛苦に耐えるとき、その苦労も神に喜ばれるからである。この考え方が正しいということは神を愛した人々を見ればわかる。みな神を愛するがゆえに苦難に飛び込んでいった。というのは、神を畏れてイイスス・ハリストスにおいて生きようと決心した者は、みな苦しみを選んで迫害に耐えるものだからだ。そうして、ひそかに神の宝を譲り受けたのである。

感謝して雄々しく試練を耐える者が受ける利益について

ある師父が次のように言った。

「ひどい試練に見舞われてしんどかったときのことだ。皆から一目置かれていた長老隠修士のところへお邪魔した。ちょうど病気で寝込んでおられたのだが、ご挨拶だけして傍に座ってこう打ち明けた。『神父様、どうか私のために祈ってください。悪魔的誘惑にひどく悩まされているのです』と。すると長老は目を開き、私の顔をじっと見つめて『若いからだよ。だから神様としても試練を送らないわけにもいくまい』と言われた。『たしかに若い身ではあります。逞しい男の人たちからの誘惑に耐えているのです』と答えると、『そうやって神様は君を賢くしようとされている』と諭された。『どうやって賢くなるのですか。来る日も来る日も死を味わっているのですよ』と口答えしたら、『神が君を愛されているのだ。黙りなさい。きっと恩寵を授けてくださるだろう』と言われ、こう付け加えられた。『子よ、心得ておきなさい。私など 30年間も悪魔と闘いつづけた。しかも 20年過ぎた頃にはまったく孤軍無援の身となった。それでも 25年目に入ると平安を見出すようになった。その平安は時間が経つにつれて増していったので、27年目を過ぎて 28年目に入った頃にはかなり大きくなった。ついに 30年目を過ごして、その年も終わりそうになったとき、あまりにも穏やかな平安が訪れたので、その深さときたら計り知れなかった』。そしてさらにこう続けた。『立ち上がって奉神礼を挙げれば、いまではよく神に与えられて「光栄」をもう一つ(カフィズマを三分の一ほど)付け加えられるようになった。それに三日間くらい立ち通しても、感嘆したまま神の傍にいて苦に感じなくなった』と」。

ごらんなさい。なんという限りない平安が、辛酸を極めた長期間の修行の末に与えられたことか。

知性は言葉を慎むことで神へ向かいやすくなり、自制しやすくなることについて

あるところに食事を週二回だけしか摂らない長老がいて、こんな話をしてくれた。「他人と少しでも会話した日には斎の規則をいつもどおり守れず、斎を破るしかなくなってしまう」と。これを聴いて分かったことがある。人は黙りこんでいると知性が神へ向かうだけでなく、ひそかに肉体労働にも大いなる力を与えることができ、さらに師父の言うように知的修行もすみずみまで照らされるということを。なぜなら口を慎むことによって、良心が否応なく神に向かって目覚めるからである。ただしこれは賢明に沈黙を守っている場合の話だが。ちなみにこの長老は、ふだん夜どおし儆醒していた。なにせこう教えてくれたことがあるからだ。

「徹夜で立ち通して迎えた朝には、よく聖詠を読み終えてからひと寝入りしたものだ。目が覚めると、まるで一日中この世に属さない人のようであることもあった。この世にまつわる想念が一切心をよぎらず、決められた規則を守る必要もなく、一日中驚嘆しつづけていたのだ。そんなある日のことだった。すでに四日間も何も食べていなかったので食事を摂ろうとした。晩課を終えてから食べようかと思い、まずは祈ろうとして僧房の庭に立ってみた。太陽はまだ高く照っていた。いざ晩課を始めたら、最初の『光栄』(カフィズマの3分の1までは意識があったのだが、それ以降になると自分がどこにいるのか分からなくなり、夜が明けてまた日が昇って顔が温くなるまでその状態のままだった。そして日光にじりじり焼かれていよいよ居心地が悪くなったときに我に返り、ああ、すでに翌日になっていたのかと気づいたのである。ああ、神は何という豊かな恩寵を与えてくださることか。神に従っていると何と大いなることを賜ってくださるのかと思って感謝するしかなかった」と。

このような話を聴いた後では、ただ神に光栄と讃歌とを奉るべし。アミン。

 

第32訓話 内なる覚醒を保つにはどうしたらよいか。なぜ知性はぼんやりして無関心になることがあり、霊は聖なる熱気と神への希求心を失くして、属神的・天上的なものを渇望する熱意が冷めてしまうことがあるのか

人は善いことを望んでいれば、悪鬼に隙を見せないかぎり、その善いことの実現をいかなる逆風にも妨げられることはない。なぜなら善き願いを持つと、ふつうその瞬間から燃える炭のような覇気を帯び、その覇気でもって逆風や障害となるものを追い払って善い思いを守ろうとするからである。それに、この覇気はあまりにも強く沸き起こってくるので、精神的逆境に追い込まれても挫けたり怖気づいたりしないように日夜警護してくれる。ちょうど最初に湧いた善き思いもたましいに備わる聖なる力であったのと同じように、この覇気もいわば生まれもった義憤からくる義侠心なのだ。しかも本性の限界を弁えるべく神から送られてくる義侠心のため、思うまま行動しつつ一線を越えない。この義侠心は徳であり、この徳なくして善を成しとげられることはない。しかも「覇気」とも呼ばれているのは、まさに人が事あるごとにこの覇気に動かされて奮起して力づき、肉体的苦痛などものともしないからだ。そして恐ろしい試練に見舞われても鼻であしらい、つねに捨て身の覚悟で、心から渇き求めた事柄を行うためならば敵軍に対しても立ち向かってゆく力が湧いてくるからである。

そもそもハリストスを纏ったある師父が、この覇気のことを「神の法の護衛犬」とか「徳の番犬」と言い表した例がある(「神の法」と「徳」は同義である)。この覇気は、家を守ろうとして燃え盛ることもあれば、眠気を催してだらけてしまうこともある。いずれの場合も、二つの手段によって強まったり弱まったりする。

まず覇気が強まっていく場合の話をしよう。一つ目の手段はこうだ。人は、すでに得た恩恵やこれから得るべき恩恵が盗まれて無に帰すことを想像するなり、何とかしてそうならないようにしようと襟を正して恐れを抱く。つまり神の摂理からくる畏怖心のことだ。よく真に徳を実行している者が、いつもたましいを寝ぼけさせないように必死になっている、あの畏怖心である。この畏怖心があるとき、犬と呼ばれる覇気も暖炉のように日夜燃えつづけてわれわれの本性を醒ましてくれる。すると人は、ヘルヴィムのようにつねに周囲の物事に覚醒し、先述した師父の言うように、近くに鳥でも来ようものならはっと気づいて立ちどころに吠え、すごい勢いで追い払うことができる。ところがたましいのことを恐れる代わりに体にまつわることを恐れてしまったとき、この畏怖心は単なる恐怖心と化してしまう。なぜなら摂理への信頼がぐらつき、どれほど神に考慮して面倒をみてもらって修行してこられたか忘れてしまったからである。現に、「主の目は義人を顧み、その耳はかれらの呼ぶを聞く」聖詠 33 : 16とか「主の奥義はかれを畏るる者に属し」聖詠 24 : 14と教えられているのに、しかも「悪はなんじに臨まず、疫病うつりやまいはなんじの住まいに近づかざらん」聖詠 90 : 10と主に宣言されているのに、そういう教訓をすべて忘れてしまったからである。その反対に、体ではなくたましいのことを畏れ、徳を奪われたりひょんなことで失ったりしないよう気をつけていれば、それは聖なる思いであり、よい心配事であり、もし辛かったり疲れたりすることがあったとしても神の摂理によってそうなるだけのことだ。いっぽう、このようにたましいのことを畏れて徳のことを気にする手段の代わりに、いっそ心底から強烈に徳を渇望し、そうやって番犬を起こして徳を守るという手段もある。なにせ心の中で渇望が強まれば強まるほど、この番犬も吠えてくれるからだ。つまり、生まれもった徳への意気込み(覇気)も強まるからだ。

次に、覇気が弱まっていく場合の話をしよう。なぜこの番犬がうなだれてしまうことがあるのだろうか。まず考えられるのは、この渇望自体が弱まって心の中で消えたからである。もう一つ考えられるのは、得てして妙な自信と大胆な想念が心の中に上がりこんで居座り、やれやれと思っているうちに何が襲ってこようとへっちゃらさと開き直ってしまったからである。開き直っているからこそ、すすんで覇気という武器を捨て去り、ちょうど警護していない家のようになってしまうのだ。すると番犬も寝入ってしまい、長期間、警護にあたることはない。

実際、このような大胆な想念に中身を盗まれてしまっている思考の家(頭脳)はかなり多い。まさに聖なる知恵に照らされた清純な心を失ってしまったから、このような惨状に陥ってしまうのだ。どうして清純な心を失ってしまったのか。言わずもがな、傲慢さからくるもっとも見えにくい想念を忍び込ませ、心に巣食わせてしまったからである。あるいは、世塵に没頭しすぎたか、しょっちゅう世と関わっているうちに魅了されてしまったからである。あるいは、諸悪の主人である胃袋を満たしたからである。修行者は、いつでも世と関わるなり霊的に弱まってしまうものだ。また、多くの人と関わるとつい見栄を張ってしまい、悲しみを覚えるものだ。つまり修行者が修行から逃げて世と関わるとき、その知性は、やすやすと海を渡っていたのに突如暗礁に乗り上げて沈没していく船長にそっくりなのである。国と力と光栄と尊貴は、われらの神に世々に帰す。アミン。

 

第33訓話 心から祈ったときに生じる多くの変化について

人間は善い志を選ぶことはできる。だが、その善い志を成しとげるのは人間ではなく神である。ゆえに、神に助けてもらわなければならない以上、善いことを求めた瞬間からひんぱんに祈るようにしよう。ただ助けを乞うばかりでなく、その願いが御旨に適っているかどうか問いただそう。というのも、善い願いが必ずしもすべて神から来るわけではなく、唯一ためになる願いのみが神から来るからである。いかに善いことを求めていても、神に助けてもらえないこともある。なぜなら、あたかも善いことに見えてしまう願望が悪魔から来ることもあるし、それをすれば役立つような気がしてしまうこともあるからだ。だが実際には、その願望が力量を超えた願望であることも少なくない。たとえば悪魔自身が人をダメにしようと目論んで「ほれ、求めたことをやってみろ」と強いてくることがある。しかし実際には、その人がまだその願望にふさわしい生き方に達していなかったり、とてもそんなことを求めうる生活をしているわけではなかったりする。あるいは、その願望を叶えるには時期尚早だったり、状況的にまだ着手しようがなかったりする。あるいは、その業を成しとげる技能や知恵や体力を持ち合わせていない場合もあるし、どうも時や場所がそぐわない場合もある。だからこそ悪魔はあらゆる手立てを尽くして、あたかも善いことに見せかけて人を惑わし、無理をさせて体調を壊させ、知性に罠を仕掛けてくるのだ。もっとも、すでに述べたように、われわれは善い願望が芽生えた瞬間から必死に祈り続けようではないか。こう心の中で呟くのだ。

「御旨にさえ適っていれば、こんな善いことに挑戦してみたいと思ったが、まずは祈ることにしよう。主よ、どうか御旨のままになりますように。求めるのは楽ですが、あなたに与えられなければ成しとげることはできないからです。もっとも、求めることも行うこともすべてあなたから授かるものなのですが(フィリッピ 2 : 13)。なにせ恩寵を送ってくださらなければ、せっかく善いことが閃いたとしても求められなかったでしょうし、尻込みしていたに違いないからです」と。

善いことを求める人というのは、このような習慣を持つものである。つまり冷静に判断して行動する前に祈り、賢慮を得るために祈り、そうやって真実と虚偽の違いを見極めようとする。そしてたくさん祈って徳を積み、つねに自分自身を守って汚れなく保ち、よく涙を流して謙虚に天の助けを得ようとする。とくに高慢な思いが頭をもたげてきたときにそうする。というのも、高慢の想念があると神の助けがここまで届かなくなってしまうので、その想念の動きを止めるためにこそ祈りに向かうのだ。そのようにしているとき、ほんとうに善いことが見えてくる。

 

第34訓話 だれよりも神の近くで生き、知恵に富む日々を送っていた人々について

僧房の壁にいろいろな言葉や考えを書き留めていた長老がいた。そして、「これは何を意味しているのですか」と訊ねられるたびにこう答えていた。「それは、守護天使が教えてくれた正しい想念で、おのずと心に湧いてきたものです。正しい考えが心に湧いたときに書き留めておけば、迷ったときに目を覚ましてもらえると思ったのです」と。

別の長老は、「過ぎゆく世を捨ててきた代償として、見事に朽ちない希望を得たじゃないか」と邪念におだてられたとき、「やつら」に対してこんなふうに答えていた。「まだ道中にある者を誉めたところで何になる。まだ歩き終えてもいない身だ」と。

すばらしい徳行に励んでいるはずなのに、どうも得るところがない気がしても驚くな。というのは、いくら徳行をしていてもへりくだらないかぎり恩賜を得られないからである。徳行をしたからといって恩賜を得られるわけではない。へりくだったときに恩賜を授かるのであり、へりくだろうとしなければ恩賜を手にすることはない。善良な生活によってすでに恩賜を授かった人は、いま徳行に励んでいる者よりも上である。そもそも徳とは悲哀を生むものだ。その悲哀から謙遜が生まれ、その謙遜に恩寵が降る。だから、われわれは徳や修行をしたからではなく、ひとえに徳や修行をとおして謙遜になったときに報いを受けるのである。謙遜にならなければ、どんなに徳や修行に励んでいても空しい。

徳を行なうということは、つまり主の戒めを守るということである。よく考えて慎んで戒めを守っているとき、たくさん徳を行なうことができる。そして、ついに戒めを必要としなくなったとき、戒めの代わりに謙遜を抱くようになる。そもそもハリストスは戒めの実行ではなくたましいを健全にすることを要求されたのであり、戒めはたましいを健全に戻すための法則として定められたにすぎないからだ。現に、見た目で戒めを守っていれば正しいと認められ、戒めを破れば間違っているとみなされる。しかし知的には何を思っているかによって正しいか否かが決まるのである。たとい曲がった行動に見えても神の叡智のうちに人生を築き上げてゆく人もいれば、義人のふりをしながら罪を犯している者もいる。

自制する者は、つい犯した失敗でさえも自負心予防のために役立てる。なんの苦心もせずに賜を得たりした日には滅びてしまうからだ。もし神の前で善いことをして賜を受けたのであれば、どれだけへりくだるべきか教えてくださいと神に祈れ。あるいは賜を守る者(天使)を置いてくださいとか、いっそ賜を取り除いてくださいと祈れ。賜が滅びの原因とならないようにするためだ。なにせ皆が皆、富を手にして無傷でいられるわけではないからである。

神を畏れて注意深く生きながら徳についても気にかけるとき、悲哀を覚えずに日々を過ごすことなどできない。なぜなら徳というのは悲哀を伴うからだ。つらい苦難から逃げる者は、あきらかに徳からも遠く離れることになる。徳を求めるなら、あらゆる苦難に身を委ねよ。苦難を乗り越えればこそ謙遜になるからだ。気苦労せずにいることは神に求められていない。気苦労したくないと思う者は、小賢しくも御旨に合わないことを考えている。ここでいう気苦労とは衣食住を慮ることではなく、徳にしたがう者がぶち当たる壁を意味する。真の知恵、つまり奥義の啓示を受けるまでは、試練をとおして謙遜へ近づこう。つらい苦難を避けて自分勝手な徳に生きる者には、高慢の門が開かれている。

というわけでこの期に及んでもまだ、とにかく悲しい思いだけはしたくないと思う者がいるだろうか。なにせ屈辱を味わっていないと謙虚に考えられないし、謙虚な思いがなければ清く祈ることなどできないのである。そもそも思いがしかるべき気苦労から遠のいてしまうから、自負心が湧く。しかも自負したままでいるから摂理の天使が去っていき、去っていくなりよそ者の使い(悪鬼)が近づいてきて、その瞬間から正義について一切慮らなくなるのである。

智者ソロモンは「痛手に先立つのは驕り」だと述べた箴言 16 : 18, 18 : 12。ならば、賜に先立つのは謙遜だ。どれだけたましいが驕っているかによって、神から教育目的で送られてくる痛手の度合いも異なる。ここでいう驕りとは、つい頭の中に生じる高慢な想念とか、抑えがたい一時的な思い上がりではなく、つねに人の中に巣食っている傲慢さを意味する。一時的に思い上がっていれば痛手を蒙るが、ふんぞり返って開き直った日には一切痛手を受けることがない(神に見離されてしまう)。光栄と威厳はわれらの神に世々に帰す。アミン。

 

第35訓話 世を愛することについて

主は、世を愛しながら神を愛することはできない、といみじくもおっしゃった。つまり世と関わりながら神と関わることはできない、世のことを気にかけながら神のことを気にかけることはできないマトフェイ 6 : 24 参照)、と告げられたのである。しかし世間に知られたくなったり必需品に欠いたりしたせいで、神の道を捨てて違う方向へ逸れていってしまう修道士は多い。なかには天国のために働きますと宣言しておきながら、主に「天国を求めるなら食糧や着物に事欠くことはない。それ以外の物もすべて加えて与えられる。衣食を思い煩わないで済むように神が取り計らうからだ」マトフェイ 6 : 25~34と言われたことを忘れてしまう者もいる。主は人間のために造った一羽の鳥のことまで慮っておられるというのに、どうしてわれわれ人間のことを心配されないわけがあろうか。そんなことはありえない。人は属神的な事柄やそれに関することを気にかけていれば、あえて身体的なことまで思い煩わなくても必要な時に必要な分だけ与えられるのだ。

ところが必要以上に身体的なことで気を揉んでしまうのなら、知らず知らずのうちに神から離れていくことになる。その逆に、どのようにして主の名を讃栄すべきか考えていれば、修行した分だけ属神的なことも身体的なことも主に慮ってもらえるに違いない。

だが、霊的なことをしているからといって身体的なことで神を試みてもいけない。むしろ来世の福のために何もかも行なうことだ。ひとたびたましいを愛するがゆえに徳の道に歩もうと決心し、徳を成しとげたいと渇望した者は、そもそも体に必要な物が有るか無いか気にしないものだ。ただし体のことを心配していないかどうか確認する目的で、あえて何かしらそういう物資で少なからず困ることもある。それもこれも神が許容されたからである。たとえばイオフのように、病気にかかったり赤貧に陥ったり、全人類に見離されたり汗水垂らして得た財産を失ったりする。ただしたましいだけは守ってもらえる。そもそも徳に生きる道を愛した以上は、そういう正道を歩みながら悲しい目にも遭わず、病も苦労もなく健康体であり続けることなど不可能なのだ。もしもやりたい放題に生きて、嫉妬に燃えたり罪深く生きたりすれば断罪されて終わりだ。しかし神へむかう正道を歩んで、すでに気の合う仲間も得ているというのに、ちょっとやそっとそういう苦難に見舞われたからといって、この道から逸れてしまうのはよろしくない。むしろ面白半分ではなく真心から喜んで、その苦難を受け入れるべきなのだ。そしてこのような恩寵を授かったこと、つまり神に向かうがゆえに試練に遭わせていただいたことを神に感謝しなければならないのだ。なにせ試練を受ければこそ、この道の受難を耐えぬいた預言者や使徒や聖人たちの仲間になれるからである。たとい他者や悪鬼からくる誘惑や、肉体からくる誘惑に襲われたとしても(それさえ神の許容なくしては起こり得なかったことだ)、むしろそれを逆手にとって身を正す契機とせよ。というのも神の目からすれば、そもそも神と共にいたいと思う者は、真実のために篩に掛けられることこそ極上の恵みだからである。なぜなら人はハリストスの恩寵なくしてこのような偉業に与ることなどできず、つまり自力でこのような試練に飛びこんで聖なる苦労を喜ぶことなどできっこないからだ。これについては使徒も証言したことである。聖パウェルは、これがどれほど大きな偉業であるか示そうとして、神に信頼をよせて苦難に向かおうとする心構えを「賜」だと断言した。まさに「ハリストスのことに関してなんじらに賜りしは、ただ彼を信ずるのみならず、また彼のために苦しみを受くるなり」フィリッピ 1 : 29と述べたのである。パウェルと同じように、聖ペトルも「義のために苦しみを受くとも、なんじら幸いなり」ペトル前 3 : 14と公書に記している。なぜなら主の受難に与ることになるからであるフィリッピ 3 : 10 参照)。したがって、ただ悠々自適に暮らしている時にだけ喜び、苦難に遭うなり顔を曇らせて「これが神の道と言えるのか」などと思ってはならない。なにせ古来よりこの道は、どの人に対しても十字架と死をもって臨んだからである。だというのに、どうして苦難が神の道にそぐわないなどと思うのか。そう思ってしまう自分自身こそ、邪道を進んで神の道から離れていっていることを悟れ。はたしてそれでも本当に聖人の跡に従って歩んでいきたいと思っているのか。それとも独自の道をこしらえて苦もなく歩んでいきたいと思っているのか。

神の道というのは、来る日も来る日も十字架を担ってゆく道だ。これまで楽をしながら天に昇った人はいない。楽な道がどこに行き着くのかは周知のとおりである。心から神に献身した者が憂慮せずに生きることは神の喜ばれる生き方ではない。献身した以上はつねに真実について憂慮すべきである。よっていつも神から憂いを与えられているとき、その人が神の摂理の下にあることが分かる。

神の摂理としては、修行者が試練のせいで悪魔の手に落ちるようなことは絶対にお許しにならない。とくにその人が兄弟の足に接吻し、兄弟の咎をおのが咎のように赦して匿っている場合には尚更だ。この世で憂慮(真実のための修行)をせずに徳を身につけたいと望む者は、徳の道から外れている。というのも義人と呼ばれる人たちは、ただ単にすすんで徳を積んでいるだけでなく、ふいに襲ってくる試練と死闘しながら忍耐力も鍛えているからだ。もし心から神を畏れているのなら、いかなる身体的困苦も怖がらない。なぜならば、今もいつも世々に神のことを信頼しきっているからである。アミン。

 

第36訓話 必要もないのにあからさまに奇跡を行いたいと願ってはならないことについて

主は、たとい聖人の傍にいたとしても、いつも聖人を助けようとして目に見える奇蹟を行なわれるわけではない。そんなふうに御力を見せて無意味に助けて逆に害を与えることにならないよう、必要に迫られないかぎり救いの手を差し伸べられることはない。これもひとえに聖人のことを日夜ひそかに慮りつづけておられることを示したいと望まれつつも、あえて聖人が万事においてなるべく修行して祈れるようにするためである。ただし聖人がひどい難題にぶち当たり、弱り切ってやり遂げようがないとき、ご権能を発揮されてやり遂げてくださることがある。つまりこれだけ必要だとご存じの分だけ聖人を助けつつ、聖人が苦難になんぞ負けるものかと立ち上がるまでひそかに許されるかぎり力付けくださるのだ。というのも、よく苦難の意味を悟らせることで苦難の枷を取き、聖人が理解を深めて讃美したくなるように仕向けられるからだ。讃美することこそ、苦難の中であろうとなかろうとためになるものである。もちろん主があからさまな形で介入すべき時には、必要なかぎりあからさまに助けてくださることもある。それも思いつくままに助けるというのではなく、聖人がどのくらい追い詰められているか、どのくらい助けを必要としているかに応じて最も賢明なかたちで助けてくださるのである。

ところが必要に迫られてもいないのに、これらの助けを神に祈って奇跡や力を手に入れようとする者は、良心が鈍いせいで自慢したいという下心を晒して悪魔に笑われることになる。なにせ神の助けというのは苦難のときに求めるべきものだからだ。必要に迫られてもいないのに神を試みるなど危険だし、試みようと思う気持ちはよろしくない。だが聖人であれば、主の祝福によって奇跡を行なえるようになることもある。だが必要でもないのに自分勝手に奇跡が欲しいと求めるのならば、天使に守られなくなって堕落し、真偽の見境がつかなくなるだろう。というのは、もしも厚かましく神に願っていたことが叶ってしまった場合、そこには邪悪な霊が働きかけ、さらにもっと偉大なことを求めてみろと唆してくるからである。真の義人はそういうことを求めないだけでなく、そういうことが与えられたときにはむしろ拒むものだ。しかも人々の目の前でそういうことを祈願しないだけではなく、心の中でさえ微塵たりとも求めたりはしない。

そもそもある師父などは訪問者を事前に見分ける能力を賜ったとき、しかもそれはそれで清さゆえに与えられた恩寵であったにもかかわらず、この賜を取り除いてくださいと神に祈ったではないか(しかもこの師父にお願いされた他の聖人たちまでも一緒に祈ったではないか)。もし聖人といわれる人たちが賜を受けとったとしたら、それは他人を助ける必要に駆られてか、あるいは素朴な気持ちで受けとっただけである。たしかに神の指図を受け取ろうとした聖人もいたにはいたが、それとて格別な理由もなく受け取ろうとしたわけではなかった。

かつて聖アンムンが聖大アントニイに会いに行って道に迷ったとき、神に何を言ってどうしてもらったか見てみよ〔聖アンムンが「主わが神よ、なんじの造物を滅ぼすなかれ」と祈るなり、天から手のようなものが見えて行くべき方向を示してくれたという〕。それに師父マカリイをはじめとした師父たちのことも思い出せ。真の義人は、いつも自分が神に値しないと考えているものだ。なんという呪われた身で神に配慮される資格のない者かと思い、それを胸奥でも人前でも認めることによって真に義人であることを明らかにする。そして聖神に導かれて痛悔の道を歩んで賢くなり、持つべき自省を失わないよう息のある限り努力する。休息するのは、神のもとで来世に入ってからだ。したがって、おのれのうちに生ける主を宿している者は、生ける主を宿しているがゆえに休みたいとは思わない。もちろん、ときおり属神的に慰められることもないわけではないが、決して苦難から抜け出したいとは思わない。

ついに徳をなしとげたぞと思って努力をやめて羽を伸ばしたとしたら、そんな徳はすでに徳とは言えない。むしろ聖神が宿った場合、かりにもっと楽にできる方法があったとしても始終自分を服従させようとするものだ。それが聖神の御旨だからである。聖神は人に住み着くと、その人をだらけさせはしない。それどころか一心不乱に修行に打ちこませ、よりつらい苦難に向かうよう仕向け、試練をとおして鍛え上げて賢慮に近づけてゆく。まさに「聖神に愛された以上は努力を貫け」と思っておられるのだ。

いっぽう、いつものんびり生きている者には、聖神ではなく悪霊がその心に住み着くようになる。ゆえに、神を愛した聖人は「日々死ぬことにいたします」と誓ったのである。神の子たちは辛い生活を送って抜きん出るが、世の子らは悠々自適に暮らして楽しむ。そもそも神は、ご自分の愛する者たちが体をまとっている間はのんびり生きることをよしとされなかった。むしろつらい苦難や重荷を背負って汗を流し、貧窮して孤独で裸でも、病気で見捨てられても耐えよと望まれたし、たとい心身が弱って親族に見捨てられて胸が引き裂かれようとも耐えよと望まれた。それに加えて、人目につかない場所に住んで風貌まで変わっても、隠遁して楽しめる物のない僧房で独り静かに黙修せよと求められたのである。隠遁者は泣き、世は笑う。隠遁者は嘆息をつき、世は喜び楽しむ。隠遁者は斎をし、世は贅沢にふける。隠遁者は追いつめられた環境で日中も働き、夜も修行に身を入れる。その中には、すすんで困苦に身を置く者もいれば、慾と闘って汗を流す者もいる。迫害される者もいれば、慾や悪霊にやられて苦労する者もいる。もちろん追放される者や殺される者、羊の皮を着て放浪する者もいるエウレイ 11 : 37。そのとき、かれらの上に「世にありてなんじら患難を受けん、しかれども我において喜ぶべし」イオアン 16 : 33 参照)という御言葉が実現するのだ。主は、人がのんびり暮らしながら神の愛など貫けないことをご存じである。だからこそ、ご自分の愛する者たちに安楽な暮らしを禁じられたのである。救主ハリストスのうちにこそ、体の死をも恐れない愛がある。主よ、どうかわれわれにもなんじの愛の力を現わしたまえ。

 

第37訓話 神は、なぜ神を愛する者に試練を許されるのか

聖人は迫害されているとき、片時もそばを離れることのない主のご加護を痛感する。そして主の名ために受難に耐えて神への愛を見せた結果として、大胆に神に顔をむけて期待して祈れるようになる。大胆な祈りの力は絶大だ。だからこそ、悲哀という悲哀に耐えて神の助力や熟慮を体験するよう試練が送られてくるのだ。というのは、試練を越えればこそ賢くなれるからである。なにせ善悪の違いばかりは経験しなければ学びようがないので、神の導きによって万事を体験して知り、悪魔に鼻で笑われないようにしてもらっているのだ。なぜなら善だけで訓練していたら悪における訓練が足りず、いざ悪と闘うことになったときに右も左も分からず狼狽えてしまうからである。

だいたい聖人が神に善悪の認識をつけさせてもらえずに学ぶとしたら、自由意志のない牛かロバにされたようなものだろう。まずは悪において試されないかぎり、善を見抜きようがないからである。悪による試練を乗り越えていけば、善に出会ったときにまるで所有物のようにその善を自由に賢く活かすことができるようになる。苦心した実体験から出てくる知恵はなんと心地よいことか。そして長年の体験をとおして身につけた事柄はどれほど大きな力をもたらすことか。そのような知恵は、その知恵の作用を知っている者だけが理解できる。つまり本性の弱さや神の助力を痛感した者のみが捉えうる知恵である。というのも、人はまず神の助力を失ってみないことには何も分かっていないからである。神の助力を失ってみてはじめて本性の弱さを自覚し、誘惑の恐ろしさや敵の狡さを知り、いかなる敵と闘っているのか思い知る。そして慾との闘いをとおして、この弱い本性が神のご加護にどれだけ助けられてきたか、そのお陰でどれだけ勝ち抜いてこられたか振り返り、その力が去ってしまうなりいかに貧弱な身となってしまったか悟る。こうして少しずつ謙遜を身につけて神に近づき、神の助けを待って祈り続けるようになるのだ。逆に言えば、もしも神の許しによってこういったひどい誘惑に遭わず、とことん惨状を体験してこなかったとしたら、いったいどうやって神の強さや自分の弱さを知り得ただろうか。使徒でさえ「黙示の至大なるによりてわが高ぶらざらんために、一つのとげはわが肉体に与えられたり、すなわちサタナの使いなり」コリンフ後 12 : 7と述べ、ひどい誘惑に耐えていた身の上を公言しているわけだ。とはいえ、人は誘惑に遭ってたびたび神の助力を痛感していくことで信仰が強まる。信仰が強まれば何も恐れなくなり、たとい誘惑を受けても鍛え抜かれた経験によって泰然としていられるようになる。

だれだって誘惑や試練を受けた方がためになる。かのパウェルでさえ誘惑を受けてためになったというのならコリンフ後 12 : 7 参照)、もはやその事実に対して反論の余地はないだろうし、全人類はただ神の決められたとおりに従うしかないロマ 3 : 19。ただし、人によって誘惑や試練を受ける目的はそれぞれだ。修行者ならば、より経験を深めるために誘惑を受ける。だらけた者ならば、これ以上悪い方に行かないように病気にかかったりする。眠りこけている者ならば、目覚めるために事故や事件に遭ったりする。すっかり遠のいてしまった者ならば、神に近づくために災難に遭ったりする。しかし神の身内となった者ならば、大胆にも試練を楽しむことになる。神は、まず誘惑や試練を送って人を困憊させ、人が悩み抜いた末に賜を示されるのである。こうして苦い薬で病を治し、健康を楽しめる身にしてくださっている神にこそ光栄を帰すべし。

だれであろうと学習中はつらく、誘惑や試練の毒を味わえば苦い思いをするものだ。そういう苦い思いを体験しなければ意志の力は強まらない。かといって、誘惑や試練は自力で耐え抜けるものではない。陶器も窯で焼かないとぐにゃぐにゃして水漏れしてしまうように、人も恩寵の火を受けなければ慾の動きは止められない。われわれがへりくだって絶えず願い求め、忍耐して神に従うことができれば、主イイスス・ハリストスにおいて何もかも受け取ることができるだろう。アミン。

 

第38訓話 人が今どのような水準にいるかは、湧いてくる想念によって見分けられることについて

だれでも怠けているうちは、死ぬのが怖い。ところが神に近づいてゆくと、むしろ最後の審判を恐れるようになる。しかしもっともっと前進すると、愛によって一切恐れなくなるイオアン一、4 : 18 参照)。なぜこんなにも違うのだろうか。まず肉の思いに基づいて生きているうちは、死は壮絶な恐怖としてしか映らない。ところが霊的知恵に基づいて善良に生きていくと、最後の審判のことばかり思うようになる。なにせ生来の霊的法則にのっとって正しく行動し、善良な生活をして神に近づきやすくなったからである。しかるに、もっと前進して真の知恵に至るや、真の知恵を用いて神の奥義を悟り、来世に期待していた事柄を確信するようになる。すると、かの屠殺を怖がる動物のようであった肉の人も、かの神の裁きを恐れていた理性的な人も、愛によってことごとく生まれ変わるのだ。そして神の身内となるや、もはや罰を恐れてではなく、ただ愛するがゆえに神に仕えるようになり、「私は一家をあげて主に仕えます」ヨシュア 24 : 15 参照)と決意表明するのである。

神の愛へ至った者は、もはや二度とここに留まりたいとは思わない。なぜなら神の愛は恐れを締め出すからだイオアン一、4 : 18 参照)。愛する兄弟よ、私もこうして佯狂者になってしまった以上、秘密を隠して押し黙っていることができないので、愚かになって皆さんに役立つことを書き残しておこうと思うコリンフ後 12 : 11 参照)。真実の愛とはそういうものであり、愛する者に何事も隠せないからである。じつを言うと、この文章を書きながら幾度となく紙の上を走る筆が止まり、あまりに心地よくて忘我状態になったほどである。とはいえ、つねに世俗的なものを避けて神のことを考え、ただ神と知的に対話しつづけている者は幸いだ。もし耐えつづけることができれば、ほどなくして成果を目にすることができるであろう。

この世で生きることよりも、神における喜びの方が強い。神において喜ぶようになると苦痛を物ともしなくなるだけでなく、命を奪われても平気になり、喜び以外の感情がなくなってゆく。もちろん本当にこの喜びがあった場合の話ではあるが……。そして、神を究明すればこそ愛するようになるのだが、そのような愛は蜂蜜や蜜房よりも甘く、この世で生きることよりも甘く、愛する者のために苦しんで死ぬことも厭わない。まさに長らく忍耐して霊的に健康になったとき、その健康力からくる知恵で愛するようになるのだ。

質問  知恵とは何でしょうか。

回答  不死の命を感じることだ。

質問  不死の命とは何でしょうか。

回答  神を感じることだ。いま「知恵で愛するようになる」と言ったが、そもそも神を知りたいという欲求ほど強い欲求もないわけだ。ゆえに心でもって神を知ると、もはやこの世の快楽などどれもこれも要らなくなる。神を知ることの甘さに匹敵する物事など存在しないからである。

主よ、どうか永遠の生命でわが心を満たしたまえ。

永遠の生命とは神における慰めだ。ゆえに神における慰めを得てしまったら、もはや世の慰めを必要としなくなるのである。

質問  しかし聖神から英知を得られたとき、得られたと自覚できるものでしょうか。

回答  英知自体から教わるはずだ。人は英知を得ると、心身ともに謙虚な姿勢を学ぶようになる。そして、どのように遜ったらよいか見えてくる。

質問  どのようにして謙遜に至ったと分かるのでしょうか。

回答  もはや交流や会話をとおして世を喜ばすのが厭わしくなったときだ。この世の名誉にすっかり嫌気がさしたときだ。

質問  慾とは何でしょうか。

回答  この世の事物と関わったときに湧いてきて、体にとって必要最低限なことを必要以上に刺激してくるものだ。しかもこの世の続くかぎり、慾が湧かなくなることはない。ただし神の恩寵にあずかった者は、世の快楽よりも高尚な何かを感じて体験したため、心に慾を入れない。なぜならより良い渇望に燃えているため慾を受けつけず、慾のせいで生じる事態も起こさせないからだ。つまり慾に活動させないからである。なにも慾がまったく湧かなくなったというわけではなく、ひとえに慾が湧いても心がそれに対して死んでおり、何か違うものによって生きているということである。もちろん思慮分別を失くしたわけでもなく、単に何が起ころうとも知性が動じず、意識が何か違う楽しみに満ちているということである。

心は属神的な手応えを感じてはっきり来世を観照するようになると、慾について思い出すなり、まるで高級料理で満腹のときにその料理に合わない一品を出されたのと同じ思いを抱く。つまりその一品に目もくれなければ欲しもせず、むしろうっとうしくて顔を背けるのだ。単にその一品がうっとうしくて厭うべき一品であるせいだけでなく、まさに最初に口にしたもっと高級な料理で満腹だからである。ちょうど、かの放蕩息子が父の財産を分けてもらっておきながら使い果たし、豚の食べるいなご豆でさえ食べたくなったのと真逆の心境だ。さらにこうも言えるだろう。そもそも宝の管理を任せられた者は眠りやしない、と。

覚醒して知恵をもって正しく判断しつづけることができたら(それが永遠の生命をもたらすわけだが)、知性はいちいち慾を刺激しにくるものと闘わなくて済むようになる。闘って心に慾を入れさせないのではなく、意識が冴えわたって心に知恵が満ち、たましいの内に生じる奇跡を観照したいと渇望しているからだ。その渇望が防壁となって、心に慾を入らせない。なぜなら先述したように、決して心を守らなくなったり分別を失ったりしたからではなく(むしろ分別こそたましいを照らして真の知恵を守るものだ)、単に知性が右述の理由で闘う必要がなくなったからである。実際、富者は乞食の粗食を厭い、健康な者は病人食を食べたがらない。ここで「富者」とは覚醒者のことを意味し、「健康な者」とは用心深い者のことを意味する。よって人は息のあるかぎり、自分の宝を守るために用心深く覚醒していなければならない。この用心深く覚醒するという垣根を取っ払って油断して眠りこけていれば、病魔に侵されるだけでなく宝まで盗まれてしまう。単に修行の成果を実感するまで修行すればよいというものではない。むしろ息を引き取る瞬間まで修行すべきなのだ。なにせ熟した果実がいきなり雹に見舞われて傷んでしまうことなどよくあるではないか。ゆえに修行者が俗事に割り込んで話に花を咲かせた日には、すでに健康であれるかどうか分かったものではない。

祈るときは、「主よ、どうか本気で死んでこの世と口を利かずにいられるようにしてください」と祈れ。こう祈ったとき、あらゆる願いを打ち明けたことを悟れ。そして、そう祈ったとおりに生きよ。というのも、そう祈ったとおりに生きるならば、真にハリストスの自由の内にいることになるからだ。世に対して死ぬということは、世にあるものと関わらないだけでなく、頭の中でも世の富を欲しがらないことである。

善いことばかり思いめぐらすのに慣れてしまえば、慾とぶち当たるなり慾を恥じるようになる。そういう体験をしたことのある者ならば分かるだろう。しかし、まずは慾に気を取られることを恥じ、慾を刺激した日には成れの果てにどうなってしまうか思い出して、そうなる原因には近寄らないようにしよう。

神を愛するがゆえに何か成しとげたいと思ったら、死ぬ気になって成しとげたいと思え。そうすれば、慾と闘いながら文字どおり致命者の域まで昇らせてもらい、最後まであきらめずに耐え忍ぶことができれば、そして覚醒して用心することを忘れなければ、いかなる物事からも一切害を受けることがないだろう。理性が弱いと、忍耐力まで弱めてしまう。だがしっかり理性に従っていけば、生まれつき備わっていなかった力まで帯びるようになる。

主よ、なんじのうちに生きんがため、この生命を憎む力を与えたまえ。

この世の人生というものは、一覧表にある文字からいくつか文字を取って組み立てていく文章に似ている。だから、こうしよう、こうしたいと思ったら、その部分に必要な文字を足したり減らしたりして文章を書き換えることができる。だが、来世の生命というものは、きれいな巻物に筆で書かれて王の御璽が押され、もはや何の添削もできなくなった文章に似ている。だから、まだ修正できる人生を歩んでいるうちに自分自身に注意せよ。まだこうして綴っている「わが人生」という手記を意のままに添削できるあいだに、善く生きた年月を加筆できるように努め、過去の過失は悔改して消し去るようにしようではないか。

なにせ神は、人がこの世に生きている間は、つまり未知の国へ旅立つ瞬間までは、この地上で働いているわれわれの人生に「善き人生」ないし「悪しき人生」という印影の決裁印を押さないでくださるからだ。聖エフレムが言ったとおりである。

こんな風に思いめぐらすと良いだろう。われわれのたましいは、あたかも出航準備の整った船のようだ。ただし、いつ風を浴びて出航するのか分からずに待機している船だ。あるいは軍人のようだと言ってもいい。ただし、いつ「出陣せよ」というラッパの合図が鳴り響くのか分からずに待機している軍人だ。ところで、もしそういった船なり軍人なりが、ささやかな利益を得るために準備し、あわよくば再び挑戦できるかもしれないのに万全を期しているとしたら、いったいわれわれはかの恐るべき日のために、どれほど準備して武装していなければならないだろうか。それこそ新しい世へむかう橋に足をかけ、来世への門を開いて入ってゆく瞬間なのだから。

願わくはその念願の日、われわれも仲保者ハリストスによって堂々と信仰告白できますように。そしてそのために、今からしっかり準備してゆくことができますように。光栄と叩拝と感謝は、主に世々に帰す。アミン。

 

第39訓話 霊的な者は、なぜ直観できて属神的なものを見抜くのか。その直観は体の重ったるさ(世俗度)と反比例するが、知性はどうやってその重ったるさを乗り超えてゆくのか。そしてなぜ体の重ったるさから抜け出られないことがあるのか。さらに祈る際、どういう時にどれくらい夢想せずにいられるのか

われわれの前で門を開き、まっしぐらに神に邁進したくなるようにしてくださっている主はあがめ讃めらるべし。なにせこの門の向こう側を見ればこそ、何もかも捨てて神のみを希求することができ、主を観照するときの妨げとなる思い悩みも失せるからである。愛する兄弟よ。知性というのは現世のことを思い悩まず来世を望むようになればなるほど、まさに衣食に気を回さなくなった分だけ軽くなって明瞭に祈れるようになるのだ。体を物質の縛りから解けば解くほど、知性も自由になる。さらに思い悩みという縛りから解けば解くほど明瞭になり、明瞭になればなるほど身軽になって現世の重たるい理解水準を超えてゆく。すると自己流ではなく、神に失礼にならない形で神を理解できるようになる。まずは啓示に値するよう身を清めなければ、啓示を観ることはできない。清さに至らなければ、はっきり理解できないため神秘を観ることもできない。そしてことごとく目に見える受造物から自由にならないかぎり、目に見えるものに没した考え方から解かれることはなく、陰湿な想念から身を浄めることもできない。想念が陰湿でこんがらがっているところには慾がある。人は、右の状況やその原因から解かれて自由にならなければ、知性でもって神秘を見抜くことはできない。だから主は、まずは財産を捨てて貧しくなれ、そして世の波を避けて人類共通の思い悩みを捨てよと命じられたのである。まさに「なんじらのうち、およそその持てる所を捨てざる者は、わが門徒となるを得ず」と告げられ、全人類と自分自身を捨てるよう諭されたのであるルカ 14 : 26, 33

人は何もかも捨てなければ、目にしたものや耳にしたものから痛手を受け、何をいつ手放したり入手したりしようかと煩い、対人関係でも思い悩んでしまう。よって主は、われわれがいろいろ考えあぐねいて憂慮することから自由になり、神と対話したくなる方法を示してくださったわけだ。まさに、何もかも捨てること。それによって知性が何からも害を蒙らず、神に期待しきれるようになるからである。とはいえ何もかも捨てた後で、まだ祈る訓練が欠かせない。祈りつづけて知性を賢くするためだ。しかし、何もかも捨てて思いが縛りから解かれたはずなのに、なぜまだ祈りつづけなければならないのか。なぜなら知力というのは長いこと鍛えてこそ熟練の域に達し、どのように想念を退治すべきか弁え、積み重ねた経験でもって他の手段では学べない事柄を学んでゆくからである。というのは、およそ現在の生き方というのは過去の生き方から得られた成果であり、以前に成しとげたものの上に後続するものが与えられるからである。そもそも祈るために隠遁するわけだし、隠遁すればこそ祈れるようになる。では何のために祈るのかといえば、まさに神を愛せるようになるためだ。なぜなら祈っていると、少しずつ神を愛せるようになるからである。

愛する兄弟よ、しかし「祈り」といっても色々あることを心得ておこうではないか。祈ることで内なる対話ができるようになり、神のことを心にかけて属神的事柄を思えるようになる。そのような対話とか思いも「祈り」と呼ばれている。そのほか、いろいろ本を読むことも祈りだし、声を出して神を讃美することも祈りだし、主から離れた身を嘆き哀しむことも祈りである。また、体で叩拝することも祈りだし、聖詠を唱えたり聖歌を歌ったりすることも祈りだし、それ以外の真の祈祷手段となるあらゆる行為も祈りであって、そうやって祈りながら神を愛せるようになるのである。もとより隠遁することで祈れるようになり、祈ることで愛が芽生えるからである。神とふたりきりで語らう機会を持つためには隠遁するしかない。しかし隠遁する前に、まずは世を捨てなければならない。まず世を捨てて諸事から解放されて余暇ができなければ、独りきりになれないからである。さらに順を追って条件を手繰ると、世を捨てるためには忍耐が、忍耐するためには世を憎むことが、世を憎むためには畏怖と愛を持つことが必要だ。なぜならば、地獄を怖れて至福を慕わなければ世を憎めず、世を憎まなければ峻厳な環境を耐えられず、峻厳な環境を耐える覚悟がなければ人気ひとけなき荒野へ行けず、荒野へ行って隠遁しなければ祈りを貫けないからである。そして、広い意味での「祈り」でもって神と語らいつづけなければ、愛を感じようがないからである。

要するに、神への愛とは、神と語らうことから生じるのである。そうやって広い意味で祈りながら思いめぐらせるようになるためには、やはり黙修が必要。黙修のためには清貧が必要。清貧のためには忍耐が必要。忍耐のためには肉慾を憎むことが必要。肉慾を憎むためには地獄を恐れて至福を望む心が欠かせない。だからこそ、肉慾のせいでどんな至福が得られなくなるのか知っている者は、肉慾を憎むのである。このように、どの生き方もそれ以前の生き方と繋がっており、その段階を踏まえてより高度な生き方へ移ってゆく。したがって、もしいずれかの段階で諦めてしまうのであれば、その段階の次にくる生き方は成り立たないし実現しようもない。現段階でぶち壊されて、もみ消されてしまうからである。これよりも高度な事柄については、もはや言葉で語るには限界があろう。光栄と威厳は神に世々に帰す。アミン。

 

第40訓話 祈祷や叩拝や涙、読書や沈黙や聖詠朗誦について

いくら祈りに専念したって意味がない、などとのたまうな。しかも聖詠すら読めなくなってしまったという。とはいえ聖詠を読むよりは叩拝を愛することだ。うまく祈れたとき、それが奉神礼の代わりになるだろう。そして祈っている最中に涙が流れたときには、それが祈りに不要な甘美だなどと思ってはならない。なにせ恩寵によって涙が流れたとき、それは祈りきったしるしだからである。

気が散漫するときには、祈祷よりも読書に励め。ただし周知のとおり、どの書物でもためになるわけではない。労働よりもずっと深く黙修を愛せ。できれば立つことよりも本を読め。というのも、読書は清い祈りの泉だからだ。いちいち言い訳をこしらえて怠けてはならない。とにかくあれこれ思いめぐらさないよう覚醒することだ。なぜなら聖詠を歌うことでしっかり生きられるからである。もっとも気が散ったまま聖詠を唱えるよりは、よほど体を使って動いた方がためになることも弁えておこう。しかし知的に罪や弱さを悲しむことができれば、それは肉体労働よりも上なのだ。だらけてしまったときは正気に返り、少しずつ覇気を帯びてゆけ。覇気を帯びれば心も目覚め、徐々に霊的に考えられるようになるだろう。義憤こそ、だらけてしまったときに肉慾をやっつけてくれるものである。憤れば、無関心になっていたたましいが叩き起こされるからである。大抵は満腹のせいか仕事量が多すぎたせいで、怠惰に陥ってしまうようである。

良識を弁えた修行こそ、賢い判断による光だ。これぞ知恵というものに他ならない。日中の諸活動よりも夜中の祈りを重んじよ。夜中に起きた時に頭がどんよりしてあれこれ思いめぐらしてしまわないよう、とにかく腹を満たすな。そして下半身の自戒を解くな。解けば女みたいに弱くなり、たましいも曇って理解力も落ちて全然祈りに気が入らず、何も感じられなくて聖詠を味わえなくなってしまう。ふつう明瞭に考えられる知的状態であれば、快く聖詠の彩りを味わうことができるのに……。なにせ知性は、夜の自制を守っていないと昼の修行でも困惑して暗中模索し、いつものように読書を楽しむことができなくなるからだ。祈ろうとしても、教訓を得ようとしても、思考内で嵐が渦巻いているからである。ひとえに夜の修行の光を受けて清まったとき、はじめて日中の修行でも甘美を味わえるのである。

いかに功績のある賢い学者であろうとも、継続的に黙修をしたことがないのであれば、修道のもたらす恵みについて何か発見できるような気がしてはならない。

体が疲れきってしまわないように気をつけよ。疲れきって怠惰に陥り、修行する悦びを失ってしまわないようにするためだ。だれもが自分の生き方を、あたかも秤に掛けて精査するようにすべきである。たとえば食べ過ぎてしまったら、どんな些細なことでも隙を見せないようにする、などである。用を足さなければならないときには、貞操をもって座るようにせよ。とくに寝入るときに貞操で清くあるように心掛け、想念だけでなく肢体の節々まで注意を払え。なにか改善できたときには自惚れないように。自惚れやすい弱さや愚かさを主に打ち明けて祈り、主に見放されて汚れた誘惑に陥らないようにせよ。なぜなら思い上がれば淫欲に歯向かえず、自惚れれば妄想に嵌まってしまうからだ。

手仕事は必要な分だけ行なえ、というか、黙修を貫くためにこそ行なえ。ひたすら主の摂理を信頼してひるまないことだ。なぜなら、人気ひとけなき荒野で主に寄りすがって忠実に生きている者は、主ご自身に救われながら見事に導かれてゆくからである。よくたましいのことを気にして修行しているときに、ふっと主から必需品を賜ることがある。その途端に人殺しの悪魔が盗みに忍びこんできて、こんな邪念を吹き込んでくる。「それ見ろ、これも努力の賜物に違いない」と。そう思ったが最後、主の摂理の手が止まり、たちまち次から次へと誘惑が降りかかってくる。それは主に見放されたせいか、あるいは体に潜んでいた慾や病がまたもやぶり返してきたせいなのである。

ちょっとやそっと邪念が湧いただけで、神から見放されるということはない。むしろその邪念に目を留めていたせいで、神の手が離れてしまうのである。つい揺らいでしまったり邪念をしばし受け入れてしまったりしただけでは断罪されないからだ。たとい邪念を受けいれてしまったとしても即座に慾を断ち切って嘆くならば、その一時的な怠慢を神に咎められることはない。でも何となくその想念を味わって危険視せず、「まあ人間なんて所詮こんなもんだし、ひょっとしたら、これはこれでためになるかもしれないぞ」などと思ったりした日には、そのだらしなさを咎められる。

いつも主に対してこう祈ろう。「真実そのものであるハリストスよ。どうかあなたの真実の光でこの心を照らし、どうすれば御旨どおり主の道を歩めるかご教示ください」と。

何かしら邪念が湧いてきたときには、それが初めての邪念であろうが昔ながらの邪念であろうが、しつこく知性に湧いてくる以上は、悪鬼に罠を仕掛けられている証拠だと思え。ただし、折よく気合を入れ直して覚醒すべきだ。逆に、善良な正念が湧いてきたときには、それは「こんなふうにも生きられるよ」と神に提案されているから、いつになくそういう想念が湧いてくるのである。万が一その想念が、どうも陰湿で信じがたい想念なのであれば、つまり身内なのか泥棒なのか分からず、助けに来ているのか騙しに来ているのか見分けられず、単に良く見えるだけかもしれないとも思ったら、武器を取ってすばやく熱心に祈り、夜を日に継いで眠らずに祈れ。あえてその想念を断ち切ることも受け入れることもせず、ひたすらその想念をめぐって必死に祈りつづけ、口を閉ざすことなく主を呼びつづけることだ。そうすれば、主がいったいどこから来た想念なのか示してくださるだろう。

 

第41訓話 沈黙について

何よりも沈黙を愛せ。黙っていれば少しずつ身につくものがある。まさに何が身につくのかという点については、言葉では伝えようがない。なるべく黙っているように心がけていれば、無言でいるうちにもっと黙っていたくなる何かを見出すだろう。願わくはあなたもその何かを感じとることができますように。それにしても沈黙生活を始めると、どれだけ見通しが良くなることか。兄弟よ、誤解しないでほしい。かのアルセニイは、師父や兄弟に訪問されたとき黙ったまま対応して一言も口をきかずに帰らせたといわれているが、それは決して端から楽々やってのけたわけではない。黙りつづけて少しずつ沈黙が心地よくなると、黙修せずにいられなくなって涙がとめどなく流れるようになる。すると心は泣きながら神秘的に観照し、時に辛うじて、時に驚きながら、何かを感じとる。なにせ小さくなって嬰児のような心になるため、祈り始めるなり涙を流すのだ。こうして肉体を制御してたましいの奥で驚嘆すべき習慣を身につけた者は偉大だ。かりに右手に修道生活の行ないをすべて置き、左手に沈黙を置いてみれば、沈黙の方が重いことを目の当たりにするだろう。ためになる助言はたくさんあるが、人は沈黙を覚えるなりそういう助言どおりにしなくてもよくなり、今まで取りくんできた修行も不要となり、それらを超越したわが身を見る。完徳に近づいたからである。沈黙さえ守っていれば黙修に近づけるだろう。というのも修道院に住んでいる以上は、まわりに人が多くて一切人に会わずに黙修することなどできないからである。

天使同然だったアルセニイでさえ、ひときわ黙修を愛しているのに一切人に会わないようにすることはできなかった。現にわれわれも教会に行ったり他の場所へ行ったりするとき、ご近所の師父や兄弟とすれ違わないわけにもいかず、ふいにあちこちで出くわすではないか。かの福なるアルセニイもそのような状況の中にいて、修道院の近くで暮らしているかぎり人に会わないことは不可能だと悟った。そして人々や修道士に出くわす日々が続いたとき、恩寵によって「絶えず沈黙せよ」という術を身につけたのである。すると避けがたい理由で僧房の扉を開くたびに、顔を見せただけで人々に喜ばれ、もはや言葉による会話を求められなくなったのである。

そんなアルセニイの姿を見て教訓とし、身を守って属神的に富んでいった師父は多い。中には、人に会いたくなるなり全身を石に縛り付けたり縄で縛ったり、あえて空腹に堪えたりした師父もいた。空腹だと、かなり感覚を抑えやすくなるからである。

兄弟よ。私は驚嘆すべき偉大な師父を見てきたが、かれらは行ないよりも五感や体の習慣に注意を払っていた。そういった点から想念が正されるからである。生きていれば、やむなく不本意なことをしてしまったり思ってしまったりすることがある。ゆえに普段からたゆまず五感を守っていないと、ひょんなことから平安の状態を失ってしまい、長らく我に返ってこられないなんてことも起こりかねない。

心は成熟してくると、期待してきた永福のことばかり思うようになる。そして生活水準が高尚になればなるほど、何もかも捨てるようになる。さらに死を見据えていると、体のどの部分でも羽目を外さなくなる。やがて心に希望が溢れることほど嬉しいことはない。そうやって日々内面的な篩に掛けられながら知恵を深めていくのだ。なにせ孤独ゆえに落ち込むことがあったとしても(これも神の摂理なのだろう)、心に宿る信仰の言葉にとびきり励まされるだろう。それに、ある捧神者がいみじくも言ったように、信者は神を愛しているというただそれだけで、たといたましいが滅びそうな状態であっても慰められるのだ。なぜならその捧神者も言ったように、心から快楽や安逸を疎んじて永福のみを求めている者にとって、はたして苦痛をもたらすような損害などこの世にあろうか。

兄弟よ。こんな戒めを遺しておこう。自分自身の中で神の慈悲深さを実感するまで、とにかくすすんで施せ。この施しを鏡と思って手にして持ち、もとより神の本性にある真の像と肖を自分自身のうちに見届けるのだ。こんなふうにして照らされて、明るい動機で神に喜ばれる修行生活に取り掛かろう。憐みを垂れない頑固な心は一向に清まることがない。憐れむ人は、おのれのたましいを癒す医者だ。まるで強風で巻き上げるかのように心から慾の闇を追い払えるからだ。これこそ「神に貸与する良き負債」である、と福音書にも書いてあるマトフェイ 25 : 40, 箴言 19 : 17 参照)

寝床に入る直前に、寝床に向かってこう語れ。「さあ、今晩この寝床にもぐりこんだが最後、とうとう棺桶へ移ることになるかもしれない。朝まで眠るつもりでも、もはや永眠して来世へ連れていかれるかもしれない」と。だからこそ、まだ足のあるうちに修行に向かえ。ほどけない足枷に縛られてしまう以前に、足を動かして仕えるのだ。まだ手のあるうちに祈れ。息絶えて動けなくなる前に、十字をいて祈るのだ。まだ目のあるうちに涙で満たせ。塵埃に覆われてしまう前に、泣いて赦しを乞うのだ。そう、ちょっと風に当たっただけで萎えてしまうバラの花のように、体内の構成要素のどれかが壊れただけであなたは死ぬ。人間よ、いつだって旅立ちの時が迫っていることを弁えて、こう自分に言い聞かせるのだ。「見ろ、もうお迎えが戸口までやってきたぞ。何をぐずぐずしている。これより永世に移住して、もう二度とこの部屋へは戻ってこないのだ」と。

ハリストスとの語らいを愛する者は、独りきりになることを好む。大勢と交流したがる者は、この世の友だ。悔改を愛するのなら黙修を愛せ。なにせ黙修せずに悔い改めきることなどできないし、そんなことないと異議を唱える者がいたとしても言い争うな。悔改へいたる黙修を愛するのなら、喜んで貧窮をも愛し、黙修に対して放たれる叱責や侮辱をも愛せ。そう事前に心構えしておかなければ、自由に黙修生活を送って苛立たずにいることなどできないからだ。そういった些事をいちいち気にしないでいられれば、御旨によって黙修に与り、神がよしとされる分だけ黙修を貫くことができるだろう。黙修を愛するということは、つねに死を待ち受けるということである。この思いなくして黙修に入るならば、死ぬ気で耐えるべき境遇を持ちこたえることなどできない。

賢明な者よ、さらに次の点を弁えておくがよい。われわれがこうして独居を選び、黙修したり隠遁したりしているのは、規程外のことをするためでもないし、それを成しとげるためでもない。もし何かを成しとげたいのであれば、よほど人々と交流しながら力を合わせて取り組んだ方がふさわしいからだ。それに、もし本気で何かを成しとげるためだったとしたら、師父たちとしても人的交流を絶つまでもなかっただろうし、ましてや棺桶の中で暮らしたり、わざわざぽつんと建てた庵に隠遁したりする必要もなかったはずだ。師父たちは隠遁して体を弱め、こうしようと思った規程も行なえないまま、身体的疲労と無力の極みを襲ってくる重病に耐えた。そして、もはや立てなくなろうとも通常の祈祷文を唱えられなくなろうとも、声を出して讃美できなくなろうとも聖詠を読めなくなろうとも、そのほか体で行なえることができなくなろうとも、生涯にわたって喜んでその無力に耐えたのである。むしろそういう規程をこなす代わりに、弱りきった体で黙修するだけで充分だった。そうやって全生涯の日々を過ごし、これほど無駄とも思われる生き方をしながらも、だれ一人として僧房を捨てようとは思わず、たとえば規定をこなせなくなったからどこか遠くへ赴こうとか、教会へ足を運んで他人の奉神礼や聖歌を聴いて喜び楽しもうとはしなかったのである。

おのれの罪を痛感した者は、人々の前で祈って死者を復活させられる者よりも上だ。半時ばかりおのれのたましいを嘆いた者は、顔を見せただけで全世界に役立つ者よりも上だ。自分自身を見つめることができた者は、天使を見ることができた者よりも上だ。というのも、後者は肉眼で天使を見るが、前者は心眼で観ているからである。独りきりで涙を流してハリストスに従っている者は、集会で自慢話をしている者よりも上だ。「いや、使徒パウェルは『ハリストスより絶たれんことをも或いは願うなり』ロマ 9 : 3とまで言って、伝道に身を投じたじゃないか」などと言うな。もしパウェルと同じ力を得たならば、伝道すべきである。だが、パウェルは人類のために聖神を受けたのであって、本人も証言しているとおり伝道したくて伝道していたわけではない。なにせ「これわが分のなすべきところなればなり、もし福音を伝えずば、われ禍なるかな」コリンフ前 9 : 16と述べているではないか。それに、自分自身の悔改を見届けるために召し出されたのではなく、人類に福音を伝道するために召し出されたのである。ゆえに、絶大な力を得たのである。

もっとも、兄弟よ。われわれとしては心の中で世が全滅するまで黙修を愛そうではないか。いつも死を覚え、死を思いながら心で神に近づいて、世のことをあれこれ思い煩わないことだ。世の快楽を蔑み、病身や黙修による無為な日々を気持ちよく耐えよう。そして、ぜひとも巌穴や地窟エウレイ 11 : 38にて主の啓示が天から降ってくるのを待望している人々と共に、楽しみに与れるようにしようではないか。光栄と尊貴と国と威厳は父と子と聖神に帰す、今もいつも世々に。アミン。

 

第42訓話 聖イサアクが愛していた兄への書簡。この書簡の内容は次のとおり。1)黙修の奥義に関する教え。この奥義を知らぬがゆえに、この素晴らしい修行をしない者が多く、大半は修道士の間で言われている伝承だけに頼って僧房に留まっているという現状。2)黙修についての簡潔なまとめ

かねてより約束してきたとおり、貴君に最低限必要なことを教える立場として述べておこう。兄よ、ついに黙修へ入る準備が整ったようだね。これより黙修について賢明な方々から聴いてきた言葉をしたためておこうと思うのだが、ついでに身近な経験も付け足して覚えやすく簡潔にまとめてみたい。単にこの手紙を注意深く読むだけでなく、ぜひとも従来どおり熱心に役立ててほしい。なぜならここに収めた言葉はただ読むのではなく、じっくり理解しながら読みこみ、そこに秘められた大いなる力を汲み取って他の文章を読む際にも光のように用いて役立てるべきだからだ。そうすれば、黙修に徹するとはどういうことで何をするのか、そこにはいかなる奥義があるのか、なぜきちんとした共同生活の価値を低めてまでも黙修による苦行を選ぶ人がいるのか悟ることだろう。兄よ、もし短い人生を終えるまでに朽ちない生命を得たいと望むのなら、よくよく見極めてから黙修に入りなされ。ただ単に黙修するために黙修するのではなく、きちんと黙修という営みを研究して本質まで洞察し、諸聖人と共にこの道の深みと高みを悟れるように修行することだ。というのは、人は事業に着手するとき、どんな事業であろうともあらかじめこうすればこうなると思い描くものだからである。すると、腰を据えて取り組む気になり、途中で壁にぶち当たっても目的を見据えて踏ん張り、意義のある汗を流していると思える。また、巷でも事業の完成までは気を抜かず、つねに緊張して頭を働かせているのと同じように、誉れ高い黙修という業においても、その着手から完成までどんなに疲れることがあろうとも、やはり考え抜いた目的をじっと見つめて乗り越えることで、たくさんの奥義が見えてくるようになるわけだ。ちょうど船乗りがいつも目を上げて星を眺めているのと同じように、隠遁者は黙修という荒海に出たときに定めた目的を心眼で見据え、この捉えがたい黙修の海の底に潜りつつ、探した真珠を見つける日まで目を離さない。そのように希望をもって見つめていれば、この道で遭遇するひどい危険や苦行も耐えやすくなる。ところがそういう準備もせずに、黙修に入る前に修行の目的を見定めない者は、空気と取っ組み合うような愚かな真似をしているので、一生涯どうしても倦怠感から逃れられず、次に述べる惨状のいずれかに陥ってしまうのである。あるいは耐えがたい重荷に持ちこたえられなくなって黙修をやめて逃げ出すか、あるいは我慢して黙修を貫く代わりに僧房を監房に仕立て上げて悩み抜く。なぜ僧房が監房と化してしまうのかというと、どうすれば黙修によって慰めを得られるのか、その確実な方法を知らないからである。だから黙修による慰めを求めているにもかかわらず、心痛をもって求めることも祈祷時に涙を流すことも一向にできないのである。そのため師父たちは、かわいそうな教え子を愛するがゆえに、黙修に取り組む上でのヒントをすべて書き残し、われわれに必要なことを教えてくれた。

ある師父は、「私にとって黙修の長所とは何か。それは、住み慣れた家を離れなり知的に防御する必要がなくなって、より良い祈りに向かえたことだ」と述べた。

これと似たようなことを言った師父がいる。

「私は、書物の文章や祈祷文を味わうために黙修している。文の意味を汲み取って心地良くなると、もはや口では唱えられなくなり、まるで夢の中にでもいるかのように意識も思いも絞り込まれた状態になる。また、独りきりで黙修していると、思い出の嵐が過ぎ去って心が静まってくれる。すると内面で波のように嬉しい思いが次々と湧いてきて、ふいに心が期待していた以上の楽しみに満たされるのだ。そして、たましいが舟のようにその波を受けたとき、世の情報や肉的生活から出航してどんどん深く黙修へ入りこみ、神における真の奇跡にどっぷり浸かるようになる」と。

これと似たようなことを言った師父もいる。「なにせ新しい邪念を湧かせないためには黙修が一番だ。しかも黙修という防壁の中にいると、昔の思い出がどんどん薄れていって弱まってくれる。そして思考内で古い素材が朽ち果てたとき、知性はその素材を修復して元来の状態に戻るのである」と。

そう、次のように言った師父もいる。「ふだん何を考えているのか、その内容の違いでもって自分の内なる状態を読みとれ。ただし、ちょっと湧いて一時間したら忘れてしまうような考えは除外して良い。まだ生身の人間である以上は、外出したら上下どちらか、すなわち好転するか悪化するかせずに帰宅できる人はいない。求道者ならば、小さな害(些細な執着心)を捨てて帰ってこられるだろう。心が清いからこそ捨てられるのだ(人性は神に清く造られたため、その人性から生じる想念も清い)。ところが無精者は、いっそ大きな害(高慢)を捨てて帰ってくるのかもしれない。しかし、これは「罪の増しし時には、恩寵溢れたり」ロマ 5 : 20という使徒の指摘のとおり、ひとえに神の恩寵を受けた場合にしか実現しないだろう」と。

さらに、こんな風に言った師父もいる。「より楽しめる修行を選べ。つまり、夜が来るたびに儆醒することだ。師父たちはみな夜の修行で『古き人』を脱ぎ捨て、知性を生まれ変わらせた。人のたましいは夜になると不死を感じて闇の服を脱ぎ、聖神を受け入れるのだ」と。

さらに、こう言った師父もいる。「次から次へと人の面を見て、属神的任務にそぐわない談話を聞いて、しかも議論したり交流したりした日には、自問自答するための自由時間が無くなってしまう。本来ならば、その時間を用いて静かに自分自身を見つめ、罪を思い出して想念を清めることができたであろうし、忍び寄る想念にも注意を払い、祈りながら神秘的に対話できたであろうに」と。

他にこんな師父もいる。「人里離れて黙修しなければ、五感を統御できない。いくら理性的な人でも五感や想念に付きまとわれる以上は、内なる祈りで日夜目覚めていないと、つい邪念に魅せられてしまうのだ」と。

別の師父はこうも言っていた。「自分を鞭打って覚醒しながら祈ったり読書したりしていると、いかにたましいが喜び楽しみながら清まっていくことか。これは、死ぬまで覚醒して厳しく修行した者ならば分かるだろう」と。

したがって、貴君も黙修を愛する以上、上記の指示やヒントを目の前に置いて目標のようなものとし、少しでもその目標に近づけるよう努力せよ。まずは、目標に対して自分のどんな部分がそぐわないか突き止めよ。というのも、その点を把握しなければ真の知恵は得られないからだ。そして、そぐわない部分を直していきながら、忍耐力を見せよ。

沈黙とは、来世の奥義である。言葉は現世で使われる道具に過ぎない。斎行者は、いつも沈黙して斎をしながら、自分のたましいを属神的にしようとする。そのように黙修に徹して内面的神秘のうちにいれば、やがて聖なる奥義に満たされる。その奥義をとおして目に見えない天軍の力を受けたり、受造物を支配する聖性や権力も授かったりする。現に聖なる奥義に入ろうとしてしばらく引きこもるなり、そのような能力を受けた人たちがいた。そのうちの何人かは、主の隠しておられた知られざる奥義を観ることまで委ねられ、中級者たちを啓蒙した。なぜならそういう神秘的な任務は、自制もできず満腹で思い乱れている者に託すわけにはいかなかったからである。

とはいえ聖人でさえ、不遜にも神と語らおうとはしなかったし、奥義まで昇りつめようともしなかった。たといそうしたとしても、まずはすすんで腹を空かせ、痩せ細って顔面蒼白となり、地上の想念を何もかも捨て去った後でのこと、つまり知的静寂に至った後でのことであった。というのは、長いあいだ僧房で修行して内なる神秘を守り、五感を鎮めて人と会わずにいて黙修の力が降ってくれば、まずはふいに霊的な喜びに満たされてじきに心眼が啓き、それが透きとおっていればいるほど森羅万象の力を見抜いたり受造物の美を観たりするようになるからだ。そして知性がそういう奇蹟的直観に導かれてゆくようになると、神の受造物の栄えある奇蹟に魅せられて昼夜の区別もつかなくなる。すると、あまりに心地よいこの直観によって慾を感じにくくなるのだ。かくして、知性はこの清い段階よりも上の段階へ、さらに深い思考的啓示を受けながら二段階ほど昇ってゆくことになる。願わくは、われわれも神によってそのような段階に至らんことを。アミン。

 

第43訓話 いろいろな事柄、及びそのような事柄の必要性について

われわれは、属神的直観で物事を洞察する。ちょうど瞳で光を見ているように、属神的直観で洞察をするわけだ。いっぽう頭で物事を見抜こうとする際には、生まれもった知恵を働かせている。そのとき生来の状態のまま物事を見ているため、この状態をふつうの明察という。この明察から洞察へ向かう間にあるものが聖なる知力であり、それが「分別の太陽」となっている。分別のある人は、自然界や本性など平凡なものを明察しているのだが、慾というごつい物体のようなものが割り込んでくるなり、観ている対象に光が当たらなくなって洞察しにくくなる。もとより人の内面は、思考内の空間を飛ぶようにできており、その空間が清ければ明瞭に物事が見えるのだが、知性自体が病んでいると、せっかくの知恵も活かしようがない。つまり五感も損傷すれば感覚が鈍るように、知性も何かのせいで損傷するなり洞察できなくなってしまうのである。その逆に、いかに健康な知性の持ち主であろうとも、そこに知恵(知力)がなければ属神的なものまで見分けようがない。ちょうど申し分なく健康に恵まれた肉眼を持っているというのに、しばしば視力が弱いことがあるのと同じである。ところが、たといこれらすべてに対して、あるべき性質をあるべきところに収めることができたとしても、もしも肝心な恩寵(分別の太陽)に照らされていなければ、物事を判断する上で何の役にも立たない。ちょうど闇夜に時計を見ようとするのと同じように、日光がなければ対象物を見分けられないわけだ。したがって、これら(目と視力・知性と知力)がすこぶる健康でしっかり対象物を捉えることができ、しかも見分けられなかった物事や見分けがたいものまで見抜いているとき、まさに「われらなんじの光において光を見ん」聖詠 35 : 10という聖句が実現しているのである。しかし知性が汚れていると、せっかく思索の太陽(ハリストス)の恩寵に照らされて奮起できたとしても観照しようがない。その思考内の空気はどよんでおり、濃い雲や暗い物体に覆われているので光が入ってこないからだ。この濃い雲や暗い物体を取っ払うことができれば、光を目にして楽しむことができるだろう。

このように、われわれの洞察力だけではろくに物を見分けられない以上、本性の力なんぞ高が知れている。なにせたましいが物質的なものに覆われているせいで、いくら真実の光を見ようとしても、どんなに万物の上に輝く第二の太陽(ハリストス)の甘美を感じようとしても、真実の光がわれわれのところまで届かないのである。ゆえによほど努力をしなければ、以上に述べたような洞察などできないわけだ。なぜなら非の打ちどころのない洞察力を備えた人などいないし、完璧な属神的知恵までたどり着ける人などほぼいないからである。なぜ完璧な属神的知恵までたどり着けないのかというと、知恵が足りなかったり意志が乱れていたり、目的にそぐわない立場にいたりするからである。あるいは清さが足りなかったり教師や指導者がいなかったり、恩寵が与えられていなかったり(「けちな人に、富みはふさわしくない」と言われているシラ 14 : 3)、状況とか場所とか風習に妨げられているからである。

真実とは、神を感じたというその手応えである。それは属神的直観で捉える知的な味わいである。愛とは、祈りの成果である。人は黙修して熱い思いで祈っていると、その観照から昇ってどこまでも愛を渇き求めるようになる。祈っていれば、肉の人生に付きまとっていた肉慾の思いが死に絶えてゆく。なぜなら熱心に祈る者は、世に対して死んでゆくようなものだからだ。忍耐強く祈りに徹するということは、まさに自分自身を捨てることに他ならない。だからこそ、かくなる霊的な自己犠牲において神の愛が身につくのである。

斎で流した汗が種となって貞潔の実を結ぶように、腹を満たせば放縦になり、食べ過ぎれば穢れてしまう。胃袋が空っぽでおとなしければ、不浄な想念がたましいに押し入ってくることもない。いかなる食料も飲みこめば体に水分を与え、それが自然な体力となる。そして全身に行き渡った力が下半身も満たしたとき、その状態で身体的なものを見たりすれば、あるいはつい心に想念が生じたりすれば、その想念からいきなりある種の快感が走って全身に広がるのである。たしかに汚れなき貞潔な知性の持ち主であれば想念には揺らぎにくいものの、いわば身体を貫く「かの感覚」によって理性はたちどころに困惑し、もともと占めていた高所から落ちてきてしまうのである。そして聖なる想念も侵入してくる慾の嵐に揺らいでしまい、明るかった貞潔さも汚されてしまう。すると判断力も萎えて当初の目的も忘れ、闘う以前に闘わずして虜となり、敵に強いられずして弱い体の肉慾に隷従するようになる。善良であった人がこうなってしまうのも、ひとえに常時たらふく食べておきたいという強い欲望があるからだ。

どんなに貞潔の港にしっかり留まっていたとしても、食べすぎたが最後、死ぬまで決して心に入るのを許さないつもりだった事柄にまでずるずると引きこまれてしまう。そしてようやく想念が一つ収まったかと思いきや、次から次へと汚れた妄想が湧いてきて、せっかく清く保っていた寝床も、恥ずべき幻覚や淫乱の巣窟と化してしまうのである。この幻想に酔って想念と交わった日には、克肖なる肢体でさえ女に触れずして汚れてしまう。いったい食べすぎて知性を襲いにくる肉体の荒海ほど、暴風にそそり立つ荒海がどこにある。

ああ、なんと貞潔は麗しいことか。地べたに寝て、眠れなくなる空腹をこらえて苦しみ、美食を自制した末に肋骨と胃袋のあたりに深い溝ができたとき、どれほどの貞潔が光り輝くことだろうか。だいたいご馳走を食らって呑気に暮らしているから、汚れた想像や乱れた幻想が湧き出てくるのだ。そして、それらが脳裏に浮かんで目に見える像となり、いっそだれも見ちゃいないのだからしたい放題交わってしまえと急き立ててくるわけだ。いっぽう胃袋が空であれば、われわれの脳内も砂漠の国となり、想念の嵐に脅かされることも襲われることもなく静寂を保つことができる。ところが食べすぎて腹いっぱいになるや、胃袋は妄想の産地となり、せっかく荒野で独りきりでいるというのに愚かな夢想ばかり見るようになる。よく言われているように、食べすぎると欲望が際限なく湧いてくるからだ。

いつの日か聖なる恩寵によって霊的無欲を授かった暁には次のように理解せよ。なぜ無欲になったのだろうか。それは、決して淫らな想念が浮かばなくなったとか、肉体的想念(これなくして生きられる人はいない)が掻き立てられなくなったとかいうわけではない。あるいはどの想念も弱まって退治しやすくなったからでもない(もちろん執着のない想念は思いが特に高尚でなくとも退治しやすく、汚されにくいものだが)。そういった理由なのではなくて、むしろより良いことを思いめぐらしていた結果として、知性が否応なく肉体的想念と闘ったり撃退したりしなくても済むようになったからなのだ。つまり想念が侵入してくるなり、ふいに知性がすごい反撃力でその想念を撃退してくれるのである。これは習慣と恩寵によって心の底に温存される知力である。

修行者の知性というものは、神品の位階とは別次元のものだ。知性が天の憐みによって世に対して死ぬと、もはや闘ったり修行したりするまでもなくなり、ただ純朴に限られた物事についてだけ考えるようになる。たとい王者のごとく血肉の想念を支配できるようになったとしても、やはり生身の人間である以上は血肉や本性からくる想念を抑えきることはできない。しょせん四元素界で生活しながら思いめぐらしているうちは知性の基が揺れ動いており、四つの水分から絶えず変化を蒙っているからである。光栄はわれらの神に世々に帰す、アミン。

 

第44訓話 思慮深い者は黙修に留まるべきことについて

もし無駄なことで残りの日々を浪費したくない、期待どおりに黙修を成功させたい、と思うのであれば、よくよく考えてから黙修に入りなされ。よくやってしまうように淡い期待をよせて入るのではなく、しっかり見通しを立ててから日々の修行に取り組んでいくことだ。とくにこの道を熟知している人によく質問するがよい。ただし頭のみで知っている人ではなく、実際に経験して知っている人に質問せよ。しかもうまく黙修できるようになる日まで問いつづけなければならない。自分のしたことを一つ一つ話し、きちんと正道を歩めているのか邪道に逸れてしまったか訊いて確かめることだ。いくら善行を積んだからといって、それだけで正しく黙修生活を送っているなどと思いこんではならない。

もし何かを得たいと思うのなら、しかも経験を積んでそれに達してみたいと思うのなら、自分の一歩一歩をしっかり心に刻み込め。刻んだ足跡を振り返りつつ、いかに師父の教えが正しく、いかに敵の迷妄に嵌りやすいことか思い知れ。まだこの道を歩き慣れていないうちは、判断基準として次の数点を覚えておくとよいだろう。

あなたが黙修中に自由に善いことを考えることができ、とくに無理しなくても善く思うことができているとき、その黙修は正しい。

また、祈祷文を唱えながらそれなりに集中でき、ふいに唇が止まってたましいもろとも絶句したら、しかも黙修に長らく徹した後にそうなったならば、うまく黙修して温柔になり始めたしるしだ。黙修に引きこもっているだけではダメだ。まさに良識に基づいて賢く修行できればこそ、他者の手を借りなくてもやってゆける黙修になるのである。

さらに、黙修しながら何を思っても涙があふれ、観照中に思いつく事柄に涙が頬をつたっていることに気づいたら、いよいよ突破口が開いて敵を打ちのめしやすくなった兆候である。

しかもそうしようと思ったわけでもないのに、いつになく内面的思索に耽り、その状態で半時ないしそれ以上留まっていることが時々あるなと気づいたら、しかも体も疲れきって想念も穏やかになることが増えたとしたら、ついに恩寵の雲が僧房に近づいたしるしだ。

ところがずっと黙修しているのに、心がいろいろな想念に引っ張られて牛耳られ、頭もその想念でいっぱいになり、思いで犯した罪のことばかり考えてしまうのなら、あるいは現世のことを探求したくなるのなら、そんな黙修は骨折り損のくたびれ儲けであることを悟れ。頭であれこれ思いめぐらして時間を無駄にしているだけだ。なぜそんな風になったのかといえば、内面か外面を問わずやるべきことに背を向けて怠ったせいであり、とりわけ儆醒と読書を怠ったせいである。このことに気づいたら、ただちに生活を改めよ。

黙修を始めたばかりのうちは、慾におびかされて平安でいられなくても驚くな。ちょうど香油を溜めた樽が、日が落ちてもたやすく冷えないように、黙修に入ればすぐに慾が治まるというわけではない。それに香油から放たれた薫香も、霧散するまでしばらくそこに留まっているように、慾というのもすぐに消散するわけではない。ちょうど野良犬が肉屋で血を舐めるのに馴れたとき、餌をもらえないと入口で吠えまくるように、習慣づいた力は弱めるまでに時間がかかるのだ。

いっぽう怠け心が泥棒のように忍びこんできて、どんより過去を振り返って気分が暗くなったときには次のような兆候があるだろう。ひそかに信仰が弱まったと感じ、目に見える物事に夢中になり、神の摂理を信じていた気持ちが薄らぐ。身近なものを失うのがつらく、何もかも不満に思えて愚痴をこぼし、心の中で片っ端から他人や物事を非難する。どの考え方も感じ方も気に喰わず、神に対してさえ不満を持ち、体を傷つけるものが怖くて臆病になり、ときどき自分の影にびっくりして逃げ出すほど怖気づくこともある。なぜなら不信でもって信仰心を覆ったからだ(ここでいう信仰とは、いわゆる基本的な信仰告白ではない。むしろ明るい思考力で心を強め、良心に裏付けられたたましいで大いに神を信頼し、自分自身のことを気にかけず何の心配もなく神に任せきった信仰心を指す)。

しかし信仰の道で上達すれば、明らかに次のような手応えがある。どんなことでも前向きに捉えてふんだんに祈り、そこから属神的に役立つことを思いつき、いかなる目に遭っても人性の弱さを痛感しながら、つねに高慢に陥らないよう気をつけるようになる。すると他人の欠点を重く見なくなり、どうにかしてこの至福感のまま来世に入れますようにと願うようになる。たといつらい出来事が身の内外で起ころうとも、毫も知ったかぶるわけではなくただ単に用心深く、こういう出来事は神の公平な裁きによって送られてきたものだと捉える。そして、すべてに対して讃美と感謝を捧げるのだ。これこそ、覚醒して用心深く、厳しく生きようとする黙修者の姿である。

だらけている者は、おのれの堕落ぶりをあばく右のようなこまやかな判断基準を必要としない。なぜなら霊的な徳とは無縁だからだ。以上の判断基準のどれかを心の内に見届けたら、自分がどちらの方向へ傾き始めたのか分析せよ。そうすれば、いまどちらにくみした身分であるのか、まもなく気づくであろう。願わくはわれわれも、神によって真の知恵を授からんことを。アミン。

 

第45訓話 的確に見極める手順について

愛する兄弟よ。いつも自分自身に注意せよ。そして修行中に降りかかる苦難にも目を凝らせ。たしかに荒野で修行してきたわりには物分かりが悪いとはいえ、それでも黙修のおかげでいかに癒されてきたことかよく見極めよ。つまり「内なる人」を健康にするために、どんな試練が真の医師である神から送られてきたか思い出すのだ。たしかに悪霊にやられたこともあれば、病気や苦労を負ってひるんだこともあろう。臨終時や死後にどうなるか想像して身震いしたこともある一方で、恩寵のおかげで心が温まったり感涙を流したりして属神的に喜んだこともあるだろう。いやもっと率直に言おう。右のような試練を乗り越えてきて、あなたの傷は完治しただろうか。つまり慾は弱まり始めたかという問題だ。ぜひとも以下の判断基準を設けて絶えず自省せよ。気づける範囲のなかで、はたして弱まって消え失せた慾はあるだろうか。それも悩ましい対象から離れたからというわけではなく、まさに心が健康になって慾が鎮まっただろうか。また、欲したくなる原因を取り除いたからというわけではなく、まさに知力で克服できるようになった慾はあるだろうか。さらに、相変わらず膿んだ傷口だけでなく、新しい皮膚に覆われた傷口も見当たらないだろうか、つまり、たまには霊的な平安が訪れることもなかろうか。その一方で少しずつ湧いてきたり、いきなり湧いてきたりする慾はあるだろうか。あるとしたらどれほどの時間差で湧いてくるだろうか。それは体の慾か、心の慾か、あるいはその両方が複雑に絡み合った慾なのか。それは記憶の彼方でうっすらと湧いてくるだけなのか、それとも激しくたましいを襲ってくるのか。しかも暴君のごとく有無を言わせないのか、それとも泥棒のように忍びこんでくるのか。そして侵入されたとき、意識をつかさどる知性はどんな注意を払っているか。想念がくるなり気合を入れて闘って退治しているのか、それとも目もくれず泰然としていられるのか。さらに、打ちのめした過去の慾はあるか、その逆に新たに形づくってしまった慾はあるか。はたして何らかの対象を目にしたせいで慾が湧くのか。あるいは追憶の中で慾を感じるだけで、感じても欲せずにいられるのか。これらの点を物差しにして、どれくらい心がしっかりしているか測ることもできるだろう。

まだ慾と闘っているうちは修行すべき状態にあるため、いくら努力していたとしても心は揺らいでいる。もはや闘わずして慾を克服した状態になったとき、泰然とするのだ。その泰然とした心は、聖王ダヴィドになぞらえて聖書にこう記されている。「ダヴィドは王宮に住むようになり、主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えになった」サムイル下、7 : 1と。以上は特定の慾に限った話ではない。とうぜん三大欲求や野心や憤怒をはじめ、功名心や金銭欲をも含んだ話である。現に功名心を抱けば、他人の顔を思い浮かべて肉慾が掻き立てられて自分を認めてもらいたくなるし、金銭欲を持てば、買う気もないのに憧れの物を思い描いてしまう。すると何となく物を集めて富んでみたいと思うようになり、しだいにあれもこれも欲しくなる。

とはいえ、どの慾も想念をとおして闘いを仕掛けてくるわけではない。単にずしんと気が重くなる慾もあるからだ。たとえば怠惰や倦怠や憂鬱などは、いきなり想念や快感をとおして迫ってくるわけではなく、ただたましいに重くのしかかってくる。しかるにたましいの力量というものは、想念をとおして闘いを仕掛けてくる慾に勝利するかどうかで決まる。だから、人は右の事柄を心に留めて判断基準とし、自分のたましいがいまどの領域を歩んでいるのか、つまりハナアンの土地へ踏みこんでしまったのか、それともイオルダンへ向かって歩いているのか自覚すべきなのだ。

いっぽう次の点にも注意せよ。はたして右の事柄を見分ようとするとき、霊的な光を十分に受けているだろうか。もしや頭がぼんやりしていたり、全然見分けられなかったりすることはなかろうか。たましいの理性的部分は本当に清まり始めただろうか。祈り始めるなり気が散らなくなっただろうか。祈ろうとするときに知性を乱してくる慾はなかろうか。「ああ、黙修のおかげで心が穏やかになったな」とか「気が落ち着いたな」という手応えはあるだろうか。知性は望まなくても常に昇って霊界を捉え、五感では説明しがたい世界に感嘆しているだろうか。ふいに比類ない甘美に絶句して胸が高鳴ることはなかろうか。いつも心から甘美なるものが流れ、知性をすっかり惹きつけているだろうか。ときどきふと全身に言いようのない楽しみや喜びが湧いて、世の中のすべてが空しい塵に思えたりすることはなかろうか。というのも、かの甘美が心から流れ出るようになると、祈祷中や読書中ないし学習後や熟考後に、よく達観するようになるからである。いや、たしかにそういうことがなくても達観することは多々ある。たとえば手仕事の最中に悟ることもあるし、夜中に夢と現の狭間で、いわば寝つつ寝入らず、意識がはっきりしたりしなかったりしながら悟ることもある。ただ人はこの心地よさに全身を貫かれると、「天国とは他でもない、まさにこれだ」と思うのである。

さらに次の点も見極めよ。心から溢れる希望のおかげで感覚的な思い出をうまく活用でき、疑うべくもない真実を心から確信できるようになっただろうか。そして地上のものに気を取られないよう注意しなくても、心はいつも神と対話して絶えず救主とともに内的修行に励んでいるだろうか。

神の声を耳にしたときには、その声色や内容を聴き分けられるようにせよ。じきに神と対話できるという可能性があればこそ、日々絶えず黙修して修行しつづけられる。だいたい努力もせず神と対話できた日には、たちまち対話できなくなってまた長いことそのような恩寵には与れなくなってしまうだろう。

かくして、使徒パウェルのように、はたして本心からこう言いきれるだろうか。「われ篤く信ず、死も、生命も、現在も、未来も、他のいずれの受造物も、われをハリストスの愛より離すことあたわず」ロマ 8 : 38~39と。つまり心身に苦痛を受けても、迫害されて飢えて素裸になっても、隠居の独り身で災難に遭おうとも「ハリストスを愛しつづけます」と言えるだろうか。さらに斬首されそうになっても悪賢い悪鬼にやられても、要らぬ名誉を受けたり中傷されて殴打されたりしても、「ハリストスを愛しつづけます」と言えるだろうか。

兄弟よ。もしもこれらの思いが、いくばくか溢れたり乏しくなったりし出したのを見出せなかったとしたら、いくら黙修していても骨折り損のくたびれ儲けだ。たといその手で奇跡を起こしたり死者を復活させたりできたとしても、右のような心境が一向に生じていないのであれば、すみやかにたましいを鞭打って主にすがりつき、心の扉を塞いでいる幕を取り除いてくださいと乞え。そうすれば、救主に慾の嵐の闇を吹き払ってもらい、永遠の闇にいる死者のようにではなく、むしろ内面の岩の上で沈まぬ太陽(ハリストス)の光を目にするようになるだろう。

いつも儆醒して読書し、師父に教わったとおり叩拝していれば、その熱心さに対してほどなく右の恩恵(神との対話)を受けるだろう。ちなみに右の恩恵に与った者たちは、まさにそのような手段をとおしてその恩恵に与ったのである。あなたもその恩恵に与りたいのであれば、黙修しながら本訓話に述べてあるとおり修行してたましい以外のことを思わず、だれに対しても執着せずに内面的徳行に励まなくてはならない。しかしわれわれ自身も実際にどれだけ体験してきたのかといえば、やや実感できた部分もあるかもしれないという程度であり、その実感した部分を拠り所として他の部分もきっとそうだろうと確信しているにすぎないのだ。

そもそも黙修して体験的に神の恩寵を知っている人ならば、これ以上の説得を必要としないどころか、信仰の弱い輩のように疑ったり苦しんだりすることが一切ない。なぜなら積み上げてきた経験による論証だけで十分に納得し、その論証が未経験で語られる無数の言葉よりもずっと説得力があるからである。光栄と威厳は神に世々に帰す。アミン。

 

第46訓話 真の知恵について。しくじりやすい初心者だけではなく、ほぼ無欲に達して清く考えられる義者さえも、きちんと把握しておくべき誘惑について。要するに、高慢になると慈憐によって送られてくる誘惑について

罪を犯しては悔改し、たましいを恩寵に癒してもらっている人がいる。理性ある身はひっきりなしに揺れ動くため、だれでもつねに変化を蒙らずにはいられないからだ。じっと観察していれば事あるごとにこの変化に気づくが、さらに覚醒して省察していれば、人が毎日誘惑に遭ってどれほど堕落しやすい危険状態にあるか悟るだろう。いくら温柔で謙遜であろうとしても、その日ごとに考えが変わり、そうなる原因が目に付くかぎり知性がふいに乱れて困惑してしまうさまを見届けるからである。

だからこそ聖マカリイは、遠い未来を見越して、念には念を入れてこの現実を肝に銘じておくよう書き残してくれたのである。心変わりしたときに絶望しないためだ。なぜなら清さを保っている者でさえ、だらけたり挫折したりしたわけでもないというのに、ちょうど気温が下がるようにいつでも堕ちることがあるからである。それどころか、しかるべく生活していても、意に反して堕ちてしまうことがある。この点、福マルクも実体験に基づいて自著でくわしく論証している。そのおかげで、聖マカリイが机上の空論を述べたわけではないことが立証され、かくも偉大な聖人が二人そろって証言した以上、われわれも困ったときに確信をもってこれでよいと胸を撫でおろせるようになったのだ。つまり何と言ったのか。聖マカリイは「だれしも気温のように変わる」というのである。この「だれしも」とは「だれしも本性は同じだ」という意味である。だからユーチテス(メサリアン)派が言い張るように、「変わりやすいのは凡人か下賤の者だけだ。完徳に至った人ならばいつも同水準で邪念も湧かずに変わらない」というわけではない。だからこそ「だれしも」と言ったのである。

聖マカリイよ、いったいどういうことなのか。たしかに、おっしゃるとおり寒い日もあれば猛暑もあり、あられが降ったかと思えば土砂降りの雨に見舞われたりもする。つまり闘いの日もあるし、恩寵に助けられる日もある。ひどい誘惑にもだえ苦しんだかと思いきや、平安がふたたび訪れることもある。なにせおっしゃるとおり恩寵が降ってきて神の喜びで満たされ、貞潔な想念に安心するからだ。聖マカリイはここで「貞潔な想念」と言い表し、暗にそれ以前には不浄な肉の想念に見舞われていたことを示している。「貞潔な想念でへりくだっていた後で、いきなり激情が襲ってきたとしてもがっかりして絶望してはならない。むしろ恩寵に救われているときにも自慢してはならず、喜びのときにこそ苦難を待ち受けよ」と。つまり醜態に陥っても顔を曇らせるな、醜態から逃げようと目論むのではなく、むしろ人間固有の自然な症状として喜んで受け入れよ、と助言しているわけだ。修行すれば変わらない平安を得られるだろうなどと期待してはならない。修行も落胆も敵の揺さぶりも無くなるような完全な平安に期待して、逆にその平安を得られないからといって絶望しないようにせよ。主なる神は、人がこの世にいるあいだ変わらない心を与えようとはされなかったのだ。

聖マカリイは、われわれが変化に懲りたと言って修行に背を向けて暇になり、だらだら伸び悩んで日々を送らないようこう助言してくれたのだ。さらにこう言葉を紡いでいる。

「聖人もみな変化を蒙りつづけていたことを弁えよ。この世に生きているうちは、苦労した後にひそかに溢れんばかりに慰められることもある。なぜならわれわれは誘惑と闘って神を愛したという体験を積むべきだからだ。つまり修行者は落胆したり諦めたりするな、ということだ。そうすれば、この道を無難に突き進むことができるだろう。もしも諦めたり脇へ逸れたりするのならば、見えない狼の餌食となる」と。

それにしても人間の変わりやすさをたった一言で言いつくした聖マカリイは本当に偉大だ。知恵に満ちた一言で、読者の疑念をすっかり晴らしてくれたのである。「まさに師父の道を打ちやって独りよがりな道を歩もうとしたからこそ、狼の餌食になったのだ」と。しかも「喜びのときにこそ、苦難を待ち受けよ」と激励する。つまりこういうことだ。たしかに恩寵によって一気に高尚なことを思うことがある。そして聖マルクのいうように神性を観て驚嘆し、天使に支えられて観照している間は敵対者が遠のいて、しばらく得もいえぬ平安に包まれることがある。しかし恩寵や聖天使に守ってもらったからといって思い上がってはいけない。穏やかな港に着いたとか、もう気が変わらなくなったとか、あらゆる敵から逃げきったから大丈夫などと思ってもいけない。なぜなら福ニールも述べたように、そのように舞い上がってひどいしっぺ返しを受けた者は多いからである。あるいは、人よりも優れているからこうなったのも当然とか、ほかの連中はちゃんと生活していないのでこうなれなくても仕方あるまいなどと思うのも良くない。または、こういう賜を得られない愚かな連中とは違って俺なんかは完全な聖性に至り、その属神的水準で不変の喜びを得ているのだなどと思うのもまずい。むしろ穢れた想念を注視し、誘惑の渦中で悶々としていたときに脳裏に浮かんだふしだらな像を思い出せ。ちょっと前まで暗澹とした気分でふしだらなことを考えていたではないか。いかにいそいそと慾に傾き、神から直観や才能や恩賜をいただいた身分を恐れもせずに、朦朧な頭でその慾と交わったことか。それもこれも、われわれが無力を思い知るために送られてきた試練なのだ。だれがいつどうなったらよいかご存じの神から送られてきた試練なのだ。ゆえに、恩賜を授かった分際で思い上がったりしたら、神に見放されてしつこい想念にとことん悩まされることになるだろう。

もはや自力や徳行では、自分自身をしっかり保てないことを悟れ。もし保てているとしたら、それは恩寵が手の平にあなたを乗せて守っていてくれているだけのことだ。この事実を、喜びのときに思い返せ。想念が思い上がってきたら聖マカリイの言ったように涙を流して泣き、かつて誘惑の渦中でどんな罪に陥ったか思い出して叩拝し、そうやって自負をへし折って謙遜を身につけるようにせよ。ただし絶望してはならない。絶望することなくへりくだった想念で神をなだめ、罪を赦してもらえるようにすることだ。

謙遜があれば、行いがなくても罪の多くを赦される。逆に謙遜がなければどんなに修行しても無意味で、むしろ悪いことばかり引き寄せる。だからいま言ったように、謙遜でもって不法を赦してもらえるようにせよ。ちょうど塩がどんな食事にも欠かせないように、謙遜はあらゆる徳に欠かせない。謙遜があればどんどん罪の砦を打ち壊すことができるだろう。というわけで、どうやって謙遜を得るべきか、いつも心痛をもって思いめぐすことだ。もし謙遜を得ることができれば神の子となり、善行がなくても神の前に立つことができるだろう。いっぽう謙遜がないとどんな行為も空しい。いかなる徳行も修行も、水泡と帰してしまうからだ。

要するに「思いを変えること」、これこそ神の望まれていることなのだ。われわれは何を思っているかでより優秀にもなり、より役立たずともなるのである。謙遜さえあれば、弁護士がいなくても神の前に立って弁明できるだろう。何よりも神に感謝すべきことは以下の点だ。かくも揺らぎやすい弱い身でありながら、ときに恩寵に支えられて高みに昇り、そこで賜を授かって本性を超えることがあるか。ところが神に許容されるなり、どれほど堕ちて知性が豚になることか。ゆえにこの身の弱さと変わりやすさを胸に刻み、聖師父の次の言葉を肝に銘じておくことだ。「もしも『ずいぶん徳を積んできたじゃないか』という傲慢な心の声が聞こえてきたら、『この老いぼれが! おのが淫行を思い出せ』と言い返せ」。もちろん想念のなかの淫行を指してそう言っているわけだが、なぜそんな誘惑に遭うのかと言えば、これもまたたましいの救いのために恩寵が機を捉え、淫らな誘惑と闘わせたり助け出したりしてくれているのである。

しかし言い得て妙ではないか。つい高度な生活をしているぞという自負が湧いたときには「この老いぼれが! おのが淫行を思い出せ」と言って戒めよ、いう。これが高度な生活を送っている者へ向けた助言であることは言うまでもない。というのも賞賛に値する高水準を保っている者でなければ、おのれの淫乱ぶりを思い出しただけで身の毛がよだつことはないからだ。それに徳を積み重ねてきたからこそ、徳を無に帰すためにこのような自負心も湧いてくるわけだ。たとえば聖マカリイが愛弟子に残した書簡を読んでみよ。すると、聖人がいかに高度な水準でこのような試練に遭うのか分かる。そこには以下のような内容がはっきりと書いてある。

われわれは、闘ったり恩寵に救われたりしながら、どれだけ神に考慮されて人生を歩んでいることか。なにせ聖人が最期の一息まで徳のために罪と闘うことは、神の叡智から見れば良いことだからだ。いつも視線を神に向けて、絶えず慾にずり落ちないよう畏れ惑いながら神へ向かうことほど、神への聖なる愛を育みやすい方法もない。そのようにして、より確かに神を信じ、神を望み、神を愛するようになるからである。

そしてこれこそ、もはや方々に出歩いたり仕事に追われたりする者や、不浄な想念で汚れている者に対して述べた言葉ではないのだ。また、正義を死守しながらも世俗にいて五感に惑わされ、(ふいに避けがたい状況に陥るため)いつ落ちるかわからない危険の中で、想念はおろか五感も守りきれないような者に対して述べた言葉でもない。むしろ体も想念も守れる環境にいて、あらゆる喧噪や交流から身を離し、思いも何もかも切り捨てて祈りで知性を守っている者、まさに恩寵によってものの見方も変わり、主の知恵の力によって生きている黙修者に対して向けた言葉なのである。つまり、ひそかに神゜で黙修法を悟り、世を離れて俗事を見ず、俗っぽい想念の失せた者に対して述べた言葉なのだ。なぜならそういう者ならば、世の事物を避けて恩寵に救ってもらうことで、たとい慾は死んでいなくても想念が消え失せるからである。願わくはこのような恩寵がわれわれにも降り、想念が消え失せた状態を維持してくださいますように。アミン。

 

第47訓話 この章の概要と祈りについて

この章の主旨は、ひとことで言えばこうなる。われわれは昼も夜も24時間、いつも悔い改めていなければならない。「悔改」という言葉は、体験によって突きとめたかぎり次のことを指す。「嘆きつつ祈って神に近づき、ひたすら罪過の赦しを乞い、どうか今後とも守ってくださいと祈ること」である。だから主も、人の弱さを支える祈りを示して、われわれに「儆醒せよ、祈祷せよ、誘惑いざないらざらんためなり」マトフェイ 26 : 41とおっしゃったのである。さらに、怠けずに祈れ、いつも目を覚まして祈れルカ 21 : 36, コロサイ 4 : 2 参照)と告げられ、「求めよ、しからばなんじらに与えられん、尋ねよ、しからば遇わん、門を叩けよ、しからばなんじらのために啓かれん」マトフェイ 7 : 7~8と畳みかけられた。その極めつけとして、真夜中にパンをくれと友人に頼みこんだ人の話を引き合いに出して、「われなんじらに告ぐ。もし彼は友なるがゆえに、起きて彼に与えずば、すなわち切迫によりて、起きてその求むるごとく彼に与えん」ルカ 11 : 8と論証し、熱心に求めるよう励まされたのである。だから、あなたも怠けずに祈りなさい。なんという呼びかけであろうか。もっと大胆になれという呼びかけなのだ。神聖な賜を授かるよう、どんどん求めよと告げておられるのである。いっぽうで神はどうすれば良くなるかご存じのうえ万事を見事に進めておられるのだから、あえてこちらから何か求めるまでもないはずなのだが、それでもこうして「求めよ」と励まされると、いっそ勇気をもって期待してみたくなる。なにせ与え主は、われわれの弱さを熟知されておられるからこそ、つとめて熱心に絶えず祈れと命じられたのだ。まさにわれわれが生後から息を引き取る瞬間までまっすぐに歩みきれず、いつもぐらぐらして徳よりも悪習へ傾きやすく、すぐに敵を受け入れてしまいやすい性質だからである。かりにこの世に確実な国(天国)があるとしたら、人はその国に至りしだい人性を超越し、もはや心置きなく行動できるようになるであろう。その場合、神もそのような人に対してつとめて祈れとは命じないであろうし、御力のみですべて成しとげられるに違いない。なぜなら来世では、これをお願いしますと神に祈ることはないからだ。かの自由の祖国(天国)では、人性も敵におびやかされることがないので変化したり傾いたりしなくなるし、すべて完全になるからである。ゆえに、そうではない現世では単に自分を守るべく祈るのみならず、ふいに二進も三進もいかない不可解な状況に陥ることが多々あるため、そういう脆さを背負っている身分としても「祈れ」と命じておられるのだ。というのも、どんなに注意して善く生きようと心がけていても、主に放任されて誘惑に陥ることがあるからである。聖使徒パウェルがこう述べたとおりである。「黙示の至大なるによりてわが高ぶらざらんために、一つの刺はわが肉体に与えられたり、すなわちサタナの使いなり、われを撃たんため、わが高ぶらざらんためなり。われ三次みたび主にこれをわれより離さんことを求めたり。しかれども主はわれに言えり、我の恩寵はなんじに足れり、けだし我のちからは弱きうちに行わる」コリンフ後 12 : 7~9と。

つまりパウェルはこう思っていたわけだ。主よ、もしそれが御旨なのであれば、しかもわが幼さゆえに誘惑に遭って頭を冷やすしかないのであれば、よろこんで従うことにいたします。現にわたし自身がそうであるように、世を捨ててあなたを愛しつくして善を求め、得もいえぬ啓示や観照にあずかって天軍の声を聴き、あなたを観照するほどの聖性に与る身でありながらも脆さから逃れられないのであれば、これは受け入れるしかありません。つまりこのわたしのようにハリストスにおいて完全な者であろうとも自分自身を守れず、ハリストスの知恵を得ていようとも理解できない脆さがあるということならば、主よ、いっそ病もうとも苦しくとも投獄されようとも飢えようとも、人性や慾や悪霊にやられようとも、すべて喜ぶことにいたします。そして願わくは、この弱さを喜んで耐えることで、つまり誘惑への弱さを耐えることで、御力がこの身に宿ってくださいますように。これほどの賜を受けた後でも、なお内面にあなたが宿りやすくなるためには試練が欠かせず、その試練をとおしてあなたに近づきやすくなるという事実を目の当たりにして、わたしがあなたにだれよりも一番に愛され、人の上に立つ者となった事実を思い知るのです。そして、友である使徒たちも授からなかった奇蹟的な力を見事に授かったことも悟るのです。しかも、わたしはあなたの愛の掟を守る者として「選びたる器」行実 9 : 15 参照)とまで呼んでいただきました。そればかりか、もしこの誘惑から解かれれば伝道がもっと成功するであろうことを念頭におくのであれば、本来ならばとっくに誘惑から解放してくださっていたはずなのです。もちろん、それがわたしに役立つならばの話ですが。ところが、思い悩まず気を抜いて生きることは、あなたによしとされませんでした。なぜなら世界中に福音が広まることよりも、むしろわたし自身が誘惑によってへりくだって驕らないことの方を重視されたからです。

というわけで、賢い者よ。こういった事柄がどれもこれも誘惑による大いなる賜であるならば、というのもパウェルのように属神界に昇れば昇るほどより慎ましく自己注視して誘惑から学ばなければならないのであれば、かの強盗が多くてなかなか入れないはずのマトフェイ 11 : 12 参照)「確実な国」(天国)にたどり着いたと豪語する輩は、いったい何様のつもりか。聖天使でさえ、「われら(人間)と共にせずしては全きを得ざらん」エウレイ 11 : 40と言われるほど揺るぎやすいにもかかわらず、聖天使にも与えられなかった揺るぎなさを得たいと願い、神゜や体のつくりに反してでも全く揺るがない身となり、もう誘惑の想念になんか悩みたくないと願う者は何者か。この世の秩序というのは、聖書のどの箇所でもほぼそう述べられているように次の一言に落ちつく。「たとい毎日何千回撃たれようともひるむな。戦場にいる身でありながら闘う拳を下げてはならない。ふとした拍子に打ち勝って、勝利の冠を得ることもあるではないか」。

この世とは、つまり競技場であり、競い合うための戦場である。この世で生きていられる時間とは、戦いの時間である。戦時中は、どの国でも法律で縛られない。つまり王は戦争が終わるまでは戦士たちに限界を設けない。ただし戦争が終わったら、だれもが諸王の王(神)の門へ連れていかれ、そこで戦時中にどう戦ったか、つまり戦い抜いたのは誰で、逃げてきたのは誰なのかが問われるのだ。というのも、いくさ下手でいつも負けてばかりいる無力な戦士が、時にいきなり敵軍の旗を奪って名を挙げ、連戦連勝してきた名戦士よりも称えられて冠を受けたり、戦友よりも褒賞を多く手にしたりすることもあるではないか。だから、だれ一人として絶望してはならないのだ。ただひたすら怠けずに祈り、必死に主の助けを乞え。

まだこの世で生きていて肉体を着ているあいだは、たとい天の蒼穹まで昇ったとしても努力をやめて無為に過ごしてはならず、始終用心すべきことを肝に銘ぜよ。これぞ(つまり悔い改めてへりくだることこそ)、完徳なのだ(と言いきる私を赦せ)。そしてこれ以上に関する事柄は、身の丈に合わない思考の遊びに過ぎない。光栄と国と威厳は、神にこそ世々に帰すべし。アミン。

 

第48訓話 いろいろな徳と、修行者のあくなき向上について

修行を極めた先には、「痛悔」「清さ」「完徳」の三点がある。「痛悔」とは何か。過去の罪を捨ててそれを悲しむことだ。「清さ」とは何か。端的にいえば、どの受造物をも憐れむ心だ。では「完徳」とは何か。謙遜を深め、見えると見えざる万物、すなわち感覚的なものも思考的なものもすべて捨てきって、一切合切思いめぐらさないことである。

また、「痛悔とは何か」と訊かれたときに、「打ち砕かれてへりくだった心だ」と答えたこともある。さらに「謙遜とは何か」と訊かれたときに、「すべてに対してとことん死ぬことだ」と答えたこともある。そのうえ「慈悲心とは何か」と訊かれたときに、以下のように答えたこともある。「人々のことも鳥のことも動物のことも悪魔のことも、つまりどの受造物のことも熱く思う憐憫の情だ。受造物のことを思ったり見つめたりするなり、かわいそうと思う気持ちがぐっと込み上げてきて目に涙が溢れてくる。そしてどこまでも耐え抜いているために心が小さくなり、受造物の被害や悲しむ姿を見聞きしたりできなくなる。ゆえに動物や悪魔のことだけでなく、危害を加えてくる連中のことさえも、いつも神に守られて浄化されますようにと祈る。しかも地を這う爬虫類や昆虫のことも胸を痛めて祈る。かわいそうと思う憐憫の情が、神のそれに似て際限なく湧き起こってくるからである」と。

ちなみに「祈りとは何か」と訊かれたときにはこう答えたこともある。「現世に関することを何もかも忘れて知的に自由になり、心が来世に期待しうるものだけを求めて釘付けになることである。もしもあなたがこの状態から遠いとすれば、それは自分の畑に異なる種を同時に蒔いているということだ。つまり聖書が禁じている『牛とろばとを組み合わせて耕している者』申命記 22 : 10と同じことをしているのだ」と。

いっぽう「どうすれば謙遜を得られるのでしょうか」と訊かれたときには、こう答えたこともある。「絶えず罪過を思い、死に近づいてゆくことを望み、貧相な服を着ていつも末席を好むこと。いつでも一番つらい仕事を喜んで引き受けて逆らわず、集会に行くことを好まず、沈黙して無名になろうとして自分を何者とも思わず、思いどおりになる仕事を持たないことである。雑談や儲かる話を毛嫌いした上で、いかに非難されても咎められても妬まれても思いを高く持ち、人々に対して拳を振り上げず、人々からも拳を振り上げられることなく創世記 16 : 12 参照)、ただ独りで自分のなすべきことを行ない、この世のことは自分のこと以外は一切慮らないことである。かくして謙遜が得られるのだ。端的にいうと、何も持たず貧しく独居しつづけてはじめて、謙遜になって心が浄まってゆくのである」と。

完徳にたどり着くと次のような兆しがある。人々への愛ゆえに一日に何十回焼かれたとしても満足しない。かのモイセイも、神に対して「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消して去ってください」出エギペト 32 : 32とまで祈った。そして福なるパウェルも「われはわが兄弟けいてい、肉によるわが親族、すなわちイズライリ人のためには、自らハリストスより絶たれんことをもあるいは願うなり」ロマ 9 : 3と吐露し、さらに「あなたがた(異邦人)のために苦しむことを喜びとする」とまで言い切ったコロサイ 1 : 24。それにパウェル以外の使徒たちも、人々の生命を愛するがゆえに、あらゆる死を甘受したのである。

このような愛を突き詰めると、行きつく先は主なる神である。「神は世を愛して、その独生の子を賜うに至れり」イオアン 3 : 16とあるとおり、神は受造物を愛するがゆえに、世のためにご自身の子を十字架の死に引き渡された。なぜそうされたのかといえば、それ以外にわれわれを救う方法がなかったというわけではなく、むしろそのようにして「この溢れる愛から学べ」と諭されたのである。そしてご自分の独生子の死を用いて、われわれをご自身の方へ引き寄せられた。かりに神のもとに独生子よりも高価な何かがあったならば、それをわれわれに与えて人類を救い出そうとされたに違いない。しかも、その大いなる愛ゆえに、われわれをご自分のほうにやすやす引っ張れるのに引っ張らず、むしろわれわれが心から愛して神に近づくことを望まれたのである。しかも神子であるハリストスご自身に至っては、人類を愛するがゆえに神父かみちちに従い、喜んで殴打と苦痛を忍ばれたではないか。聖書に「彼はその前にある喜びに代えて、辱めを意とせず、十字架を忍びて」エウレイ 12 : 2と書いてあるとおりである。だからこそ裏切られた夜、「これ我のたい、世が生命を得るためにわたさるるものルカ 22 : 19 参照)、これ我の血、おおくの人のために流さるるもの、罪の赦しを得るをいたす」マトフェイ 26 : 28と宣告され、「我かれらのためにおのれを聖にす」イオアン 17 : 19といって御身を献じられたのである。これとおなじように、聖人たちは分け隔てなく人々を愛することで完徳を帯び、神に似た者となった。まさに真摯に神に倣って、隣人を愛しきれるようになろうとしたのである。現に師父や修道士たちはそのように行動し、いつも主イイスス・ハリストスの生き方に倣いながら、かの完徳を目指したのである。

福アントニイは、隣人よりも自分の役に立つことを断じてしなかったと言われている。隣人のためになることこそ、最も優れた営みであると信じていたからだ。同じく師父アガフォンも「皮膚病患者を見つけて、その病体と自分の体を交換したいくらいだ」と言ったという。かくも愛しきる愛に圧倒されないだろうか。しかも師父アガフォンは手元に何か物があったとき、その物を隣人に与えて喜ばせずにはいられなかったそうだ。あるとき、来訪してきた兄弟が僧房にあるナイフを欲しそうにしていたので、そのナイフを受け取るまでは帰らせなかったという。師父たちがこのような振舞いをしていたという話は、いろいろな書物に書き残されている。隣人のためならば、猛獣や剣や火に身を投じたほど人々を愛しきった聖人も多い。なぜこんな話をしているのかというと、いくら聖人とはいえ、もしもひそかに来世の手応えを感じていなかったとしたら、そこまで人々を愛しきれなかったはずだからである。現世を愛しているうちは、人々を愛することができない。しかし隣人愛を身につけた途端、神ご自身をまとう。そして神を身につけた者は、もはや神以外の何かを得ようとしてはならず、おのれの体までも脱ぎ捨てなければならないのだ。

かくして、現世を愛して現世とその生き方をまとっている者は、それらをすべて脱ぎ捨てないかぎり神をまとうことができない。なにせ神ご自身がこのことを証して、「人もしすべてを捨てておのれの生命をも憎まずば、わが門徒となるを得ず」ルカ 14 : 26 参照)と告げられたではないか。すべてを捨てるどころか、いっそ憎まなければ門徒になれないという。ならば、すべてを憎めず主の門徒にもなれない分際では、とうてい主を宿すことなどできまい。

  なぜ聖人はかくも来世の希望を甘く感じ、やすやすとそんなふうに生活したり行動したりすることができ、心の徳も手際よく成しとげられるのでしょうか。

回答  聖人は希求心に目覚めて、属神的な美に酔いしれているからだ。だから、もはや苦労も苦痛も感じないし、いつ何をしていても人間の足で歩んでいるというよりは、むしろ空中でも歩いているような気分なのである。なにせ道中の困難も目に入らず、行く手をはばむ山もなければ泥流もなく、「険しい道は平らに」イサイヤ 40 : 4なるからである。なぜならいつも神父かみちちの懐を注視し、絶えず遠くて見えないものを手に取るように望み、ひそかに信仰の目ではるけきものを見通しているからだ。その遠望を起爆剤にして霊感に満ち、手元に無いものでさえ有るものとして感じているからだ。しかも、いつもあちら側のことに思いを馳せ、いそいそとそちらへたどり着こうとする。ゆえに何らかの徳を行なおうとするなり、ただその徳だけを部分的に修めようとするのではなく、あらゆる徳を一挙にまとめて徳全体を仕上げるのだ。なぜなら他の人々のように王道を歩いているわけではなく、独自の最短の道を選び、あっという間に住まいにたどり着いてしまうからである。その心は希望に燃え、次々と押し寄せてくる奔流に乗りながら一息もつこうとせず、ひたすら胸を躍らせてその流れに乗る。福イエレミヤが「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉はわたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります」イエレミヤ 20 : 9と叫んだとおりである。まさに心底から神の約束に希望をかけているからこそ、そんなふうに神を感じられるのだ。

徳行におけるこのような近道は、正道のうちの一つである。そもそも正道とは、こう歩もうともああ歩もうともさして変わらず、よく互いに連関しているものだからだ。つまり好機到来を待たったり環境のせいにしたりせず、今あるものを無駄にせずに一瞬で手がけて成しとげてしまうのである。

質問  無慾とは何でしょうか。

回答  無慾とは、慾を感じないことではなく、慾を自分に入れないことである。聖人のたましいは、心身ともに次々といろいろな徳を積んできたことにより、慾が弱まって安易に慾に乱されなくなる。すると冷静に慾を注視しつづける必要がなくなるが、それも高尚な事柄を見極めたり考えたりしていて忙しいからである。そして慾が湧き起こるや、福マルクが述べたように頭から直観的な判断が下ってその慾を追いやるため、慾は空しく取り残されるのだ。

知性は神の恩寵によって徳を積み重ねて知恵に近づくと、情欲や下々の慾をあまり感じなくなる。というのも知恵でもって高みに昇りつめ、現世のすべてに対して無縁になるからだ。しかも聖人は純潔を守って洞察眼を鋭くしたことにより、また、修行で肉体を干からびさせたことにより、知性が浄まって物事がよく観えるようになる。そして長らく黙修に習熟してきた結果として、どんどん内面的なものが与えられて観照しつつ感嘆するようになる。しかも日頃から観照に満ちあふれるようになるので、いつも洞察すべきものに事欠くことなく穏やかな心になる。長年の習慣によって慾をかき立てるような思い出も消え失せるので、悪魔も威力を発揮できない。なにせ脳内で慾をきっぱり切り捨てていけば、別次元の気苦労で忙しくなるため、もはやたましいに備わる属神的感覚が慾に釣られている場合ではなくなるのである。

質問  謙遜はいかなる点で優れているのでしょうか。

回答  かたや自負心が、好きなように雲上を飛んで次々と受造物を眺めまわして霊力を浪費するのに対し、謙遜は黙修に集中して自分自身に目を凝らす。ちょうどたましいというものが肉眼では捉えられず見えないように、謙遜な者は世間に知られることはない。そして、たましいが体内で人目につかず誰とも交際しないように、真にへりくだった者は人々から離れて清貧に徹するあまり人目を引こうとしないどころか、できれば自分自身からも隠れて自己に沈潜して静寂のうちに住みつきたいと思うものである。そして以前の考え方や感覚をどれもこれもきれいさっぱり捨て去って、あたかも受造物のうちに存在しない者のごとくなり、まだ生まれざる者のようになりたい、つまり自分自身にも知られざる存在になりたいとさえ思うのである。そして、そういう者が世を離れて自分自身のうちに隠れて留まっているうちは、全身全霊でおのが主宰(神)の傍に留まっていることになる。

謙遜な者は、集会を見たがらない。人だかりも熱狂も宣伝もどんちゃん騒ぎも耳に入らず、市場動向や娯楽にも興味がない。それらは自制力を奪うものだからだ。演説にも討論にも扇動にも惑わされず、何よりも現世を避けて黙修することを優先し、どの受造物からも離れて一人きりになり、静寂の国で自分自身のことを慮る。万事において少量と清貧を好み、赤貧のなかで欠乏を渇望するのだ。物をたくさん持って仕事に追われるのではなく、いつも自由な身で気苦労を持たず現世のことで思い煩わないようにし、どうか内面に集中できますようにと願う。多くのことに身を乗り出したら、思い煩わずにいられなくなると確信しているからだ。なにせ仕事量が増えれば心配事も増え、いろいろな思いが次々と湧いてきて、せっかく必要以上に生活を慮らず超越していた平安を失くし、高尚なことだけを考えていた視野も失ってしまうからだ。しかも所用に追われるあまり高尚なことを思いめぐらす時間がなくなれば、状態が悪化して躓いてしまう。その途端、抑えていた慾が解放されて冷静な判断が効かなくなり、謙遜も平安も吹き飛んでしまうのだ。だからこそ、へりくだる者はつねに多くの事柄を避け、いつも物音ひとつしない僧房で穏やかに温柔に敬虔であれるようにする。

謙遜な者は、あくせくしたり急いだり、どぎまぎしたりしない。軽い気持ちや極端な考えに飛びつかず、いつ何時も落ちついている。万が一、空が地にくっついたとしても驚きやしない。人は黙修しているからといって謙遜とは限らないが、へりくだる者はみな黙修している。高飛車な態度だと不遜なことがすぐに分かるが、謙虚そうに見えて実はそうでない人も多い。ゆえに謙遜であられる主は、まさに「われに学べ、われは心温柔にして謙遜なればなり」マトフェイ 11 : 29と告げられたのだ。謙遜であれば、いつも穏やかでいられる。そもそも動転したり衝撃を受けたりする対象がない。ちょうど山が泰然として微動だにしないように、謙遜な知性は不安な思いを抱かない。そしてもしこう表現することが許されるのなら(いや、こう言うのに絶好の文脈かもしれない)、謙遜な者こそ「この世に属せず」イオアン 8 : 23といえる人々なのである。なぜなら悲運に遭っても震えあがらず心変わらず、楽しいときにも飛び上がらず羽目を外さず、むしろ主においてのみ真に楽しんで喜ぶからである。へりくだった思いを抱いていると柔和になって凛とするのは、心意気が清まるからだ。声を荒げず無駄に語らず、自分なんかどうでもよいので服装も貧しい。歩くときにも慎ましく、いつも目線を落としている。とびきり慈愛深くてすぐに涙を流し、ひとりきりで心を痛め、おっとりしていて純情。持ち物を少なくしてあらゆる需要を減らし、何もかも我慢して持ちこたえ、この仮住まいの世を憎んで毅然としてびくびくしない。誘惑や試練にも耐え、じっくり考えて軽々しく考えず、想念をしずめて貞潔の奥義を守り、恥を知って敬虔に生きる。以上に加えて、つねに自分の無知を責めながら黙修に徹しているのだ。

謙遜であれば、困惑したりうろたえたりするような事態には遭わない。驚くべきことに、真にへりくだった者はときおり一人きりでいながら自分自身のことを恥入り、神に祈ろうとしてもおこがましくて祈る気になれず、何かを願う気にもなれないので祈れない。何について祈ったらよいのか分からないからだ。ひたすらあらゆる思いを鎮め、ただただ拝むべき偉大な方(神)が憐れんで良しとしてくださることだけを待ち望み、顔を地に伏して内なる心眼をいと高き至聖所の門に向ける。そこは、闇の向こうに住まわれるお方がおられる場所で、セラフィムの視力をもってさえぼやけてしまってよく見えない聖域。天使の全軍もそのお方の徳をほめ歌いつつ、驚嘆のあまり絶句する。ゆえに謙遜な者は、ただ「主よ、御旨のままにわれに行ないたまえ」としか祈れなくなるのだ。ぜひわれわれも自分のことを同じように祈るようにしよう。アミン。

 

第49訓話 信仰とへりくだりについて

ちっぽけな人間よ、生命に与りたいだろうか。与りたいと思うならば信仰と謙遜を手放すな。信仰と謙遜があればこそ神の憐れみに支えられ、いつも傍にいる守護天使をとおして神の声が聞こえてくるからだ。かくなる交わり、すなわち生命との交わりを持ちたいだろうか。持ちたければ神のことをあれこれ詮索せずに、神の前で素直に歩め。素直な心には信仰が生じるが、利口ぶって重箱の隅をつつくように疑ってばかりいたら自負しか生じない。自負を持ったが最後、神から離れてしまう。

神の前に立って祈るとき、あたかも地を這う蟻か蛭か、ろくに舌も回らぬ赤子になったようなつもりになれ。知識に基づいて神に話すのではなく、乳児になった気持ちで神に近づいて神の前を歩くのだ。そして子供が父親に養ってもらえるように、神に摂理してもらえる子となるようにせよ。「主は赤子を守る」聖詠 114 : 5。七十七人訳)とあるとおりだ。ためしに赤子を見てみたまえ。よちよちと蛇に近づいて、素手で蛇の首を掴んでも噛まれない。大人が厚着する冬期でさえも一糸まとわぬ姿で凍えないし、寒波の日に素っ裸でいても病に罹らない。か弱い体でも純朴なため、主の手でひそかに見えない服をかけられ、いかなる被害も受けないように守られているからだ。

これも目に見えない摂理の力によるものだということが分かるだろうか。さもなくば、かくも柔弱な体が外敵に囲まれて屈しないことなどあり得ない。この「主は赤子を守る」聖詠 114 : 5。七十七人訳)という聖句は、生後まもない赤子だけを指すのではない。この世の知恵を捨てて賢者となった「赤子」のことをも意味する。後者の「赤子」は自分の知恵を捨て、万事に満ちる神の叡智だけを頼って嬰児のごとくなり、その上で、どんなに学んでも捉えがたい叡智を身につけていくのである。使徒パウェルも神の知恵を得て、きっぱり「この世において智なりと思う者あらば、智とならんために愚となるべし」コリンフ前 3 : 18と断じた。何はさておき、「本物の信仰を与えてください」と神に乞い求めよ。心から信じきる楽しさを掴んでしまえば、もはやハリストスからあなたを引き離すものはない。朝から晩まで世とかけ離れた事柄に没頭しやすくなり、この病んだ世のことを思い出さなくなるだろう。ぜひそうなれますようにと弛まず熱心に祈り求め、求めたものが与えられるまで拝み倒せ。さらに、気が弱りませんようにとも祈れ。慮りを神に委ねて信じきり、心配事を神の摂理に任せきったときにそういう信仰に与れるのだ。そして、ついに自分自身よりも神を信じきって無垢な思いを持ち、自分の精神力よりも神に期待している姿が神に認められたとき、かの目に見えない力が降ってくるのを肌で感じるだろう。まさに炎へも入り、水の上を歩いても一切恐れなかったあの力が降ってくるのだ。なぜなら信仰によって心が強められ、さながら目に見えない何かに後押しされて、「ぞっとする光景を見て何になる。常識を超えた現象は目にするだけ無駄だ」という気になるからである。

しかし読者の中には、「どうせ平凡な霊的知恵さえあれば、そういう属神的知恵も得られるだろう」と思う人もいるかもしれない。いや、平凡な霊的知恵では属神的知恵を得られないどころか、どんなに努めたところで属神的知恵の足もとにも及ばないのが現実である。むしろ聖神の知恵に至りたければ、霊的知恵を捨てるべきなのだ。霊的知恵に特有の鋭い駆け引きや複雑な考え方を捨てて赤子の考え方に至らないかぎり、一歩たりとも属神的知恵に近づけない。しかも霊的知恵を少しずつ捨てていかないと、その知恵で身につけてしまった知識がひどく邪魔になる。それに、霊的に思いめぐらしているうちは、純朴な聖神の知恵が見えてこない。人は想念の数々を捨ててひたすら純朴に見るようにならないかぎり、かの属神的知恵を捉えることなどできないのだ。

以上は、属神的知恵の鉄則である。つまり永世で味わう生命の楽しさを感じたければ、煩雑な想念を捨てよということだ。霊的知恵の中では想念が入り乱れており、純朴な知性が捉えうる事柄を一つも把握できない。主が「なんじらもし転じて幼児おさなごのごとくならずば、天国にるを得ず」マトフェイ 18 : 3と断言されたとおりだ。この純朴さまでたどり着ける人はほぼ皆無だが、それでも善行を積んで天国の一部を受け継ぐことは誰にでもできよう。なぜなら、福音書のいう「至福」の意味するところを汲み取るならば、どんな生き方でも大いに変われる可能性があるからだ。そもそも人はめいめい神に向かって歩みながら、その努力に応じて天国の門を開くことができるからである。

ただし子供のようにならないかぎり、誰一人としてかの属神的知恵を得ることはできない。なにせ子供のようになってはじめて、かの天国による楽しさを感じられるからである。そもそも天国というのは属神的観照のことだ、とも言われている。それは想念を働かせて得られるものではなく、恩寵によってのみ味わえるものだという。心身を浄めないかぎり天国の話が耳に入らないのも、ひとえに天国とは学習して得られるものではないからだ。信徒よ、もし人里離れて黙修して心の清さに達し、この世で知ったことをしばし忘れて思いもしないくらいになれば、探したわけでもないのにいきなり属神的知恵が湧いてくるだろう。「柱を立てて、その上に油を注げ。そうしたら自分の懐に宝を見出すだろう」(創世記 35 : 14 参照)と書いてあるとおりだ。もしも霊的知恵という網に絡まっているのならば、その網から解放されるよりも鉄鎖から解放される方がずっと楽だ。霊的知恵に絡まった身では迷妄の罠に捕われやすく、どうすれば思いきり主に期待できるか一向に分からず、朝から晩まで危ない橋を渡って年がら年中悲しむことになる。だからこそ弱さを痛感して素朴に祈り、どうか神の前で一切心配せずより良く生きられますようにと祈れ。なにせ体に影が付きまとうように、謙遜には憐れみが付いてくるからだ。したがって属神的に生きたければ、もう病んだ邪念には断じて耳を貸すな。どんな誘惑に遭おうとも、いかなる悪意や危険に脅されようとも、気にかけずはなにも引っかけないことだ。

わが身を主に預けて主に従って歩み出した者は、主に十分守っていただいているのだから、もう昔のように慮らず心にこう言い聞かせよ。「いちどたましいを預けた身である以上、何事においても主を信頼しているだけで十分だ。どうせわたしはここにいない。主はそのことをご存じだ」と。そのとき、万事において神の奇蹟を見るだろう。どれだけ神がいつも傍にいて神を畏れる者を助けてくださり、身の周りで主の摂理どおりに事が運んでいることか。いくら肉眼では御手が見えないからといって、そんなご加護があるのだろうか、などと疑ってはならない。というのも、しばしばあなたを勇気づけるために、肉眼でも見えるかたちで主の業が見えることもあるからだ。

そもそも人は、目に見える助けを拒んで他人に期待せず、清く信じて神にしたがい始めた途端、恩寵が付いてきて手とり足とり助けてもらえる。まずはもろに見えるこの体に関することで助けてもらえるのも、どれだけ神に慮ってもらっているか感じやすい次元だからである。そして、こうもあからさまに配慮されている身を理解することで、見えない部分も配慮されていることを確信する。これは、まだ初歩的に考えたり生活したりしている人にとっては自然なことだ。でなければ、なぜ探してもいなかったのに必要物資が与えられたのか。なぜ用心すらしていなかったのに間一髪で危機をすり抜けてこられたのか。だが実際には、親鳥の羽に包まれた雛のように、気づかぬうちに恩寵に守られて見事に敵の矢を逃れてきたのである。そして恩寵によって目が啓いたとき、いかなる危機を無事に切り抜けてこられたかに気づく。

こうして人は目に見えない神秘を学び、見抜きにくい邪念や捉えがたい想念の綾まで見破るようになる。また、やすやすと想念同士の結びつきや危険度を見抜き、どの想念に執着しがちか、どの想念からどの想念へ引っ張られてたましいが滅ぼされるかも見抜くようになる。さらに、恩寵によって悪鬼の奸計や想念の巣窟も暴き出し、将来まで見とおす分別を持つようになる。つまり、純朴であるがゆえに神秘的な光に照らされて、かろうじて想念にやどる智略を見抜き、もしその智略を見破っていなかったらどんなにひどい目に遭っていたかも見えるようになるのだ。そのときから、小さなことでも大きなことでもすべて創造主に祈って助力を乞おうと思うようになる。

そして、何事も神に期待しようという考えが恩寵によって固まったとき、背負える分ずつ試練を受けるようになる。しかも尻込みしないで済むように、知恵を体得する日まで、いずれ神に期待して敵を軽視できるようになる日まで必ず助けてもらえる。なぜなら血と汗を流して試練を乗り越えなければ属神的戦いに長けることもなく、ひそかに神の摂理を身近に感じて信仰が強まることもないからだ。

しかし、ひそかに自負して思い上がるなり強い誘惑に嵌まり、自分の弱さを痛感して神に走りついてへりくだる日まで恩寵に見放されてしまう。

このようにして神の子を信頼しきる日まで、信仰を深めて愛まで昇りつめることになる。まさに絶望しそうな状況においてこそ、神の悟りがたき愛を悟りうるからだ。絶望的状況から救われた者は神の力を見る。というのも、満たされて自由に生きているうちは、神の力を知ることなどできないからだ。現に会話も噂話もない荒野の黙修においてほど、神の力が強く現われた試しはない。

徳に向かって歩み出したとき、ありとあらゆる艱難辛苦に見舞われても驚くな。なぜなら楽にできてしまう徳など、徳とは言えないからだ。むしろ「徳とは四苦八苦するものだ。楽にできる徳行など言語道断だ」と聖イオアンが述べたように、苦しみに堪えてこそ「徳」と言えるのである。福なる修道士マルクも「聖神の戒めどおりに徳を行なうならば、その徳は十字架となる」と述べている。だからこそ、使徒も「およそ敬虔をもって、ハリストス・イイススにありていのちをわたらんと欲する者は、皆窘逐きんちくせられん」ティモフェイ後 3 : 12と述べ、徳の道が十字架の道であることを示したのだ。そもそも主ご自身が「われに従わんと欲する者は、おのれを捨て、その十字架を負いてわれに従え」マルコ 8 : 34と命じられたではないか。つまり、ゆったりした生活に背を向けて、ハリストスのために「おのれの生命いのちうしなわん者は、これを得ん」マトフェイ 16 : 25という。しかも実際に十字架を背負って見せられて、まずは死を覚悟してから全霊で主にしたがえ、と見本を示されたではないか。

死を覚悟するほど強いものはない。死を覚悟して現世へ対する望みを断てば、左右どちらから攻めてこられようとも負けやしない。この世の人生に対する望みをことごとく断ち切ることができれば、これ以上に勇壮な者はいない。これぞ、どんなひどい話を聞いてもぐらつかない無敵の賢者である。なぜならどんな苦しみに見舞われようとも死ぬよりは楽だし、とうに死を受け入れるべく首を垂れているからである。

「この身は汗水垂らして苦しみを耐えるべき分際だ」という自覚を持てば、いつどこで何をするにせよ、達成したいと思った万事において勇敢に壁に立ち向かえるだけでなく、弱々しい想念が「ついに野垂れ死ぬかもしれないぞ」と脅してきても知力でやすやす退治できる。そして、どんなに越えがたい難関にぶち当たろうとも楽々と越えてみせるだろう。ときに思わぬ窮地に陥ることもあるかもしれないが、場合によっては一切そういう目に遭わないことだってありえる。

あなたも知っているだろう。いつの時代も大半の人が、安穏に生きたくて偉業や善行や徳に励むのを諦めてしまったことを。しかしだ。現に日々の生活に追われている人でさえ、ひそかに辛苦を耐え抜くぞと腹をくくらなければ、望んだ事柄を成しとげることなどできやしないではないか。これは体験的に知られていることなので、あえて御託をならべて説得するまでもなかろう。どの民族も太古の昔から、まさに安穏に生きたくてへこたれて降服しただけでなく、至高のものまで手放してきたからだ。それは現代でも変わらない。だから一言でいってしまえば、もし人が天国をあきらめるとしたら、この世のちっぽけな慰めが欲しいというただそれだけの理由に過ぎないのだ。しかも天国をあきらめて好きなように生きていれば、おのずと肉慾に釣られていくため、痛ましい事件や生き地獄に嵌まってしまうことも稀ではない。

鳥でさえ安息を求めて罠に近づいてしまうのは周知のとおりだろう。だが、人間の知恵も罠に気づけないという点においては、鳥の知恵と大差ないようだ。悪魔は場所や状況をうまくこしらえて、それとなく「さあ、こんなふうにくつろいでみたらどうだ、たんまりのんびりできるぞ」などと囁いて、ずっと昔からわれわれを釣ってきたのである。

とはいえ思いつくままに述べたことにより、この訓話の当初の狙いからやや逸れてしまったようだ。要は、主に向かう以上は、どんな苦難も甘んじて受けるぞという覚悟を忘れず、その初心にそって修道の終点を見失わないこと。主のために何かしようとするとき、ついこんなふうに自問したりしないだろうか。「このまま進んでも大丈夫かな。もうすこし楽にできる方法はないのかな。体が持たないくらい苦しむのは勘弁してくれ」と。ごらん、いかにわれわれは常時、ありもしない安息を天にも地にも求めてしまうことか。人間よ、何を言う。天に昇ってかの国を得たい、神と交わってかの福楽に安らぎたい、天使と交わって不死の生命を得たいと申し出ておきながら、どの面下げて「もしや痛い目に遭わないだろうか」などと訊く。この世のはかないものを求める者でさえ、困難に遭っても克服するぞといきり立ち、目の前のそそり立つ荒波の海を泳いで渡ろうとするとき、いちいち大変な目に遭ったらどうしようなどと口にしないではないか。なのに、いつでもどこでも楽をしたがるわれわれの根性よ。もとより十字架の道を念頭に置いている者にとって、はたして十字架よりもつらい苦しみなど存在するのだろうか。

この戦いは、困苦を屁とも思わないくらいでないと勝てない。このことを、この期に及んでもなお納得できない者がいようか。現に、楽をしたがる思いを断ち切らなければ、朽ちる冠でさえ得られず、すばらしい望みも果たせず、神の事業も徳行も何一つ行えないではないか。楽をしていればおっくうになり、倦んで怠けて不安になり、そうやって万事においてひ弱になっていくではないか。

知性が徳にむかって意気込んでいれば、五感(視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚)は不自然な異常事態に置かれても惑わされない。義憤にいきり立っていれば、身体的生命なんぞゴミ屑よりも軽んじられる。というのも、心に覇気があれば、逆境に出くわしても苦にならずびくともせず、知性がまるで金剛石のように固い防壁となってあらゆる試練に立ち向かうからだ。だから、われわれもイイススの御旨にそって属神的覇気に燃えよう。そうすれば、だらけたくなる気持ちをことごとく追い払えるだろう。なぜなら覇気を持っていれば大胆不敵になり、霊力も体力も倍増するからだ。たましいが覇気を帯びたとき、悪鬼ごときに何ができよう。まさに覇気から熱心が生じ、無敵の闘魂となるのだ。修行者も致命者もこの「覇気」と「熱心」でもって苦行に耐え、致命の冠を授かってきた。この二つがあれば、身を引き裂かれるような拷問にあっても苦痛を感じない。願わくはわれわれも神からそういう熱心さを賜わり、そういう熱心さでもって神を喜ばすことができますように。アミン。

 

第50訓話 世から逃げることの益について

世間で生活しているうちは、どうあがいたって修行しにくい。どんなに無敵な強者になりえたとしても、ちょいとでも魅惑的なものが目に入るなり堕落しそうになり、よほど悪魔と直接対決した方がましなくらい気が弱まる。

かるがゆえに、人たるもの、心を惑わすものから遠ざからないかぎり、いつだって敵の思う壺なのだ。少しばかりぼうっとしたかと思いきや、あっという間に敵にやられてしまう。なにせ世の渦中にいれば、魅惑的なものを目にしただけで心が刺し貫かれてしまう以上、出会い頭にやられてしまうのも無理はない。そのためこの道を歩んだ古代の師父たちは、ずっと気を引き締めつづけていられない身の程と、時には有害なものすら見抜けない弱さを熟知した上で、かしこく清貧によって武装し、聖書のいうように持ち物を手放してあらゆる闘いから自由になったのである(物を持たないことによって罪の大半に堕ちないようにするためだ)。そして日常生活に追われない荒野に赴き、あれこれ慾を抱かないようにし、気が弱ったときでも罪に堕ちる原因に会わないようにした。つまり荒野に身を置いて、興奮や願望や怨念や名誉などを呼び起こすものを忘れ去るようにしたのである。そして荒野を利用して身を守り抜き、さながら無敵の柱となったのだ。ゆえに黙修中に誘惑に遭っても、五感で負けて敵に塩を送るということがなかった。なにせ生きながら堕落してしまうよりは、よほど死んででも修行した方がましなのだ。

 

第51訓話 人は身の振る舞いを変えることにより、なぜ内なる思いまで変えることができるのか

人は清貧を貫いているかぎり、絶えず移住先のあの世のことへ思いを馳せている。そして復活後の生き方について慮りつづけ、寝ても覚めても来世で出会う事柄を思って忍耐し、この世の名誉や安息を欲しがる想念をどれもこれも切り捨てている。ゆえに世を疎んじつづけながら穏やかな心で考え、いかなる時にも心を強くして、生命にかかわる危険や恐怖にも立ち向かえるのだ。こうして死を恐れないのも、ひとえに昼も夜も死を見つめ、まるで今やってくる訪問者を迎えるかのようにして死を待ち望み、心配事を神に委ねきって毫も疑わないからだ。だからつらい目に遭おうとも、ここを耐えれば冠を得られると確信して悟っているため、心から喜んで困苦を耐え、わくわくしながら困苦を受け入れる。困苦というものが、はかり知れないご計画に基づいて送られてきて役立つことを理解しているからである。

ところが、かのしたたかな奴(悪魔)の暗躍によってふと過ぎ去るものを手にした瞬間、ふいに体への愛が芽生え、長寿について思いめぐらしてしまう。昼も夜も安息を思いめぐらして体のことばかり考えるようになり、いかにしてこの安息を保とうか考え始め、どんな恐怖にも揺るがなかった自由の領域から抜け出てしまう。すると何を見てもおっかなびっくりして口実をこしらえるようになるが、それというのもかつて貧しかったときに世を超えていた心の強さがたちどころに失われたからだ。なぜならこの世のものを手にした分だけ、この世を受け継いだからである。それも神の定められたとおり不安に陥っていく。使徒の言葉にもあるように、人は体で仕えようとした対象に隷属し、おどおどして仕えるしかなくなるからだロマ 6 : 16, エウレイ 2 : 15 参照)

自己愛に走るからこそ慾が湧く。安息を厭うことから徳が生じる。のんびり休んでいれば、平和な国にいても困り出す。青年期に楽しんでいれば晩年に慾の奴隷となり、残された日々は嘆息ばかりつくことになる。水中に潜ると爽やかな空気を胸いっぱい吸い込めなくなるように、この世の雑事に埋没すると来世の感触を胸に取りこめなくなる。ふしだらな見せ物は、肉体構造を破壊していく死臭のように知性の平安を壊していく。体内では健康と病気が同時に維持されることはないように、家庭内では大金と隣人愛が同時にあることはない。どんなガラスも石にぶつかれば傷つくように、女と語らって穢れずにいられる聖人はいない。豪雨によって根っこからもぎ取られる大木のように、どんどん降りかかる身体的試練によって世への執着心が拭いとられる。

体内の毒素を除いてくれる薬ように、辛苦はあくどい慾から心を清めてくれる。死者が人々の生活を感じないように、修道士も黙修という棺に入っていれば世間の俗っぽい息吹を感じない。兵士が敵に譲歩すればとばっちりを食うように、修道士が自分の体に譲歩すればたましいを滅ぼす。子供が大惨事から逃げて両親の服をつかんで助けを求めるように、厳しい試練に追いつめられたたましいも神に走りついて日夜神に祈り求める。そして試練から逃れるまで祈りを増し加えるのだが、まずいことに試練から解放された途端、またもや思考が飛び回るに任せてしまう。

たとえば、犯罪者が裁判官のところに連行されたとする。そこで拷問を目の前にして罪を自覚してへりくだれば、軽い罰で懲らしめられて解放されるが、頑なに罪を自認しなければ拷問をどんどん加えられ、全身が傷だらけになってから仕方なく罪を認めたとしても何の益もない。これと同じことがわれわれにも起こるのだ。うっかり罪を犯したとき、神の憐れみによって万人の裁判官(神)のところに引き出され、そこで試練という神の権杖に打たれる。この試練を目にしてへりくだり、罪を認めて悔い改めれば、少しばかり試練を受けて解放され、来世で受ける罰も軽い。ところが罪を認めようとせず、とことん苦しむべき身であるという自覚もないばかりか、苦しみながら意地を張って人々のせいにしたり悪鬼のせいにしたり、あるいは神の正義こそ間違っているなどと主張し、こんな辛苦に遭うのは不公平だとわめいたりしたらどうなるか。つまり本来ならば「神はわれわれ以上に何もかもご存じなのだから、どの受造物も神の命令をうけずに罰せられることはないはずだ」と悟るべきなのに、そのように悟ろうとしなければどうなるか。言うまでもない、突きあたる万事がつらくて倍にしんどくて、とことんやられて縛られるだけだ。いったん罪を認めてへりくだって不法を痛感するまでは(というのも罪を痛感しなければ修正しようがないので)、そういう辛苦ばかりが続くだろう。そして、とうとうこっぴどく苦しめられて疲れ切ってから痛悔したとしても、何の益もないし慰められることもない。とは言ってみたものの、じつはこの「自分の罪を痛感する」という心境は、神からいただく賜なのである。つまりわれわれが無駄に辛酸をなめて現世を去ることにならないよう、試練に疲れ果てたわれわれに目を覚ませと神が送ってくださる心境なのだ。そして、なぜわれわれが試練の意味を悟れないのかというと、決して試練が悟りがたいものだからというわけではなく、ひとえに理解力が足りないからなのだ。たまに罪を犯して試練に遭いながらも咎を自認せず、他人や神のせいにして現世を去っていく者がいる。それもこれも慈悲深い神が、いつ本人がへりくだるだろうかと手をこまねいて、もしへりくだって少しでも心から痛悔すれば試練から解き放つだけでなく、罪過でさえも赦してあげようと待ち構えていたにもかかわらずそうなのである。

とびっきりの献げ物を王に献上すれば、王に優しい目で見てもらえるように、祈りながら涙を流せば、永遠の大王である神に罪過をすべて赦されて慈しみの目で見てもらえる。だが、群れを離れた羊が迷子になって狼の巣の前で立ちつくすように、黙修に入るという口実で友から離れた修道士は町中をぶらぶら徘徊するようになり、見世物や恥ずべき演劇に目を奪われてしまう。

高価な真珠を持っている者は、強盗のいる界隈や悪い噂のある路地を歩くとき、絶えず襲われないかびくびくする。貞潔という真珠を持っている者も、現世という敵軍のただ中を歩くとき、強盗や盗賊に襲われないという保障はない。まさに墓中の暮らしに至るまで、つまり慕ってきた天国に入る日までその危険性は続く。だいたい高価な真珠を持ち歩いている身で警戒せずにいられようか。修道士もそれと同じで、いつどこでどう襲われて大切にしてきた貞潔を失ってしまうか分かったものではない。やっとの思いで家にたどり着いたかと思ったその矢先、つまり老身になって気を抜いた途端、貞潔を失ってしまうこともあるのだ。

哀しくてもワインを飲めばつらい状況を忘れるように、神の愛に酔えば現世(哀しみの家)での悲苦を忘れ、罪深い慾を感じなくなる。その心は神を希望して強まり、そのたましいは鳥の羽毛のように軽くなる。その知性は日頃から人間的なことを超えて地上から昇り、つねに教訓に満ちた事柄を思いめぐらして飛ぶ。かくして、至上なる神の傍にいる常生の者(天使)たちと共に楽しむようになるだろう。光栄と国は世々に神に帰す、アミン。

 

第52訓話 夜にはどのように儆醒すべきか

儆醒したければ神の助けを得て次のようにせよ。いつもどおり伏拝してから立ち上がること。そしてすぐ儆醒に入ろうとせず、ひとまず冒頭の祈祷文のみ唱えること。唱えて心と体を聖号で画したら、しばし黙って立ったまま感覚や想念がしずまるのを待つこと。心が鎮まったら、いよいよ心眼を主に向けてわが弱さを強めてくださいと乞い、御旨にかなう祈りや思いを献じられるようにせよ。そして、黙したまま心の中で次のように祈るのだ。

主イイスス、わが神よ。御手による万物をご覧になり、人の慾も弱さも敵の力も知りつくしておられる方よ。どうか敵の悪意からこの身をお守りください。敵の力は猛烈に強いのに、人の本性は弱すぎて太刀打ちできないからです。だからこそ善なる主よ、まさに人性の弱さを御身で味わいつくされたお方よ、あなたに願い求めるのです。心を乱す邪念と慾の濁流をせき止めて、わたしを儆醒という聖なる奉仕に向く者としてください。そして慾でもって儆醒の甘美を貶めたりせず、恥知らずにも土足で上がりこんで御前に立つ者とならないようにしてください。

儆醒するときはしっかり心身を制御し、少年のように思い乱れてはならない。時間が押してしまって規定を祈り終える前に日が昇りそうなときには、かしこく通常の規定よりカフィズマを一つか二つほど割愛し、いちいちあたふたしてはならない。あたふたしたら儆醒の醍醐味を味わえなくなり、一時課もしかるべき唱え方で唱えられなくなってしまう。

祈るときに想念が「やることもいっぱいあることだし、ちょっとだけ早口で読んでしまえ。そうすれば早く解放されるさ」と囁いてきても耳に入れるな。もししつこく惑わしてきたら、わざとカフィズマを一つ前まで戻ってから読み直すか、あるいは好きなだけ前まで戻ってから読み直し、一言一句の深みを味わいながら何度も唱えよ。それでもまだ想念が惑わしてきて二進も三進もいかなくなったら、いっそのこと祈祷を唱えるのをやめ、祈りにむかって跪いてこう言うのだ。「ただ祈祷文を唱えきれば良いと思っているのではない。天の住まいにたどり着きたいのだ。きちんと祈ることさえできれば、あっという間に見えてくるはずだから」と。思い出してもみよ。かの民は荒野にていて雄牛を屠り、40年間も荒野をさまよった。山をこえ谷をこえ、ふんだんに汗を流して苦労したわけだ。にもかかわらず、はるか遠方にさえ約束の地を望むことはできなかったのである。

儆醒してずっと立ちつづけていれば、とうとう限界がきて疲れることもあるだろう。そのときに想念が、いやより正確にいえば狡猾な奴が想念をとおして蛇のように「休め、もう立てないだろ」としゃしゃり出てきたら言い返せ。「いや、カフィズマをひとつ分だけ座ることにしよう。その方が眠ってしまうよりはましだ。それに、たとい声に出して聖詠を唱えられなかったとしても、脳内では神に祈って神と語らえる以上、目覚めていることは眠ることよりも有益なはずなのだ」と。儆醒とは、ただ立っていたり聖詠を唱えていたりすればよいという代物ではない。そうではなくて、むしろ徹夜して聖詠を唱えたり、痛悔して傷感のうちに伏拝して祈ったり、涙を流して罪を嘆いたりすることなのだ。

ある師父などは四十年間、ただひたすら「いかにも人間らしく罪を犯しました。どうか神様らしく赦してください」とだけ祈りつづけたという。嘆き悲しんでこの一句ばかり唱えていたという噂は他の師父たちも聞いていたが、じつに黙すことなく泣きつづけていたらしい。そしてこの祈りだけが、ひたすら夜に日を継いであらゆる奉仕の代わりとなっていたのである。その師父以外にも、夕方に少し聖詠を唱えてからは朝まで讃詞のみ歌って過ごしていた師父もいたし、神を讃美して読書に明け暮れていた師父もいた。もちろん立ち続けるという規則を自分に課して、襲いくる淫乱の想念と闘っている師父もいた。ひとえに光栄と国はわれらの神に世々に帰すべし。アミン。

 

第53訓話 謙遜というものはいかに誉れ高く、高尚であるかについて

兄弟よ。いまから高尚なこと、つまり謙遜について話そうと思ったのだが、つい何も分かっていないくせに神について御託を並べてしまいそうで気が引ける。そもそも謙遜とは、神性の祭服なのだ。現に神言かみことばは謙遜をまとって藉身し、へりくだって人の姿でわれわれと交流された。ゆえに謙遜をまとう者はだれであろうと、天から降ってこられたお方に似た者となるのは確かである。そもそも神はご威光で人間の目を焼いてしまわないよう、ご自身の大いなる美徳を謙遜という布で覆ってわれわれにお見せにならなかった。神が受造物の一部をとって受造物と語り合ってくださらなければ、受造物としても神を目にすることなどできなかったし、向かい合って神の唇から言葉を聴くことなどできなかっただろう。現にイズライリの子らは、雲上から神の声がしても聞くことができなかった上、モイセイに対して「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます」出エギペト 20 : 19と頼んだくらいではなかったか。

だいたい受造物の分際で、あからさまに神を見ることなどできようか。神との仲介役をひきうけた預言者モイセイでさえ、「われ畏れ慄く」エウレイ 12 : 21と身震いしたように、神を見ることほど恐ろしいことはない。現に、かつてモイセイがこの「神を見る」という偉業に与ったとき、受造物はどう反応したか。シナイ山は煙に包まれ、おのが上で与えられた啓示に恐れをなして震動した。獣たちも、山の麓に近づくなり息絶えた。モイセイの命令によって身を浄めていたイズライリの子らも、神の声を聴いて啓示を観ようと三日間も備えていたにもかかわらず、まさに啓示が降ってきたその瞬間、神の光を観ることも轟く声を聴くこともできなかった。

ところが、主が恩寵を与えるために世に来られた時はそうではなかった。地震も起こさず火災も起こさず雷を轟かせることもなかった。そんなふうにいかつく降り立たれたのではなく、むしろ羊毛にそそぐ雨のように、しずくのようにそっと地に降り、全く異なる方法でわれわれと語らうべくお見えになったのである。つまり生神童貞女マリヤの腹のなかで身をとり、あたかも「そのとばりなる肉体」エウレイ 10 : 20の中にご威光を秘め、肉体を着てわれわれと過ごして語り合ってくださったのだ。それもこれもわれわれが、われわれとおなじ人間の姿で語らう主を見ることで、じつは神を目のあたりにしているという恐ろしい事実に打ちのめされないようにするためであった。

右のように創造主ご自身が人体をとられ、謙遜という服をまとってお見えになった以上、人間もこの謙遜という服を身にまとうなら、ハリストスご自身を着ることになる。なぜならハリストスが人々といらしたときに見せてくれた服を内なる人にまとおうとし、それにそっくりな服を着ることによって、勲章とか外面的栄光に代わって人々の前で着飾ることになるからである。ゆえに受造物は霊智(言語能力)があろうとなかろうと、この謙遜にちかい服をまとう者を目にするなり、いつも主宰に対するように首を垂れ、かつてこの服を着て共にいらしたお方をうやうやしく思い出すのである。だいたい謙遜な者を目にして畏敬の念を抱かない受造物などあろうか。もっとも、まだ謙遜という光栄が知れ渡る前までは、この聖性にあふれた風貌は疎んじられていたのも確かである。しかし現在では、世界のすみずみまで謙遜の偉大さが明らかになった以上、人々はどこであろうと謙遜らしきものを目にするなり首を垂れずにいられなくなった。謙遜の向こうに、自分を造ってくれた造物主を観るようになったからである。よって、真理の敵でさえ謙遜を侮らない。たといへりくだった者がいかなる受造物よりみすぼらしく見えても、謙遜を帯びたことによって冠や王服で着飾っているようなものだからだ。

へりくだる者は、人に嫌われたり毒舌を吐かれたり蔑まれたりしない。神に愛されているので皆に愛され、人々を愛しているので皆に愛される。どの人にも会いたいと思われ、どこへ行っても光の天使のように眺められて尊ばれる。たとい賢者や指導者が演説しかけても口をつぐんで発言権を回してくる。みな何を言ってくれるか心待ちにし、神のことばでも聞くようにしてその発言を待ち望んでいるからだ。ひとこと口を開くだけで賢者の論証のごとくなり、さらに言葉を紡げばそれを解す者には果汁や蜂蜜よりも心地よい。たとい学識に乏しくみすぼらしい恰好をしていても、まるで神をもてなすかのように歓迎される。

へりくだる者を見下げて人間とも思わないような連中もいるが、そんなのは神に対して楯突いているようなものだ。でもそういう連中にどんなに軽蔑されようとも、他の受造物から受ける敬意は変わらない。たとえば猛獣に近づいて眼差しを向けるなり、荒れ狂っていた猛獣すらも大人しくなる。まるで主人になびくかのようにすり寄って頭部を下げ、謙遜な者の手足を舐めてくる。なぜならば、かつて天国でアダムが自分たちを名付けてくれたときに放っていた陥罪前の芳香を嗅ぎとったからである。われわれは、この芳香を失ったのだ。しかしイイススが現れて再度みずみずしい芳香を賜り、こうして人類の芳香に恩寵の油が注がれた。だから謙遜な者は猛毒系の爬虫類に近づいても、手を伸ばして触れるが早いか解毒作用を及ぼし、素手でバッタを掴むように爬虫類を押さえつけることができる。また、人々に近づくなり、まるで主に耳を傾けるかのように聴いてもらえる。いや、人々が何だというのだ。悪鬼でさえ、あれほど憎悪に燃えてふんぞり返っているというのに、謙遜な者に近づくなり埃のように縮こまってしまうではないか。ふくれあがった悪意も萎え、奸計も水泡に帰し、仕組んだ罠も効かなくなってしまうではないか。

というわけで、ここまでは神から降る謙遜がいかに無敵なもので、どんな作用を及ぼすか考察した。ここからは、そもそも謙遜とはいかなるものか、どれくらい完璧になると謙遜になれるのか示すこととしよう。そのうえ見せかけの謙遜は、真の謙遜とどこがどう違うのか明示しておこう。

謙遜とは、神秘的な力のようなものである。聖人は、聖なる生活を送りつづけた結果として謙遜になる。完徳に至ってはじめて、御旨が下りしだい謙遜を受け入れられる品性になり、恩寵によって謙遜になる。なぜならあらゆる徳を帯びていなければ、謙遜にはなれないからだ。よって、どんなに優れた者であろうとも、皆がみな謙遜な者と呼べるわけではない。ただ恩寵によって謙遜になった者に対してのみ、そう呼ぶことができるのである。

生まれつき控えめで寡黙だからといって、あるいは賢明だったりおとなしかったりするからといって、すでに謙遜の水準に至ったわけではない。むしろ真に謙遜な者とは、驕ってしかるべき何かを内に秘めていても、それを誇りもせず思い浮かべもしない。もっとも、人によっては陥罪や罪過を思い出してはへりくだり、心を鎮めて頭を傲慢な思いから引きずり下ろすまで罪を忘れないようにしている人もいる。それも立派なことなのだが、まだ謙遜になったとはいえない。なぜなら、相変わらず思いあがった想念が巣食っていて謙遜を得ておらず、単に謙遜をまとおうと工夫しているだけだからだ。たしかにこれとて既述したように立派なことなのだが、やはりまだ謙遜になったとはいえない。つまり謙遜になりたいと願っているだけであって謙遜ではないのだ。本当に謙遜な者とは、頭をしぼってへりくだる手をひねり出すまでもなく、強いずとも自然な謙遜を帯びているものである。そして受造物や自然界を超えた偉大な賜物のようなものを得ているにもかかわらず、自分自身のことは、なんの取り柄もない罪人のように見下している。そしていろいろな属神的実体の奥義を極めつくし、受造物として余すところなく完璧な知恵者となっているのに、やはり自分自身なんぞ取るに足らない屑とみなしている。そしてこれこそ、ひねり出したわけでもなく、かといって強いるわけでもなく、そういう心となった人間なのである。

はたして本当にそのような人間になり、本性においてそれほどまでに自分を変えることなんてできるのだろうか。

いまこそ疑念を拭い去れ。機密の力さえ降ってくれば、強いずともその力であらゆる徳を成し遂げてもらえると信ずるべきだ。この機密の力こそ、使徒たちが火のかたちで授かった力である。救主はこの機密の力を指して、上より力を賜うまで「イエルサリムを離れずして」待て、と戒められた行実 1 : 4。ここでいう「イエルサリム」とは徳を指し、「力」とは謙遜を指す。「上よりの力」とは撫恤者、つまり「聖神」(慰むる者)のことである。これぞ「へりくだる者は奥義を観る」と聖書に書かれていることの意味である。つまり「啓示の聖神」を心奥で得たときに、奥義が啓かれるわけだ。ゆえに聖人らも、へりくだった者は聖なる観照に与ると言っていたのである。

というわけで、自力で謙遜の域に達したなどとゆめゆめ思ってはならない。しばらく傷感な思いを抱いたとか、少しばかし涙を垂らしたとか、ちょっとした善良な性質を持って生まれたとか努力して身につけたとか言って、奥義に満ちた徳の宝庫である謙遜を得たなどと思ってはならない。そんなのは、私に言わせれば片手間で得ただけの謙遜であって、賜として得た謙遜ではない。そうではなくて、むしろあらゆる悪鬼に打ち勝ち、どの徳も実践して心に根付き、敵の砦という砦を打ち破って征服した上で、なおかつ使徒の言うように聖神に助けられているのだと感じたときロマ 8 : 16 参照)、それこそ非の打ち所のない謙遜の賜を受けた証なのだ。この謙遜を得た者は幸いである。なぜならいつもイイススの懐に口づけし、その懐を抱いているからである。

あるいはこう尋ねてくるかもしれない。「でもどうしたらよいのでしょう。どうやって謙遜など身につけられましょう。謙遜という賜に与るためには何をすればよいのでしょうか。だってこんなにも努力してきたというのに、謙遜を得たかと思いきや真逆の想念に見舞われてばかりで気力も失せました」と。

こう答えられるだろう。そもそも「門徒はその師のごとく、僕はその主人のごとくなりて足れり」マトフェイ 10 : 25と言われているではないか。まずは、謙遜を賜ってくださる師ご自身が、どのように謙遜を得ていらしたか思い出せ。そして師に倣って謙遜を得ることだ。主は「この世の君は来たる、かれはわれのうちにたもつところなし」イオアン 14 : 30と言われたほど、ご自身を無とされていたのである。たしかに完徳の身でありながらも、どれだけへりくだれるものか分かっただろうか。何としてでもこの主に倣おうではないか。主は、父と聖神とともに永遠の光栄のうちにあり、世界中の成聖を帯びた完徳者たちから讃美される身であるというのに、なんと「狐には穴あり、天空そらの鳥には巣あり、ただ人の子には首を枕するところなし」マトフェイ 8 : 20といわれたほど御身を砕かれたのである。アミン。

 

第54訓話 いろいろな事柄について。質問と回答

質問  あれやこれや慾を刺激するものを避けるのは良いことでしょうか。闘わずに逃げて心を落ちつかせたとき、それで勝ったといえるのでしょうか、それとも負けたと捉えるべきでしょうか。

回答  簡潔に答えよう。修道士はいつだって邪慾を刺激するものを何もかも避けなければならない。とくに慾の原因となるものを断ち切り、取るに足らない慾でさえ呼び起したり強めたりしないようにすべきだ。もしも属神的観照の最中にうっすらと誘惑に遭い、慾と闘わざるを得なくなったときは、なめてかからず手際よく闘え。そもそも人は慾を思いめぐらすのではなく、生まれもった善いことをこそ考えるようにしなければならない。たしかに悪魔にやられて真偽の見極めがつきにくい身とはいえ、それでも生まれつき造物主から授かった善について考えることだ。しかも強いて言えば、人はしつこい慾だけでなく五感からも逃げて「内なる人」に潜りこみ、そこで心を耕しながら、正式な修道士であろうと隠れ修道士であろうと、その名にふさわしく自律できるようになるまで孤独に徹するべきなのだ。

そして、こうして「内なる人」のもとに留まれたとき、あわよくば正教徒の希望であるハリストスが内奥に生きておられるのを見届けるだろう。なにせ人々を避けて独りで黙修に徹していれば、もはや理性で慾と闘うのではなく、恩寵が慾と戦ってくれるからだ。もちろんその慾も、表に出てこないくらいうっすらしたものではあるのだが。

質問  たとえば人がたましいを清めるために何かに取り組んでいるとき、他人がその属神的生活を見て理解できず、そんな生き方はおかしいと勘違いしてつまずいたとします。そのような場合、他人をつまずかせないために神聖な生活をやめるべきなのか、それとも、それを見てつまずく者がいようとも、やはり自分の目標に近づくことをなすべきなのでしょうか。

回答  つまり、人が師父から受け継いだ規則にのっとって心を清め、清さに至ろうとしているのに、他人がその目当てを知らずに生活ぶりだけを見てつまずくということだね。そのような場合、前者ではなく後者のほうに責任がある。そもそも修行者は他人をつまずかせようなどと端から思っておらず、ただ自分の心を清めようとして自制したり斎したり、情け容赦なく隠居したりして目標に至ろうとしているだけだからだ。しかるに他人は修行者の生活目標など見当もつかずに非難してつまずき、真実に対して罪を犯している。なぜならすっかり怠けているせいで、修行者の立てた属神的目標、すなわち心の浄化なんぞ理解しようにもできないからである。使徒パウェルはそういった連中のことを指して「十字架のことばは、滅ぶる者のためには愚なり」コリンフ前 1 : 18と書いた。いったいパウェルはどうすべきだったというのか。言葉の力を感じない連中に愚か者に見えてしまうからといって、布教せずに黙りこくるべきだったというのか。しかし見よ、現にこの期に及んでもギリシャ人やユダヤ人は十字架の教えにつまずいて惑わされているではないか。かれらが惑わされているからといって、われわれまでかれらをつまずかせないように真実について語るなと言うのだろうか。しかし、パウェルは口を開かないどころか、大声で「われにありては、われらの主イイスス・ハリストスの十字架のほかに誇るところなし」ガラティヤ 6 :14と叫んだのである。決して他人をつまずかせるために「十字架のほかに誇るところなし」と叫んだのではない。ただ十字架の力が強すぎて布教せずにいられなかったのである。したがってあなたも神の前で決めた目標どおりに生活し、良心に責められないように暮らし、聖書と聖師父の戒めを鑑として自分の生き方を点検せよ。そして点検した結果、良心も咎めず戒めにも逆らっていないのであれば、いかに他人に誤解されようとも恐れるな。というのも万人に満足してもらうかたちで、隠遁生活を送ることなどできっこないからである。

おお、一心不乱にたましいの浄化につくす修道士はなんと幸いであることか。その修道士は師父たちが清まっていった正当な道を歩み、師父が一段一段踏みしめていった階段を上って、苦難に耐えながら賢明になって清まってゆく。邪道とかずるい手段に訴えたりはしない。

たましいの清さというものは、われわれの本性が造られたときに授かった原初の賜だ。たましいを慾から清めなければ罪の病も癒えず、陥罪後に失くした光栄を取り戻すこともできない。ひとえに清さに与ったとき、つまりたましいが健康になったとき、これぞ属神的な喜びというものであったかと悟るだろう。というのも、神の子となりハリストスの弟となった嬉しさのあまり、いかに良いことや悪いことが起こってもいちいち気にしなくなるからである。

願わくは、われわれも主イイスス・ハリストスの仁愛と恩寵によって御旨を悟り、つねに御旨を行なって永遠の安息にたどり着くことができますように。あらゆる光栄と尊貴と伏拝はハリストスに帰す、今もいつも世々限りなく。アミン。

 

第55訓話 克肖なる奇蹟者シメオンへの書簡

聖なる兄よ。いただいたお手紙は単につらつら書かれたものではない。むしろ鏡のように貴兄の愛が映し出されたお手紙だ。しかも、私のことをすこぶる愛されすぎて、その強い愛ゆえにずいぶん買いかぶっておられるようだ。というのは、もし私自身が本当に救われたいと思っているのなら、むしろこちらから克肖なる貴兄に質問をして、このたびこうして質問形で示してくれた真実について教えを乞うべきところなのだ。いや、もしや巧妙に、こんなふうに冴えた属神的質問でもって、ぐうたら眠りこけたこのたましいを呼び起こそうとしてくれたのかもしれない。もっともこちらとしてもその桁違いの愛に圧倒されたあまり、つい青二才であるという自覚がストンと抜け落ちてしまったため、もはやこうなってしまったからには自力ではなく、ひとえに貴兄の祈りのなしうるところに目を向けてみようと思う。いかんせん身の程を忘れるという愚を犯したとしても、貴兄さえその願いが叶うよう神に祈ってくれるのなら、きっと神は献身的なしもべの祈り求める事柄に耳を貸してくださるに違いないからである。

というわけで、最初の質問は下記のとおりであった。

質問  主の戒めはすべて守らなければならないのか。戒めを守らずに救われる方法はないのか。

回答  ちなみにこの点こそ、わざわざ訊くまでもないと思ったのだがいかがだろうか。というのは、いかに戒めがたくさんあるとはいえ、やはりどうしても守らなければならないものばかりだからだ。そもそも救主は余計なことを語ったり行なったりされなかったため、もしも守らなくても良いような戒めであれば、そんな無駄なものをわけもなくお与えにならなかったはずだからである。第一、この世に降臨されたのも、ひとえに人間のたましいを原罪の咎より浄めて原初状態に戻すためであったし、そのために戒めという「命の薬」を授けて貪欲を治そうとされたのである。ちょうど良薬が病身に効くように、戒めは慾にやられたたましいに効く。現に戒めが慾に対する特効薬であり、陥罪したたましいを治せることは主も明言されたとおりである。弟子に「わが戒めをたもちて、これを守る者は、これすなわちわれを愛する者なり。われを愛する者は、わが父に愛せられん。われも彼を愛し、かつおのれを彼に顕さん。かつわれら彼に来たりて、彼に住まいをなさん」イオアン 14 : 21, 23と告げられたうえ、「人みなこれによりて、なんじらのわが門徒たるを知らん。(中略)なんじら相愛すべし」イオアン 13 : 35, 34とおっしゃったからである。人は霊的に不健康なうちは、愛することができない。霊的に健康になってはじめて愛せるようになる。つまり戒めを守れない精神状態というのは、たましいが病んでいる証拠なのである。

戒めを守ること自体は、まだまだ属神的な愛には及ばない。よって主は、われわれが愛ではなく死後への恐怖ないし報いのために戒めを守ろうとしがちであるのを見抜かれて、なるべく愛ゆえに戒めを守れと説得された。そうすれば、たましいに光が入るからである。さらに、望むらくは「人々がなんじらの善きおこないを見て、天にいますなんじらの父を讃栄せん」マトフェイ 5 : 16となるよう命じられた。ただし主から教わった「善き行」というのは、戒めを守らずしてたましいの中に見出せるものではない。それでも戒めを守ることは、真実を愛する者にとっては負担にならないことを示され、「およそ労苦する者、および重きをになう者はわれに来たれ。われなんじらを安んぜしめん。けだしわが軛はやすく、わがかろし」マトフェイ 11 : 28, 30と告げられたうえ、いかなる戒めも忠実に守るべきことを示して、「このいと小さき戒めの一つをこぼち、かつかくのごとく人に教えん者は、天国においていと小さき者ととなえられん」と警告された。かくして、救いのためには戒めを守れという訓告がたくさんあるというのに、どうして「戒めは全部守らなくても大丈夫」などと言えようか。だいたい霊自体が、戒めを守らなければ清くなれないではないか。まさに心を治療するために、心を慾や陥罪から清めるために、われわれは主から戒めを授かったのである。

ご存じのとおり、もとより戒めを破ったせいで悪が生じてしまったのである。ならば、戒めを守ってこそ健康な状態に戻れるのは言うまでもない。戒めを守っていない身で、つまりたましいを浄化する戒めの道を歩んでいない身で、たましいの浄化とか清さなど夢見ることさえおこがましい。「戒めなんて守らなくても、神様は恩寵でたましいを清めてくれるさ」などと口が裂けても言ってはならぬ。というのは、「恩寵で清まる」という事例は、あくまでも主の采配にすぎず、教会でも恩寵による清めを自ら求めてはならないと戒めているからだ。事例を出そう。かつてイウデヤ人は、ワヴィロンからイエルサリムに帰るとき、ごくふつうの道を歩きつづけて聖都にたどり着き、そこで主の奇蹟を見た。いっぽうイエゼキイリは、超自然の方法で、すなわち啓示の力で上げられてイエルサリムに着き、聖なる啓示をうけて来たるべき復生を観た。右のような違いが、霊的な浄化においても生じるのである。たしかに踏みならされた正道を歩み、戒めを守って血と汗を流してたましいの清さにたどり着く者もいる。だが、恩寵の力ですんなりそこに至ってしまう者もいる。したがって、恩寵の力による清さなど祈願するなと教わっているというのに、無謀にも戒めを避けて生きようとするとは何事か。なにせ主も、かつて富める者にどうすれば永遠の命を得られるのかと問われた時ルカ 10 : 25、はっきりと「戒めを守れ」と言われたではないか。そして具体的にどのような戒めかと聞き返されるや、まず悪を行うなと命じてふつうの戒めを思い出させた。さらにそれ以上のものを知りたいと訊かれたため、とうとう「なんじ完全ならんと欲せば、ゆきてなんじの所有を売りて、貧者に施せ。しからばたからを天にたもたん」マトフェイ 19 : 21と告げられたのである。これを言い換えれば、「自分の持ち物に対して死んでから私に従え。古き世と慾をかなぐり捨ててから、属神的世界に生きよ。人間くさい知恵や攻略を脱ぎ捨ててから、まじりけのない真実の知恵をまとえ」ということだ。というのは、主は「おのれの十字架を負え」マトフェイ 16 : 24という一句でもって、世の中のすべてに対して死ぬべしと教えられたからである。そして古き人、つまり「慾」を主の力で殺した後で、「われに従え」マトフェイ 19 : 21とおっしゃったのである。古き人は、ハリストスの道を歩めない。実際、福なるパウェルも、古き人のことを指して「血肉は神の国を継ぐあたわず、朽つる者は不朽を継がざらん」コリンフ前 15 : 50と明言した。また、古き習わしを指して「慾のうちに朽つる古き人の先の習わしを」脱いではじめて、どうすれば造物主に肖って新しい人になれるか分かるようになるエフェス 4 : 22, 24 参照)と述べた。さらに、古き思いをも指して「肉のおもいは神に対して仇なり、神の律法に服せず、かつ服するあたわざるなり」ロマ 8 : 7, 8とも断じた。なぜならば、肉に生きているうちは肉に関することを思い、属神的思念で神を喜ばせることができないからである。よって聖なる兄よ、もし本当に心の清さを愛し、おっしゃるように属神的に賢くなりたいのであれば、とにかく主宰の戒めにすがり付くことだ。主が「もし生命いのちらんと欲せば、戒めを守れ」マトフェイ 19 : 17と告げられたように、まさに死後の保障とか報いのためではなく、ひとえに戒めを与えてくれたお方を愛するがゆえに戒めを守ることだ。というのも、人は正義を行なったときではなく、胸が痛むほど正義を愛するときに正義に秘められた甘美を味わうからである。同じく、罪を行なったときではなく、むしろ罪を憎まず罪を悔いないときに罪人となるからである。だいたい古代であろうと現代であろうと、戒めを守りもせずに清さに達して属神的観照に与った者などいないではないか。戒めを破って聖使徒の跡を歩まない者は、聖人と呼ばれるのに値しないと思う。

もちろん聖ワシリイや聖グリゴリイらは、おっしゃるように荒野を好んで教会の偉大な教師となり、そのうえ黙修を称えていたわけだが、それとて戒めを守らないまま黙修に入ったわけではない。まずは人々と安和に暮らしながらしかるべく戒めを守り、心を浄めて属神的観照に与った後で黙修に入ったのである。とうぜん町に住んでいたときには旅人をもてなし、病人を見舞い、裸の者に着せ、苦労人の足を洗い、力づくで「一里を行かしめ」る者がいれば、共に「二里」マトフェイ 5 : 41を行ったに違いない。そうやって社会生活で必要とされる戒めを守り、知性が原初のごとく慾に揺らがず神妙な観照を捉え始めたとき、ついに奮い立って黙修すべく荒野へ赴いたのである。そして黙修に入るなり「内なる人」に留まって属神的観照を観る者となり、やがては恩寵によってハリストス教会の牧者となるよう召されたのである。

ちなみに、聖大ワシリイは時に応じて共同生活を誉めたり隠遁生活を誉めたりしたではないかというご指摘については、こう答えておこう。真に熱心な者ならば、いずれの道も活用できるのではなかろうか。生活形態の違いなど、しょせん個々人が身の丈に応じて、どういった目的のためにどちらの道を選んだかという問題にすぎない。大勢と暮らす共同生活は、強者にとってためになることもあるし弱者にとってためになることもある(この点、隠遁生活も同様である)。なにせ強者ならば霊的健康に至り、何事も聖神で見極めて現世に対して死んでいるため、修行に目覚めているかぎり大勢と暮らしていても害にはならない。しかも自分のために大勢と暮らしているのではなく、むしろ他者の益となるために暮らしているようなものなのだ。なぜなら師父たちの名にかけて、そういう仕事を神に委ねられたからである。いっぽう、まだ戒めの乳で養われながら成長すべき弱者にとっても、大勢との共同生活はためになる。ほぼいつも試練に勝てるほど心が健康になる日まで、共同生活の中でつらい試練に耐え、闘い方を学んで経験を積めるからだ。つまり赤子が乳で養ってもらわなければ成長できないのと同じように、修道士も戒律という乳で養ってもらわないと成長できず、慾にも勝てず、清さに与ることもできないということである。いっぽう荒野生活もまた、上述したとおり共同生活と同じく、弱者が世を避けて救われるのに役立つこともあれば、強者にとって役立つこともある。弱者にしてみれば世の行ないを目に入れないことで慾の炎に油を注がずにいられるし、強者にしてみれば寂れた環境下で悪魔に誘われずに済む。そう、荒野にいれば慾が眠る、というご指摘は正しい。しかし慾は眠らせるだけではなく、根こそぎ取り除かなければならない。つまり、しつこくつきまとってくる慾に打ち勝たなければならないのである。ただ眠っているだけの場合、欲したくなる原因と出くわすだけで目覚めてしまうからだ。

荒野以外にも何か慾を眠らせるものはないか知りたい、とのことだが、病気や疲労困憊したときには、さほど強く慾に襲われないではないか。

しかも、しばしば慾同士で相手を眠らせて、ある慾が他の慾に場所を譲ることもあるだろう。現に、見栄を張って淫欲を抑えることもできれば、逆に淫欲に溺れて見栄なんぞどうでもよくなることがある。というわけで、どうか慾を眠らせる理由だけで荒野を求めるのではなく、むしろ万事を離れて感覚を鎮め、賢明になるためにこそ荒野を求めようではないか。そして内なる人を一新してハリストスにおける属神的人間となり、毎分毎秒自分自身を監視して覚めた知性で自分を守り、望んできた事柄をつい忘れないようにしようではないか。

もし最初の質問に答えるべきであったとしたら、このくらいで十分ではなかろうか。そこで次の質問に移ることとしよう。こんな質問であった。

質問  主は、慈悲深い天の父にならって慈善行為をせよと教えられたのに、なぜ修道士は慈善よりも黙修を優先するのか。

回答  答えは明快だ。まず貴兄が黙修という深遠な生活を研究する上で、福音書に事例を見出そうとしたことは良かった。われわれ黙修者は慈善行為に背くことになるが、決して慈善を無駄なものとして見下しているわけではない。主が天の父に似るよう慈善行為を促したのも、慈善をなせば神に近づけるからである。それにわれわれ修道士としても、慈憐のない黙修を尊んでいるわけではなく、ただできるかぎり心配事や騒乱から離れようと努めているだけのことなのだ。なにも慈善行為をすべき境遇に陥ってもあえて対抗すべしと思っているのではなくて、ひとえに神をひたすら思うためにこそ黙修しようとしているだけなのだ。黙修すれば、もっとも早く思い悩みから清さを取り戻して神に近づくことができるからである。

たとえば、われわれが兄弟を助けなければならないような事態になったときには、自分にできることをおっくうがってはいけない。つまり心構えとしては、つねにあらゆる理性的存在に対して慈しみの心を抱いているべきなのだ。主の教訓も慈しみの心を持てと暗示しているし、慈しみの心を持てばこそ、仕方なく行なった慈善行為にまさる黙修となるからである。しかも慈しみの心を持つだけでなく、必要な状況に迫られたときには身をもって愛を実証することをためらってはならない。もちろん黙修者が、人目を離れて一週間なり七週間なり黙修に徹しようと定めた場合には話は別だが、しかしそのような場合でさえ、つまり黙修に徹すべく定めた期間中であろうと、隣人に対する慈しみの心を抑えることはできないものである。よほど冷酷で堅物で非人間的で、他人に見せびらかすために黙修しているような偽善者ならば自制できるかもしれないが……。なにせ隣人愛がなければ、知性が神との対話や愛に照らされないことは分かりきったことだからだ。

修道士がまがりなりにも分別を持っているのであれば、手元に食料や衣服があるときに、隣人が飢えて裸でいるのを見て何も差し出さずに保管しようとする奴がどこにいる。あるいは自分と同じ肉体をもつ隣人が病に伏し、弱り果てて看病が欠かせないほど困りあぐねいているときに、黙修を愛するあまり隣人愛よりも隠遁の規則を守ろうとする奴がどこにいる。これを逆に言うと、そういう事態が身の回りで起こっていない期間にこそ、ぜひとも兄弟愛と慈憐の心を温めておこう。というのは、事態が差し迫ったときにかぎり、神はそれを実行して愛を示せと要求しているからである。言い換えれば、とくに手元に何も持っていない場合には、言わずもがな貧者のことを心配してあれこれ悩むべきではない。ただし何か持っている場合には、できることをしなければならない、ということである。

さらに同じくらい大事なことがある。もし共同生活を避けて人と会わない決心をして黙修生活に入った場合には、もはや僧房とか隠修の地を離れて世の中を渡り歩いたり、病人を見舞ったりして俗事に時間を費やしてはならないということである。というのは、そんなことをすれば明らかに高次のものから低次のものへ移行することになるからである。逆に、かりそめにも大勢いる社会の中で人々と暮らし、健康な時にも病める時にも他人の労働に助けられている場合には、同じように他人にもしなければならない。相手にだけ奉仕させておいて、同じ肉体をもつ相手が困窮に陥ったのを目にするや、というか、ハリストスのために困窮を耐えている姿を目にするや、その相手から離れて身を隠し、黙修するふりをしてはならない。そういう偽りをする連中は心が固まっている。

かといって、フィワイのイオアンやアルセニイなどを引き合いに出して、「はたして偉大な師父は、黙修を差し置いて病人や貧者に尽くしたりしただろうか」などと言ったりするな。そのような偉人の修行には、われわれは近づくことさえできない。もし彼らと同程度に人々との慰めから遠く離れて孤独に生活しているのであれば、あるいは主もわれわれに慈善を疎んじよと命じられたかもしれない。でもそのような完全性の足もとにも及ばず、日々労働して人々と交わってばかりいる分際でありながら、近づくのもままならない聖人の偉大な生活を送っているのだなどとうそぶいて、(本来ならば力量に応じて守るべき)戒めを守ろうとしないとは何様か。

ここで兄弟を大事に思わない者を暴くために、聖大マカリイの行為をしっかり思い出しておこう。あるとき、聖大マカリイは病気の兄弟を見舞いに行った。何か欲しいものはないかと尋ねたら、「少しばかり柔らかいパンを」という(当時その地方では、修道士はほぼ年1回しかパンを焼かなかった)。この願いを耳にするなり、90歳という高齢にもかかわらず、すかさず立ち上がって僧庵を出てアレクサンドリアへ赴き、革の上着にいれてあった乾パンを柔らかいパンに換え、兄弟のもとへ持ち帰ったのである。

この聖大マカリイと似たようなこと、ないしそれ以上のことをしたのが師父アガフォンである。まさに当時最長老、沈黙と黙修によってだれよりも尊敬されていた師父である。師父アガフォンは、盛大な市場の開催時に手作りのものを売りに行ったのだが、売り場まで来ると病気の旅人が横たわっているのを目にした。そこで、その病人のために家を借りて介抱することにした。一所懸命に働き、働いて得たものは病人のために使い、回復するまで半年間も看病しつづけたのである。(伝承では)この師父アガフォンが「皮膚病患者を見つけ出して、その身体とこの体を交換できればいいのに」と言ったという。これこそ、完全な愛である。

愛する兄弟よ。人は、神を畏れれば畏れるほど喜んで右のようなことを探求し、戒めを丹念に守るようになるのだということを肝に銘じておこう。そして実際に戒めを実行すべき状況になったときには、放置したら危険だという点も忘れてはならない。なにせ最高の戒めというのは、生命を賜う主によって二つ合わせられて他の戒めもそこに含められているからである。すなわち神への愛と、その神にそっくりな受造物への愛、つまり「神の像」への愛(隣人愛)である。人は神を愛することで属神的観照の目標に達し、隣人を愛することで観照も行動も充実してゆく。

右の結尾について敷衍しておこう。そもそも人は、いつも意識を働かせて何かを学んでいるわけだが、その際、いちいち体を用いたり手助けしてもらったり考えを実行したりするまでもなく学んでいる。むしろ意識を単純に働かせ、五感では捉えがたい単純な「おおもと」(神)に合わせて知的に観ている。なにせ神聖なものは目に見えないが単純明快であり、もともと存在していて完結しているからだ。しかし、もう一方の戒めである隣人愛には2つの側面があるため、両面とも注意する必要がある。なにせ隣人愛を抱くと実践してみたくなり、しかもあからさまに実践するだけでなく、ひそかにも実践したくなる。つまり、目に見える形で隣人愛を実践するなり、意識の中でも実践せずにいられなくなるのである。

人間は二つの部分、つまり霊と体からなるため、つねにその二面性の構成に応じて2つの事柄を配慮すべき存在である。そして何をするにしても行為が観照に先立つ以上、まずは低次にある行為を実践せずに高次の観照へ昇ることなどできない。ということは、つまり隣人愛を実践的に行なってこなかったのであれば、すなわち時と場所に恵まれたときに見える形でできるかぎり隣人愛を実践してこなかったのであれば、隣人愛において霊的にうまくいっているなどと言うことはできないのだ。というのも、ひとえに身をもって隣人愛を実践してきたか否かによって、その人がどういう中身の人間であり、観照の愛があるかどうかが確証されるからである。

そしてこの点、すなわち隣人愛の実践という点においてなるべく忠実かつ誠実であったとき、たましいに力が与えられ、単純な思考でもって神聖なものを観照するという高次元へ至るのである。ただし、身をもって隣人愛を実践したくてもしようがない状況下では、思いのうちに隣人を愛するだけでも神の前では充分である。とくに隠遁して黙修生活に徹し、しっかり修行して上達している場合には尚更である。

とはいえ、どう見てもうまく黙修できていない場合には、手応えのある戒めを実践することで欠点を補っておこう。それこそ肉体労働をしてこの静かな生活を守り、よりによって肉体の思うつぼになるために自由な隠遁生活を得たのか、などと言われないようにしよう。そもそも人的交流を断ち切って神のことだけを思い、万事から離れて万事に対して死者となっている身なのであれば、人々を助けて奉仕せよとは命じられないからである。しかるに規則として7週間なり1週間なり黙修した後で、人々と交わって互いに慰め合っている身であるというのに、困窮した兄弟のことは見放して、なにせこの一週間は黙修すると決めたのだから守らなきゃと思うとしたら、それほど無慈悲で残忍な話もない。そのような場合には、冷えきった心で自惚れて間違った考え方をしている以上、言わずもがな隣人愛には近づけない。

病人を疎んじるならば光を観ることはない。困窮者に背を向けるならば暗い日々を歩む。ひどい目に遭った人の声を蔑むならば、子孫が盲目のまま触覚をたよりに家を探すことになる。

とにかく自分の無知のせいで黙修という大いなる名を汚さないようにしよう。というのも、いかなる生活形態にも、その生活を送るにふさわしい時期や場所や資質というものがあるからである。ゆえに、しかるべき時期にしかるべき場所でしかるべき資質をもって黙修するのであれば、黙修に入り次第、どう修行すべきか神に訊けば分かる。でもしかるべき時期や場所や資質に適合していないのであれば、いくら完徳を目指して修行したところで骨折り損のくたびれ儲けだ。やはり自分だって困ったときにはぜひ見舞って慰めてもらいたいと思うのなら、隣人が試練に耐えているときにはへりくだって手を差し伸べるべきだ。そうすれば、自惚れや悪霊の迷妄とは縁遠いまま、黙修に入りしだい喜んで修行することができるだろう。ある聖人は、いみじくも「修道士にとっては、肉体的苦痛を耐えている病人を見舞うことほど高慢を避けやすく、淫欲に燃えたときに貞潔を保ってくれるものはない」と述べている。

黙修という天使のような営みにおいては、へりくだって右のようなことまで考慮できれば最高だ。というのも、われわれは思わぬときにつまずいてやられてしまうからである。兄弟たちよ。念のため断っておくと、なにも黙修自体を蔑んで取りやめよと言っているのではない。さんざん黙修せよと説得してきたはずなのに、いまになって前言を翻して慈善行為に励めと言っているわけではないことを明言しておく。どうか、これまでに述べてきた事柄の一部のみを取り出して、そのほかの事柄を全部脇へ追いやり、愚かにもこの一点だけを取りあげて納得しないでほしい。たしかに口を酸っぱくしてお願いしてきたではないか。そう、たとい僧房で弱さゆえに精進できなくなったとしても、すっかり僧房を離れたり、僧房内の修行よりも外での修行の方が優れているなどと考えたりしてはならない、と。ここで「すっかり僧房を離れる」というのは、なにも必要に迫られて数週間僧房を空けて諸用を足したり、隣人を助けたりすることを指すのではない。決してそういう諸用が無駄だとか、やるなとか言っているのではない。そうではなくて、むしろ自負心が湧いたときに、つまり「こうしていつも神の前にいて、とことん目に見えるものからも離れて、ここにいる誰よりも高度にして完全になった」という思いが湧いたときに、そういう思いを賢く退けよと言っているのだ。神に助けられてできる修行については、正しく見極めることが大事だ。そうすれば憐み深い神は、「人のなんじらに行わんを欲する事は、なんじらもかくのごとくこれを人に行なえ」ルカ 6 : 31と告げられたとおり、われわれの欲した事も行なってくださるであろう。光栄と誉れは神に帰す、アミン。

さらにお手紙には、「修道士は神を愛したいと思うのなら、何よりもたましいを清く保とうとしなければならない」と書いてあった。そしてそれを実践できるだけの力があればの話だが、じつに書きっぷりも見事であった。でも「まだたましいにある慾を克服できておらず、祈るときに大胆に祈れない」とも書いてある。となると、どうもこの二つの台詞が矛盾して聴こえてならない。いや私自身が無知だから矛盾に聴こえるだけなのかもしれないが、そもそもたましいにある慾を克服できていないような状態で、どうやってたましいを清く保とうと慮ることなどできようか。というのは属神的規則でも厳命されているとおり、人は慾を克服していないうちはそれ以上のことを求めてはならないからだ。そもそも「何かを渇き求めている」から、それを愛していると言えるのではない。むしろ「何かを愛している」から、それを渇き求めていると言えるのだ。つまり愛が、渇望よりも先にくるはずなのだ(人は愛すればこそ、求めたくなる。愛してもいないものを、求める気にはなれない)。いっぽう慾は、清さの前に立ちはだかっている扉である。この閉じきった扉を開いてみないことには、だれもその向こうにある清い心の汚れなき領域に入ることなどできない。ゆえに「祈るときに大胆に祈れない」と漏らしたのは正直でよろしい。というのは大胆さとは、ただ慾よりも上にあるだけでなく、慾を超えた清さよりも上にあるものだからである。この慾・清さ・大胆さの三段階は、往々にして次のような順序になっている。人はまず清さを得るために、自分を強いて慾との闘いに耐える。そうしてたましいが慾を克服すれば、清さを得られる。そして真に清くなれたとき、知性は祈るときに大胆さを得られるのである。

話しは霊的清さに入ってきたが、その一方で、たしかに霊的清さを祈り求めてはいけないという道理はない。しかも霊的清さといえば聖書にも師父の書にも示された点であり、修道士が隠遁までして求めようとしたものだ。その霊的清さを祈り求めたばかりに傲慢だとか、自惚れだとか言われる筋合いはない。だが聖なる兄よ、それでも修道士は次の点を弁えておいたほうがいいと思う。ふつう子は父を信頼しきっているとき、いちいち父に「こんな技を身につけさせて」とか「これこれを頂戴」とか乞うことがない。同じように、修道士も神に対して「これこれを与えたまえ」と乞わない方がよいのだ。というのも周知のように神は、父が子を思うよりもはるかに多くわれわれのことを慮ってくださっているからである。したがってわれわれは、ついうごめいてしまう罪深い動機について泣いてへりくだり、それが想念で犯した罪であろうとも身をもって犯した罪であろうとも、税吏にならって「神よ、われ罪人を憐れめ」ルカ 18 : 13と胸を打って嘆いているべきなのだ。そして主の教えを外面でも内面でも実行した上で、主に教わったとおり「われらは無益の僕なり、行なうべきことを行ないしのみ」ルカ 17 : 10と告げ、なんという役立たずで憐れんでもらわないといられない身なのかと本心から思っていなければならないのである。貴兄自身も痛感しているだろう。決して行動ではなく、ひとえに心の嘆きとたましいの謙遜が、慾で覆われた心の扉を開いてくれることを。まさに気負いで克服するのではなく謙遜で慾を克服したときに、それが開くということを。というのは、病人はまずへりくだって疾患を治して健康になろうとし、健康になってから王になろうとするものだからである。なぜなら清さや霊的健康というのは、たましいの王国そのものだからである。

このたましいの王国とは、いったいどういう王国なのであろうか。病人は父にむかって「王にしてくれ」とは言わない。まずは疾患を治すことに専念し、やがて健康になればおのずと父の王国がすっかり自分の王国となる。これと同じように、罪人も悔改してたましいが健康になれば、父なる神と共に清い本性の領域に入って力を帯び、父なる神の光栄をうけて君臨するのである。

ここで聖使徒パウェルの言葉を思い出しておこう。使徒パウェルは自分の罪過を並べ上げた上で、自分のたましいをとことん低めて最下位に置いてこう言ったのである。「ハリストス・イイススは罪人を救わんがために世に来たれり。罪人のうちわれ第一なり。しかれどもわが憐みを蒙りしは、イイスス・ハリストスがまずわれにおいて全き寛忍を示せり」ティモフェイ前 1 : 15~16と。つまり自分自身がかつて暴力をふるって迫害までした冒瀆者でありながらも、「知らずして、信ぜざるによりてこれを行ないしゆえに」神に憐れんでもらえた身だからであるティモフェイ前 1 : 13。はて、この言葉は一体いつ放たれた台詞であったか。そう、偉大な修行を終えて、力のみなぎった業を次々に成し遂げた後である。ハリストスの福音を世界中に布教して何度も死ぬ目に遭い、イウデヤ人や異教徒から辛酸を舐めつくした後である。かほどの労苦を経た後にもかかわらず、相も変わらず最初に仕出かしてしまった過ちを見つめ、単に清さに至ったぞと思わなかっただけでなく、本来ならばハリストスの弟子であると自認してもよさそうなところを、なんと「われは使徒と名づけらるるに堪えず、神の教会を窘逐せしがゆえなり」コリンフ前 15 : 9と嘆き、ハリストスの弟子であるということすら自認しようとしなかったのである。そしてだれよりも慾を克服しきった身でありながらも、なおかつ「われの体を制してこれを服せしむ、他人を教えて、自ら捨てらるる者とならざらんがためなり」コリンフ前 9 : 27と自戒していたのだ。いやいやそうは言っても、使徒パウェルは他の箇所で自分の偉大な業績について並べ立てているじゃないか、と思うだろうか。使徒自身の言葉を耳にして、しかと目を開くがよい。なにせ使徒は、そういう事柄は好き好んで自分自身のために行なったのではなく、ひとえに伝道のために行なったのだと述べているからである。しかもそういう手柄を信者によかれと思って語ったときには、そのような自慢話をするのは理性を失った愚か者だという自覚から、「なんじらわれにこれを為さしめたり」コリンフ後 12 : 11とか「わが言うところは、主にしたがいて言うにあらず、すなわちこの誇りの分において、無智者のごとく言うなり」コリンフ後 11 : 17と吐露している。このような姿勢こそ、公正にして信頼に足る基準だと言えよう。聖パウェルが正義を貫いてわれわれに与えてくれた基準だ。ぜひともこの基準にのっとって熱心に生きてみようではないか。そして高度な事柄が神から与えられないときには、それをあえて神に求めないようにしようではないか。なぜなら神への奉仕に適した器が誰であるのかは、神ご自身がご存じだからである。というのは、福なるパウェルはそれ以降もたましいに王国を求めたりせず、「自らハリストスより絶たれんことをもあるいは願うなり」ロマ 9 : 3とまで言っていたからである。だというのに、どうしてわれわれが、ろくに戒めも守れず慾も克服できず負い目も返しきっていない身で、神から与えられる以前にたましいに王国を求めたりすることなどできようか。

というわけで聖なる兄にお願いしたい。どうかそういう考えが思い浮かぶことすらないように気をつけてほしい。何よりも大事なのは、どんな艱難辛苦にも耐えること。そして深くへりくだって心身に生じる慾や弱さを嘆き、罪の赦しと霊的謙遜を与えてくださいと主に求めよう。

ある聖人は「祈るときに罪人だという自覚がなければ、主に聴き入れてもらえない」と書いた。まあそうは言っても霊的清さとか健康とか無慾とか直観とは何ぞやということを書き綴った師父もいるじゃないか、と思うかもしれない。しかし、それはわれわれが時期尚早にそういう事柄を期待してねだるためではなかった。というのは、「神の国は顕わに来らず」ルカ 17 : 20と書いてあるからだ。つまり神の国は期待どおりに来るわけではない、ということである。そしてそういう意図を持ったが最後、人は傲慢になって堕ちてしまう。したがって、悔改を積み重ねつつ、神に喜ばれるように生きて心の領域を整えてゆこう。心が汚れを取り除いて清ければ、おのずと主の賜は降ってくる。それに神の教会では、高尚な神の賜があらわに降ってくるよう求めてはならないと禁じられている。そうやって求めて賜を得た者は傲慢に陥って堕ちたからだ。そういうおねだりは神を愛している証拠ではなく、むしろたましいに疾患がある証拠である。そもそも神聖なパウェルは困苦を誇り、ハリストスのために苦しむことこそ神の高尚な賜だと捉えていたというのに、われわれはいったいどんな神の賜をねだろうというのか。

さらにお手紙には「心から神への愛を愛しているし、とても愛したいと渇望しているのに、どうもまだ愛までは至っていない」とも書いてある。しかも「荒野で修行したい」とも書いてある。なるほど、どうやら貴兄は心を清め始め、いつも心の中で神への思いが燃え上がって温められているようだ。そして、もしそれが真実であるならば偉大なことだ。だが、そう書かなければもっと良かったのにと思ってしまうのだ。なぜなら、どうも辻褄が合わないからである。もしこれが質問事項であったならば、もう少し違う言い方になっていたであろう。というのは、まだ慾を克服できず、大胆に祈れないと書いている身でありながら、どうして「心から神への愛を愛している」などと言えようか。だいたい慾を克服できていない分際であれば、たましいに神聖な愛が湧くこともないし、その愛に促されて神秘的に荒野で修行することもできやしない。お手紙を拝読すると、「まだ慾は克服できていないが、神への愛を愛している」とおっしゃる。これは、辻褄が合わない。慾を克服していないのに神への愛を愛していると言われても、何を言われているのか私にはさっぱり理解できない。

でもこう反論してくるかもしれない。「いえいえ『神を愛している』と言ったのではない。『神への愛を愛している』と言ったのだ」と。それすらも、たましいが清さに至っていない以上、言おうとしても言えない台詞である。もし口先だけで言いたいのであれば、なにも貴兄だけでなく誰もが神を愛したいと言っている。しかも正教徒だけでなく異教徒もそう言っている。それに誰もが自分自身の台詞としてそう言っている。しかしそういう台詞を発しているとき、よく口先だけ動いていて心は何を言っているのか感じていない。それに病人だって、自分の病に気づいていない人が多いではないか。なにせたましいが病んでいるからこそ悪が生じ、真実が欠けているからこそ迷妄が生じるのだ。しかも、そういう疾患に病んでいる身でありながら、われこそは健康なりと公言して仰がれている人もたくさんいる。でも、そもそも人は、たましいに根づいた悪を治療し、創造時に生まれもった健康状態に戻り、その汚れなき神゜でたましいが息づくようにならなければ、超自然のものたる聖神の賜など渇望しようがないのだ。なぜならたましいが慾に悩まされているうちは、属神界のことを感知できず渇望もできず、ただ耳で聴いたり聖書で読んだりしたことを拠り所にして渇望しているに過ぎないからである。というわけで、完徳を渇望するならばどの戒めも守るべし、と既述したのは言い過ぎではない。なぜなら、ひそかに戒めを守っていれば霊力が癒されるからである。それも、ただ気が向いたときに戒めを守ればよいというのではない。現に「血を流すにあらざれば、赦しなし」エウレイ 9 : 22)と書いてあるとおりである。しかし考えてもみてほしい。そもそもわれわれの本性は、ハリストスの藉身によって一新し、ハリストスの受難と死に与ったのではなかったか。まさに十字架上の流血のおかげで一新して成聖され、新約以降の完徳の戒めを受け入れられる本性になっているのではなかったか。

もしもわれわれが救主の流血以前に新約の戒めを授かっていたとしたら、つまり人性が一新して成聖される以前に授かっていたとしたら、いかに最新の戒めとはいえ古代の戒めと同じように、かろうじてたましいの悪習を断ち切れても、その根っこまでは一掃できなかったかもしれない。しかし今は、そうではないはずだ。それどころか、心から神を畏れて属神的な新しい戒めを守ってひそかに修行していれば、たましいは一新して成聖され、目には見えなくても隅々まで癒えてゆくのである。なにせどの戒めによってどの慾がそっと癒されていくのかは、だれの目から見ても明らかであろう。そして血漏の女の事例を見るまでもなく、癒された本人も癒した側(神)も、その戒めの効果を実感できるものなのである。

愛する兄よ。かくして、たましいに根づいた慾を治療せずに霊的健康へ至ることはないのだ。つまり、ひそかにたましいを一新させて成聖させ、聖神と結びついた生活をしていない以上、肉体をもつ身としてぶち当たる悲しみから自由になれないのだ。そして、これは使徒たちを見れば分かるように、ひとえに恩寵による治療なのである。現に使徒たちは信仰でもってハリストスの愛を完全に身につけた。もちろん正道を歩んで霊的健康を得られることもある。とりあえず戒めを守って正しく生活し、汗を流して慾を克服すれば、しかるべくして霊的健康を得られるということは覚えておこう。まさに戒めという乳を飲みきってこの世の身体性を離れ、つい引きずられる過去の慾の印象を断つことができれば、まるで初めて生まれるかのように属神的に生まれ変わるのである。すると恩寵によって「内なる人」の思いのうちに聖神の目に留まり、かつてない素朴な平安を得るのである。

知性も生まれ変わって心も成聖すれば、そのようにして入った属神界にふさわしい思いがどんどん湧き出てくる。まずは神聖な願望が湧き起こり、心から天使と交わりたくなり、属神的知恵の奥義を観たくなる。すると受造物に属神的知恵が働いていることを知的に感じとり、眩しいほど聖三者の神秘を観照するようになる。と同時に、われわれのためにご計画された拝むべき奥義をもくまなく観照し、未来の希望を見る知恵にどっぷりのめり込んでゆくのである。

というわけで、以上の記述を読んで自分自身の状態を把握してほしい。もしもたましいが慾に埋もれたまま真に神を愛せるのだとしたら、わざわざ属神界の奥義について質問するまでもなかったであろう。でも言わずもがな、慾を抱いているうちは属神界の知識をいくら学んでもザルに水、かの清さを閉ざしている扉も開けられない。たましいから慾を取り除くことさえできれば、知性も生まれもった清い部分で物事をくまなく捉えられるようになり、質問する必要がなくなるはずである。なぜならそのままで入手できる恵みをはっきり見届けるからである。現に五感だって、わざわざ学んだり質問したりして目の前にある物やその本質を捉えているわけではない。むしろ問う以前に、目の前の物をじかに触れて感じとるであろう。なぜなら「感じる者」と「感じられる物」の間には、両者をつなぐ教えというのは存在しないからだ。たとえば盲人は、いくら太陽や月のすばらしさを耳にしても、あるいは無数の星や宝石の輝きを語ってもらったとしても、ただ名称だけでその美しさを思い描いて推測してみることしかできない。でもそうやって得られた知識や推量というのは所詮、実際に肉眼で見て得られる甘美とはかけ離れたものでしかない。このことから、属神界についても同じように思い描くがよい。というのも、もし知性が原初の健康状態で聖神の奥義を見抜くならば、十分にハリストスの光栄を観照することができ、あえて質問したり学んだりするまでもないからである。むしろ、いかにハリストスを信じて希望をかけているかに応じて、強いずとも新時世の奥義を楽しむほかにないからだ。まさに福なるパウェルが「人もしこれを見ば、あになお望まんや。(中略)忍耐してこれを待つ」ロマ 8 : 24, 25と述べたとおりである。

というわけであるから、やはりわれわれは待つべきだ。孤独に徹し、素直に内なる人と向き合うべきだ。内なる人と向き合っていれば、想念が焼きついたり込み入ったものが目に入ったりしてこない。なぜなら知性は見ているものの像を受け入れるからである。もしも世の中を見るのなら、流転する万物のさまざまな像や肖が目に入り、こうにもああにも変わりゆく沢山のものから想念が湧き起こってくる。そして湧き起こるなり知性に焼きついてしまう。しかし知性が内なる人に目をそそいで洞察していれば、そこには像の移り変わりをもたらすようなものは一つもない。そこでは複雑なものが他の複雑な像との違いで区別されることもなく、ただハリストスだけが満ちている。だからこそ知的に単純に観照し、その観照によってたましいは最高の甘美を味わい、祈るときに大胆になれるのである。なぜならたましいは生まれつきそういうものを糧とするからだ。そのようにして知性が真実をつかみとれる領域に入ってしまえば、もはや質問するまでもない。というのも肉眼で太陽を見ようとするときに、だれもまず質問してから眺めたりはしないように、霊眼で聖神の知恵を知ろうとするときにも、まず研究してから観照するものではないからである。というわけで聖なる兄よ。兄が求めた奥義の観照とは、霊的健康を得ればおのずと知性に啓かれてくるものなのだ。研究したり質問したりしてそういう奥義を理解しようとするのは賢くない。なにせ福なるパウェルも「いいがたき言葉、人の語るあたわざるもの」を見聞きしたときコリンフ後 12 : 4、学問とか具体的な認識方法に頼ったのではなく、感嘆のうちに挙げられて属神界にて奥義の啓示を観たからである。

というわけで、聖なる兄も清さを愛するのであれば、人々に注いできた愛を断ち切って心のぶどう園に入り、その園でたましいに根づいた慾を絶やし、人の悪を知ることのないよう努めよ。清い心こそ、神を観るのだ。決して質問によってではなく、どんな人の悪をも知らないことによって、心はどこまでも清まって神を観るのである。もし心に新時世の奥義をやどしたければ、まずは斎、儆醒、公祈祷、修行、忍耐、想念の克服など、身体でできる業を積み重ねよ。聖書を読むことに没頭し、深く読み込むことだ。目の前に戒めを書き記し、慾に負けても逆に打ち負かして挽回せよ。いつも内なる会話のなかで祈り求めて祈祷文に没頭し、かつて受け入れてしまった像や肖をことごとく心の中から消し去れ。そして救主のご計画どおりにすすむ万事の奥義を絶えず学べ。しかも言葉にならない属神的知恵や神秘的観照を求めたりせず、それらが時と場に合わせて与えられるがままにせよ。むしろ、ひたすら戒めを守って清さを得るべく汗を流すことだ。そして万物を思う火のような痛み(使徒や致命者や師父が主から授かった心痛)をくださいと主に祈り求めよ。その痛みで心を熱くして知的生活に与るがよい。知的生活とは、その始点も中間点も終点も次の一言に尽きる。つまり、すべてを断ち切ってハリストスに体合すること。もしどうしても奥義を観照したければ、ひたすら戒めを守って身につけるべきであり、ただ頭だけで戒めを知ろうとしてはならない。

われわれは内面の清い領域で属神的観照をする。だから、まずは聖神の神秘的領域にどう入るべきか見極めた上で、きちんと歩みだすがよい。

しっかり戒めを守っていれば、まずは清さという神秘を授かる。その上で、やがて驚嘆しつつ過去や未来のことを見抜く属神的直観を授かって観照するようになる。そこでは洞察しつつ、ありとあらゆる受造物に対する神のご計画に驚き、神の光栄と新時世の重みを悟る。すると、心は打ちひしがれて一新し、まるでハリストスにおける嬰児のようになり、「新約の戒め」という属神的な乳で養われて悪いことを思わなくなる。そして聖神の奥義を学んで知恵の啓示を受け、知恵から知恵へ、観照から観照へ、悟りから悟りへ昇ってゆく。そのように神秘的に学びつづけて明晰になれば、やがて愛に至って希望と喜びに満たされ、神の前まで昇りつめて受造時に授かった光栄で輝くのだ。

黙修者はこのように聖神の草場で養われながら知恵の啓示へ昇り、転んでは起き、勝っては負けという試練をとおして、まさに僧房という坩堝るつぼの中で洗練される。そして清まった後で憐れみを受け、お望みどおり聖三者も観照できるようになる。知的に学んで昇ってゆくと、3つの本性が観えてくる。うち2つは、受造物の本性である。つまり霊智ある本性(人・天使・悪鬼)と霊智なき本性、まさに属神的本性と身体的本性とを観照する。もう1つは、聖三者の本性である。ゆえに、まずは目の前にある受造物をあまねく観照することから始まり、少しずつ知恵をつけながら知的に洞察を深めてゆくことになる。しかも、五感では捉えがたいものも観照できることがある。

さらに知性自身をも観照できるのが知性の特質である。だから異教徒の哲学者は受造物を考察しながら、なんと頭脳とは賢いものなのかと思い上がってしまったのである。

しかし正教徒であれば、信仰でもって神秘的に観照し、聖書という牧草の上で成長する。ちょうど聖大ワシリイやグリゴリイがそうであったように、あちこちへ思いを馳せずに集中し、ハリストスに結ばれて聖書の不思議な聖句を思う。そして、知恵だけでは悟れない聖句に出会っても信仰で受け入れ、清ければ清いほど透きとおった洞察力で理解する。われわれは神から信仰を授かったおかげで、知恵や五感や理性では捉えがたい聖神の奥義が存在することを知った。そして、その奥義に触れられるかもしれないという希望を持てるようになった。まさしく信仰を授かったおかげで「神は主であり主宰であり、万物の創造主にして造物主である」と公言できるようになり、知恵が与えられたおかげで主の戒めをしかるべく守ろうと決心できた。そして御言葉どおり旧約の戒めを守れば畏怖心が生じることを悟り、ハリストスの戒めを守れば愛が生じることも悟った。主が「われもわが父の戒めを守りて、その愛におる」と告げられたとおりであるイオアン 15 : 10。この句を見ると分かるように、神子は畏怖心から神父かみちちの戒めを守ったのではなく、愛しているからこそ守られたのである。だからわれわれにも、愛ゆえに父の戒めを守れと命じられた。「なんじらもしわれを愛せば、わが戒めを守れ。われ父に求めん、彼は別に撫恤者なぐさむるものをなんじらに与えん」イオアン 14 : 15~16と。この「撫恤者」(聖神)が与えられたとき、聖神の奥義が見えるようになるという。ゆえに使徒たちと同じように聖神を授かれば、属神的知恵を余すところなく身につけられるということだ。ちなみに主ご自身も、われわれのことを意味して「かれらに撫恤者を与えたまえ」と父に祈られたではないか。そして、戒めを守って心身を清めていれば撫恤者(聖神)がずっと傍にいてくれるだろうと約束されたではないか。

こうして論理の糸をたぐってみると、まだまだ考えが甘かったことがお分かりになるだろう。つまり貴兄の言うように、黙修中に戒めを守っていると神秘的観照がしにくくなるということはない。むしろ戒めを守っていればこそ、恩寵に照らされて神秘的観照に与り、聖神の知恵が見えてくるのだ。

だから、心からお願いしておきたい。もし愛の領域に達したと感じたときには、畏怖心からではなく、むしろ戒めを与えてくださった方(神)を愛するがゆえに、新約の戒めを守ってほしい。この点、使徒パウェルを見倣うべきである。使徒パウェルは神聖な愛に燃えるなり、「たれかわれらを神の愛より離さん」と叫んだ。たとい苦しかったり投獄されたり迫害されたりしたとしても、どうして神を愛せずにいられようか、と。そのうえで「けだしわれ篤く信ず、死も、生命も、現在も、未来も、われらをハリストス・イイススわが主の愛による神の愛より離すことあたわず」ロマ 8 : 35, 38, 39と言いきったのである。しかも報酬とか誉れとか、貴兄のように属神的賜物をふんだんに欲しかったから神を愛したわけではないことを証して、むしろ他の人たちがハリストスに結ばれるのであれば「自らハリストスに絶たれんこともあるいは願うなり」ロマ 9 : 3と言い添えた。さらに、黙修における神秘的観照なんぞ端から求めていなかったことを示して、「われ諸人の方言、および天使らの言葉を語るとも、もし愛なくば、われ鳴る鐘、あるいは響くねうはちのごとし。われ預言の能あり、およその奥義とおよその知識とを明らかにするあり、かつおよその信、よく山を移すありといえども、もし愛なくば、われ一も益なし」コリンフ前 13 : 1, 2と断言した。愛すればこそ、恩寵によって観照を授かるからである。なにせ観照に向かう正門とは、愛だからである。愛を身につければ、その愛によって観照に入る。まだ愛を身につけていないのに観照という恵みを受けたりすれば、いずれ観照できなくなるに違いない。なぜなら愛すればこそ高尚で聖なる生活を送れるようになり、そういう生活を続けられるものだからである。

修道士は愛を失った途端、心の平安を失う。なにせ心の中に神が宿られる以上、愛を失った途端に神の出入りする恩寵の門が閉じてしまうからだ。主も「われは生命の門なり。われによりて入る者は生命に入り、かつ(すこやかに属神的生活を送れる)草場を得ん」イオアン 10 : 9と言われた。つまり神秘的に観照するときに神聖な愛さえあれば、いつもハリストスの自由を得た者として出入りさせてもらえるということだ。どれだけこの言葉が正しいか理解したいだろうか。まさに属神的に生きることこそ聖なる観照そのものであることを理解するために、偉大なパウェルの言葉に耳を傾けておこう。先ほどの引用文を換言すると、こんなふうに叫んでいるからだ。「なにせ愛を身につけてもいない分際なので、そういう賜をいただくわけにはいかない。愛の門を通らずして観照に入ろうとは思わない。もし愛を身につける以前に恵みを受けたとしても、あえてその賜をほしいとは思わない。なぜなら、本来とおるべき愛の門からその領域に入ったわけではないからだ。ゆえに、まずは愛を身につけようではないか。愛こそ、聖三者を観る第一歩だからだ。愛さえ身につけておけば、わざわざ授かるまでもなく、おのずと属神的に観照できるであろう」と。どうか福なるパウェルの知恵を理解してほしい。パウェルは、いかなる恵みも度外視し、何よりも物事を支える根本的態度を求めた。この根本的態度があれば、賜を受けとって維持できるからである。あたかもこう言ったようなものだ。「モイセイが受造物を観照したように、そういう賜を得た人は多い。しかし常に観照していたのではなく、啓示をうけて観照したのである。いっぽう私は、聖神で受洗して恩寵に満たされている以上、この内面に生きておられるハリストスを感じとりたい。なにせハリストスがご自身の位格で人性を一新してくださったおかげで、われわれは水と聖神でハリストスを着、機密でハリストスと体合し、ハリストスの体の一部となれたのだ。とはいえ現世においては、あくまで担保として救主の体の一部となれたにすぎない。いずれ新時世がやって来れば、きっと他の人たちも神から生命を授かってハリストスの体の一部となるだろう」と。このように、神聖なるパウェルでさえ愛をもたずに観照することを避けていたというのに、愛をもっていない状態で観照を求めるとは何ごとか。

というのは、「戒めを守っていると観照しにくくなる」というお言葉は、あからさまに隣人愛をこけ落とすような台詞であるし、隣人愛よりも観照を選り好むことで、あたかも観照しようのないところで観照しようとしているようなものだからだ。まだ観照には値しない身だと自覚していても、しかるべき時がくればおのずと観照できるようになる。心も成長すれば知恵がつき、この世の事物を感じとり、日々学びを深めてゆくではないか。それと同じように、正しい生活を送っていれば、知性も属神的観照や神聖な手応えを感じとるようになる。そして愛の領域にたどりついた時、そのしかるべき場所で属神的に観照するのである。しかし観照というのは、どんなに属神的に観照してみせるぞと力んだところで、できるようなものではない。そこをあえて属神的なものを見てやろうと夢見たりすれば、しかも早合点して試したりすれば、あっという間に視力が弱まって事実の代わりに幻想や幻像を見るようになる。この危険性を痛感できれば、時期尚早に観照を求めることなど即刻やめるだろう。もしもすでに観照できている気がしているとしたら、それは幻想の影を眺めているのであって観照しているのではない。というのは、人は思いめぐらしながら真に観照することもあるが、似像や夢想を見てしまうこともあるからである。なにせ心身を合わせもつ者だから幻影を見てしまうこともあるわけだ。真に観照しているときには光を受け、現実にちかい形で対象を見る。その逆に、観照しているつもりでも真に観照できていない場合には、肉眼は現実の代わりにその影を見てしまう。つまり水のないところに水を見たり、地上に建っている建物が空中にぶら下がっているように見えたりしてしまう。物質的なものでさえそう見えてしまうことがあるのならば、いわんや霊的なものをや。

真に聖なる観照をするためには、まずは黙修して戒めを守り、心眼を浄めてくもりなく愛の光を浴びねばならない。なおかつハリストスのうちに生まれ変わって知恵を深め、めざすべき天使的生活の属神的性質に近づかねばならない。知力だけで属神的なものを思い描いても、そんなイメージは幻であって現実ではない。もとより知性が清まっていないからこそ、そんなふうに現実と取り違えて幻像を見てしまうのだ。本物は首尾一貫して変わらない性質である以上、似像に変わることなど絶対にありえない。そんなふうに夢みて幻像を見てしまうのは、ひとえに知性が清まっておらず病んでいるからである。

異教の哲学者もまさしく幻を見た。なぜなら神から真に教わってもいないものを、属神的なものとみなしてしまったからである。いろいろ思いめぐらして想念を見分けているうちに思い上がり、なかなかの賢者ではないかと自負した。ついでに人間がどこから来たのかという問いも突き詰めようとしたのだが、「人間の出自」(神)を見出そうとしながらも、その出自が「人間とは似て非なるものである」という区別ができなかった。そして禁じられた自負心から思い描いたことを言いふらし、唯一の神を多くの神々に分割し、そうやって想念が生んだ戯言を仲間と分かち合い、愚かにも絵に描いた餅をみて「本性を観照した」などと公言してしまったのである。

要するに、感じとれるものであろうと超自然のものであろうと聖三者ご自身であろうと、それらの本性を真に観照するには、ただハリストスに啓示してもらうしかないのだ。もとはと言えばハリストスが、人類に観照の道を教示してくださったのである。ご自身の位格で人性を一新され、人類に原初の自由を差し戻された上で、人が生命の戒めを守って真実へ昇ってゆく道を敷いてくださったのである。

人間というのは、ちょうど生まれたばかりの赤子が胎膜を脱ぎ捨てるように、まず苦難を堪え、苦行を積んで慾深い古い人を脱ぎ捨ててはじめて、ついに夢想ではなく真の観照をできる本性になる。そのとき知性は属神的に生まれ変わり、聖神の平安のうちに洞察し、かの祖国(天国)を観照できるようになるのだ。

というわけで、たしかに受造物を観照するのは楽しいことではあるのだが、所詮、そういう観照は観えた気がしているだけで、寝ながら心地よい夢を見ているのと変わらない。むしろ啓かれてくる来世を観照しながら属神的に悦んでいるときこそ、それは観えた気がしているのではなく恩寵によって悦んでいるのだ。そう、使徒パウェルが語ったそれに近い悦びである。「神が彼を愛する者のために備えしことは、目いまだ見ず、耳いまだ聞かず、人の心にいまだ入らず。ただわれらには神おのれの神゜をもってこれを顕せり、けだし神゜は察せざるところなし、神の深きをも察するなり」コリンフ前 2 : 9~10と。そして、知性はそのような聖神による観照を積み重ねて、より高度なものを観照するようになる。というのも観照から観照へと導かれ、いずれ完全な愛の領域に入るからだ。なにせ心を清めて来世が見えるようになったとき、人は愛するようになるからである。愛の領域に入りしだい恩寵の作用を受け、属神的観照によって奥義を観る者となる。

知的観照の啓示に与るには、前述したように二通りの方法がある。熱い信仰ゆえに恩寵によって与ることもあれば、戒めを守って清くなったがゆえに与ることもある。恩寵によって与るというのは、現に使徒たちが戒めを実践して知性を浄めたというよりも、むしろ熱く信じたがゆえに観照の啓示に与ったことを指す。なぜなら素直にハリストスを信じ、一切疑うことなく熱い心で救主に従ったからである。使徒たちはハリストスが拝むべきご計画(受難と復活)を成しとげられたとき、ほんとうに撫恤者たる聖神が送られてきたのを悟った。そして知性がすっかり清められ、内面の慾深い古い人が死んで属神的な新しい人に生まれ変わったことを実感した。福なるパウェルもそのようにして神秘的に生まれ変わり、のちに啓示をうけて奥義を観照できるようになった。しかし、観照したいと望んでいたわけではない。たしかに恩寵も賜も受けとったわけだが、ひとえにダマスクへ派遣されたときに授かった恩寵に対して、生涯かけて応えようとしつづけただけであった。かの日、道端でアナニヤの口から「兄弟サウルよ、なんじの来る道に現れたる主イイススはわれを遣わせり。なんじが見るを得、かつ聖神に満てられんためなり」行実 9 : 17と告げられ(しかも主の声としてそれを聴いたのであった)、アナニヤから洗礼を受けるなり聖神に満てられ、秘められた奥義が啓かれてゆくのを感じたのであった。なぜなら聖使徒らがイイススから告げられていたとおりの事が起こったからである。「われなお多くなんじらに言うべきことあれども、なんじらいまるるあたわず。しかれども彼、すなわち真実の神゜来たらんとき、なんじらをおよその真実に導かん。(中略)かつ将来のことをなんじらに示さん」イオアン 16 : 12~13と。

たしかに福なるパウェル自身も、聖神を受けて生まれ変わるなり奥義の啓示を受け、その神゜による啓示を観照して楽しんだことは間違いない。まさに言いようのない声を聞いて本性を超えたものを観照し、天軍を観て喜び、属神的に楽しんだのではあるが、決してユーチテス派の異端が愚かにも主張するように、願望によってこのような上昇を成しとげたわけではない(知力ではどんなにあがいてもそこへ至ることなどできない)。

つまりパウェル自身も記しているように、啓示の聖神によって挙げられたわけであって、異端の連中のように浅はかな思い違いをしたわけではないのである。彼らときたら聖使徒に肩を並べられると自負し、夢のごとくえがいた想念を公言し、その想念を属神的観照と名づけて憚らなかった。こういう夢想にはまった異端者は多い。オリゲネス、ヴァレンティヌス、ディッサノフの息子、マルキオン、マニ(マネス)ら古代に悪影響を及ぼした異端の開祖をはじめ、使徒の時代から今日にいたるまであちこちに出没している。

こうした一部の汚れた連中が悪鬼に唆され、その夢想で福なる使徒の教えを汚そうとしているのを目の当たりにしたがゆえに、神聖なる使徒パウェルは異端者の自画自賛をこき下ろす任務を背負ったのである。謙遜と深い畏れをもって神聖な観照について描写する際に、あたかも他人がみた観照を記すかのようにこう叙述してみせた。「われハリストスにある一人いちにんを知る、この人は十四年前に、(肉体にありてか、知らず、肉体の外にありてか、知らず、神これを知る、)第三重の天に挙げられたり。(中略)楽園に挙げられて、いいがたき言葉、人の語るあたわざるものを聞きしを知る」コリンフ後 12 : 2, 4と。このように、挙げられたがゆえに挙げられたのだと断言し、あえて知力で観照しようとして第三重の天まで至ったのではないと主張した。たしかに「観照をみた、言葉を聞いた」と述べているが、どういう言葉を聞いてどういう像を観照したのかまでは書きようがなかった。というのは、知性が啓示の神゜をうけて実際にそれを観たときに、観たことをそぐわない場所で語ってもよいという許可を得なかったからである。たとい語ろうとしても語れなかったに違いない。なぜなら、身体的感覚で見たわけではないからだ。もし知性が身体的感覚でもって捉えた対象であったならば、ふたたび身体的感覚を用いて身体領域で説明することもできたであろう。しかし内面つまり属神的領域でじかに観照したり耳にしたり感じたりした対象は、身体に戻ってきたときに言葉にしようがなく、ただそれを観たことを思い起こせるだけなのである。思い起こすことはできても、ではいかにして観ていたのかと問われると、はっきり認識できないのである。

この点を判断基準にすれば、異端の開祖が「啓示」と銘打って書いた偽りの書が、悪鬼の夢想に汚れて書いた代物であることが暴かれる。異端者がみた「啓示」とは何であったか。勝手気儘に思い描いた物質的な住まいだとか、いかにも知力で天に昇っただとか、審判の日まで遠ざけられた場所だとか、天軍の隊形の多様性だとか、その戦いぶりについてである。これらはどれも自己陶酔して悪鬼と交わり、愚を極めた知ったかぶりに過ぎない。だからこそ福なるパウェルは、たった一言でもってあらゆる観照への扉を閉ざしたのである。つまり観照の奥で沈黙を守り、たといそれについて公言できたとしても、あえて口を割ろうとはしなかったのである。実際、口でもって身体的次元で説明しうる観照など、所詮どれもこれも霊的想念からくる夢想であって恩寵の働きではない、と断言したからである。

というわけで、克肖なる貴君よ。これらのことを心に留め、高邁に思える夢想を観察しないようにせよ。とくに鋭敏な知性に恵まれた修道士が空しい栄誉を求めたりすると、このような闘いに見舞われがちである。つい前代未聞の啓示などを渇望して、何事も人目に触れさせようとするからである。

そういえば、マルパという人がいた。エデッサの出身でユーチテス派という異端を捻出した男だが、異端を捻出した当時は高尚な生活を送り、労働と困苦の極みを耐えていた。なにせ通称サワという福イウリアンの弟子であったため、師と一緒にシナイ山やエジプトを短期間見学し、当時の偉大な師父や聖大アントニイを目にしたことがあったからである。しかも聖アントニイの口からたましいの清さと救いについて神秘的な言葉を聞きかじり、慾について眼識のある見解を耳にした。まさに戒めを守って古い慾を脱ぎ捨てれば、本性が原初の健康状態に立ち返り、清い心で聖神の奥義を観照し、恩寵によって無慾に与るという話である。

マルパはこれらの言葉を聞き終えるや、若気の至りで烈火のごとく奮い立って町へ帰り、見栄を張って隠遁の庵を選び、修行に打ちこんで貧窮と絶え間ない祈りに身を捧げた。そして身の丈を超えた偉業を求め、聖アントニイから聞きかじった高度な観照に与りたいと渇望するようになった。しかも真実に歯向かう敵との戦闘法を知らぬ身で、剛健な強者でさえやり込められてしまう敵の罠も嘘も奸計も見抜けぬまま、自分の努力・困苦・清廉・修行・自制だけに期待をよせてしまった。かてて加えて、敵襲時に必勝できる武器である自己卑下や打ち砕かれた心も持たぬ身で、「やるべきことを果たし、戒めを守り、苦難を耐えたとしても取るに足らない僕と思え」ルカ 17 : 10 参照)という聖句も忘れたまま、おのが修行を見てすっかり思い上がって自負心に燃えてしまったのである。かくなる状態で、ひらすら聞きかじった高度なことだけを熱望した。ゆえに時間が経つにつれて、へりくだる気がないことや、聞きかじった奥義だけを観照したがっているのを悪魔に見抜かれ、ある日、目の前にとてつもない光に包まれた悪魔が現れたのである。「おぬしを慰めるために、父から遣わされてきた者だ。修行してまで求めた観照に与れるようにしてあげよう。無慾を与え、これからはもう修行しなくても済むようにしてあげよう」という。「ただし、」と不幸にも引っ掛かってしまったアルパは要求された。「わたしを拝むことだ」と。すると頭がいかれてしまったこの痴呆者は、これが悪魔との闘いであることを察知できなかったため、即座に嬉々として彼を拝み、拝んだ瞬間、完全に支配権を取られてしまったのである。

敵は、神聖な観照を与える代わりに悪魔がかった夢想でアルパを満たした。ゆえにアルパは思い上がってしまい、真実のために尽くそうと励んでいた修行をやめてしまった。そして敵に無慾という空しい希望を持たされたまま、「もはや修行するまでもなかろう。慾や肉慾と闘って体を痛めつけて何になる」と欺かれて、ユーチテス派という異端の開祖に成り下がってしまったのである。そしてとうとう異端者が増えていかに汚らわしい偽教であるか判明したときに、当時の主教によって追放されたのである。

ほかにも、同じエデッセ町民であったアシナという人などは、現在でも歌われている属神的讃歌を書き上げた御仁だったのだが、のちのち高尚な生活を送るようになり、愚かにも苦行を極めて栄誉を得ようとした。すると、悪魔が近寄ってきた。「さあ、立ち上がってそこを出よ」と唆されるがまま僧房を出、ストリイという高い山のてっぺんに昇り、悪魔の口説く声を耳にしたのである。見ると、馬をつけた馬車の像が目の前にあるではないか。「そう、おぬしをイリヤのように天に挙げるために、神から遣わされてきたのだ」という。アシナは赤ん坊のような知性でその嘘を信じこみ、つい馬車に足を掛けた。その途端、これまで見ていた幻想がすっかり消え失せて、高い山の頂上から地上へ落ち、笑うにも泣くにも情けない死に方で亡くなったのである。

なにも、意味もなくこんな話をしているわけではない。むしろ悪鬼がいかに聖人の滅びを欲し、ひどい罠をこしらえていることか、その点を認識しておくことにより、時期尚早に高度な知的生活を望まないようにするためだ。でないと、凶悪な敵の笑い物になってしまう。というのも、現在でも慾にまみれた若造が恐れ気もなく無駄口を叩いて、無慾の奥義について教えを垂れたりしているからである。

慾にまみれた輩が人間の天使性を探究するのは、病人が健康について講釈を垂れているのと変わらない。これについては次のように述べた聖人がいる。

「あるところに、慾にまみれたまま戒めを軽んじている弟子たちがいた。しかも心の清い者しか得られない至福や神秘的観照まで渇望しているというため、使徒パウェルは次のように言った。「まずは慾にまみれた古い人を脱ぎ捨てよ。その上で、生まれ変わって新しい人を着、奥義を学んで造物主に近づかせてくださいと乞えコロサイ 3 : 9~10。いくら使徒たちが恩寵によって奥義を観たからといって、それを渇望してはいけない。なぜならば、神は『その欲するところの者を憐れみ、その欲するところの者を頑なに』されるからだロマ 9 : 18。御旨には従うしかあるまい。たしかに神からただで授かることもあるが、まずは清めるべく汗を流し、その後で賜をいただくことも多々ある。しかも清めきっても現世では与えられず、しかるべき場所(天国)に行った後で観照に与ることもあるのだ」と。

何も「観照」とまで言わずとも、同じようなことが「罪の赦し」においても生じているではないか。洗礼時にはただで罪を赦され、信仰以外には何も神に要求されないが、受洗後に罪を痛悔する時はただでは赦されず、とことん悲しんで苦労し、心を砕いて涙し、泣きつづけたあとで赦されるからである。強盗は十字架上でひとこと信仰告白しただけで赦され、天国に入るという約束を受けた。罪女も信仰をもって涙を流しただけで充分であった。いっぽう致命者や表信者は心からの信仰だけではなく、困苦・苛責・拷問・苦悶・死という死を甘受するよう求められたのである。

というわけで、聖なる兄よ。以上の話に合点がいき、そういう方向で生きようと心を決めたならば、事の一部始終を見渡して、まだ観照すべきでない身のうちは観照を求めたりするなかれ。むしろこの体をまとっているうちは必死に痛悔して慾と闘い、我慢強く戒めを守り、とにかく悪鬼の笑い物とならないよう注意せよ。また、この移ろいゆく慾深き世において「変わらぬ完全性がある」などと口説いてくる輩に気をつけよ。

そんな完全性は天使にさえ与えられていないのだ。天使らは、神父かみちちや聖神に仕える身でありながらも完全性を与えられておらず、むしろ人類の成聖によって一新し、「敗壊のより解かれて、神の諸子の光栄の自由に入らんこと」ロマ 8 : 19, 21を待ち望んでいるのである。そもそも太陽が昇っては雲間をおよいで沈むようなこの地上において、完全性など有り得ようか。だいたい雨が降ったり降らなかったり、人が喜んだり悲しんだりしているようなこの地上において、いかなる完全性が有り得ようか。この観点に異論をはさむ連中は思想上の狼だ、と言った師父がいるくらいだ。願わくは神が、われわれの生活を真の確信と聖なる教えによってどっしり固めてくださいますように。光栄と国と栄華はその神に帰す、いまもいつも世々に終わりなく。アミン。

 

第56訓話 神への愛について。世を断ち、神のうちに憩うことについて

神を愛するたましいは、ただ神のうちにのみ憩う。まずは外界とのあらゆる縁を切れ。そうすれば心が神とつながることができる。というのは、物質的なものを断たないことには神とつながることはできないからだ。どの赤子も卒乳してはじめてパンを口にできる。それと同じように、人はちょうど赤子が抱っこや母乳から離れるようにまず世から離れなければ神において成長できない。アダムだって土で形づくられたのちにたましいを吹き込まれた。それと同じように、人は身体的修行を積んだのちに霊的修行に入ることができる。身体的修行を積んでおかなければ霊的修行に入ることはできない。なぜなら麦の粒を蒔いてはじめて麦の穂がなるように、身体的修行を積んではじめて霊的修行が芽生えるからである。霊的修行に入れなければ、属神的賜物に与ることなどできない。

たとい真実のために苦しんだとしても、善のために苦難を耐えるのであればやがて比類なき楽しみが与えられる。涙を流して種をまけば喜びの穂を刈るように聖詠 125 : 5, 6 参照)、神のために苦痛に耐えるならば喜びが待っている。ちょうど農夫が汗を流して収穫したパンをおいしく感じるように、心はハリストスの知恵を得ると正義のために喜んで修行できるようになる。善意をもって非難や卑下に耐え、神の前で大胆さを得よ。相手に不正をしていないのに暴言を浴びてそれに賢く耐えているとき、茨の冠を被らされているようなものだ。しかも予期せぬうちに不朽の冠も被ることになるので幸いである。

思慮深く空しい栄誉を避ける者は、たましいのなかで来世を感じ取っている。世を捨てたと公言しておきながら欠乏時に他人と言い争ってまで自分を満たそうとする者は、何も見えていない。進んで全財産を捨てたはずなのに、たった一銭のためにしつこく闘っているようなものだからだ。現世にて安息を避ける者は、すでに知性で来世を見ている。でも物欲に縛られているならば慾の奴隷である。単に金銀を入手することが物欲だと思ってはならない。何であれどうしてもそれを欲しいと思うとき、それが物欲なのである。いくら体で苦行していても感覚のままに生きている者を敬うな。つまり何でも聞きたがったりしゃべりたがったり、あれもこれも見たがる者のことだ。慈善行為によって救いの道を歩もうと心に決めたのならば、たとえば「これだけは絶対に赦せない」とか言ってその赦せない口実を探したりするな。右手で作っていても左手で壊しては意味がない。慈善とは、心を痛めることだけではない。心を広く持つことも、慈善なのである。心得ておきたいのは、自分に罪を犯した相手を赦すことも正義の業であるということだ。自分に罪を犯した相手を赦すことができたとき、明鏡止水の心境になるだろう。ただしそういう心境になれるのは、ひとえに「理不尽だ」と言いたくなる公正感をしのいで、万事に対して「なるがままになれ」と懐を大きく持ったときに限られる。

ある聖人は、公正感について次のように言った。「あくまで公正でなければ、いくら喜捨をしても意味がない。つまりせっせと苦労して入手したものの中から他人にあげるべきで、偽ったり第三者から分捕ったりした品物で憐れんでも意味がない」と。さらに違う箇所でこうも述べた。「貧者に施すのであれば、自分の持ち物の中から施せ。万が一、他者の持ち物を拝借して施そうかと思いついたときには、それほど苦々しい毒麦もないことを心得よ」と。どれもおっしゃるとおりなのだが、そこをあえて言うならば、じつは公正感を踏み越えないうちは真に憐れんでいるとは言えないのである。つまり、人はただ自分の持ち物から施すときだけ憐れんでいるのではなく、理不尽な仕打ちを甘受して相手を赦すとき、真に憐れんでいるのである。憐れむあまり公正感を乗り越えるとき、お決まりどおり義人の冠を戴くというよりは、福音に生きた完徳者の冠を戴くことになる。というのは、「自分の持ち物から貧者に施せ。裸の者に着せよ。隣人を自分のごとく愛せ。侮るな、嘘をつくな」といった事柄は、しょせん旧約の掟にすぎないからだ。福音書は「およそなんじに求むる者には与え、なんじの物を取る者には、またこれを促すなかれ」と命じ、どうすれば完徳に至るか示しているルカ 6 : 30)。よって、物などを掠め取られても喜んで耐え、兄弟のためとあらば生命をも捨てること。これこそ慈悲深さなのだ。喜捨をして兄弟を憐れむ行為だけが慈悲深いわけではない。そのうえ兄弟の悲しむ姿を見聞きして心を痛めることも慈悲深い行為であり、かつ兄弟に殴られても不躾にやり返さないこと、やり返して相手を悲しませないことも慈悲深さなのである。

なるべく儆醒して、隣人を慰められる人になれ。黙修して読書し、心の目でつねに神の奇蹟を仰ぎ見よ。我慢強く貧困を愛し、思いをあちこち馳せずに集中せよ。快適すぎることを忌み嫌い、思考を穏やかに保て。内なる静寂を浪費しないために大人数と関わらず、ただたましいのことだけを慮れ。貞潔であることを愛し、神の前で祈るときに恥をかかずに済むようにせよ。できるだけ清く行動し、祈るなり明るく死を思って喜べるようにせよ。小さな罪を犯さないよう目を配り、大きな罪に陥らないようにせよ。だらだら修行するな。そんな風に生活していれば、友達と会った時に恥をかいてしまうだろう。友達と会った時、来世に持参できる徳がないと分かれば、ひとりだけ置いてけぼりにされてしまう。身の程をわきまえて修行し、めくらめっぽう修行しすぎて全部放棄する羽目に陥らないようにせよ。息あるうちに自由を得、慾の嵐から解放されよ。おのれの自由を快感につながるものに用いるな。奴隷らの奴隷にならないためだ。好んで貧しい服を身につけ、図に乗らないようにせよ。

派手なものを好む者は、謙遜の思いを抱くことができない。なぜなら人は身の振りにあった心境を持つものだからだ。

いかにして、べらべらしゃべりながら心を清められようか。また、一躍有名になるつもりでへりくだった想いを持てようか。また、身を持ち崩すほど我慢できないくせに心を清めて謙遜になれようか。人は快感を追い求めていると、ケダモノのように考えるようになる。しかし知的探求に邁進していれば、天使のように感じるようになる。

へりくだっていれば、辛抱強く自制できるようになる。だが見栄を張っていれば淫らになって開き直ってしまう。へりくだっていれば、たゆまぬ自制のおかげで観照するようになり、心を貞潔にする。だが見栄を張っていれば、いつもそわそわしているせいで目にするすべてから卑猥な宝を集めて心を汚す。そうやって良からぬ目線で自然の事物を眺め、妄想にふけってしまうのだ。しかし、へりくだっていれば属神的観照で自分を切り詰め、謙遜に達するなり讃美せずにいられなくなるだろう。

たとい奇跡を起こして世間を騒がせる者がいたとしても、知恵深い黙修者と比べるな。乞食を満腹にしたり多民族に布教したりすることよりも、無為な黙修の方を好め。奴隷らを隷属状態から解放することよりも、自分自身を罪の枷から解放する方がましだ。言い争う連中に教えを垂れて和解させることよりも、自分のたましいと和解して三重(つまり体、たましい、神゜)の思いを一つにまとめあげた方が良い。聖グリゴリイも「神のために神学を極めるのは良いことだ。だが、それよりも神のために自分自身を清めるほうが優れている」と述べた。たとい経験豊かな知恵者であろうとも、すらすら教えるよりは口ごもる方がましだ。死者を復活させることよりも、慾に死んだ自分のたましいを神聖な想念で復活させた方がましだ。

多くの者が奇跡を行なって死者を甦らせ、迷える人々を熱心に啓蒙して偉大な奇跡を成しとげた。そのおかげで神を知った人々も増えたのだが、なんとそうやって他者を生き返らせた後で、ひどく忌むべき慾に陥って自分自身をダメにし、背徳が暴かれるなり人々のつまずきの石となってしまった。なぜならば、まだたましいが病んでいるというのにたましいの健康を慮らず、この世の海に入って他人のたましいを癒そうとしたからである。しかし失敗し、へりくだって神に立ち直ろうとする気まで失ってしまった。まだ感じやすかったため、慾の炎に襲われたときに耐えうる力がなかったからである。本来ならば、まだ自分自身を守っているべきだったのだ。つまり一切女を目に入れず、楽な暮らしをせず、貴金属などの品物を手に入れず、人の上に立ったり指導したりしないようにすべきだったのである。

言い返さなければ無学な奴だと思われようが、不遜にも熱弁をふるって賢者と思われるよりはましである。へりくだるがゆえに不弁者であれ。あけすけに学識を見せつけるな。教えに歯向かってくる輩には、論理で畳みかけずに徳の力で説き伏せよ。反論してくる恥知らずには、温かい言葉で穏やかにさえぎって口をつぐませよ。だらしない輩には高尚な暮らしぶりで自制心がないことを気づかせ、無神経な連中の前では目を伏せて厚かましいことを感づかせよ。

生涯にわたってどこへ行こうと自分を旅人だと思え。そうすれば気心知れた仲から生じる害を防ぐことができる。どんなときにも自分は何ひとつ知らぬ者だと思え。そうすれば、他人の意見を変えようとしているのではないかという疑いからくる非難を避けられる。口を開くたびに祝福していれば、悪く言う人はいなくなる。悪口からは悪口が生まれ、祝福からは祝福が生まれるからだ。何事においても人様を教えられる分際ではないと自覚していれば、一生賢くあれるだろう。自分で身につけていない事柄を他人に教えるな。生きざまを見られたときに嘘がばれて赤っ恥をかかないためだ。有益な話をすることになったときには、不遜にも権威をもって語るのではなく、自分自身も学習中の身として語れ。そして冒頭から自分を責めて相手よりも至らぬ身であることを示し、つつましく礼儀正しく聴き手に対して向き合うことだ。そうすれば相手としてもこちらの話を最後まで聴いて実践しようという気になるし、敬意をもって聴き入れてもらえるだろう。もしそのような場面で涙まで流して話すことができれば、相手にも自分にも益をもたらして神の恩寵を受けるだろう。

神の恩寵を受けて属神的知恵の初期段階に至ったのであれば、つまり、神の裁定や目にみえる受造物の宿命を悟るようになったのであれば、身を引き締めて悪鬼の攻撃にやられないように武装せよ。そして、たちどころに放たれてくる矢や魅惑にやられて身を滅ぼしてしまわぬよう、その国にて丸腰のままぼうっと突っ立っていてはならない。涙と、絶え間ない斎こそ武器になる。異端の書は読まないようにせよ。誹謗してくる悪鬼の思うつぼだからだ。たらふく食べた後に神聖な概念や事物をあれこれ研究するのは不遜にも程がある。そんなことをすれば後悔してもしきれない。満腹の身では神の奥義を悟れないことをよくよく弁えておけ。なるべく腹を満たさないようにしながら師父の書を読んで神の摂理を学ぶことだ。師父の書を読めば、受造物や神の業がいかに調和しているか目の当たりにして知力が増し、その高雅な教えのおかげで明るく考えられるようになる。そして、清らかに神の受造物を理解できるようになる。全宇宙を知るために神から授かった福音書を読め。そうすれば何事にも神の摂理の力が働いていることを知って元気づき、神の奇蹟を思いめぐらすようになるだろう。かような読書は修道士の助けとなる。気を散らす物事のない静けさの中で読書せよ。そして体に関することや生活の雑用をすべて忘れよ。そうすれば書物の奥義を掴んで得も言えぬ甘美を味わい、その悦びのうちに読み続けられるだろう。使徒や師父の書き残した言葉を、聖書で儲ける連中の言いぐさや偽善者の放言と同列に捉えてはならない。そんなふうに捉えていたら死ぬまで闇に閉じ込められたまま聖書や師父の書から益を得られないだけでなく、霊的な戦闘時にも混乱し、問題ないと思いつつ穴に落ちてしまうからである。

何にせよ洞察しようと思い立ったときには、内部に入っていく兆候として次の現象があることを弁えておけ。恩寵のおかげで「本当にそれがそうあること」を見抜き始めたときには、いきなり涙が川のように流れ出して一度ならず頬をつたうだろう。すると感覚も鎮まって闘うまでもなくなるだろう。もしこれに反する教えを垂れる者がいたとしても信じるな。涙以外に目に見える兆候を探してはならない。ただし、知性がとうとう受造物を超越しきってしまったときには、涙も止まってどんな興奮も感触も感じなくなる。

「蜂蜜を見つけたら欲しいだけ食べるがよい。しかし食べ過ぎて吐き出すことにならぬように」箴言 25 : 16という戒めがある。たましいはもともと動きやすくて軽いため、感動しては本性を超えた高みに昇り、そこにあるものを知りたくなったりする。それに聖書を読んでいたり事物を見つめたりしているときに何かを悟ることも稀ではない。そして何かを悟った時、その悟ったことと自分自身を見比べて、属神的知恵の及ぶかぎり捉えたことに対して自分がいかに卑小な存在であることか気づく。すると畏れ多さのあまり震えおののき、かくも高尚な属神的事柄に触れてしまった身分を恥じ、もとの無能であった状態へ戻ろうとするのだ。そして属神的に受けた暗示を畏れて慎しくなり、冷徹に判断してたましいを黙らせる道を学ぶ。不遜にも自分を超えた事柄を探したり試したりするな、身を滅ぼすのが関の山だ、ということを学ぶのである。ゆえに、悟ることができたときには悟りなさい。ただし厚かましく奥義に触れてはならない。むしろ首を垂れ、黙ったまま讃美して神に感謝せよ。蜂蜜を食べすぎると良くないと言われているように、土足のまま聖書の奥義を研究してやれと身を乗り出す態度は良くない。そんなふうに手の届かない事柄を見抜こうとしたりすれば、道が険しいので目的地に近づく前に力尽きて、すっかり盲目になりかねないからである。

というのは、ときどき実在するものの代わりに幻想を見ることがあるではないか。そしてそういう事柄を知的探求しているうちに疲れきって落胆し、もともと目指していたものすら見失ってしまったりするではないか。だからこそ、ソロモンはいみじくも「侵略されて城壁の滅びた町。自分の霊を制しえない人」箴言 25 : 28とすっぱ抜いたのである。というわけで、人間たるもの、たましいを清めるに尽きる。与えられた本性以外のことまで思いめぐらしたりせず、思いも身のこなしも貞潔にしてへりくだり、もとからある本性を見出すことだ。なぜなら奥義というものは、へりくだることによって啓かれるからである。

祈りに没頭して知性を清めたいとか、儆醒して明るい理性を得たいと思うならば、世間を見ないようにして人々との会話を断つことだ。そして奥義を分かち合える同志以外には、いくらためになる気がしても友達を僧房に入れないという習慣を持て。とにかく内面の対話を乱さぬようにせよ。ふつう内面の対話は始めようとして始まるものではなく、むしろ外側の会話をすっかり断ち切って一人きりになったときに生じるものだからである。祈りに喜捨を加えれば、真実の光を見るだろう。というのも外側のことを心配しなくなればなるほど、思想を解釈して神聖な事柄を悟り、驚嘆することができるからである。なにせ少しでも努力をすれば、大抵はまたたく間に(人との対話を、神や神の言葉との対話に)交換できるからである。人との対話を神との対話に切り替えるには、聖書を読んだり聖人伝を読んだりして、ささやかに観照の道を見つけるとよい。もちろん最初のうちは物質の近くにいるせいでなかなか甘美を味わるものではないが、徐々に味わえるようになるだろう。

そのようにしていると、祈りや祈祷規程に向かった瞬間に世の中で見聞きしたことの代わりに聖書で読んだ事柄が思い出され、思いめぐらしているうちに世の中の記憶が薄れ、知性が浄められてゆくのである。「読書していると祈りやすくなる。そして祈ることで、よりよく書物を理解できる」と述べたのはこのことだ。つまり外側に振り回されやすい知性は、読書を糧とすることでいかなる祈りにも向かいやすくなり、たましいを照らしてつねに迷いなく熱心に祈れるようになるのである。

大食漢がふくれた腹を撫でながら属神的事柄の研究に乗り出すのは、まさに淫婦が貞潔について講釈を垂れるようなものだ。病みきった体では栄養たっぷりの食事を飲みこめないように、世の中のことでいっぱいになった頭では神聖なことなど究めようがない。薪だって湿ってしまえば火がつかないように、心もくつろぎたいと思っているうちは神聖な熱心に奮い立つことなどできない。淫婦が一人だけを愛しつづけられないのと同じように、たましいもいろいろな事物に執着しているうちは神の教えを守りきれない。太陽を目で見たことのない人が、聞きかじっただけで日光について描写したりその眩しさを感じたりすることができないのと同じように、たましいで属神的事柄の甘美を味わったことのない者は、属神的事柄について描写することも感じとることもできやしない。

日用の糧以上のものを持っているならば、思いきってそれを貧者に施してから潔く祈りを献じに行け。父と語らうようにして神と対話するためだ。喜捨よりも強く心を神に近づけられるものはない。しかもすすんで貧しくなることよりも豊かに、知性に静けさをもたらすものもない。素直なせいで無学な奴だと思われた方が、おもねってなかなかの賢人だと思われるよりもましだ。もし馬上の人が喜捨を求めて手を伸ばしてきたら背を向けるな。なぜならその瞬間、その人は間違いなく乞食と同じように困っているからだ。

喜捨するときには優しい表情で心あたたかく、ほしいと言われた分よりも多くあげよ。というのも「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見だすだろう」コヘレト 11 : 1と言われているからだ。その相手が富者なのか貧者なのか見分けず、はたして喜捨に値するかどうか等いちいち詮索しないことだ。どの人にも同じように情けをかけるがよい。というのも、そうすればこそ不届きな者も善の方へ引き寄せることができるし、そもそも身体的な事柄をとおして神の畏れを抱きやすいものが心というものだからである。現に主も、税吏や淫婦と共に食事をし、不届きな者を退けはしなかったではないか。そのおかげで多くの人が神に惹かれて畏れを抱き、身体的なことをとおして属神的なことへ心が向かったのである。したがって相手がイウデヤ人なのか浮気者なのか殺人犯なのか問うな。もともと同じ本性をもった兄弟なのに知恵が足りなくて真実から逸れてしまっただけではないか。とにかく万人にひとしく慈善をなして、一人一人を敬うことだ。

他人に善をなすときに報いを求めてはならない。神が二倍にして返してくれるだろう。そしてできれば来世で報われたいとか思わずに善をなせ。もし命がけで清貧に徹するぞと決めたのであれば、しかも恩寵によって清貧になって世を超えて慮りから解かれたのであれば、清貧を愛しきることだ。そして喜捨するために何かを入手したいなどと思わないことだ。そうやって人から何かをもらって他の人に与えようと思いわずらい、たましいを乱してはならない。他人に何かを求めた以上は借りができてしまうだろう。そんなことをして自分の誇りを踏みにじるな。生きていく上での雑用を心配したせいで高貴な知性にある自由を失ってはらない。なぜなら清貧に徹するぞと決めたあなたの水準は、喜捨をするという水準よりも上だからだ。水準を下げてはいけない。どうか、借りをもたない人であれ。

慈善行為をするということは、幼児教育を受けるようなものだ。しかし黙修するということは、完徳の頂点にある。もし何か持っているのであれば、一挙にすべて使い切ってしまいなさい。もし何も持っていないのであれば、持ちたがってはならない。贅沢とか余計なものから僧房を浄めることだ。そうすればその気がなくても知らず知らずのうちに自制できるようになるだろう。物が足りなければ自制することを学ぶが、物が増えるままにしておけば自制できなくなってしまう。

黙修者たちは、外部との関係を断つことで安心を得たため、つねに落ち着いて感受したり表現したりできるようになった。いっぽう気の緩んだ者は、何を聴くにしても語るにしても、つねに外部とやり取りする際に感覚的に闘わざるを得ない。しかも外部と関わったときにうけた残像によって心眼が曇ってしまう。すると、隠れた部分で抗ってくる闘いを見抜くことができなくなり、内面に生じる動乱を鎮める平穏さを失くしてしまうのだ。しかし町の門さえ閉じることができれば、つまり感覚を閉ざすことさえできれば、内面の闘いだけに終始できるため、町の外でどんな敵が待ち伏せしていようが恐れるまでもなくなる。

右の点を弁えて、黙修に留まる者は幸いである。忙殺されることなく黙修に徹し、いかなる身体的活動もすべて祈りに献げる者は幸いだ。まさに「昼も夜も神の力を借りて慮りを神に預けていれば、必要最小限のことは事欠かないだろう」と信じきった者は幸いだ。ひたすら神のために、仕事に励むことから身を引いて覚醒しているからである。手仕事をしていないと黙修に留まれないのであれば働くがよい。ただし儲けたいとかあれこれ欲しくて働くのではなく、ひとえに黙修の手段として手仕事を活かすことだ。手仕事は、まだ至らない者のためにある。だがより完全に近づいた者にとっては、手仕事は困惑をもたらすことがある。そもそも師父は初心者や臆病者のことをおもんぱかって仕事せよと指示したが、仕事すべきだと教えたわけではない。

神に与えられて心に傷感の情が湧いたときは、ひたすら叩拝して跪いて祈れ。悪鬼に何か他のことをしろと口説かれても聞く耳を持つな。そうやってまっすぐ集中していれば何を見ることになるのか、とくと見届けて感嘆するがよい。修行においては昼夜両手を後ろに縛り、ハリストスの十字架の前に伏していることほど意味深く難しい業はない。これほど強く悪霊に嫉妬心を催させる業もない。熱意を失わず涙が涸れないようにしたければ、右の業に励むことだ。もし昼夜この業だけに励んでそれ以外のことを一切求めずにいられれば、それほど幸福な人間もいないだろう。ほどなく内面に光が輝いて、胸に秘めてきた正義が光り出すに違いない。そして満開の花園のごとく、水の涸れることない泉のごとくなることだろう。

かくして、修行をするといかなる恵みが与えられるか分かっただろうか。人が跪いて両手を天に挙げ、ハリストスの十字架を見上げながら思いを集中し、涙を流して傷感のうちに神に祈っているとどうなるか。まさに次のような現象が起こる。ふいに泉が湧き出たように心地良くなり、体の力が抜けて瞼を閉じ、顔を地面につけて今までとは違うように思いめぐらすようになるのだ。そして全身を貫く喜びのあまり叩拝することもできなくなる。人間よ、いま読んでいる事柄に注意せよ。というのも、修行をしなければこういう事柄は得られないからである。そしてたえず勢いよく熱心に扉を叩きつづけていなければ、聴き入れてもらえないからである。

このような話を聞いて、なおも外側の正義を求める人がいるだろうか。いるとしたら、それは黙修に留まれない者だけであろう。もっとも黙修できない者であろうとも(なぜなら人が僧房内に留まれるのは神の恩寵だから)、もう一つの道を捨てないようにしよう。もう一つの道を捨てたりしたら、生命に至る道を二つとも、つまり観照の道はおろか実践の道まで失ってしまうからだ。人は外面のすべてに対して、つまり罪だけではなく、あらゆる体の業に対して死ななければ、聖神の甘美を感じることはない。おなじく内面にうごめく邪念を撲滅しなければ、つまり心が罪を甘く感じなくなるほど体の本能的動きを弱めきることができなければ、死ぬまでに清さを得ることはない。死ぬまでに清さを得られなければ、とうぜんたましいは神聖な考えを受けることも、感じることも、見ることもできないままになってしまう。要するに暮らしに関する必要最小限のこと以外の心配事をことごとく捨て、そういう慮りをすべて神の采配に委ねきらないかぎり、属神的陶酔が起こることも、使徒が味わったあの慰めを味わうこともできない、ということなのであるガラティヤ 2 : 20, コリンフ後 12 : 3~4 参照)

とは言ってみたものの、まさか完徳の頂点に至らない者は神の恩寵にも慰めにも与れない、などと言おうとしたわけではない。現に罪をかなぐり捨て、罪から遠く離れて善に向かった途端、ほどなく助けられたという感じがするではないか。その感じに努力を加えることができれば霊的慰安を得、罪が赦されて恩寵に与って恵みもたくさん得られるではないか。ただしそういう恵みは所詮、世を離れて来世の福の奥義を観た者の恵みとは比べようがないということ、ハリストスが求めた心境に達した者の恵みとは比べようがないということを言いたかっただけである。光栄はそのハリストスと父と聖神に帰す。いまもいつも世々に、アミン。

 

第57訓話 世を離れ、知性を乱す万事から離れることについて

何ともありがたいことに、神から授かった道は2つある。そのいずれかを進めば、扉が開いて救いの知識に与ることができる。まさに自然界をみて造物主を知るという道と、聖書を読んで神を知るという道である。本当にその通りであることを確信したいだろうか。自分自身のうちに留まれ。そうすれば滅びることはない。もし自分の外にあるものでこの事実を確信したければ、いくらでもまっすぐ真実へ導いてくれる教師や証人がいる。

頭の中をかき乱していれば忘れっぽくなる。そのような状態で叡智の扉を開くことなどできない。やがておとずれる死が、いかに避けがたい共通の現実であるか悟れば、世から離れようと決意するときに死以外の教師はいらない。人はもともと神から受造物を観察せよという法則を授かっている。文章による法則を授かったのは陥罪後のことにすぎない。

すすんで慾の原因となるものから離れなければ、ついつい罪にのまれてしまう。酒や女、富や健康などが慾の原因だ。しかしそれら自体が罪なのではなく、単に人は生まれつきそれらによって罪深い慾に傾きやすいという意味である。だから人間たるもの、慾の原因をなすものには十分気をつけるべし。いつも弱さを自覚していれば、ゆずれない一線を越えることはないだろう。世間は貧困を厭うが、神は思い上がりや高慢なたましいを厭う。人はだれしも財力に一目置くが、神は謙遜なたましいを重視する。

善なる修行を始めようと思い立ったら、あらかじめ試練が襲ってくるのに備え、真実を疑わないことだ。というのは人が熱い信仰をもって良い生活を始めるや、敵は次々に太刀打ちできそうにない試練をこしらえて脅しをかけ、その善意をつぶして神を喜ばす行いを諦めさせようと仕向けてくるからである。その権限があるからそう仕向けてくるわけではなく(もし権限があるとしたら誰一人として何の善行もできやしないだろう)、ひとえに神が敵にそれを許されるからだ。まさに義人イオフに起こった史実のとおりである。よって、徳行ゆえに降りかかってくる試練を迎え撃つべく雄々しく身構えよ。しっかりと身構えた上で善行に取りかかることだ。試練を迎え撃つ心構えを持てないのであれば、徳の修行に向かうのは控えておけ。

善い方向性で修行していれば神が助けてくださる。この点を疑う者は自分の影すらも怖がり、あり余るほど満たされている状況下でも飢えに苦しみ、静かな環境下でも嵐に見舞われる。だが神を信頼している者は、心がしっかりしていて揺らがない。だれの目から見てもあきらかに立派であり、いかなる敵にもあっぱれと評される。

神の戒めは世界中の宝よりも優れている。人は神の戒めを守っていれば内面に神を見つける。いつも神を思って穏やかであれば、神に主導してもらえる。御旨を行いたいと渇望していれば道案内に天使が与えられる。罪を犯すまいと注意していれば危険な道もつまずかずに歩みつづけ、闇に覆われても目前と内面に光を見出す。罪を恐れていれば主に守られて歩み、転びかけたときにも主に憐れんでもらえる。自分の罪を微々たるものとみなすならば以前よりもひどい罪に陥り、七倍の罰を受けることになるだろう。

つつましく憐れみを施し、最後の審判のときに憐れんでもらえ。善い気質を損ねてしまったのならば、もう一度その気質を取り戻せ。もしや神に銀貨という借りを作ってしまっただろうか。銀貨の代わりに真珠を返せとは言われない。たとえば貞潔を失ったのであれば、淫行をつづけながら喜捨をしても意味がない。戒めを破った者は、身体の聖性を求められているからだ。暴利を貪っておいて斎で償おうとする奴があるか。犯した罪を他の手段で償おうとしてはならない。罪を犯したのならば、その行為を断ち切るか慈善を行うことで償うことができるだろう。犯した罪とは関係のない分野で闘ったところで何になる。聖エフレム〔正しくはアンティオケアの聖イサアク〕も、収穫時の暑さを凌ぐために冬着を着込む奴があるか、と問いただした。だれでも自分で蒔いたものを刈りとるのだ。そしてどんな疾患も、その疾患に効く薬で治すものである。もしかして嫉妬に駆られてしまっただろうか。だとしたら、なにゆえに睡魔と闘おうとする。まだ罪が小さく熟していないうちに撲滅せよ。大きくなって熟してからでは遅い。取るに足らない傷だと思えるうちに気を抜くな。なぜなら後々になってその傷が非人間的な君主となって立ちはだかり、打ちのめされて奴隷のごとく手足を縛られてしまうからだ。しかし慾が芽生えたときにすぐに抵抗しておけば、ほどなくその慾を支配できるようになる。

傷つけられてやり返せるのに、そこをあえてやり返さず喜んで耐えることができたとき、それは神を信じて癒された証拠である。ふりそそぐ非難にもへりくだって耐えつづければ完徳に達し、聖天使を驚嘆せしめるだろう。というのも、これほど高度で難しい徳行もないからだ。

試練を受けても変わらずにいられるようになるまでは、しっかり者になれたなどと自負するな。自分を過信することなく常に鍛えよ。正しい信仰を身につけて、敵を退治することだ。頭がいいとか、腕前があるぞとか思うな。神の許しによって、本能の弱さにやられてしまわないためだ。実際にやられれば、自分の弱さを悟ることになる。積み上げてきた知識を信用するな。敵に悪用されて罠に嵌ってしまわないとも限らない。話すときは柔和に語れ。そうすれば赤っ恥をかくことはない。優しい口調で話をすれば、だれもが友人になるだろう。いかなるときにも自分の行ないを自慢するな。後で恥をかかないためだ。自慢すると、その自慢した点が神の力で変えられてしまう。まさに自慢した点が貶められることによって、謙遜の道を学ぶようになるためである。だから、先を見通す神に万事を委ね、この人生で変わらないものがあるなどと過信しないことだ。

そのように心構えをしてから、つねに神に目を向けよ。なぜなら人間はみな神の摂理に守られているのにそれが見えず、ただ罪から身を清めていつも神を思う者、それも神のことしか眼中にない者にしか目にできないからである。なかんずく神のために大きな試練に立ち向かってゆくとき、神の摂理が啓けてくる。というのも試練に立ち向かうなり、まるで肉眼で見るように神の摂理を感じるからである。もちろん試練の規模や原因によって見える度合いは変わるし、それが見えるのは修行者が雄々しく奮起するためだ。ちょうどイアコフ、ナヴィンのイイスス、三人の少者、ペトルなどの聖人が、どことなく人のような姿で現れた天使を目にして、よりいっそう正義を貫いたのと同じである。いやはや、そんな異象は格別な摂理によって送られてくるものであり、かれらがそれを見るにふさわしい聖人だっただけだからだ、などと思うだろうか。ならば聖致命者を見よ。そしてその雄々しさを鑑とせよ。致命者はときに集団で、ときに一人きりで、場所を問わずハリストスのために修行しただけでなく、柔らかい体を拷問道具で痛めつけられても天からの力で堪え、本性では耐えがたい苦痛を耐え抜いたではないか。というのも天使が現れて、神のために受難や拷問を耐えるとどれほど神の摂理に守られるか、いかに勇ましくなって敵を見返してやれるか教えてくれたからである。なにせ聖人がそういう異象を目にして耐えれば耐えるほど、敵はイライラして狂暴になったからである。

世と縁を切った修行者や隠遁者のことも話しておくべきだろうか。そもそも隠遁者ときたら荒野を町に仕立て上げ、天使が住みこむ地区に変えたのである。なにせ一生のあいだ荒野を愛し、神を愛するがゆえに山や洞窟や渓谷に住んでいたため、その清い生活ゆえに天使が昼も夜も寄ってきて、同じ主宰に仕える者同士として時に共に闘いながら傍にいてくれたのである。なにせ地上のことを捨て、天上のことを愛して天使に似た者となったため、とうぜん聖天使も身を隠さずに隠遁者の要望を叶え、ときどき現れてはどう生きるべきか教えてくれたり、疑問を解いたりしてくれたのである。ときに聖人自身がどうすべきか天使に訊くこともあった。道を見失ったときに正道に戻してもらったり、誘惑に嵌ったときに助けてもらったりした。蛇や落石や矢や投石など、急な災難により生命の危険にさらされた瞬間に救い出してもらったこともあった。もろに敵に襲われた時は天使が見える姿で現れ、助けるために遣わされてきたと言って勇気づけ、大胆さと喜びを与えてくれたこともあった。また、聖人をとおして病人を癒したり、苦痛にあえぐ聖人自身を癒したりしてくれたこともあった。断食して弱りきった体に、手で触れたり言葉をかけたりして超自然の力を与えて力づけてくれたこともあった。ときに食べ物やパンや野菜や、お惣菜さえ持ってきてくれたこともあった。しかも息を引き取る日時や、どう永眠するかまで告げてもらった聖人もいた。いちいち事例を並べ立てずとも、聖天使がいかにわれわれを愛し、いかに義人のことを慮っているか自明の理であろう。天使は、兄が弟を思うようにわれわれのことを思ってくれているのである。こう述べたのも、「主はおよそこれを呼ぶ者、およそ真実をもってこれを呼ぶ者に近」いことを理解してほしかったからである聖詠 144 : 18。そして、心から神に献身して従っているとどれほど神に慮ってもらえるか、納得してほしかったからである。

神に慮ってもらっていると信じるならば、過ぎゆく物事や体の需要のことを心配したり懸念したりする必要はない。でも神に慮ってもらっていると信じられず、ゆえに神を無視して自力で自分に何が必要なのか心を砕いているとしたら、あなたほどかわいそうな人もいない。いったい何のために生きているのか。何のために生きていく気なのか。聖書には「なんじの重荷を主に負わしめよ、かれはなんじを助けん」聖詠 54 : 23とか、「突然襲う恐怖、神に逆らう者を見舞う破滅におびえてはならない」箴言 3 : 25と書いてなかっただろうか。

ひとたび神に献身しようと決心して献身しつづけるのならば、穏やかな心で人生を送ることになる。清貧でなければ想念の嵐から解放されず、黙修して五感を鎮めなければ穏やかに考えられない。試練に遭わずして属神的賢慮を得ることはできない。熱心に本を読まなければ微妙な想念を見分けられない。想念が落ち着いていなければ、知性は秘められた奥義に至ることはできない。信じて神に望みを掛けなければ、大胆に試練に立ち向かってゆくことなどできない。神のご加護をあからさまに体験しなければ、心から神を信頼しきることはできない。人生経験でそれなりにハリストスの受難を体験しなければ、ハリストスと交わることはできない。

神の人と称えられるべき人とは、慈悲深さのあまり必需品まで手放すほど自分を無にできる人のことだ。貧者を憐れむ者は神に守られるからである。そして神のために貧しくなる者は尽きることのない宝を見出す。

神は何も必要としていない。とはいえ、人が神のために神の像(隣人)を敬って助けるのをご覧になるなり喜ばれる。何かを手にしていて、だれかにそれを下さいと頼まれたら、心の中で「あとで困らないように取っておこう。この人に必要な物は、神様がどこからか取り寄せてくれるに違いない」と言ってはならない。それは悪人や神を知らぬ連中の台詞だ。善良な義人ならば、まんまと善行をする機会を見逃して第三者に栄誉を譲るようなことはしない。そりゃ乞食だって貧者だって神から恵んでもらえるだろう。主は誰一人として放っておかれないからだ。しかし、あなたは困った人を打ちやったことによって神に与えられた栄誉を受け損ない、恩寵を遠ざけてしまったのだ。よって、人に与えるときは喜んで、「助けるべき相手をお示しくださった神よ、光栄はなんじに帰す」と言え。もし手元に何も与えられる物がないときには、なおのこと喜んで「神よ、恩寵によって御名のために清貧になれたことに感謝いたします。主の戒めの道を行く者に付きまとう逆境を味わい、諸聖人と同じく病と清貧の道を歩むことができて光栄です」と言うことだ。

そして病に突っ伏したときには、「神に送られた試練を耐え忍び、生命を受け継ぐ者は幸いだ」と言いなさい。というのも病とは、たましいを健康にするために神から送られてくるものだからだ。次のように述べた聖人がいる。「主を喜ばそうともしなければ、修行もせずたましいを救おうともしない修道士がいる。そんな怠け者でも、否応なく徳を学んでいるようだ。しょっちゅう神から試練を送られてきては大変な目に遭い、暇を持て余して悪い方向に行かないようにされているからだ」と。ああ、だから怠け者は神によって試練に遭い、バカなことを考えずに試練を思うようにさせられているのか。神に愛されているからこそ、試練をとおして御旨を見抜き、身をもって学んでいるのか。だから神に泣きついたとしても、すぐに聞き入れてはもらえないのか。ついに疲れきり、ああ怠けて楽ばかりしていたからこんな目に遭ったのだと悟りきるまで、そのままにしておかれるのか。なにせ「お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない」イサイヤ 1 : 15と主は告げられたではないか。これは昔の人に向けた言葉であるとはいえ、およそ主の道から外れた者に向けて書き残された言葉でもあるのだ。

神は慈愛にあふれた方だというのに、なぜ試練のときに必死に叩いてお願いしても聞き入れてもらえないことがあるのだろうか。なぜわれわれの祈りが軽んじられてしまうのであろうか。これについては、わかりきったこととして預言者が次のように教えている。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちの間を隔て、お前たちの罪が、神の御顔を隠させ、お前たちの耳に傾けられるのを妨げているのだ」イサイヤ 59 : 1~2 参照)と。どんなときも神を思い起こしていなさい。そうすれば困ったときに、神もあなたのことを思い起こしてくださるだろう。

人の本性は慾を受け入れやすくなってしまったためこの世では誘惑が多く、悪はいつも身近にある。しかも悪は内面から湧き、足元から湧いてくる。それでも持ち場から離れるな。神が許してくださったとき、その悪から解放されるだろう。上瞼と下瞼が近いように、誘惑は人の近くにある。そして神がこのように賢く造られたのも、あなたのためを思ってのことであり、あなたがいつも神の門を叩き、不運を恐れて神を思うためであった。あなたが祈って神に近づき、いつも神を思って心が成聖されるようにするためであった。ゆえに、すがりついて祈っていれば聴き入れてもらえる。そして聴き入れてもらったとき、神の手で救われることを知り、神に造られて配慮されて守られている身を認識し、わがために二つも世を造ってくださったことを知るだろう。しばらくお世話になる教師たる現世と、まるで実家のように受け継ぐことになる永世の二つである。神は、あえてあなたが難なく進めるようには造らなかった。あなたが神になりたいと夢見て、神の右腕からサタナとなった高慢ちきと同じ運命を辿らないようにするためである。それに、まったく慾に惑わされずに済むようにも造らなかった。あなたを植物、ないし善行をしても褒賞を得られない動物にしないためである。動物は生まれつき霊知をもたず、無償で仕えるという家畜的特権をもつ。翻って人間は、この身に鋭い悪の刺があればこそ成長し、感謝したりへりくだったりすることができる。まさかこの点を理解できない者はいるまい。

つまり修徳に励んで悪を避けようとするか否かは、どう見てもわれわれ次第なのだ。そのどちらの方向性で生きるかによって、褒められるか恥をかくかも決まってくる。恥をかけば畏れるようになるし、褒められれば神に感謝して徳に邁進したくなる。それにしても神はなぜ誘惑という教育者をふんだんにこしらえたのだろうか。ひとえにあなたが誘惑をすり抜け、逆境を物ともしないくらい逞しくなり、恐れを知らぬ高みでいつも創造主を見て多神論に陥らないようにさせたかったからである。というのは、多くの連中があなたと同じく慾があって逆境に陥っている分際でありながらも、あるときこの世のつまらない富や権力や能弁のせいで思い上がって多神論に陥っただけでなく、自分自身まで神だと言ってのけたからである。かるがゆえに、神はあなたが逆境に留まることをよしとされたのだ。あなたが邪道に逸れて神を怒らせ、二度と神の御前に立てなくなるほど罰せられてしまわないようにするためであった。たとい多神論に陥らず自分を神だと言い切らなかったとしても、苦労もせず自由奔放に生きた日にはいかに非難囂々になることか言うまでもなかろう。ゆえに神は苦難や慾を与えることで、あなたが少しでも多く神のことを心にかけるようにし、敵にやられたくないという畏れから神の慈悲にすがって救われることで、神を愛するようにされたのである。そのように愛を根付かせた後、あなたを神の子となる栄誉へ近づけることで、いかに恩寵に富んでおられるか見せようとされたのである。というのも、もしもあなたが困るようなことが一つもなかったとしたら、これほど深い神の摂理をどのようにして知ることができただろうか。

というわけで、神をより深く愛したければ、まずは神の恩恵を知り、いかに隅々まで慮っていただいているか忘れないことだ。苦しめば苦しむほど愛せるようになるのは、ありがたみを知るためである。ゆえに神のことを思い起こせ。そうすればいつも神に思い起こしてもらって救ってもらい、あらゆる福楽を頂戴できるだろう。空しい物事に思いを馳せて神を忘れてしまうことのないように。そうすれば闘いのときに神に忘れ去られることはないだろう。あり余っているときに神に従え。そうすれば苦難のときに心から大胆に祈りつづけることができるだろう。

いつも心で神を思い起こしつつ、主の前で自分を清めよ。長らく神を忘れていたせいで、いざ神に近づこうとしたときに尻込みしないためだ。というのも、しきりと神と語らってたくさん祈っていればこそ、神の前で勇敢になれるからである。ふつう人と交流するときは体を用いるが、神と交流するときは思い起こしたり注意深く祈ったり献じたりして心で交わるからである。神のことを長らく思い起こしつづけることによって、たましいは徐々に属神的歓喜にいたって驚嘆するようになる。というのは「主を尋ぬる者の心は楽しむべし。(裁かれた者よ)、主を尋ねよ。主の力を尋ねて(希望を持ち、痛悔して)主のかんばせを尋ねよ」聖詠 104 : 3~4と言われているからだ。そして聖なる御顔の前で成聖されて罪を浄めるがよい。罪の咎を負う者よ、主に走りつけ。そうすれば罪が赦され、罪過を見逃してくださるだろう。というのは、主は預言者をとおして「わたしは生きている。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち返って生きることを喜ぶ」イエゼキエリ 33 : 11と誓われたからだ。また「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく手を差し伸べてきた」イサイヤ 65 : 2と告げられ、さらに「イズライリの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」イエゼキエリ 33 : 11と問われ、「立ち返れ、私に。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰る」マラキヤ 3 : 7と呼びかけられた。そして「悪人でも、悪から離れて主に立ち返り、正義と恵みの業を行うなら、それゆえに彼は生きる。彼のなした不法行為を思い起こすことはしない」イエゼキエリ 33 : 19 参照)と約束されたのである。

しかし、もし義人が義を捨てて罪を犯して悪をなすならば、主はその義人の行なってきた正義を思い起こさず、むしろその背信行為をかれの目の前に置き、悪行の闇に漬かったまま死ぬことになるだろう、と言われたイエゼキエリ 18 : 21~24 参照)。なぜそうなのか。なぜなら罪人は主に立ち返ったその日、罪過のせいで転ぶことはないからである。そして義人は罪を犯したその日、いかに今まで正義を行なってきたとしてもその罪に留まる以上は救われようがないからだ。神はイエレミヤに「巻物を取り、ヨシアの時代から今日に至るまで(犯してきたすべての悪を)残らず書き記しなさい」と告げられた。そのうえで「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聴いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」イエレミヤ 36 : 2~3 参照)と約束されたのである。知恵深いソロモン王も「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐みを受ける」箴言 28 : 13と述べた。イサイヤも「主を尋ね求めよ。尋ね求めて見出したら、呼び求めよ」と励まし、主を代弁して「罪人はその道を離れ、悪人はそのたくらみを捨てよ。わたしに立ち帰るならば、わたしは憐れむ。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる」イサイヤ 55 : 6~8 参照)と書き残した。さらに主は「お前たちが進んで従うなら、大地の実りを食べることができる」イサイヤ 1 : 19と促し、「わたしのもとに来るがよい。聞き従って、たましいに命を得よ」イサイヤ 55 : 3 参照)と命じられた。ならば、あなたが主の道を守って御旨を行っている以上、主に望みをかけて呼びかけよ。なにせ「あなたが叫べば『わたしはここにいる』と主は言われる」イサイヤ 58 : 9と約束されたのだから。

悪人は試練に遭ったとき、神を呼べば救い出してもらえるだろうという期待を持つことができない。なぜなら平穏に暮らしていた時期に御旨から離れてしまったからである。戦を始める前に、援軍を探しておけ。病にかかる前に、医師を探しておけ。逆境にぶち当たる前に、神に祈っておけ。そうすれば苦難のときに神に出会い、聴き入れてもらえるだろう。つまずく前に、呼んで祈りすがっておけ。戸惑うことになる前に、誓いを立てておけ。つまりあの世へ行くのに必要なものを用意しておくのだ。ノイ(ノア)は平和の日々に箱舟を造った。しかも箱舟に用いた木は百年前に植えたものであった。神の怒りが下ったとき悪人らは死に絶えたが、義人は用意していた箱舟によって救い出されたのである。

罪を犯しているうちは、祈ろうとしても祈れない。なぜなら良心が責めるので大胆になれないからだ。いっぽう良心が清ければ、祈りながら喜んで涙を流す。心から世に対して死んでいれば、喜んで侮辱を耐えられる。でも世に対して死んでいないと侮辱に耐えられず、虚栄心に突き上げられて怒ったり、その逆にがっかりして気持が萎えたりしてしまう。おお、侮辱を甘受するとはなんと実践しにくい徳であることか。しかし実践できればどれほど神に褒められる徳であることか。この徳を成しとげたいと思うならば、なるべく親族を離れて旅人になるべきだ。なぜなら生まれ育った土地でこの徳を身につけることは不可能だからである。ただ偉人や強者のみ、親族と暮らしながらこの苦しみに耐えることができる。また、心から世に対して死んだ者や、現世の慰めへの期待を捨てきった者も耐えることができる。

へりくだっていると恩寵を呼びよせるように、傲慢なままでいると痛々しい事件を呼びよせる。謙遜であれば主に目をかけてもらい、いつも憐れみを受けて喜ぶことができるが、不信仰で意地を張っていればひどい目に遭う。いかなる人の前でも、すべての点で自分を低めよ。そうすれば、この世の権力者よりも高められるだろう。人とすれ違ったときにはお辞儀して気持ちよく挨拶せよ。そうすれば、かつて贈り物としてオフィルの金を持参した人よりも尊ばれるだろう列王記上 22 : 48 参照)

自分をおとしめよ。そうすれば自分の中に神の光栄を見出すだろう。というのも、謙遜を培った場所には神の光栄が湧き出すからだ。もしあからさまに貶められたままでいようとするならば、神によって万人から褒め称えられるようになるだろう。心に謙遜があれば、そこに神の光栄が見えてくるだろう。偉業を成しとげた分野で、軽蔑されやすい人であれ。その逆に、何もできていない分野で、すごい人だと思われないようにせよ。人々に鼻であしらわれるように努めよ。そうすれば神の誉れを受けるだろう。内面に罪の疾患を抱えているというのに、尊敬されようとしてあくせくするな。栄誉を蔑視せよ、そうすれば人望を得るだろう。そして栄誉を好むな、そうすれば酷評を受けずに済むだろう。必死に栄誉を求めるならば、栄誉はどんどん逃げていく。だが栄誉から逃げるならば、後ろから栄誉が追いかけてきて、その謙遜ぶりを万人に広く知らせることになる。自分を意識せず尊敬されないようにしていれば、神があなたのことを宣伝される。もし真実のために非難の的となるのを耐えるならば、造物主は全受造物にあなたを誉めたたえよとお命じになり、その光栄の門を開いてあなたを輝かせて誉めちぎるだろう。なぜならば、あなたのうちに本当に神の像と肖があるからだ。

高徳な知恵者が健全に暮らして謙遜であるとき、人々に蔑まれていた試しがあろうか。あらゆる点で自らへりくだる者は幸いである。高められるからである。なにせ神のために万事においてへりくだって自分を小さくするならば、神から栄誉を授かるからだ。神のために飢え渇くならば、神の福楽で潤って満たされる。神のために裸である身を耐えるならば、朽ちない光栄の衣を掛けてもらえる。神のために貧しくなるならば、神の真の豊かさで慰められる。

神のために自分をおとしめよ。すると、知らず知らずのうちに誉められることが多くなるだろう。一生のあいだ罪人であることを自認せよ。そうすれば死ぬまで義人であれるだろう。知恵があっても無知のようであれ。逆に無知であるのに賢そうに見せるな。もし教養のない凡人が謙遜であるがゆえに敬われるとしたら、著名な偉人が謙遜であったらどれほどの誉れを受けることになろうか。

虚栄から逃げよ、そうすれば誉れを得るだろう。高慢を恐れよ、そうすれば誉めたたえられるだろう。人の子として生まれた以上は見栄を張るべきではなく、女から生まれた分際で思い上がってはならない。せっかく世俗にまつわることをすすんで捨てたのであれば、万事において他人と競うな。それに虚栄を厭うことにしたのであれば、自分をより良く見せようとしている連中から逃げよ。物欲自体を断つがごとく、物を集めたがる人との関係を断て。快楽自体を避けるように、快楽を好む者々を避けよ。下品なものを見ないようにするように、下品な輩を見るな。というのも、下品な行為を思い出すだけで心が濁るとしたら、その行為に仕えている人を眺めたり、そういう人たちと一緒に時を過ごしたりしたらどれほど心が濁ってしまうことか。むしろ義人に近づいて、義人をとおして神に近づくのだ。謙遜な者と交わって謙遜な品性を身につけよ。謙遜な者を眺めるだけで得られるものがあるとしたら、謙遜な者から教えを聴いた日にはどれほど役立つことか。

貧者を愛せ、貧者をとおして憐みを得るためだ。口やかましい連中には近づくな、でないとせっかく与えられた静寂を失ってしまう。病人や乞食から悪臭がしても顔を背けずに耐えよ、なにせ同じ体をまとった人間なのだ。不幸な目に遭った人を𠮟るな、あなたも同じ目に遭わないとも限らないし、もし𠮟ったりしたら同じ目に遭ったときに慰めてくれる人を見出せないであろう。身体障害者を貶めるな、みな地獄には等しい身分で落ちるのだ。罪人を愛せ、しかし罪状そのものは憎め。ダメな部分があるからといって罪人を軽蔑するな、同じ罪に誘惑されて堕落しないとも限らない。自分だって慾という性質をもって生まれたことを忘れず、万人に対して善をなせ。祈ってくれと要求してくる者を責めたりするな、ついでに優しい言葉をかけて慰めることも忘れずに。でないと、その人が滅びてたましいの代償を請求される羽目に陥るかもしれない。むしろ医者の業を真似よ。医者は炎症を冷えた薬で治し、冷えた症状を温かい薬で治しているだろう。

隣人に会ったときは、実際に敬うべき程度を超えて相手を敬え。その手足に接吻し、しばしば大いに称えながら抱きしめ、目を見て相手にはない部分まで褒めよ。そして別れた後にはその人がいかに素晴らしい人であるか良い点ばかり語れ。というのも、そんなふうにしていれば、その人も善い方向に向かいたくなり、身にあまる光栄に恥を覚え、これからは徳に励んでいこうと思えるからである。そうしているうちに優しい雰囲気を帯び、深い謙遜を身につけて大きなことでも難なく成功するだろう。しかも褒めた相手が何かダメな点を持っていたとしても、相手は褒められたことで恥を知ってすんなり癒される。いつも誰にでも愛想よく敬意を払う人であれ。たとい信仰が違ったり足りなかったりしても怒らず、素行が悪くても嫌うな。むしろ相手がどんな人であろうと非難したり暴いたりしないように気をつけよ。われわれを公平に裁かれるお方は天におられる神だからだ。道を踏み外した人を真実へ導きたいと思ったら、その人のことを悲しみ、涙を流しながら愛をもって一言か二言ほど語りかけることだ。決して腹を立てて敵意の兆しが見えてしまうようではいけない。というのは、愛は怒ることができず、人に対してイライラしたり激しく非難したりできないはずだからである。主イイススにおける清き良心をもってへりくだっていれば、どのように隣人を愛すべきか分かる。国と光栄は父と子と聖神に帰す、今もいつも世々に。アミン。

 

第58訓話 心が慾に傾くのは、それが人の心に役立つと神に判断されて許容されたからである。また、修行の営みについて

人は何かしら罪深いものに躓くことで弱さを知る。慾に悩むことで得られるものが多いから、神にそう造られたのである。復活するまでは慾を超越しないほうが良い、というのが神のご聖断であった。慾に釣られるなり良心の呵責を感じるが、慾に溺れるのは厚顔無恥だ。理性的に神に近づく道は三つある。熱い信仰心か、畏怖心か、主による懲らしめである。そしてこのうちどれか一つでも通らなければ、だれも神の愛には近づけない。

腹を満たせば一気に想念が乱れるのと同じように、しゃべりすぎたり猥談をしたりすれば理性が弱まって悶々となる。生活を心配しているとそわそわし、やがて冷静に物事を考えられなくなってしまう。

修道士は天の営みに献身すると決めた以上、いかなる時にも生活について慮らず、自分自身に沈潜して現世のものを一切思わないようすることが望ましい。というのも、そういった事柄からことごとく解放されてはじめて、昼も夜も気を散らすことなく主の法を学べるからだ。いくら体を酷使して働いたとしても、知性を清めなければ不妊の胎や干からびた乳房のように意味をなさない。なぜなら神の知恵に近づくことができないからだ。ただ体を疲れさせているだけで、慾深い想念を絶やそうとしないので何も収穫できないのである。茨の中に種を蒔いても何も収穫できないのと同じように、怨念や所有欲で自分を卑しめるならば全く成長せず、必死に儆醒して修行したって寝床の上で嘆くことになるだけだ。これについては聖書も次のように証言している。「善行をしていても、戒めを守らずに私(神)のもとで正義と真実を探し、私に近づきたいと願う者は言う。『なぜあなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか』と。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし、お前たちのために労する人々を追い使う」イサイヤ 58 : 2~3と。これを言い換えれば次のようになるだろう。つまり「お前たちは、悪意を全焼の生贄として偶像に捧げ、邪念を神々としたのだ。しかも生贄のうち最高級のもの、すなわち自由意志を、邪念という神々に捧げたのだ。本来であればその自由意志を、善行や清い良心をとおして私に献げるべきであったのに」と。

良い土地は百倍の実で農夫を喜ばす。同じようにたましいがいつも明るく神を思って昼夜まどろむことなく儆醒するならば、昼は主から送られてくる雲で陽射しを防ぎ、夜は火の光で照らされるだろう。そして闇に覆われたときでも輝く光を見出すだろう。

月光が雲に遮られるように、神の叡智は膨れた胃袋に追い出される。乾いた薪に火が燃え立つように、満腹の体に慾の炎が燃え上がる。可燃物を足せば火力が強まるように、いろいろな料理を口にすれば体の衝動が強まる。快楽志向の体に神の知恵は宿らないし、体を愛するならば神の恩寵に与ることはない。産婦が陣痛を乗り越えて世に生まれた生命を喜ぶように、人も斎の苦痛を乗り越えてこそ神の奥義を悟る。だが怠けて快楽にふけるならば恥じるべき過去しか残さない。主にしたがう苦行者は、まるで子が父に守られるようにハリストスに体を守られ、口元も守られる。賢く判断しながら積む修行ほど、大事な修行もない。

巡礼者とは、世を超えたことのみ考えるようになった者のことである。泣く者とは、来世の福にかけて死ぬ日まで飢え渇く者のことである。修道士とは、人里離れてひたすら来世の福を祈り求める者のことである。そして泣いて慰められ、心から信じて明るい喜びに溢れる。人を見比べず、だれをも憐れむ者こそ慈悲深い。肉体の交わりを持たなかった者だけが童貞なのではなく、一人でいるときに自分自身を恥じるくらいになってこそ童貞である。貞潔を愛するならば、読書してじっくり祈って妄想を追い払え。それが突き上げてくる本能に争う武器となる。この武器なくしてたましいを清めることはできない。憐れみ深くありたいと思うのなら、まず何を言われようと気にしないことを学び、要らぬことまで気にしすぎて気が重くならないようにせよ。

というのは、受けた侮辱を水に流そうとして忍耐する者こそ、申し分なく慈悲深いからである。身に覚えのない非難を喜んで耐えるとき、完全に謙遜であることが分かる。もしあなたが真に慈悲深いのであれば、無理やり所有物を奪われたときにも内面で悲しまず、こうむった損失のことを他人に話すな。渋いワインも大量の水で薄めれば飲めるように、心ない人から被った損失も慈悲でもって呑みこんでしまえ。福エリセイが自分を捕らえにきた敵に対して振舞ったように、侮辱してくる相手に恵みを施して慈悲深さを証せよ。というのも福エリセイは、祈って敵の目をくらますことによっていかなる力があるか見せつけたが、パンと水を与えて自由に去らせたことによっていかに慈悲深いか証明したからである列王記下 6 : 13~23

真にへりくだった者は、侮辱されても腹を立てない。侮辱された点について一言も弁明せず、中傷でさえ真実として受けいれ、これは中傷だと人々を説得しようともせずに許しを乞う。というのも実際にそんな身ではないのに、すすんで道楽者と呼ばれるようにした人もいるからだ。また、姦通とはほど遠い人間でありながら、姦通者と呼ばれるのに耐えた人もいる。そういう人は見事なほど清い身でありながら、したことのない罪まで犯したと涙ながらに証言し、やってない背徳行為を赦してほしいと侮辱してくる相手に乞うたのである。さらに、ひそかに飛びぬけた生活規定を遵守しているがゆえに祭り上げられないよう、佯狂者みたいに振舞った人もいる。だが実際には聖神に貫かれて毫も揺れず、静かに完徳の高みにいたため、それがいかに勇敢な生き方であるか聖天使によって宣べ伝えられたのだ。

あなたは自分が謙遜な者だと思うだろうか。しかし、ひたすら自責の念にかられていた人もいるというのに、あなたは他人に責められただけでその苦しみに耐えられず、自分が謙遜な者だと思いこんでいる。本当に自分が謙遜な者であるかどうか知りたければ、次の点で試してみるがよい。他人から侮辱を受けたときに、はたして困惑を覚えないだろうか。

救主は、父のもとには住まいがたくさんあると述べて、かの国に住む者の器の違いを示された。すなわち属神的才能の優劣と種別のことだ。人はそれらをとおして、理解力に見合った永遠の福を楽しむことになる。というのは「たくさんの住まい」と名付けて場所の違いを示されたのではなく、才能の度合いの違いを示されたからである。たとえば日光を取り上げてみよう。その見え方は、人の目の透み具合と視力によって異なる。屋内唯一の光源からうける明るさも、当人のいる場所によって異なる。それと同じように、来世でも義人は分け隔てなく全員同じ国に住むことになるのだが、同じ知の太陽に照らされていても、各人の器に応じて明るさは異なり、あじわう喜びや楽しみも品位によって異なるのである。つまり、同一の空間・場所・王座・異象・像を見ているようでありながらも、それぞれ喜んだり楽しんだりできる度合いは異なるのである。そして、だれ一人として友人の水準がどの程度であるか見ることはできず、自分より高い水準も低い水準も知ることはできない。友人の卓越した恩寵を見て自分の乏しさを感じてしまい、悲しむようなことがないようにするためである。そもそも悲しみも嘆きもないところに、そんな事態が生じるわけがあるまい。そんな地上じみたことが起こるのではなくて、むしろ一人一人が与えられた恩寵に応じて、おのれの水準で内面的に楽しむのである。しかし、だれもが観照している客観的対象そのものは一つであり、存在している場所も一つなのだ。そして次元としては、これら二つ以外に両者の仲立ちとなる次元は存在しない。すなわち高次元(天国)と低次元(地獄)である。ただし天国であろうと地獄であろうと、人が受けることになる報酬は多種多様なのである。

これが公平な話であるのなら(実際に公平な話であろう)、「地獄さえ免れることができれば十分なのです。苦労してまで天国に入る気はありません」という台詞ほど、素っ頓狂な台詞もあるまい。というのも、地獄を免れるということは、すなわち天国に入るということであり、同じく天国に入れないということは、すなわち地獄に入るということだからだ。聖書には、死後に入る国が三つもあるとは書いていない。ではどう教えているのだろうか。まず「人の子は、その光栄をもって(中略)来らんとき、(中略)羊をその右に、山羊をその左に置かん」マトフェイ 25 : 31, 33と書いてある。ここで主は、群衆を三通りに呼び分けたわけではない。たった二通りに呼び分け、その一方は右に、もう一方は左に置くと言われたのである。そして、それぞれ異なる住まいに分けて境界線を設け、「これらの者(つまり罪人)は永遠の苦しみにゆき、義人らは永遠の生命にゆかん、(そこでは)日のごとく輝かん」マトフェイ25 : 46同 13 : 43と告げられた。さらに他の箇所では「多くの者東より西より来たりて、(アウラアムらと共に)天国に席坐し、しこうして国の諸子は(あらゆる炎よりも恐ろしい)外の暗闇に追われん、かしこには泣きと歯噛みとあらん」マトフェイ 8 :11, 12ともおっしゃった。以上の引用から、天国の対にある状態とは、かの苦しみに満ちた地獄であるという事実が読み取れないだろうか。

思い迷う人々を真実の知へ導くべく、いかに神に愛されて日々摂理に導かれているか教えるのはすばらしいことだ。というのは、ハリストスや使徒がまさにそういう活動をされたわけなのだし、じつに布教とは高尚な活動である。でもそういう活動をしてしょっちゅう人々と交わり、現物を目にするなり良心が弱まると感じ、心がもやもやして良識を失うとしたらどうか。本来ならばまだ知性を守り、感覚を鎮める必要があるというのに、他人を治療しようとして自分自身の健康を損ない、やり遂げたいと思っていたこともできなくなって思いが乱れるとしたらどうか。そのような場合には、堅い食べ物は完徳に至った者しか食べられない、という使徒の比喩を思い出せエウレイ 5 : 14 参照)。そして、かの譬え話にあったように主から「医師よ、おのれを癒せ」ルカ 4 : 23と言われてしまう前に、もといた場所に戻れ。ひどい状態になるよりは、よほど自分を処断して健康を守り通した方がよい。そして教えを垂れる代わりに善き生き方を見せ、堂々と声を上げる代わりに行動をとおして教えよ。そしてとうとう霊的健康に至ったと確認できたとき、その健康をうまく用いて他人を癒すことだ。というのは、人様よりも治療を必要とする病身であるうちは、言葉で教えるよりも人々から離れて熱心に善行に励むことによって、より多く人々のためになることを成しとげられるからである。やはり「めしいにして、瞽を導かば、二人ながら穴に陥らん」マトフェイ 15 : 14なのだ。堅い食べ物は、感覚を思うように操れるようになった健康な者にふさわしい。健康な者であれば、どんな食べ物でも受け入れることができる。つまり感覚からくるどんな想念でも退治でき、完徳を身につけたことによって誰を見ても心に害を感じない。

そういう人が、淫らな記憶で悪魔に心を汚されそうになったときどうなるか。まず見栄を張りたくなるように仕向けられて忍耐力が試されるのだが、問題はこの前触れとしてやってくる想念が慾のようには見えないことだ。心を守ってすぐに下品な思いを受け入れないでいる人は、ふつうそうやって自尊心をくすぐられる。そしてタガが緩むと、見栄を張ろうとする想念と対話するよう悪魔に仕向けられ、その想念と対話し始めるや、何か淫らなことを思い出す対象を見せつけられて心が下品な妄想で汚れてしまう。最初のうち、そんな慾に急襲されたことに戸惑いを覚える。なにせしばらく清らかなことしか考えていなかったのに、一切思い出さなかった対象を思い浮かべてしまうからである。べつに思い浮かべて堕落しなかったとしても、以前の尊厳から落ちただけでも悪魔にとっては十分なのだ。しかるに、はっと我に返り、以後は前触れとしてやってくる見栄っ張りの想念を警戒するようにしていれば、それにつづく淫らな想念も生じようがないので、神の助けを借りてやすやすと慾を克服できるだろう。

慾は真っ向から闘うよりも、徳を思い出すことによって退けた方がよい。なぜなら慾が湧いて闘い始めたときには、心の中に像や肖が思い描かれるからだ。この闘いは抗いようがないくらい強いので、さんざん振り回されて迷いに迷う。ゆえに、もし右に書いたとおり徳を思い出すことによって処理できれば、慾を退治したあと記憶の片隅にも残らない。

人里離れて祈りつづけていれば、希望や畏怖心が強まるだろう。希望と畏怖心があれば、おのずと手仕事したくなるだろう。手仕事に加えて聖書や聖師父を学んでいれば、清さを守れるだろう。聖神を受け入れられるまでは、善い思いを根付かせるために聖なる書物を読むべきだ。そうやって絶えず読書していれば善への希求心が強まり、きわどい罪の方向に逸れないようたましいを守ってもらえるだろう。なぜならまだ聖神の力を身につけていない身の上では、きっぱり迷わずにいることはできないからだ。そもそも迷うがゆえに、救いに役立つ記憶が奪われ、どうでもよいことに知力をすり減らして冷めていってしまうのである。しかし霊力のうごめく心の奥に聖神の力が降ってくれば、聖書に書かれた律法の代わりに聖神の戒めが心に根づき、ひそかにその戒めを聖神から学ぶようになるため、五感でとらえる物質的な教科書を一切必要としなくなる。というのは、心が物質から学んでいるうちは、必ず学んだあとに迷ったり忘れたりしてしまうからである。しかし聖神からじかに教わるようになると、記憶も薄らぐことがないイオアン一 2 : 27 参照)

生きていれば善い想念が生じることもあるし、善意を持つこともある。もちろん悪い想念が生じることもあるし、悪意を持つこともある。つまり事の発端となる想念というものは、その善悪を問わず知性の中で生じる動きにして、風のように海面に触れて波を起こさせるものなのだ。いっぽう事がすすんだ段階、すなわち善意や悪意というものは、まさに支柱や土台だといえよう。ゆえに人は善きにつけ悪しきにつけ想念の動きではなく、まさに土台の強さに応じて報いを受けるのである。

たましいは、想念がふわふわ動いているせいで穏やかでいることができない。だから、もし心底に根差さない浮いた想念の一つ一つに報いるとなれば、一日に何千回も善に報いたり悪に報いたりしなければならなくなってしまうだろう。

つい最近悔改して慾の罠から逃れたばかりの分際で、祈祷時に地上の物質を飛び越えていこうとする知性は、羽のない雛のようなものだ。飛び越えられないどころか、飛びようがないので地上を這うしかない。いっぽう本を読んで修行し、あのような徳を見習おう、こういう徳は失わないようにしよう、と気をつけていれば、考えが一点に絞られる。そもそもそうする以外には何も知りようがない。ただし、しばらくそうやって妄想や邪念から解放されたとしても、やがて記憶がよみがえって惑わされて心が汚されてしまうだろう。なぜなら、かの穏やかな自由空間を感じたことがないからである。ひとえに長い年月をかけて地上のことを忘れていかないかぎり、かの自由空間まで知性を持っていくことはできない。というのも、まだ身体的な翼(つまり徳)をもって外面的事項をこなしただけで、観照的な徳を見たわけでもそれを感じたわけでもないからである。目に見えない観照的な徳を見るという感覚こそ、知性の翼である。人はその翼で天上のものに近づいて地上から離れるのだ。まだ感覚的なもので主に仕えているうちは、その感覚的なものの像が脳裏に焼き付いてしまうため、聖なる物事も身体的な像を伴って思い描いてしまう。しかし内奥にある何かを感じ出すなり、より深く感じれば感じるほど少しずつ現物の像を乗り越えて観るようになる。

聖書にも「主の目は(謙遜な者)を顧み、その耳はかれらの呼ぶを聴く」聖詠 33 : 16と書いてある。まさに謙遜な者が祈るとき、その祈りはじかに神の耳元で囁くようなものである。だから黙修中はへりくだって善いことをして「主よ、わが神よ」と呼べ。そうすれば、文字どおり「神はわが暗闇を照らす」聖詠 17 : 29となるだろう。

たましいが闇から抜け出られそうになったときには、次のような兆候がある。まさしく昼夜、心が火のように熱く燃えつづけるだろう。ゆえに全世界がゴミか灰のごとく陳腐に見えて、次々と新しい想念に捕らわれるのが心地良くて何も食べる気もしない。ふいに涙が滝のごとく流れ出し、泣こうとしていないのに何をしていても涙が出てきてしまう。書物を読んでいても、祈っていても、考えていても、飲み食いしていても泣けてくるのだ。まさにいかなる行為も涙に貫かれていることに気づくだろう。そしてそういう自分に気づいたとき、安心しても大丈夫だ。なぜなら海を渡り終えたからである。その後も、今まで自分を守ってきたように熱心に修行しつづけて、日に日に恩寵が増し加わるようにせよ。この状態に達していない者は、まだ道中におり、神の山にたどり着いていない。ただし恩寵の涙を得た後で涙が止まり、病気したわけでもないのに熱意が冷めた日には悲しむべきだ。おそらく自負に陥ったか、怠けたか、気を抜いたかして、何か大切なものをぶち壊してしまったのである。とはいえ人間が涙を流すようになった後でどうなるかということについては、他の章、つまり摂理について論じる章にて述べることにしよう。その章では、実際に涙の奥義に与った師父から聴いたことや、聖書に基づいて書くことにする。実践できていない徳について語ることはやめておけ。主の前では、どんな祈祷や犠牲よりも、主のために苦しんだり主のゆえに苦しんだりすることが貴いのだ。そしてどんなかぐわしい芳香よりも、苦労して流した汗の匂いのほうが貴いのだ。

体力を消耗せずに成しとげた徳は、どれも流産に等しいものと思え。義人は涙を神に献じ、儆醒しながらため息をつき、そのため息が犠牲となって神に受けいれられる。そして、思うようにならない身で苦しみながら主に呼びかけ、心痛を伴いながら神へ祈る。すると、その嘆願の声を聞いた天使が助けにきて励まし、希望をもたせて慰めてくれる。なぜなら聖人の受ける苦難や逆境を分かち合ってくれる存在だからである。

人は、善なる修行と謙遜によって地上における神のごとくなり、信仰と喜捨によって清まってゆく。酔いしれたら想念を支配できなくなるように、熱意をもったら傷心を同時に抱くことはできない。というのも、熱意をもった途端、涙を流して嘆けなくなるからである。ワインを飲めば楽しくなるように、熱意をもてば嬉しくなる。ワインは体を温めるが、神の言葉は知性を温める。人は熱意に燃えると、待望する事柄を思いめぐらして昇り、来世にむけて思いを整える。というのは、ワインを飲んだ者が事物を歪めて思い描くのと同じように、かの希望に陶酔して熱くなった者は苦しむことも忘れ、いかなる世俗的なことも目に入らなくなるからだ。そして右のような事柄は、ふつう長いこと浄化の修行を積んで徳の道をある程度進んだ後で与るものだが、素直な心で熱い希望を抱いた場合には、まだ道を歩み始めたばかりでも入魂の信仰によって十分に味わえることもある。なぜなら主はお望みになるままに行なわれるからである。

神を熱く愛するがゆえに素直な気持ちで、値踏みせずに腰の帯を締め、振り向かずに苦難の海へ入ってゆく者は幸いだ。じきに天国の港に着いて救われ、善行に励んだ者たちの住みかに憩い、乗り越えてきた艱難辛苦から一息ついて、まさに待ち望んだとおりになったことに喜びあふれることだろう。希望をもって苦難の道に踏み出してゆく者は、この苦難の道を研究すべく振り向いたり歩みを止めたりはしない。むしろ海を渡り切ってからこれまでの道の険しさを振り返り、歩んでいた当時は気づかなかった渓谷なり絶壁なり激流から救われてきた身を知って神に感謝する。いっぽう頭であれこれ考えて賢者と思われたがる人は、腰が引けてなかなか第一歩を踏み出せず、何かと準備にばかり追われ、こんな損やあんな危険を蒙りやしないかと思いめぐらしているうちに、大抵の場合は自分の家の玄関に毎日座ったまま一歩も動けないでいた自分にやがて気づくことになる。

怠け者は、この道を行けと派遣されても「外には獅子がいる。町に出ればわたしは殺される」箴言 22 : 13とか言う。ちょうど、かの偵察者が巨人の民と見比べて「我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたに違いない」民数記 13 : 34と言ったのとそっくりだ。こういう者たちこそ、人生最期の日にまだ道の途上にいたことが判明するのである。いつも賢くありたいと計算ばかりし、何事においても第一歩だけは決して踏み出さない。しかし無知な者はすんなりと泳ぎ始め、初心を熱く保ったまま泳ぎ続け、はたして体が持つかどうかとか、この苦労が結果として成功するかどうかなど一切心にかけることなく渡り終える。ゆえに、賢明すぎてつまずいたり、妙案の罠に捕らわれたりしないよう気をつけよ。むしろ神に期待を寄せて、血なまぐさい道に入っていく第一歩を潔く踏み出し、一向に神の知恵を持たないつまらない人間になるなかれ。

おっかなびっくりして「風向きを気にすれば種は蒔けない」コヘレト 11 : 4。だらけて恥の多い人生を送るよりは、神のために死んだ方がましだ。神に召された事柄に取り掛かろうと思ったときは、まずは現世でもうこれ以上生きられない人のごとく遺言でも残して、ちょうど往生際で死ぬ準備をして生きることを諦めた人のように心構えをせよ。そして本気でそう思い、修行して克己することを決めた身が、もっと生きたいという望みに邪魔されないようにせよ。なぜなら人はもっと生きたいと望むなり、弱気になるからである。というわけで、考えあぐねて信仰を失くすことがないように、知性の中に信仰の居場所を設けよ。そして、まだまだ闘うべき日々と、死後に裁かれて未知の来世が待っていることを忘れずに、油断して気を緩めるなかれ。そもそも現世における千年は、義人の授かる来世の一日にすら及ばない聖詠 89 : 5 参照)と言った賢者がいるではないか。勇気を出してあらゆる善行を手掛けよ、迷いながら手掛けてはならぬ。苦労を無駄にしたり修行しづらくなったりしないように、神に希望をおいて揺らぐな。むしろ憐み深い主から恩寵を賜ることを心から信じ、われわれが何をしたかではなく、どれだけ熱心に信じていたかによって報われることを忘れるな。というのも、主は「なんじの信ぜしごとくなんじに成るべし」マトフェイ 8 : 13)と言われたからである。

神にむかう修行は以下のとおりである。朝から晩まで頭を地に叩きつけるようにして伏拝し、これを奉神礼つまり時課経の代わりに行なう者がいる。また、いつも跪拝して祈りつづける者もいれば、奉神礼の代わりに涙をたくさん流して済ます者もいる。また、熟考することで祈祷規程の一部とする者もいれば、興奮を抑えるために奉神礼を挙げられなくなるほど断食する者もいる。また、熱心にたゆまず聖詠を学びつづける者もいれば、読書で時間を過ごして心を潤す者もいる。また、聖書や師父の書の聖なる意味を理解しようと熱中する者もいれば、祈祷文の驚くべき意味に感動して奉神礼を続けられず、思いつめて口をつぐんでしまう者もいる。逆に、これらすべてを味わい尽くした後で、以前の状態に戻って無能となった者もいる。または、ちょっとした何かを味わって鼻にかけ、迷妄に陥った者もいる。あるいは、祈祷規程を守りたくても重病や疲労困憊で守れなかったり、何らかの習慣や願望に負けて守れなかったり、支配欲や見栄や所有欲や収集癖のせいで守れなかったりした者もいる。にもかかわらず、つまずいて転んでも起き上がり、高価な真珠を得られるまで振り返らずに邁進した者もいる。かるがゆえに、いつも喜びながらひたすら神にむかう一歩を踏み出すべきなのだ。そして無欲で心揺らがなければ、神ご自身に助けてられて高みへ導いてもらえるだろう。ゆくゆくは御旨のままに賢明になり、驚きつつ完徳に至ることだろう。光栄と国は神に帰す、今もいつも世々に。アミン。

 

第59訓話 修道士の生き方、その要略と種類について。徳はいかにして生じ、どんな徳を生むかという点について

修行に打ちこめば、これまでになかった熱い思いが燃え上がってくる。つまり、修行に打ちこむと心眼が澄んで直観するようになり、その霊的直観の深みから、いわゆる観照といわれるものの中から、上述した熱い想念がとめどなく湧いてくるのである。要するに、観照から熱意が生まれるというわけだ。この観照から湧いた熱意によって、涙が滝のごとく流れ出す。最初のうちは少しずつ、すなわち涙がふんだんに流れる日もあれば流れない日もあるという具合だが、この段階をさらに先へ進めば、涙が流れつづけるようになって思い煩うことがなくなる。そこから知性の清さに昇りつめ、その知性の清さで神の奥義を直観するようになる。なぜならば、清さとは闘い終えた平安の奥にあるものだからである。かくなる状態に達した後、預言者イエゼキイリのように啓示や休徴を観るようになる。精神的に神に近づくには、以上のような三段階を通るものである。これらすべての基本こそ、神の前で善をなそうとする意志であり、真の黙修による修行の数々である。すなわち、生活上の務めを断ちきれるだけ断ちきってはじめて可能となる修行の数々を指す。どういう修行形態を指すのかは言わずと知れたことだから、わざわざ説明するまでもなかろう。とはいえ書いておいても無益にはなるまいし、しかも個人的には読者にとって役立つとしか思えないので、ここで書いておくことを怠けるわけにもいくまい。

要するに、飢え、渇き、読書、なるべく覚醒した徹夜祷、日夜何度も行なうべき伏拝などである。最低限の数として一度に三十回伏拝し、尊貴なる十字架に伏拝して祈り終えるがよい。しかし力量によってはもっと多く伏拝する者もいる。冴えた頭で地に首を垂れ、強いることも想いめぐらすこともなく三時間ただ祈りつづけてもよい。そしてこの二つの修行形態を実践すれば、各人の資質に応じてこんなにも豊かに恩寵に与れることを悟るだろう。ほかにも、強いなくとも祈りつづられる方法があるのだが、これについてはあえて説明しないほうが良いと思う。どうも口でも筆でも描写すべきではないと思うのだ。読み手が読んでいる内容を理解できずに無意味な事が書いてあると思われては困るし、逆にもしこれを知っている読者だったとしたら、つい思い上がってこれらの法則を知らない人を見下げたりしないようにするためである。もしそんなことになったら責任を免れないし、逆に読者が内容を理解できなければ笑い種になるだけだからだ。そしてそのような事態を招いたりした日には、使徒が「預言する人」について述べたように、私自身も似たような話をして異国人のごとくなってしまうだろうコリンフ前 14 : 11。というわけで、本件について会得したいと思う人は、上記の道を歩み、手順に則って心の祈りに励むとよい。そして実際に心の祈りを始めれば、おのずと本件に関する知識を得、そのときすでに教師を必要とするまでもないだろう。というのも「像房に居座れ。そうすれば、それだけで万事を学ぶことができるだろう」と言われているからだ。光栄はわれらの神に世々に帰す。アミン。

 

第60訓話 世を超えて狭き道を歩む者が、悪魔と闘うときにぶつかる敵の戦法の数々について

大昔からわれわれの敵である悪魔は、この修行に入る者がどう武装しているかを見て、いかようにも身をかわしてきた。修行者の思惑にあわせて戦法を変えてきたのである。修行者が気弱で妄想家であれば、すぐに目をつけて初っ端から強襲し、次々と抗いがたい誘惑を見せつける。すると人はどれだけ悪魔が手練手管に長けているか思い知らされて尻込みし、こんな険しい難路は歩みようがないと思って「道の始めでさえこんなに大変なら、この先もすべて困難をくぐり抜けて終点まで辿りつける者などいようか」と疑い出す。するとその瞬間から、もはや二度と立ち上がることも前進することもできず、この道に対しておぞましいと思うことしかできない。しかも悪魔にこのひどい闘いを少しずつ強められて、逃げ出すしかなくなってしまうのだ。より正確に言えば、神ご自身が悪魔に圧勝するのを許され、そういう輩には何ひとつ助けようとされないのである。なぜなら冷めた猜疑心で主の修行に入ろうとしたからである。というのも、神は「主に課せられた務めをおろそかにする者、流血を避ける者は呪われよ」イエレミヤ 48 : 10と告げており、その逆に、主の「救いは彼を畏るる者に近し」聖詠 84 : 10と言われているからだ。なにせ、われわれは恐れず諦めず悪魔との闘いに入れと命じられているではないか。主は「せめて敵を退治しようとせよ。そして戦闘に立ち向かい、雄々しく闘うのだ。どの敵の心にも、あなたたちに対する脅威とおののきを起こさせる」申命記 11 : 25 参照)と言われたからだ。そもそもすすんで神の善のために身体的に死のうとしなければ、期せずして神のために属神的に死ぬことになってしまうだろう。したがって、かくなる運命に置かれた身である以上は、ためらわず神のためにすすんで過ぎ去る苦難を受けいれ、神の光栄に入ろうとすべきだ。というのは、もし主の修行において身体的に死ぬことができれば、主ご自身に冠を被せてもらい、その亡骸は尊貴なる致命者の誉れを賜わるからである。だからこそ、先述したように最初の一歩から優柔不断で死を決意できない怠け者は、その瞬間からどんな闘いにおいても臆病で弱々しいことが敵にばれているのだ。より正確に言えば、そういう連中は追いこまれて降参するのを神に許容されるのである。なぜなら真に神を探したわけではなく、まあやってみたらどうなるのですかねえという見下した態度で神の業を片付けようとしたからである。だからこそ悪魔にすぐに見抜かれ、どういう想念を持っているのか試されて、とにかく自分の体がかわいくて利己的で小心者であることを暴かれてしまったのである。そして、嵐に襲われるようにして追放されてしまうのだ。なにせ聖人ならば帯びているはずの属神的な力が皆無だったからである。というのは、神は人がどれだけ神に向かおうとしているか、どれだけ神のための目的に邁進しようとしているかを見て、その人を助けたり支えたりしながら摂理を現すからである。もし人が熱心に励んでいて神も許容されなければ、悪魔とて人に近づいて誘惑で襲うことはできない。でも人が自惚れて思い上がって卑猥な想いをそのままにしていたり、あるいは疑い深くて二心のままでいたりしたが最後、悪魔は近寄ってきて誘惑に落としてもよかろうと主張する。

悪魔の第一戦法について

悪魔は、初心者・凡人・未経験者に関しては、神に誘惑させてくれと求めやしない。この点、聖人や偉人に対するのと同じである。なぜなら神がお許しにならないことを弁えているからだ(だいたい初心者が悪魔の誘惑に耐えられないことは神が一番ご存じである)。それでも、初心者らが上述した原因の一つでも持ち合わせたが最後、神の摂理の力が遠のいてしまう。これが第一の戦法である。

悪魔の第二戦法について

しかし雄々しい強者がいたとしよう。まさに死も厭わず熱意に燃えさかって修行に向かい、どんな試練や命の危険に出くわそうともビクともせず、地上の生活も身体も試練もことごとく軽視しているのを悪魔が見たとする。そういう時、悪魔はすぐに戦闘を仕掛けようとはしない。多くの場合、そういう者には姿を見せずに身を隠し、一歩譲り、さしずめ相手が熱意にふつふつと燃えている初期段階のうちは対立しようともしなければ戦おうともしない。なぜなら、いかなる戦闘も最初のうちほど激しいことを知っているからだ。それに修行者が熱意に燃えている以上、そういう闘士にはたやすく勝てないことを知っているからだ。もちろん修行者自体を恐れているわけではない。ひとえに修行者を取り巻いている神の力を恐れて控え目になっているのだけだ。ゆえに闘士が燃えているあいだは、指一本触れようともしない。ところが熱意が冷めたが最後、そうはいかない。修行者が思いの内に備えていた武器を捨てるのならば、つまり神のことを忘れたり神の言葉に背いたりするならば、それまで後押ししてもらっていた助力を失うことになる。たとえば当初の思いからやや逸れて怠けているときに、心に甘い誘惑が浮かんで打ち負かされる像を思い描いたり、だらだら妄想して霊的な墓穴を掘りながら自ら熱意を失ったりするのならば、悪魔の目がするどく光る。そもそも悪魔は襲わずにいるとき、好き好んで自制しているわけではないのだ。しょせん修行者のことなんぞ不憫にも思っていなければ恐れてもおらず、屁とも思ってはいない。

というよりも、むしろ人が熱意に燃えて神に向かっていると、目に見えない力に守られているのだと思う。なにせ赤子のような気持ちで修行に出て、迷わずに世を捨てて神を信頼し、いかなる相手と闘っているのか理解していないからだ。ゆえに神の計らいで悪魔の腹黒い手練手管から守られており、悪魔としても、その人を常に警護している守護天使を見て一歩も近づけないだけなのである。というのは、助力を呼びこむ武器、すなわち祈祷・労働・謙虚な思いさえ捨てなければ、守護天使が片時も離れず防壁となって人を守ってくれるからである。

さあ、よく読んで肝に銘じておきなさい。なぜなら快楽や安穏を愛するならば、誘惑に陥るのを神に許容されることがあるからだ。逆に、快楽や安穏に背を向けて自制しつづけていれば神に守られつづけ、敵に襲撃許可が下されることもない。たとい何かを悟るために襲撃許可が下されることがあっても、聖なる力が傍で支えてくれるので悪魔の誘惑も怖くない。なにせ聖なる力を実感しているので、士気が高まってどんな誘惑もあしらえるからである。じつは子供が大人から泳ぎを教わるのと同じように、この神聖な力から直接教わっているからである。沈みそうになった途端に水中から掬い上げてもらえるも、そもそも教師の手の上で泳いでいたからである。それに沈むのが怖いと思った矢先に「大丈夫、この手で支えているから」と励ましてもらえる。また、まるで幼児が母に歩き方を教わるのと同じように、距離を置いてこっちへおいでと招かれる。いざ歩いてもまだ足が弱くて震えたり転んだりしたときには、すぐに駆け寄ってきて抱きしめてもらえる。このように、人は神の恩寵に手とり足とり導いてもらっているのだ。ただし、きっぱり世を捨てて主を追いかけ、清い心で素直に造物主の手に自分を委ねていることが前提である。

ところであなたも神を追いかけているならば、言っておこう。修行中は初心忘るべからず。初めの一歩を踏み出した時の熱意を、まさに初めて出家してハリストスの闘士に加わった時の燃え立つような想いをくりかえし思い出すことだ。思い出して日々勇み立ち、当初心を満たしていた熱意が冷めてしまわないようにせよ。すなわち修行開始時に帯びていた「熱意」という武器を手放さないようにせよ。そして陣営内で絶えず声を上げ、味方側の諸子すなわち元来の思いに向かっては鼓舞激励し、敵側の想念には自分がいかに正気であるか見せよ。というわけで、もし初期段階でいきなり誘惑に遭って面食らっても怯むな。もしかしたら、その体験が後々ためになるのかもしれない。なぜならあなたを救うお方は、そこに何かの有益性を認めないかぎり、わけもなくあなたに接近することを誰にもお許しにならないからである。

かといって、初っ端から手を抜いてはいけない。修行開始と同時に手を抜くようでは、いざ前進したときにぶち当たる苦難、すなわち飢えたり病んだり悪夢に見舞われたりしたときに乗り越えられなくなってしまう。いくら敵も面食らうような強い守護天使を与えられるからといって、その御旨を悪用してはならぬ。むしろつねに神を呼び求め、お恵みに感涙し、自我を打ち砕いて精進しながら守護天使が送られてくるのを待つべきだ。というのも、ひとたび目の前で自分を救い出してくれるお方を見届けたが最後、もはや歯向かってくる敵に負けることはないからである。以上、敵の戦法を二つほど述べてみた。

悪魔の第三戦法、つまり雄々しい強者に対する作戦について

道理で悪魔としても、右の戦法で敵わなかった相手には歯が立たないわけだ。より正確に言えば、その人を助けている守護天使とは闘いようがないわけだ。ハリストスの闘士は守護天使に助けられて敵の力を上回り、天使から戦力も忍耐力も借り受けているため、粗末な物質的身体のくせに肉体なき属神的霊体を打ち負かすからである。ゆえに小賢しい悪魔は、人が神からこういう助力を受けているのを見るなり、つまり何を見せても聞かせても人が感覚にやられず、どんな甘味や快感を与えても想念がひるまないのを見るなり、何とかして此奴に余計な世話を焼いている守護天使を引き離す手段はなかろうかと探し始める。より正確に言うと、守護天使に助けるのをやめさせて人を孤立させるため、思い上がる想念を吹き込むのである。吹き込まれると、人は「いつも頑張っていたから勝ち抜いてこられたのだ」とか「これも努力の賜物」とか「しかし殺人も厭わない敵の姦計から、われながらよく身を守り抜いたものさ」などと思ってしまう。もちろん「たまたま敵に勝てただけかな」と思う時もある。「いや敵が弱かったから勝てただけさ」と思う時もある(これ以外の悪い想念については、思い出すだけでも背筋が凍るため伏せておく)。また、敵はときどき神の啓示に見せかけて人を迷妄の域に落とし入れ、眠っている最中に何かを見せたり、起きている最中に光の天使の姿をまとって現れたりする。とにかく少しでもよいから人に同意させて、そこから徐々に納得させて支配下に置けるようありとあらゆる手段を尽くすのだ。もし人が賢明にして想念をしっかり保っていれば、より正確に言えば、人がどなたに助けられているか忘れずに心眼を天に向け、悪魔の囁きに耳を貸さなければ、敵はさらに違う罠をこしらえるべく頭を捻る。

悪魔の第四戦法、つまり逆恨みの反撃について

かくして、悪魔にはもはや戦法が一つしか残されていないことになる。最後の手段は人間の本性に直結する。本性に直結する部分だからこそ、敵はこれさえ用いればうまく落とせると踏んでいる。いったいどんな策略か。まさに生理的欲求を目がけて襲うのだ。いくら修行者とはいえ、官能を刺激するものを見たりそれが近づいてきたりすれば知性が眩み、闘ってもすんなり負けてしまうことが多い。近づいてきただけでもふらっとするが、実際に目の前にしたらたまらない。なにせ凶悪な悪魔は幾千年もの経験に基づいてこの戦法の効果を知っているのだ。つまり質実剛健な修行者が次々とこの戦法にやられて堕ちたことを体験によって認識し、ずる賢く利用しているのだ。ただ相手が修行者だと黙修しきった生活のゆえに罪に落とすきっかけも機会もなく、実際に罪を犯させるところまで無理強いすることはできないのだが、そんな相手でも知性が夢想しやすくなるように仕向けることはできるし、その夢想において妄想を真実に見せかけることはできる。つまり修行者が思い描いた像を求めたくなるように快感を与え、下品な想念に留まりたくなるように唆し、そうこうしているうちにいずれ承諾させて、想念における罪を犯させて守護天使が離れていくように持っていくのである。なにしろ敵は、人の勝敗がほんの一瞬で決まることを知っている。邪念を起こすなり宝を失い、砦を失い、修行のすべてを失うことを知っている。せめて想念を定位置からずらし、かの高みから地上に落とせるだけでもいい。かつて聖人たちがしばしば女の美を思い描いて堕ちたのと同じように、ほんの一瞬だけでも承諾させることができれば十分なのだ。ゆえに修行者が一里か二里、ないし日中にたどり着く距離まで人里に近づいたりしたのを見たときには、しばしば実際に女と遭うことになるように東奔西走した。でも人里から離れて隠遁した黙修者をこの罠にかけることはできないため、そういう相手には夢想の中で美女を見せ、上品な出で立ちや魅惑的な姿を思い描かせたり、淫らな裸体を想像させたりした。このような敵の罠にかかって、行為として罪に落ちた修行者もいる。また、想念に気を配らなかったために夢想の中で辱められてすっかり絶望し、俗塵の中へ戻って天上の希望を失った修行者もいる。

一方そういう連中よりも強かった修行者たちは、恩寵に照らされて敵と敵が仕掛けた夢想の罠に打ち勝ち、肉体の快感を踏みにじって神の愛に上達していたことを証した。そんな修行者でも敵に夢想の中で金塊や高級品や金銀財宝を見せつけられたり、実際にそれを目にしたりするようなことも多かった。敵としては、あわよくば修行者がそのようなことをいろいろ思い描いているうちに、一人でも正道から逸らすことができ、仕掛けた罠に落とし込めるかもしれないと期待したのである。

しかし主よ、われらの弱さを熟知されているお方よ、どうかわれらをかくなる誘惑に導くなかれ。それは金剛堅固な修行者でさえ、やっとの思いで勝ち抜いたような強い誘惑なのだから。

そもそも悪魔にこういう闘いを仕掛けることが許されているのは、ひとえに聖人が神の愛を立証せんがためなのである。ほんとうにこういうものを何もかも失って、貧しく隠遁しながらも神を愛せるのかどうか、神の愛に留まれるのかどうか、真に神を愛せるのかどうかが試されているのだ。つまり女や財宝に近づいたときに、神への愛ゆえにそれらを無視して踏みにじれるのか、それとも誘惑されるがまま負けてしまうのかが試されているのである。そういう試練を受けながら、神だけでなく悪魔にも知られた人となる。なにせ悪魔は一人でも多く誘惑して人類全員のことを知りたいと思っており、かの義人イオフ(ヨブ)への誘惑を神に許可してもらえたように、できるかぎりたくさん許可してもらいたいと思っているのだ。そして神に少しでも許可されるなり、誘惑しようと堰を切ったように近づいてくるのだが、決してやりたい放題に仕掛けてくるわけではなく、誘惑を受ける相手の力量に応じて仕掛けてくる。相手が真に神を愛する堅実な人の場合には、そのように仕掛けて実力を問うわけだ。はたしてこういう一切合切を無視できるのか、何を目にしても神の愛と比べて無に等しいとみなせるのか、いつもへりくだることができるのか、そして神に光栄を帰して、いかなることも背中を押して勝たせてくれるお方を讃えることができるのか、つまり修行中に自分自身を神の手に委ねて「主よ、力強いお方よ、これは御身による苦行ですから、どうかわたしたちのために戦って勝ち抜いてください」と祈れるのかどうかが試されるのである。こう祈れたとき、坩堝における金のごとく磨き抜かれるのだ。

神を愛するふりをしている者の場合にも、同じような試練を受けて嘘が暴き出される。つまり敵にやられるままに咎を負い、ぼんやりしていたせいか傲慢なせいで神のもとから屑のように堕ちる。なぜなら聖人たちに宿っていた力を受けとることができなかったからである。われわれを助けてくださる御力が負けることはない。というのも、主は全能にしていかなる者よりも強く、修行者と共に闘いに赴く際には、死すべき体にて連戦連勝されるからだ。もし修行者が負けたとしたら、それは神なくして負けたことが火を見るよりも明らかである。つまり理不尽にもすすんで自分を神から切り離したのである。単に勝利に導いてくださる御力を得られなかっただけではない。かつて死闘で発揮してきた自力まで失った気がしたのである。どうして失った気がしたのだろうか。どうも堕落するほうが甘ったるく心地よく思えてしまい、こんなにしんどくては敵に立ち向かったところでとても勝ち抜けまいと思ったからである。かつてあれほど熱心に、同じ闘いを生まれもった意気込みですんなり克服できてきたはずなのに、もはやその決然とした力を自分のたましいに見出せなくなったのだ。

いっぽう最初から弱々しい怠け者は、右のような闘いやそれに似た類の闘いに尻込みするだけではない。むしろ木の葉のかすれる音を耳にしただけでも震え上がって怯え、ちょっと事欠いたり病んだり食糧難になったりしただけで負けてしまい、修行を拒んで元の道に戻る。しかるに真に熟練した修行者は、穀物や野菜を満腹するまで口にしないだけでなく、乾燥した草の根を食べて滋養とし、決められた時刻が来るまで何もつまんだりせず、疲れ果てた体でごつごつの地面にそのまま横たわる。体が疲労困憊しているせいで瞼もかろうじて開くかどうかの状態で、たとい食糧不足でたましいが体から抜け出そうになっても敵に勝利を譲らず、強い意志を捨てない。なぜならば、ひときわ神を愛する思いから、過ぎゆく人生と地上で得られるいかなる安息よりも克己を好み、徳のために苦労するほうを選ぶからである。そして試練に遭うなりいっそう胸が躍るのも、試練によって磨かれて完全な者となることを知っているからだ。いくらひどい目に遭おうともハリストスの愛に揺らぐことはない。むしろ息を引き取るその瞬間まで、雄々しく困難に耐えることを熱く願ってやまない。なぜなら困難を耐えることによって、完全な者となるからだ。光栄はわれらの神に世々に帰すべし。アミン。

 

第61訓話 心の中で神に近づいていくにはどうしたらよいか。まさに何を悟った時にひそかに助けられ、謙遜へ導いてもらえるのか

おのが弱さを知った人は幸いである。何事においてもおのが弱さを知ればこそ、しっかりした土台のうえで上達できるからである。自分はなんと弱いのかと気づくなり、その弱さを知らなかった鈍感さにはっとして用心深くなる。とはいえ、多少なりとも誘惑に陥ってうんざりしなければ、おのが弱さを感じとれる人はいない。神の許しによって誘惑に陥ってはじめて、おのが弱さと神の助力を見比べ、いかに神の力に大いに助けられているか悟るからである。また、なすべき手段が尽きた時にも、おのが弱さを悟るだろう。つまりこうすれば大丈夫だろうと思い、きちんと自制して心身を守っているのにおどおどし、何をしていても気が気でないとき、その心の恐れこそ、だれかしら守護者がいてくれないと生きていけないことを明示しているのだ。というのは、人は怖くて悶えているときに、心に何か足りないことを知るからである。しかも、ただ期待感を持ってみたところで一向に安心できない。なぜならよく言われているように、神の助力によってこそ救われるからである。しかるに、やはり神に助けてもらわなきゃ無理だと悟るなり、たくさん祈るようになる。そして祈れば祈るほど、心はへりくだってゆく。なにせ祈り求める身でありながらへりくだらずにいられる人はいないからだ。そのように「痛悔して謙遜なる心」を、神に軽んじられることはない聖詠 50 : 19。心は、へりくだらないかぎり否応なくふわふわ浮つくことになる。へりくだってこそ、他念なく集中できるようになるのだ。

へりくだるなり、憐みに包まれるだろう。憐みに包まれた瞬間、神に助けられたことを心で感じとるだろう。なぜなら心に得もいえぬ確信が湧いてくるのを実感するからである。現にこうして神に助けられているではないかと感じた途端、信仰心が溢れてくる。そのとき、次の点を悟るのだ。祈りこそ、心の寄る辺にして救いの泉であり、頼れる宝庫にして荒波を逃れうる港だということを。また、闇中の光にして弱者の支えであり、試練や病気で行き詰まった時に助けてくれる命綱だということを。また、闘士を守る盾にして敵を撃つ矢だということを。より簡潔にいえば、かくなる恩恵がどれもこれも祈りによって入手できることを悟るのだ。そして悟るなり、信じて祈ることが楽しくなる。心は信頼しきって明るくなり、いかに平凡な言葉で唱えていても以前のように訳わからずに祈ることはない。むしろ、すごく大事なことをしているかのように祈るようになり、喜びのあまり祈りのかたちも変わって感謝の賛歌と化す。だからこそ、万物に固有のかたちを与えたお方が「祈りとは、喜んで感謝を献げることだ」とおっしゃったのである。まさに神を見ながら献げる祈りを指して、つまり神から送られてくる祈りを指してそうおっしゃったのである。なぜなら、人はそう祈っているとき、この恩寵を感じる時までに祈っていたように苦労したり疲れたりしながら祈るのではなく、もはや心から喜んで驚嘆しつつ感謝の動きを発しつづけ、数えきれないほど跪いて祈り出すからである。啓けてくる世界と神の恩寵に驚くあまりふいに叫び、ひたすら神を讃えて感謝を献げ、驚嘆のうちに唇を動かすのである。

単にこういう事柄を夢見るだけでなく、実際にこのような状態に達した者ならば、つまり実践者としてこういう特徴の多くを体得し、長いこと自己鍛錬してこういう特長を知り得た者は、ここで私が何を言わんと欲しているのか理解できるだろう。真実に反したことは述べていないからだ。だから今後はもう空しいことを思いめぐらすのを止め、神の助力を失わないように神から一時も離れずに、畏れつつ祈りつづけることだ。

上記の事柄は、どれもこれもおのが弱さを悟ってはじめて生じてくる恵みである。というのは、神の助力を渇望すればこそ、つねに祈りながら神に近づいてゆけるからである。そして神に近づこうとすればするほど神の賜が降ってきて、その大いなる謙遜のゆえに恩寵を失うこともない。なぜならそういう人は、かの裁判官の前にいた寡婦のように、絶えず敵から守ってくれと叫んでいるからである。かるがゆえに、神は懐が大きいにもかかわらず、あえて恩寵の賜を出し惜しみするのである。出し惜しみすることで人が神に近づきたくなり、必要に迫られて神の前に留まりつづけ、そこで学べるようにするためである。ゆえに、神は救いに直結する祈願は即座に聞き入れてくださるのだが、そうでない祈願はすぐには叶えてくださらない。また、敵の力を弱めて救い出してくださることもあれば、あえて誘惑に陥ることを許容される場合もある。それもこれも上述したように、神に近づくきっかけとするためであり、人が誘惑と闘って学んで経験を積むためである。現に聖書にもこう書いてある。「主は多くの民(訳注。ここでは「誘惑」の意)をとどまらせた。彼らを滅ぼすこともしなければナヴィンの子イイススの手に渡すこともされなかった。なぜなら彼らをとおしてイズライリの子を教え、イズライリの子の世代に戦いを学ばせるためであった」士師記 3 : 1~2 参照)と。なにせいかに義人であろうとも、おのが弱さを知らぬうちは善行を積んだところで刃先のようにもろく、どうしても致命的な獅子に、すなわち傲慢の鬼にやられて堕ちやすいからである。それに、おのが弱さを知らなければへりくだりきれない。へりくだりきれなければ、完全な状態に至らない。完全な状態に至らなければ、いつも危険な状態にある。なぜならその人の造っている町(徳)は、鉄柱と銅門すなわち謙遜に支えられていないからである。つくづく自分は廃物だと思うときにへりくだるが、そうせずに謙遜を得られる人はいない。だからこそ邪道に逸れる病根(傲慢)がないかどうか、よく敵に狙われているわけだ。なにせ謙遜なくして何事も成し遂げたとは言えず、自由の身になったつもりでも聖神のしるしを受けていないからである。より正確に言えば、しょせんまだ奴隷の身分にすぎず、恐れを凌駕していない。なぜならば、だれしも謙遜なくして更生できず、誘惑に陥らずして悟ることはないからである。まだ悟っていないうちは、へりくだりきれない。

かくして主は、聖人が心からへりくだって痛悔して熱心に祈るための原因を残し、神を愛する者が謙遜をとおして神に近づけるようにしているのだ。ゆえに聖人は、本能の慾に襲われたり下品で汚れた思いにやられたりして脅されることも珍しくないし、人々に叱られたり侮れたり殴られたりすることも多々ある。もちろん体の病や疾患で悩まされることもあれば、貧しさや必要な物資に窮して困ることもある。かと思うと、強烈な恐怖に苛まれたり、悪魔がいつもあからさまに脅してくる孤独との闘いに陥ったり、次から次へと身の毛のよだつ事件に遭遇することもある。そしてこれらすべてがへりくだるきっかけとなるために与えられ、その与えられた疾患や来世の恐怖のおかげで修行者が怠けて眠りこけないようにしてくれているのである。したがって誘惑とは、人々に役立つものであって欠かせないものなのだ。さりとて、すすんで下品なことをだらだら思いめぐらせと言っているのではない。もちろん下品なことを思い出して謙遜の動機とし、ぜひ他の誘惑にも陥ってみるべきだとかいう意味で言っているのでもない。そうではなくて、いつも善行を積みながら覚醒して自分のたましいを守りつつ、受造物ゆえに変化しやすい身分であることを忘れるなという意味で言っているのだ。というのも、受造物である以上は神のご加護を必要としているからである。そして他者に対して守ってくれと求める者は、そう求めることによっておのずと無力であることを証しているからである。だからこそ、おのが弱さを自覚した以上は、与えてくださるお方から必要なものを受けとれるよう、否応なくへりくだらなければならないのだ。だいたい初っ端からおのが弱さをきちんと自覚していたのであれば、決して怠けなかったはずだ。そして怠けなかったのであれば、眠気に陥らなかったはずであり、あえて敵に侮辱されてから目覚めるという段取りを取る必要もなかったはずなのだ。

というわけで、神の道を歩む者は、この身に起きるすべてを神に感謝しなければならぬ。そしておのがたましいを厳しく責めて、こういうことが起きるのを神の摂理に許容されてしまったのは、ひとえにわが怠惰のせいに他ならず、まさに神が知性を目覚めさせようとしてくれたことを肝に銘じておかなければならぬ。あるいは、つい傲慢になってしまったせいであることを弁えておかなければならぬ。そう弁えていれば、戸惑うことなく修行という戦場に踏みとどまれるし、絶えず自分を責めることによって二重の咎を受けずに済むだろう。なぜならば、正義を湧き出だす神に不正はないからだ。そう、神にかぎって不正な裁きをなさるわけがなかろう。光栄は神に世々に帰す。アミン。

 

第62訓話 痛悔する勇気を与えてくれる聖書の言葉について。しかしそれは人間が弱いからこそ書かれた言葉にして、生ける神から堕ちないようにするために書かれた言葉である。その言葉を、決して罪を犯す根拠としてはならないことについて

たしかに師父たちは「痛悔する勇気を持て」と書物に記したし、使徒や預言者たちもいかに痛悔がすごい力を持っているか聖書に記した。だからといって、罪を犯すようではいけない。主が昔から罪を根絶すべく聖師父を介して力強く定めてきた不可侵の法則を、破るようではいけないのだ。というのも師父たちは、われわれが痛悔という希望を失わないためにそう書いたわけであり、何とかして恐ろしい絶望に陥る前にすばやく痛悔し、まちがえても開き直って平気で罪を犯すような事態を招かないようにするためにそう書いたのである。なにせごらんなさい。神は聖書のどの書においてもあの手この手を尽くして畏怖を持てと言い聞かせ、いかにご自身が罪を忌んでおられるか示してこられたではないか。現になぜノイ(ノア)の時代の人々は洪水にのまれて滅びてしまったのか。だいたい当時はまだ金銭欲も偶像崇拝も妖術も戦争もなかったので、ただ肉慾に狂って美しい娘らを欲したせいではなかったか。現になぜソドムの町は火で焼きつくされたのか。体の欲すまま汚れに任せ、やりたい放題おろかな淫行に次々と体を委ねたからではなかったか。現にたった一人の人間が姦通しただけで、一瞬にして神の長子であるイズライリ民が二万五千人も死に絶えたのではなかったか。現になぜこの巨人サムソンは、すでに母胎内で神に選別され、ザハリヤの子イオアンの時と同じように天使にその誕生まで予言され、大力を帯びて偉大な奇蹟を行なっていたにもかかわらず神に拒まれてしまったのか。淫婦と生活して聖なる体を汚してしまったからではなかったか。汚したせいで神に離れられ、ついに敵の手に落ちたのではなかったか。それに神聖な心を持った男ダヴィドも、その高徳ゆえに子孫から全世界を救うハリストスが生まれるほどの恩恵に与ったにも関わらず、美女を見初めて心を射抜かれてしまい、そのたった一人の女と姦通したせいで罰を受けたのではなかったか。まさに姦通したせいで神の怒りを買って家族内で謀反が起こり、生みの子に追われる身となったのではなかったか。たしかに寝床を潤すほど涙を流して痛悔し、神から預言者の口をとおして「主はなんじの罪を取り除かれた」サムエル下 12 : 13と告げられたのではあるが。

ダヴィドよりも以前の人たちを思い出してみよう。現になぜ四十年間も聖職を務めた長老司祭イリヤ(エリ)という義人の家族は、神の怒りを買って死ぬ目に遭ったのか。まさにイリヤの子オフニとフィネエス(ホフニとピネハス)が悪事を働いたせいではなかったかサムエル上 2 : 12~36。というのもイリヤ自身が罪を犯したわけでもなく、子に罪を犯すことを許したわけでもなかったのに、ただ主に対して罪を犯したわが子を罰する熱意がなかったというだけで、つまり主の命令よりも自分の子を愛したというだけで神の怒りを買ったのではなかったか。それもこれも、主は一生悪事を働いてきた連中だけを罰するわけではないことを、そういう愚かな罪過だけを罰するわけではないことを人々に分からせようとして、あえてご自分の近親者たちをも、つまり司祭や判官や大公はじめ奇蹟の業を授けるくらい聖別された人々をも罰したのである。そのように罰することで、主の定めた法則を破る者を一人も見逃さないという姿勢を示されたのである。たしかにイエゼキイリの書にも「主は、目に見えない剣でイエルサリムを滅ぼせと命じた相手に向かって『さあ、わが神殿に立っている長老から始めて、老人も若者もことごとく滅ぼし尽くせ』と言われた」イエゼキイリ 9 : 6 参照)と書いてある。要するに、主の近親者といえる者とはいかなる者であるかというと、つつしみ畏れて主の前を歩んで御旨を行なう者のことであり、そういう者の勇気ある行動や清い良心こそ神を喜ばすものであることを明示されたわけである。人が主の道を侮るならば、主に侮られて顔を背けられて恩寵を取り除かれる。現になぜベルシャツァルはいきなり宣告を受け、人間の手のようなもので脅しを受ける羽目に陥ったのか。不遜にもイエルサリムの神殿から奪ってきた神の聖器物で、妾らと一緒に酒を飲んだからではなかったかダニイル 5 章参照)。それと同じように、神に献身した上でまたもや厚かましく世俗的なことに身を用いる者は、目に見えない打撃を受けて滅びるのである。

かくして、いくら聖書が「痛悔すれば大丈夫だ」と励ましてくれているからといって、御言葉や警告を軽んじるのはやめよう。御言葉や警告にそぐわない行動で神を怒らし、ひとたび神に奉仕するために永久に神に献げたはずの身体を汚すようなことはやめよう。というのも、われわれとしてもイリヤやエリセイのように神に献身した身ではなかったか。大奇蹟を行なって神と面と向かって語らった預言者や、それにつづいた聖人や童貞者のごとく成聖されたはずの身ではなかったか。思えば童貞者イオアンや聖ペトルはじめ福音書者や伝道者は、主の口から聴いたり啓示を受けたりして主の奥義を受け、主と人類の架け橋となって神の国を世界中に布教されたのである。そのような業を成しとげた方々と同じように、われわれもこの身を主に献げたはずではなかったか。

 

第63訓話 修道士の生活をより良く保つことについて。神を讃美することについて

修道士たるもの、だれの目から見ても教訓となるような見た目と行動をしていなければならない。真実の敵でさえ、修道士の光のように輝く徳行の数々を目の当たりにして、たしかにハリスティアニンには救いの希望がありそうだ、と認めざるを得ないくらいでなければならない。まさに人々が四方八方から実際に助かる寄る辺として駆けつけてくるくらいでなければならないのである。そのようになって教会のつのを敵の目前で高く上げ、修道士と徳を競うように修行して世を捨てる人が増え、修道士の生き方が鑑として仰がれるくらいにならなければならない。なぜなら修道士の生き方こそ、ハリストス教会が誉れとする生き方だからである。

よって修道士は、いかなる点でも優れているべきだ。たとえば、次のような点が挙げられよう。目に見えるものを軽視しているか、厳しく清貧を守っているか、肉体のことを一切考えずに斎に励んでいるか。黙修を貫いているか、感覚を鎮めているか、視線を守っているか。この世に関する言い争いをことごとく断ち切っているか、口数を減らして他人を悪く思う気持ちを隅々まで消し去ったか。冷静に判断しつつも単純な心持ちであるか、明晰な知性で鋭く洞察しつつも悪を思わず素朴な心でいるか、などである。しょせん地上の人生はむなしく慌ただしいだけで、ほどなくして真実の生命に移って属神的に生きることを心得ておかなければならない。世間に知られたり裁かれたりするようではいけない。だれとも一緒にならず、友情で身を縛るな。静謐な場所で暮らし、つねに人々を避け、絶えず我慢して祈祷と読書に明け暮れよ。名誉を好んだり贈り物を喜んだりしてはならぬ。この人生に執着するな。雄々しく試練に耐えよ。世俗的な願望から身を解放し、世俗的なことを探したり思い出したりするな。いつもひたすら真実の国にねらいを定めて思いつづけよ。沈痛な面持ちで、日夜絶えず涙を流すことだ。何にも増して貞潔を守れ。満腹になるような無作法はせず、多かれ少かれ足りなくても気にかけるな。以上を一言でいえば、これぞ、修道士の徳である。まさに現世に対して死んだ修道士が神に近づきつつあることを裏づける徳である。

というわけで、われわれはいかなる時でも右の徳があるかどうか気にかけ、常時身につけているように努めるべきであろう。「とはいえ、なぜ項目ごとに徳を数え上げる必要があるのでしょうか。もっとまとめて簡潔に言えないものでしょうか」という人がいるかもしれない。そういう人にはこう答えよう。「どう生きようか必死に考えている人ならば、これらの徳の一つでもいいから自分のたましいに見出そうとしたときに、どうもこの項目はできていないなと思う点が見つかるだろう。そういう点が見つかれば、いかに他の徳があろうともまだまだ全然ダメじゃないかと自覚できるわけだから書き残しておいた方がよい。それにこのように書き残しておけば、ちょっとした覚書にもなるだろう」と。しかし、ここに書いてある項目をすべて身につけた人は、もはや恩恵によってここに書いていない項目まで心得ているに違いない。そしてそのような姿を目にした聖人たちが神を讃栄するだろうし、きっとこの世にいながら息を引き取るまでに、すでに自分のたましいに福楽の場所を備えることだろう。光栄はわれらの神に世々に帰す。アミン。

 

第64訓話 神の定めた黙修の道を歩んでいるときに、浮き沈みしたり紆余曲折したりすることについて

黙修して生きようと決意したならば、自己を抑えて残りの人生を黙修者らしく生きることだ。たといたましいが内なる闇に見舞われることがあっても(これは神の恩寵が定めた黙修の道によくあることだ)、師父の著作を読んで必死に祈って、助けが来るのを待て。ちょうど日光が雲に遮られて見えなくなるように、慾の雲に遮られて属神的慰安や恩寵の光がしばらく見えなくなることもある。そして意気が揚がらず知性がいつにない濃霧に覆われてしまったとしても、霊的に無知な者のように思い乱れたりせずに耐えることだ。気づいた時にはもう助けられていることだろう。というのは、日が差せばそれまで地を覆っていた空中の闇が晴れていくように、祈っていればたましいを覆っていた慾の雲が消されて蹴散らされ、慰めの光が差しこんできて知性を楽しませてくれるからだ。これは通常、祈りながら思いめぐらしているときに差しこんでくる光だが、奮起して聖書を読んでいるときに知性を照らしてくれることが多い。いつも聖師父の著作に没頭していれば、たましいが悟りがたい事柄に驚嘆して神聖な楽しみで満たされるだろう。光栄は、われらの神にこそ世々に帰すべし。アミン。

 

第65訓話 黙修者について。黙修という限界のない海では、いかなる時にどの点までたどり着いたと気づくのか。いかなる時に、ようやく苦労が実りをなしてきたという希望を持てるのか

いまから述べる定理を聞き入れて疑うな。もちろん他の訓話で述べたことも決して軽んじてならない。なぜならどれも謹厳実直な方々から聞いた話ばかりであり、私としてはこの訓話でも従来の訓話と同じように真実を語っているからだ。たとい目の瞼で自分を吊るして涙が出たからといって、それで人生で何か成しとげたなどと思ってはならない。だいたい内面が世に仕えているうちは、つまり世俗的生活を送っているうちは、神に関する事柄も外なる人で行なっているだけであり、内なる人は成長していないのである。なぜなら涙を流してはじめて成長するからだ。涙を流すようになってはじめて、知性が現世という牢獄を脱出したことが分かる。涙を流す領域に至ってはじめて、新しい世紀へ一歩踏みだして今までにない奇蹟的空間の芳香を嗅ぐようになったことが分かる。そのとき涙が溢れ出るのは、ひとえに陣痛とともに属神的嬰児が産まれようとしているからである。なぜならすべてを生みだす母である恩寵が、ひそかにたましいに神聖な像を産んで、来世の光(神)に早くも会わせようとしてくれているからだ。そして神聖な像が産まれそうになると、知性は来世にある何かによって発奮する。それは胎児がまだ胎内にいながら空気を汲み取るようなものだ。ゆえに慣れない状況に耐えきれなくて、体が蜜のように甘い涙でいきなり泣き出すのである。こうして内なる嬰児が成長していけばいくほど、涙が止まらなくなる。

ここに記した涙に関する定理は、断っておくが黙修者がたまに流す涙とは別物だ。なぜなら黙修して神と共にいる者ならば、だれもが時々そのような慰めを得られるものだからである。たとえば頭の中で観照中に涙が出てくることもあれば、聖書の言葉に没頭していて涙が頬をつたうこともある。また祈りながら神と対話している時に泣けてくることもあろう。ただ私がここで言おうとした涙の定理はそういう類の涙を指すのではなく、昼も夜も絶えず泣きつづける者の涙について述べているのである。

ただし以上のような事柄は、黙修しなければ実際に正しく見出すことはできない。なにせ目が二年間かそれ以上も源泉のようになって、その後で想念が穏やかになるのだ。想念が本性のあたうかぎり穏やかになったとき、聖パウェルのいう「安息に入る」エウレイ 4 : 3 参照)。するとその穏やかな安息に基づいて、知性が奥義を観照しはじめる。というのも聖神によって天上のことが啓かれ、知性のうちに神が宿って聖神の賜もよみがえるからである。すると、どことなく朧気ながら手探りするかのように、自分の内で属神的変化が起こったことを感じる。まさに内なる本性をもつ万物が一新する際にこうむるはずの属神的変化が起こったことを実感するのである。

以上は、聖書を読んで悟ったことや謹厳実直な方々から聴いたことを元にして、また少しばかり実体験にも基づいて、自分自身への覚書ならびに本書の読者のために記した。もし本書からためになることを得た場合には、私のことも祈ってくだされば幸いである。というのも、これを書くには少なからず労力を費やしたからである。

最後にもう1点、偽りのない口から学んだことを書き残しておくので聞き入れてほしい。はたして想念が穏やかな領域に入った後にはどうなるのか。それまで大量に流れていた涙が乾き果てて、以降はしかるべき時に適量しか流れない。これこそ、まがいもなく確かな真実である。一言でいえば、どの教会もそのように信じている。

 

第66訓話 神の僕たる者は、無一文になって神を探しに出た以上、真実を悟れなかったからといって探求をやめてはならず、神の奥義を究めたいという熱意を捨ててはならない。いかに聖なる事柄を差し置いて慾を思うなり心が汚れてしまうかについて

人が上達してゆくときの段階には3つある。初級と中級と、完全な状態である上級だ。初級者は、なるべく善いことを考えようとはしているが、慾に基づいて考えがちである。中級者は、あたかも慾の状態と無慾の状態の中間にいるようなもので、良いことも悪いことも同じくらいの頻度で思い起こしているため、光を放つこともあるが闇を流すこともやめない。ゆえに短期間でも聖書を読む習慣から離れて神聖な事柄を考察しなくなった途端に慾に捕らわれる。そもそも聖書を読んで神聖なことを思っていれば、できるかぎり心身を守って修行して真実の像に近づきたいという熱意が湧くというのに、その熱意の根を断ち切ってしまうことになるからだ。逆に、その生まれ持った熱意を育むのであれば、つまり遠くからでも神聖な事柄を求めて研究し、たとい無慾の状態には至らなくても聖書に導かれて想念を育み、想念が悪い方向へ傾かないように自制するのであれば、悪魔が真実のように見せかけて異物を植えつけてきても受け入れやしないだろう。むしろ愛をもって自分のたましいを守り、祈りにくい状態でも辛抱強く神に願い求めるので、神ご自身に願いを叶えてもらい、ご自身の扉を開けてもらえるだろう。とくに謙遜であればこそ、そうしてもらえるのだ。なぜならば、奥義とは謙遜な者に啓示されるものだからである。きっとこのように望むことしかできなかったまま息を引き取ったとしても、つまりかの地を見届けたわけではなかったとしても、古代の義人と同じものを受け継ぐことになると思う。なにせ古代の義人は、使徒が言ったように完全な状態に達したいと望みつつも見届けたわけではなかったエウレイ 11 : 39 参照)。ひたすら生涯にわたって労苦し、望みを抱いたまま永眠していくしかなかった。ただ、われわれの場合はどう言えるだろうか。はたして完全性の像である約束の地(無慾の状態)まで到達できなかったという理由で、つまり明らかに生まれつき能力不足で真実を悟れなかったという理由で、そのせいで門前払いされ、悪いことばかり目論んでいる連中と同じ底辺に置かれてしまうことなどあるだろうか。真実をくまなく悟れなかったという理由で、真実を知ろうともしない連中と同じ不毛の地に置かれることなどあるだろうか。それとも先ほど述べたように、中級まで昇格させてもらえるのではないだろうか。というのも、鏡で映し出すようにしてしか約束の地を目にしなかったとはいえ、遠くから望みつづけ、そう望みつづけたことで先祖の一員になれたではないか。たしかにこの地上で完全な恩寵(無慾)には与れなかったとはいえ、いつもそれに交わり、それに没頭して一生涯それを渇き求めたので、現に凶悪な想念は断ち切れたではないか。ならば、神のおかげで心がそういう希望で満たされてから、現世を後にすることになるのではなかろうか。

謙遜であれば、よいことばかり身についてゆく。いつも聖書を読んで神の愛を属神的に学んでいれば、たましいの中で以前の凶悪な想念を排除できる上、来世を思うことで知性を守ることもできる。まさに知的怠惰によって劣化するのを避け、より優れた事柄を考える代わりに俗っぽいことしか思えなくなるのを防いでくれる。だいたい属神的な学びがなくなると、驚くべき知的な動きがそうやって徐々に弱まって熱意が冷め、愚かな些事ばかり願うようになってしまうのだ。光栄はわれらの神に帰すべし。

 

第67訓話 神への望みの置き方について。神に望みを置けるのはどういう人か、賢く望みを置く人とそうでない人について

あらゆる望みを神に置くときに「心から信じて神に望みを置く」という方法はすばらしい。そこには思慮と知恵がある。それとはまったく別物で「悪いことをした後で神に望みを置く」という方法があるが、これはどうにも間違っている。たとえば、人が朽ちる諸事を心配することをやめて昼も夜も自分自身を主に託し、世俗のことなど露ほども考えず、徳に熱心なあまり来る日も来る日も神聖なことに費やし、それゆえに衣食住がどんなに貧相になっても気にしなかったとする。こういう人こそ、上手に賢く主に望みを置いていると言えよう。なぜなら必要なことはすべて主に準備してもらえるからである。これぞ正真正銘、真に賢い望みの置き方である。それに、こういう人だからこそ神に望みを置くのも理に適っていよう。なぜなら神の僕として神の業に励み、決して怠けることはないからである。だから当然のこととして格別に神に慮ってもらえるのだ。なぜならば、神が「まず神の国とその義とを求めよ、しからばこれらのもの皆なんじらに加わらん」マトフェイ 6 : 33とおっしゃった訓戒や、「肉体の慮りを慾に変ずるなかれ」ロマ 13 : 14という戒めを守ったからである。というのは、そういう心境で生きていると、この世はあたかも給仕のごとくわれわれにすべてを差し出し、まるで主宰に対するようにしてわれわれにすっかり隷属し、われわれの言葉や意志に逆らわなくなるからである。そういう人は、いつでも絶え間なく神の前にいようとして体に必要なことすら慮らず、ひたすら神を畏れ、多かれ少なかれ気を散らしてまで調達すべき雑用から自由になりきることしか考えていない。にもかかわらず、思い煩ったり苦労したりするまでもなく、必要なものは奇蹟的な方法で手に入ってくるのである。

いっぽう心が地上のことに埋没した人は、いつも蛇と一緒に塵を食らい、神を喜ばせようなど毫も思わず身体的な用事でどっぷり疲れきり、毎日人々と楽しく交流するのに忙しくて徳なんぞ一つも行なわず、しかもそのようにしか生きられないごもっともな理由まで述べていたとする。そういう人は、すでに怠惰と遊び心のゆえに善から堕ちている。そして何かに事欠いたり死に瀕したりして自分が蒔いた結果に見舞われたとき、「そうだ、神様に期待しよう。そうすれば悩みごとも解決して、少しは楽にしてもらえるだろう」と言うかもしれない。愚か者よ、ちょっと待て。いまさっきまで神の「か」の字も眼中になく、ふしだらに生活して神を侮辱し、あなたのせいで神の名が異教徒の前で辱められていたというのにロマ 2 : 24、いまになって「神様に望みを置けば、きっと救い出して手をかけてくださるでしょう」とはよく言えたものだ。神はそういう輩を暴こうとして預言者にこう命じている。「彼らに罪があることを告げよ。そうすれば日々わたしを尋ね求め、わたしの道を知ろうと望むようになるだろう。神の裁きを捨てない民として、わたしの正しい裁きを尋ねるようになるだろう」イサイヤ 58 : 1~2 参照)と。この「彼ら」の中に、この愚か者も含まれる。せめて思いだけでも神に近づこうとした試しがないところへ持ってきて、苦難にぶち当たった途端に手を上げて神に望みを置くような真似をしたからだ。そういう人間は、どうにかして分からせるために火中にでも放りこんで何度も何度も焼かなければならないだろう。なぜなら、堂々と神に望みを置けるような善行は何一つした試しがないからである。むしろ義務を怠ってひどい不正を重ねたがゆえに罰せられるに値する。ただ神の忍耐強さゆえに、ひたすら憐れんで耐えてもらってきただけなのだ。したがって、これまでの生き方を棚に上げて「神に望みを置いています」などと自分を欺くな。というのは、信仰の行ないが一つもないので罰せられるはずだからだ。なのに、まるで神の業を地道にやり遂げてきた人と同じような面をして、遊び呆けたまま「必要なものは神様が与えてくださるに違いないと信じています」などと言うな。あるいは、一度も神のことを思ったこともないくせに、井戸に身を投じるような愚かな真似をするな。でないと、どんどん罪に堕ちていきながら「神様にさえ望みを置いていれば救ってもらえるだろう」などと言い出すことになる。愚か者よ、勘違いしてはならない。神に望みを置くためには、あらかじめ神のために苦労を背負い、修行して汗を流さなければならないのだ。神を信じているのであれば、それ自体は良いことだ。しかし、信じているのであれば行動が伴うべきであり、徳のために苦しみを耐えてはじめて神に望みを置けるようになるのである。実際に神が全能者として受造物のことを目にかけてくださっていることを信じるか。もし信じるのであれば、その信仰にふさわしく行動せよ。きっと神に聴き入れてもらえるだろう。素手だけで風を捕えることなどできまい。行ないを伴わなければ、生きた信仰は得られない。

そう、よく野獣とか強盗がどこに隠れているか知らぬまま道を歩くことがある。それでも被害から救われることがあるのは、まさに神の普遍的摂理の働きによるものだ。神の手は、あるいは猛獣が傍を通り抜けるまで旅人の歩調を緩めたりする。または誰かに出会ってその道から逸れるようにしたりする。もしずる賢い蛇が道に隠れていて目に入らなかった場合、人がそのような試練に遭わないようにすべく、蛇が突然シューシューと音を立てて持ち場から出て旅人の前を這うようにし、それを目にした旅人が警戒することで毒蛇から救われたりする。たとい当人のみぞ知る隠れた罪があって救いにそぐわない者だったとしても、神は慈憐によってそのような災難から守ってくださる。あるいは家や壁や石が轟音とともに崩れ落ちてきて、その下に人がいることがある。すると神は人を愛するがゆえに天使にお命じになり、そこに座っている人たちが立ち上がったりその場を離れたりして一人もいなくなるまで、そういう重量物が落ちてこないように押さえさせることがある。そして人が離れたかと思いきや、そのまま落下するに任せるのだ。もし落下するまでに避難するのが間に合わなかったとしても、かすり傷一つしないで済むようにしてくださることもある。なにせそのようにして、ご自分の力が無限大であることを提示されているからである。

こういうことや、これに似たようなすべてのことが、どこにでもある神の普遍的摂理による働きなのである。義人は絶えず神に考えてもらっている。というのも一般人は、自分の頭でしっかり判断して仕事を管理し、神の摂理に基づきながら自分の知恵を利用せよと神に命じられているのに対し、義人は何をするにしても自分の知恵を用いるまでもなく、知恵の代わりに信仰を得ているからである。そしてこの信仰が「およそ神の知識に逆らう高慢たかぶりコリンフ後 10 : 5を引き落とし、右に列挙したような事柄に出遭っても一切恐れなくさせるのである。まさに「義人は獅子のように自信がある」箴言 28 : 1と書いてあるとおりだ。義人が何事にも信仰でもって立ち向かう勇気があるのは、決して主を試しているからではない。むしろ、しかと主を見つめることにより、あたかも聖神の力を帯びて武装しているようなものなのだ。しかも、いつも献身的に神のことを慮っているので、神が義人について述べた次の聖句が当てはまってくる。「憂いの時われかれと共にし、かれを助け、かれを栄せん。命の長きをもってかれに飽かしめ、われの救いをかれに顕さん」聖詠 90 : 15, 16と。だらしない怠け者は、何をするにしてもそのような望みを持つことはできない。だが万事において神と共にある者は、善行をもって神に近づきながら神の恩寵を心眼で見据えているため、福なるダヴィドが「わが目はわが神を望みて疲れたり」聖詠 68 : 4と述べた聖句を、自分の言葉として発することができるであろう。光栄と誉れと伏拝は神に世々に帰す。アミン。

 

第68訓話 世を拒むことと、気の向くまま人々と交わらないよう自制することについて

世と世の雑事から離れて逃避したいときにはどうすべきか。まさに正しく自分を捉えて心痛をもって泣くこと以上に、世を突き離して慾を撲滅できるものはなく、ついでに属神的なものを呼び起こして生気づけてくれるものもない。なにせ敬虔な信者であるならば、表情まで愛するお方(神)を真似るものだろう。ではその逆に、どうしたときに世の友となり果ててしまうのだろうか。まさに冗談ばかり言ってめいっぱい知力を浪費していれば、いかにも俗人や呑兵衛や好色者らしくなり、叡智の宝庫から遠のいて神の奥義を知ることができなくなる。これぞ、淫らな悪魔がいざなう生き方なのだ。とはいえ、愛する者よ。いままでの経験からあなたがどれだけ知恵を愛しているか知っているので、愛をもってお願いしたい。どうか敵の悪意から自分を守り抜いてほしい。頭が冴えて雄弁だからといってハリストスへの熱愛が興ざめしないよう、あなたのために十字架上で胆汁を口にされた方のことを忘れるなかれ。そして目覚めているときに、かの甘美なる思いで神の前に勇ましくあるべきところを、いろいろな夢想でたましいをうずめないようにしてほしい。でないと睡眠中もその夢想の虜となり、愚かな夢が悪臭を放って神の聖天使を寄せ付けなくしてしまうだろう。そうなってしまうと、いずれあなたのせいで他人がつまずき、自分自身も苦しむことになる。だからこそハリストスの謙遜に倣うように努め、ハリストスが投じてくれた火が燃えているようにせよ。この火こそ、現世的な動きをすべて根絶してくれるからである。だいだい現世的な動きのせいで「新しい人」が抹殺され、全能なる神の聖なる屋敷が汚されてしまうのだ。僭越ながら聖パウェルとともに言わせてもらえば、何はともあれ、われわれは「神の殿」コリンフ前 3 : 16である。ゆえに神ご自身が清い方であられる以上、この「神の殿」を浄めて神がそこに宿りたくなるようにしようではないか。そして神ご自身が聖なる方である以上、ぜひこの「神の殿」も成聖しておこうではないか。つまり正直に善をなして飾りつけ、御旨の安らかな香りでかぐわしくし、世の波間にいては得られぬ清い心の祈りで美しく仕上げようではないか。そのとき、たましいに神の光栄の雲がかかり、心の中で偉大な神の光が輝き出し、それを見た天使らが神のもとで喜び楽しむことになるであろう。逆に、恥知らずで厚かましい悪霊らは、聖神の炎にやられて消え失せるであろう。

兄弟よ。というわけで絶えず自分自身を責めて、こう言うがよい。

「ああ、忌まわしいたましいよ。いまにも体から抜け出るべき時が迫っているというのに、なぜ今日中に手放して永久に見られなくなるものを享受して楽しんでいるのだ。これまでの人生を省みて、何をしたか、なぜそうしたか、そしてどういう結果になったかよく考えよ。貴重な日々をだれと共に過ごしたのか、汗水垂らした結果はだれの役に立ったのか、必死に闘ってだれを喜ばせたのか考えよ。現世を離れるときに、その相手が迎えにきてくれることだろう。はたして生涯にわたって楽しませた相手といえば誰になるのか。まさにその相手の住まいで憩うことになるだろう。現にだれのために欠乏に耐えてまで苦労したのか。まさにその相手のところへ喜んで行くことになるだろう。そして来世における友となった相手といえば誰になるのか。きっと息を引き取るときにはその相手の懐に抱きかかえてもらえることだろう。要するに、いかなる領域にて雇われて働いたと言えるのか。夕日の沈みゆく人生最期の日に報酬を受けとるとき、いったい誰の手から受けとることになるのだろうか」と。

たましいよ。よく自分自身を問い詰めて、どちらの地へおもむく運命となっているのか確認せよ。苦悶をもたらすような領域では働かず、そういう領域を避けて通ることができただろうか。いまこそ断腸の思いで胸を叩いて呼び叫べ。神はその声を耳にして犠牲や生贄よりも快く受け入れて、胸を撫でおろされることだろう。心の痛みを声にして訴えよ。聖天使がそれを聴いて楽しむことだろう。涙を流して手の平を濡らせ。そうすれば聖神が宿って悪習の汚れを洗い清めてくれるだろう。泣き方を教えてもらうためにマリヤとマルファに呼びかけよ。下記のように、主に叫ぶのだ。

「主イイスス・ハリストス、わが神よ。ラザリの死を悲しんで泣き、同情の涙を流された主よ。いま、このもだえ苦しむ涙を受け入れてください。しのばれた苦痛でもってわが慾を治し、うけられた傷でもってわが疾患を取り除いてください。御尊血でもってこの血を清め、生命をたもう御尊体の香りをこの体につけてください。ごらんのとおり悪鬼に一杯食わされて悶えているのですが、敵があなたの口に入れた胆汁の苦味を思い浮かべて甘受できますように。この知性も悪霊に惑わされて下々まで降ってしまいましたが、十字架上で広げられた御尊体を見てあなたに思いを馳せることができますように。この頭も悪鬼に殴り倒されました。どうか十字架に付けられたあなたの御首みぐしの力で持ち上げてください。至聖なる御口で約束されたように、十字架に釘打たれた至聖なる御手でもって、この滅びの淵に沈んでいるわたしを引き上げてほしいのです。不正でどす黒くなったこの顔を、頬打と唾棄を受けられた御顔でもって照らしてください。あなたはそうやって呪われた連中や不埒者に罵られた末に、十字架上にて御霊みたまを御父にゆだねられたのです。その御霊に呼ばれて、わたしも恩寵の力であなたのもとへ行くことができますように。実際、あなたを探求したいという切実な思いもなければ、天の住まいを用意する痛悔も嘆息もありません。主宰よ、慰めをもたらすはずの涙も涸れ果てているのです。もはや知性は生活の雑用にかまけて眠りこけ、胸を痛めてあなたを見つめる力も失せました。心も次々と誘惑に遭って冷えきり、あなたを愛する熱涙で温もることもできません。けれども、主イイスス・ハリストスわが神よ、万福の宝蔵なる者よ、どうかとことん痛悔して根強い心を与えて、あなたを求める道に全霊で向かわせてください。というのも、あなた無しではどんな福楽にも与れなくなってしまいます。ですから慈憐なる神よ、あなたの恩寵をお与えください。どうかご自分の懐から永遠に独り子を生む御父が、わたしのうちに御子の像の特長を再現してくださいますように。あなたを置き去りにしてしまった身ではありますが、どうかわたしを置き去りにしないでください。御許から離れてしまった身ではありますが、どうかわたしを探し出してあなたの草場へ導いてください。そして選ばれた羊の群れの一員に加えて、あなたの神聖なる機密の牧草で養ってください。義人たちは清い心にあなたを宿らせ、そこで主の啓示の輝きを目にしました。あなたのために苦難や拷問にも耐えて苦労しつつも、主の啓示の輝きに慰められて喜んだのです。もし許されることであれば、ぜひそういう人たちと同じように養っていただければと思うのです」と。

わが救主イイスス・ハリストスよ、われわれも主の恩寵と人類愛によって、主の啓示の輝きに世々に与ることができますように。アミン。

 

第69訓話 黙修者は慮りを持たない方がよく、あらゆる出入りが害を及ぼすことについて

あれこれ忙しくしていれば、しずかに黙修することなどできない。なぜなら背負った課題を処理すべく、否応なく業務にあたって仕事を片付けているうちに、静けさや黙修を追い払ってしまうからである。ゆえに修道士たるもの、いつも神の前に立って神にまっすぐ目を向けているべきだ。本当に知性を清く守りたければ、忍びこんでくるふとした動きも遮断して思考を穏やかにし、出没する想念を一つ一つ見分けられるようにならなければならない。したがって修道士が忙殺されているということは、つまりハリストスの戒めを守ろうとする覚悟が弱まっている証拠であり、神聖な事柄において乏しくなっていることを示しているのである。

心配事から自由になってもいないのに、たましいに光を探そうとするな。感覚に引きずられているうちは、静寂も黙修もあったものではない。業務があるときに、それ以上に仕事を増やそうとするな。そうすれば思い乱れることもなく、祈りが散漫することもない。絶え間なく祈るようでなければ、神に近づくことはできない。どんなに一所懸命に祈っても、祈り終えたあとに新たな用事で頭を悩ますのなら、せっかく浮かんだよい考えもかき消されてしまうだろう。

祈祷時には、地に頭を打ちつけて熱心に涙を流して伏拝せよ。そうすれば、心に甘美なる熱意が湧く。すると心は感動して神のもとへ飛んでいって「わがたましい勇毅ゆうき生活の神に渇く、われいずれの時にか至りて神のかんばせの前に出でん」聖詠 41 : 3と訴えることだろう。一度この酒を飲んだ後にまたもや飲めなくなった者だけが、自分がいかなる惨状に陥ってしまったか知っている。それもこれも、ひとえに気を緩めたことが原因なのである。

おお、人と会ったり話したりすることは、黙修者に何という甚大な害を及ぼすことか。兄弟よ、それは概して黙修しない者が受ける被害よりもはるかに致命的なものだ。ためしに木の芽を見てみたまえ。芽吹いた矢先に寒波がきて雨氷が付着すれば、その芽は水分を取られてダメになってしまう。これと同じことが、たましいの木に咲く徳の花にも起こる。いかに「水辺に植えたる木」聖詠 1 : 3に咲く花として、つまり痛悔の涙で長らく大事に育んできたとしても、黙修をやめて人々と会った瞬間に枯れてしまうのだ。それもほんの数分会っただけで、しかも一見善いと思える目的のために会っただけでも枯れてしまう。木の芽につづいて緑草も見てみたまえ。地表から出てきた矢先に肌寒くなって厳霜がおりれば、根までやられてしまうではないか。これと同じことが、徳の牧草にも起こる。せっかく知性の中で徳の牧草が生えてきても、人々と会話するなり根までやられてしまうのだ。しかも自制力のある人と話したり、わずかな欠点をもった人と話すだけでも霊的被害を受けるのがふつうだとしたら、無知な鈍物と向かい合って話したりしたらどれほど害が大きいことか。ましてや世俗人と話したらどうなるかなど言うまでもない。現に人々の敬意を受けるような高貴な人であっても、飲みすぎれば品位を忘れてその職種の恥さらしとなり、酔った勢いで思ってもいないことを口走ったせいで過去の功績まで一笑に付されてしまうではないか。修道士も同じだ。いかに心を貞潔に守ってきたとしても、人と会って話すなり修道士らしさを忘れ、こうしようと思っていた意志の力も失い、立派な心構えが土台もろとも木っ端みじんに破壊されてしまうのである。

かくして、黙修中に集中が切れると人と話したくなるとはいえ、人と話して気を緩めただけで熱意は冷めてしまうものなのだ。あるいはちょっと他人の歓談を見聞きしただけで、神聖なことは捉えられなくなるものなのだ。自制力ある修道士がものの数分でそれほどの害を受けるとしたら、しょっちゅう人々とだらだらおしゃべりしている連中については何を言えよう。知性というのは胃袋からガスが上ってくると、ちょうど湿った土から濃霧が立ちのぼってきて空気を曇らすように、神聖な事柄を認識できなくなる。高慢な人は、そういう状態にある。自分が闇の中を歩いていることを理解できず、自分が叡智に無縁であることも理解できない。だいたい頭がぼんやりしていて何を理解できようか。だから虫けらのように弱くて主の道を認識できないだけなのに、蒙昧な想念でだれよりも偉いと思いこんでいるのだ。なにせ謙遜の道を歩みたいとも思わなかったため、主から御旨を隠されてしまったのである。願わくは、光栄はわれらの神に世々に帰さんことを。アミン。

 

第70訓話 神に近づく道や、心地良く儆醒すると見えてくる道について。儆醒する者は一生のあいだ蜜で養われることについて

修道士たるもの、夜の儆醒以上に大事な修行はないと思え。兄弟よ、儆醒というのは本当に大切な営みで、自制している者にとっては欠かせないものなのだ。修行者は、身体的仕事や過ぎゆく心配事で気を遣ったり憤慨したりしていなければ、そして世間から身を守って警戒しつづけていれば、知性がまるで羽が生えたように速やかに飛び上がり、神を楽しむ水準まで昇りつめて神の栄光にたどり着く。そして冴えた頭で軽やかに人知を超えた智恵の中を泳ぐだろう。どこかで修道士が賢慮をもって儆醒しているのを目にしたら、人体を帯びていない者だとみなしてよい。というのも、まさしく天使階級ならではの業だからである。生涯にわたって儆醒している者が、神から大いなる賜を受けないということはない。なにせ心を奮い立たせて覚醒し、いつもひたすら神を求めて思いめぐらしているからである。そのように努めて儆醒して美しく生きていれば、心眼はヘルヴィムの目を持つようになり、いつも目を上げて天の光景を観照するようになるだろう。

儆醒とは、光栄にして選び抜かれた修行である。だからよく考えてこの神聖な苦行を選び、この重荷を担おうと決意した以上、日中にも人だかりや雑用を避けずにはいられないはずだ。さもないと儆醒して得ようとした成果も得られず、大いなる楽しみも得られなくなってしまうからである。この日中の警戒という点をしっかり押さえていない者は、はっきりいって何のために眠気と闘って苦労しているのか分かっていない。何のために疲れるまで長々と祈祷を唱え、喉をからして夜中立ち通しているのか分かっていない。そんなことをしても知性が聖詠や祈りに参加しておらず、ただ習慣的に行なっているだけで、見境もなく苦労しているだけだからだ。もしこの見立てが間違っているとしたら、ではなぜいつも汗を流して種を蒔いているというのに、大いなる福楽や成果を得られないままなのだろうか。というのも、もし昼間にあくせくする代わりに聖書を読んで知力を高め、聖書の言葉で祈りを潤わせて儆醒しやすくしていたのであれば、明らかに理解力を得て正道へ導かれていたはずだからである。つまり聖書という、祈りの観照を育む物質を蒔いてくれる媒体を得たことにより、思いを集中する抑制力を得ていたはずである。それによって、むなしく思いめぐらしたりせず、つねに霊的に神を思い起こし、いかに聖人たちが神を喜ばせて生きたか思い出しながら、知的に冴えて賢くなっていたであろう。一言でいえば、そういった修行による円熟した成果を得られていたはずなのだ。

人間よ。どうしてそう見境なく日々を過ごそうとするのだ。だいたい日が暮れれば夜を徹して立ち通し、骨を折って聖詠を歌ったり祈りを献げたりしているというのに、よりによって日中に少しだけ自分を強いれば神の恩寵に与れる事柄に力を尽くすのがそれほど難しいことだろうか。もし夜に蒔いたものの成果を日中に踏みにじるのなら、つまり儆醒して得た活力や覚醒や熱意を浪費してしまうのなら、要するに必要もないのに不安を煽るおしゃべりをして自分の苦労を水の泡にするのなら、いったい何のために苦労しているのか。というのは、夜中の鍛錬にふさわしく昼も修行して、心で熱く会話して昼夜を違えず暮らしていれば、ほどなくイイススの懐に飛び込むことができたはずだからだ。にもかかわらず、儆醒とは儆醒から生じる何かのためにする修行ではなく、ただ儆醒するために定められた修行であると考えているのなら思い違いも甚だしい。それは何のために修道士が覚醒すべきか知らないからそう考えてしまうのだ。しかしその目的を恩寵によって理解した者であれば、修行者が何を求めて眠りに逆らっているのか、自然に抗って心身を覚醒させて毎晩祈っているのか弁えているので、日中の自己防衛がいかなる益をもたらすのかも知っている。日中に自己防衛していれば、夜の黙修時に知性が支えられて想念を支配でき、努力したり闘ったりしなくても清さと賢慮を授かり、思うままに聖句の気高さを認識できるようになるからである。さらに言うならば、たとい体の病で弱って斎ができなくても、ただ知性が儆醒しているというだけで、霊的状態を整えることもできるし、心で悟って属神的な力を認識することもできると私は思っている(もちろん日中に気を抜いてすべて浪費しなければの話ではあるが)。

というわけで、諸君が神の前で知性を冴えさせて新生命を認識したいと思っているならば、一生のあいだ怠らずに儆醒しつづけてほしい。というのも儆醒すればこそ目が啓け、しっかり修道生活の光栄を見ることができ、いかに義の道が強いか知ることができるからだ。でももし(どうかそうなりませんように)またもや弱々しい想念が現れて、しかも場合によってはその想念が巣食ってしまったときにはどうすべきか。そもそも守護天使が人を試練にかけようと思ったからそのような目に遭うのであるが、守護天使はふつうこういうことにおいて、つまり人が熱を上げていようと倦厭していようと、何らかの理由でその状態から変わることを許すからである。その理由は、ひとつには体の病かもしれないし、あるいは日ごろ長時間でも聖詠を朗誦したり勤勉に祈ったり何度も跪拝してきたはずなのに、そういう習慣が耐えがたく感じたからかもしれない。そんなときには、愛をもってお願いしたい。もしもそういう習慣が途絶えて実行しがたいと思ったときには、せめて座りながらもいいから目を覚まして心で祈れ。ただし、うとうとせず覚醒できる手段を駆使してその夜を過ごし、座ったまま善いことを思いめぐらすのだ。眠りこけて心を頑なにしたり暗くしたりするな。そうすれば、ほどなく恩寵によって以前の熱心さがよみがえってきて、軽くなって力が湧くことだろう。そして奮起して神に感謝しつつ奉仕できることだろう。なぜなら人は誘われて試練を受けるためにこそ、神に許容されてそのような重々しい倦厭に襲われるからである。それでも自分自身を叩き起こして熱心に、少しでも努力してそういう重々しい倦厭をかなぐり捨てれば、以前のように恩寵が近づいてきて、あらゆる善を秘めた助力が天から降ってくる。すると人はそれまでの重々しさを思い起こし、現在の軽快な力と見比べて目をみはる。その違いとその変わりやすさを見抜き、素早くその変化を受け入れてしまった自分自身を見る。そしてその瞬間から賢くなってゆき、以降、似たような重々しさにぶち当たったときには、積み重ねた経験に基づいて現状を捉えることができるのだ。でも最初の段階で修行しようとしなければ、このような経験を得ることはできない。というわけで、いったい人が闘いの時に奮起していくらか忍耐すれば、どれほど賢くなれるか分かっただろうか。ただし、身体的本性にとって限界が来たときには話は別だ。そのような場合にはもはや闘っている場合ではなく、むしろ弱い体のために休眠するしかあるまい。というのも、そんなときまで無暗に本性と闘っても意味がないからである。しかしそれ以外の場合には、およそ自分にとって役立つことにむけて自分を強いるのは良いことである。

かくして、つねに黙修しながら読書し、食事もほどほどに抑えて儆醒していれば、(もちろん黙修を妨げる事態さえ生じなければの話だが)またたく間に驚嘆すべき事柄を考えるようになるだろう。あえて強いずともおのずと湧いてくるこの思考によって、黙修者は涙を流して両手を浄め、両目はまるで洗礼盤のごとくなるに違いない。

いっぽう斎もして儆醒もして注意深く黙修して体を鎮めたというのに、しかも自然反応というわけでもないのに、淫慾の刃の上に立たされている感じがすることがある。まさに傲慢の想念に誘惑されているのだ。そんなときには食べ物に灰を混ぜ、腹を地にくっつけて自分が何を思いめぐらしていたか探求せよ。そして自分の変わりやすい本性と、本性に反した行動を見抜け。そうすれば神が憐れんで光を与え、謙遜を学ばせて心に傲慢の悪がのさばらないようにしてくださるかもしれない。ゆえに、修行して努力を積み重ねようではないか。われわれの心が痛悔を見出して謙遜になり、神の内に安らぐことができる日まで――。光栄と国は神に世々に帰す。アミン。

 

第71訓話 罪深い悪はどう生じてどう途絶えるのか。その威力と影響力について

心底から本気になって罪の原因を憎まないかぎり、罪の作用による快感から自由になることはできない。これぞ峻厳な闘いの極みにして、人が血を流すまで闘わなければならないほどの激闘である。この激闘において、いかに徳を愛しているか、その自由意志が試されるのだ。そう、これは刺激とか衝動とか呼ばれている力のことだ。忌まわしいたましいが避けがたい衝動により、ふと嗅いだだけで弱まってしまう力のことだ。これぞ罪の大いなる力にして、敵はふつうこの力を用いて貞潔な者のたましいをかき乱す。するとこれまで清く動いていたのに、まったく経験したことのない動きを否応なく味わわされるのだ。愛する兄弟よ。ここで、われわれの我慢を、苦行を、勤勉さを見せなければならない。というのも、これぞ目に見えない苦行の時だからだ。修道士階級はいつもこの苦行に勝つと言われている。いかに知性が敬虔であろうとも、この闘いに見舞われるなり、すっかりやられないにしても即座に当惑するものである。

主よ、このとき、つまり致命のとき、あなたこそあらゆる助力の泉として修道士のたましいを力強く支えてくださる方です。修道士らは喜んで天の花婿の嫁となり、計算高い動機ではなく真心からあなたと聖なる約束を交わしました。ゆえにかれらに、真実に逆らってそびえる堅固な高壁を大胆にぶち壊す力を与えてください。いざ、血のにじむほどの闘いに見舞われているこの時こそ、御手を差し伸べて、われわれが耐えがたい重圧に負けて目標を諦めることのないようにしてください。

そもそもこの峻厳な闘いにおいては、いつも貞潔が勝つとは限らない。まさに誘惑を味わうためにこそ助力が来ないこともあるからだ。しかしこの選り分ける闘いにおいて弱々しく誘われてしまう者は不幸だ。なぜならこの闘いを仕掛けてくる敵は、想念においてすすんで負けてしまう人々のせいで勝ち慣れて、ものすごい力を帯びてしまったからである。

愛する兄弟よ。遊惰を警戒せよ。なぜなら遊惰のうちに、分かりきった死が隠されているからだ。つまり遊惰に陥らなければ、修道士を虜にしようとしている連中の手にかかることはない。最後の審判を迎えるその日、神はわれわれを聖詠のゆえに裁くわけでも、祈らなかったことで裁くわけでもない。むしろ遊惰を見逃して悪鬼に入られた点を裁いてくるのだ。悪鬼は自分の場所を見つけると、入ってきてわれわれの目の扉を閉じ、威圧的に神の裁きや厳罰に遭うような汚れたことを繰り広げる。そのとき、われわれは大して重要と思えない祈祷規定を疎かにするものだから悪鬼の手下となってしまう。しかし賢人が書いたように、祈祷規定を守っていればハリストスゆえに慮ってもらえる。要するに、われわれの意志というのは神ご自身に従っていないと、神の敵に従ってしまうものなのだ。だから、この重要とは思えない祈祷規定こそ、われわれを虜にする連中から守ってくれる防壁なのである。聖人たちは教会の神品として「僧房内で祈祷規定を守れ」と定めたが、それは聖神の啓示に基づいて定めたことである。まさに啓示を与えてくれる聖神の力で、修道生活を守るためである。ところが愚か者は、こんな小さな祈祷規定を破ってもたいしたことはないと思ってしまう。なぜなら規定を破ったときに招く事態を検証しようとしないからである。ゆえに愚か者の歩む道は、その始点も中間点も歯止めのきかない自由でしかなく、そういう自由はあらゆる慾を生みだす母となる。望まぬ罪を犯して肩身の狭い思いをするよりは、この重要に思えない祈祷規定を破らぬよう努めたほうがよい。というのも、このよからぬ自由の終点とは、まさに有無も言わせぬ隷属だからだ。

まだ感覚が生きているうちは、何に遭遇しても死者であると思え。なぜなら罪の炎が肢体のすみずみまで弱まっておらず、救いを得ようがないからだ。もし心の中で「きちんと警戒しています」などとのたまう修道士がいたとしたら、要するに殴られても殴られたことを認めたくない者だ。友人に嘘をつけば合法的に呪われるに値する。でも自分自身に嘘をつくならば、いったいどれほどの罰を蒙ることになろうか。なにせ鬼畜行為は悪いと知りながら知らないふりをしたのである。本当は悪いと知っているのだということは、良心が呵責を覚えることで示している。知っているという事実それ自体が、その事実を知らないふりをする当人を苦しめるのである。

おお、慾の要因はなんと甘たるいことか。人はときどき慾を断ち切ることができる。慾から遠く離れていれば静けさを満喫でき、慾が止んでいるときには楽しい。にもかかわらず慾の要因を断ち切ることができない。ゆえに、われわれはいやでも誘惑に遭い、慾の状態に陥って悲しむのだ。そのくせ慾の要因を好んで、そのままに残そうとする。罪を犯したくないと思っているくせに、罪へ導く要因を嬉々として受け入れているのである。よって罪を犯してしまう原因とは、そもそも罪の要因を好んでしまう点にあるのだ。慾の要因を好むならば、否が応でも慾の手下になって隷属することになる。だが自分の罪を憎めば、罪を犯さなくなる。それに罪を痛悔して告げれば、罪の赦しを得る。まずは罪に対する敵意を持たないかぎり、罪の習慣を断つことはできない。まずは罪過を告げないかぎり、罪の赦しを受けることはできない。というのも犯した罪を痛悔すると、真の謙遜が生じることが往々にしてあるからだ。そうやって謙遜から嘆きが生じるわけだが、この嘆きは心から恥じたときに生じてくる。

もし非難すべき物事を憎まないのであれば、それを心に秘めているうちは、いかに実際それがひどい悪臭を放つものであるか感じようがない。良からぬものを身から断ち切らないかぎり、どれほど腐った臭いがしているか捉えられず、どれほど恥ずかしいことであるかも見抜けない。ところがこの腐臭の重荷を他人の中に見出すなり、いかに自分が恥ずかしいことをしていたのか悟るのである。世間から離れよ。そうすれば世の悪臭を知るだろう。離れずにいては、どれほど臭いか捉えられない。むしろ香水をかけるように悪臭を自分に振りまき、わが身が恥ずべき裸のままであっても光栄の幕でも纏っているかのように思うことだろう。

世間とその闇から離れて、ただ自分自身にのみ注意する者は幸いである。というのは、過ぎ去る事柄に追われて生きている者は、洞察力も判断力も得られないからである。そもそも理性が波立っているような状態で、いかにして何をなすべきか見抜けようか。かつて陶酔していた闇から抜け出して、その陶酔状態の浅ましさを他人のうちに見出した者は幸いである。そのとき、わが身の恥も知る。でも罪を犯して陶酔しつづけているうちは、やることなすこと優れているようにしか思えない。というのも本性の元々の状態から抜け出てしまった以上、酒で酔おうが肉慾で酔おうが陶酔していることには変わりないからである。なぜなら酒であれ肉慾であれ、それを堪能するなり元来あるべき状態から抜け出てしまい、いずれも体に同じような炎をもたらすからである。両者の作用の仕方は異なるとはいえ、持っている影響力は変わりない。それに、しらふ状態から陶酔状態に移行させるという点でも共通しているが、その移行させる要因は人により異なっていて共通しないこともある。その要因を受け入れられる人もいれば、受け入れられない人もいるからである。

およそ歓喜のあとには困苦がくるが、神のために苦しんだあとにはいつも喜びがくる。この世の万物は、状態が変わるようにできている。つまり現世か、現世を去る時か、あるいは来世にて状態が変わるようにできている。それも逆方向に変質するようにできているため、とくに快楽に溺れて過ごしたのならば、その快楽が苦役へ変わるし、その反対にハリストスのために苦しんで生きたのならば、その苦しみが休息へ変わるようにできている。しかも神の限りない人類愛ゆえに、われわれは人生途上ないし死ぬ前に、おのが身に起こる変化を予感する。肉慾に生きた者は苦役が始まっていくのを味わい、ハリストスのために苦しんだ者は休息が始まっていくのを味わう。まさに神の大いなる憐みにより、前者は肉慾に対する報いとして苦しみ、後者は永遠に安息できる保証として属神的に喜ぶのである。というのは、神は最期の最期まで人が善いものを得ることを禁じないからだ。しかし悪いものを得ることはたしかに禁じている。なぜなら聖書にも書いてあるように、災禍を受けるにふさわしくなった者は罰せられるからである。その罪過ゆえに現世でも罰を受け、おのが招いた地獄を味わうだろう。

自分自身の自由を戒めよ。ふしだらな奴隷状態に陥らないようにするためだ。闘いを呼ぶような慰みには注意し、誘惑を呼びよせる知恵には手を出すな。よくあることだが悔い改めてもいないのに「誘惑に遭いたい」などと思ってはならない。というのも、われわれはみな罪人にして誘惑よりも強い力を持った人は一人もいない以上、いかなる徳をなすことよりも悔い改めを重んじるべきなのだ。なぜなら悔い改めという業を成しとげることはできないからである。罪人であろうが義人であろうが、救われたければいつでも悔い改めていることだ。そもそも悔い改めきることなどできない。なぜなら最も完璧な人が帯びている完全性でさえ、まことに不完全なものだからである。ゆえに、いつどのように悔い改めていようとも、息を引き取る瞬間まで悔い改めきれることはない。およそ快感なるものを受け入れれば、あとあと必ず嫌気が差したり悲しくなったりすることを忘れるな。

いかに喜ばしいことが起ころうとも、このままでいたいと思うような喜びには、つまり変わろうという気が起こらない喜びには気をつけよ。というのは、われわれは神の奥深い摂理を隅々まで悟ることはできないし、どこまで摂理が及ぶのかも、なぜ摂理が変わることがあるのかも把握できないからだ。まっすぐ歩んでいるように見える人々を恐れよ。なぜならよく言われているように、そういう人々は道から外れて歩いているからだ。非常に賢く世界という船を操縦できるお方は、この世の万物に「変わる力」を埋めこまれた。ゆえに、変わる力を持たないものは、影のように儚い。

肢体を甘やかしていれば、のぼせ上がって想念が乱れる。逆に修行しすぎたとしても、やはり倦怠に見舞われ、倦んだ挙句にのぼせ上がる。しかし同じ「のぼせる」とは言っても、その行き先は違う。肢体を甘やかしてのぼせ上がれば、淫慾と闘うことになる。いっぽう倦んだ末にのぼせ上がれば、僧房で黙修することを放棄して、方々をほっつき歩くことになる。要するに、少しずつ努力を積み重ねてゆく修行ほど尊い修行はないということだ。この修行の王道を左に逸れれば(緩めれば)楽しいことが増し、右に逸れれば(厳格化すれば)のぼせやすくなる。兄弟よ、愚かな本能に負けることがあっても耐えよ。なぜなら、かの叡智の神から永遠の冠を受けて長官となるよう召されているからだ。アダムの体が乱れてきても怖がるな。この体は、来るべき日に天の原像である世界の王(神)が訪れるや、この世の知性では理解しがたい永遠の福楽に与るからだ。生まれ持った性質が変わったり乱れたりすることがあっても戸惑うな。なぜならそういう変化を喜んで受け入れる者にとっては、そういう悩みは一時的なものに過ぎないからだ。慾というのは、肉屋で餌をもらい慣れた犬のようなものだ。ひとこと咎められれば逃げ出すが、無視されると獰猛な獅子のごとく食らいついてくる。取るに足らない肉慾を踏みつぶせ。そうすれば、肉慾の炎のもたらす力に思いを馳せずに済むだろう。なぜならば、少しのあいだ小さな点で我慢していれば、大きな危険性を弱めることができるからだ。小さな点で勝てなければ、大きなことは克服できまい。

兄弟よ、いずれ来世でどういう身になるのか忘れるな。あたかも水面を泳いで向こう岸へ渡るような現時点の生命とは異なり、すっかり死の性質から自由になった生命が待っている。もはや本性の炎も生じない生命のため、ひ弱な者が情欲を大目に見て苦労することもない。そもそも試練を受けようと思って修行に入ったのではなかったか。ならば、修行における苦労を耐え忍べ。そうすれば現世を去る日に神から冠を受けて安らかに息えるだろう。その日までは、かの果てしない福楽を思い、慾のない生命を思い、何もかもご計画どおりになる不変の秩序を思い、神を溺愛して本性を支配できる精神状態を思い浮かべよ。願わくはわれわれもハリストスご自身の恩寵によって、この精神状態に与ることができますように。光栄は始めなき父と子と至聖なる聖神に帰す、今もいつも世々に。アミン。

 

第72訓話 心を守ることと、鋭い観照について

長らく僧房にて独居していながらまだ真の観照力が身についていないのであれば、いつも讃詞トロパリ坐誦経カフィズマ(聖詠)を唱え、死を思い起こして来世に期待しながら過ごせ。そうすれば知性を集中させることができ、あれこれ思いめぐらさずに過ごして真に観照できる日がくることだろう。なぜなら神゜は慾よりもはるかに強力だからだ。来世に期待しながら神を思い、讃詞の意味を汲みとるよう努め、肉慾をそそる外部のものをすべて警戒せよ。なおかつ僧房内でどのように規定を守っているかというささやかな点にも注意を払え。つねに想念を点検し、万事において見る目を持つことができるよう祈ることだ。見る目を持てば、喜びが湧き出してくるだろう。そのとき、蜜よりも甘美なる悲哀を見出すに違いない。

目に見える徳を積まなければ、慾に打ち勝つことはできない。属神的知恵を学ばなければ、知性が散漫するのを克服できない。知性は軽い。だから何らかの思索で縛りつけておかないと、あれこれ思いめぐらして止まるところを知らない。でも右記した徳を積んでおかなければ、知性を守ろうとしても守れない。なぜなら敵に打ち勝たなければ平安はなく、平安がないとなれば、いかにして平安の中で死守されるものを身につけることなどできようか。慾は、秘められた霊的徳行の障壁となっている。だからまずは目に見える徳で慾を打ち負かしておかなければ、慾の向こう側にある内面の徳は見えてこない。というのも壁の外にいる者は、壁の内にいる者と一緒に住もうとしても無理ではないか。闇の中にいる者が太陽を見られないのと同じように、ひたすら慾の渦巻く霊性が徳を見ることなどできない。

聖神を慕って渇き求める感覚をくださいと神に祈れ。というのは、この感覚で聖神を渇望したときに世から離れることができ、世もこちらから離れてゆくからだ。この感覚は、黙修してそれ相応の読書をしつづけていなければ得られない。そうせずに探してはならないものである。もし探したりしたら徐々に身体的な感覚へと化してしまうからだ。何を言わんと欲しているか、理解できる人ならば分かってくれるだろう。叡智ある主は、われわれが汗を流してパンを得ることをよしとされた。悪意ゆえにそうされたのではなく、むしろわれわれが消化しきれないせいで身を滅ぼすことのないようにするためであった。というのは、いかなる徳もそれにつづく徳を生むものだからである。だから徳を生みだす母を放っておいて、母を確保する以前にその娘(徳)を探しに行くのであれば、そういう徳は霊にとって刺を含んだものとなってしまう。そんな徳はさっさと振るい捨てないと、まもなく身を滅ぼすこととなる。

 

第73訓話 神への愛の特徴と、その作用について

人は際限なく神を愛するようになると霊的感動に浸る。なぜなら神への愛というものがもともと熱いものだからだ。ただこの愛が大きすぎるがゆえに、この愛を感じるなり、人の心は受け入れたり持ちこたえたりすることができず、その愛の質に応じて並ならぬ変化が生じるのである。その顕著な特徴は以下のとおりである。顔は紅潮して嬉々とし、体は温くなる。恐れも恥も忘れて感無量となる。知性を集中させる力もどこかへ消え失せ、あたかも感嘆したまま明け暮れる。恐るべき死でさえも喜ばしいものに思え、万難を排して天上を思いめぐらす知的観照に励んでやまない。そして誰もいないところで、まるで目に見えない誰かと話しているかのように語らう。生まれつき持っていた知恵や直観は消え去り、もはやモノから呼び起こされる動きを五感では感じなくなる。なぜなら、知性が観照に没頭し、いつもだれかと会話しているようなものなので、たとい何か作業をしていたとしても、作業していることを全く感じていないからである。

かくなる属神的陶酔に浸っていたのが、使徒や致命者たちであった。前者は世界中を駆けめぐり、屈辱に耐えながら汗水垂らして働いた。後者は肢体を切られて水のごとく血を流し、おぞましい苦痛にあっても怖気づかず勇敢に耐えた。そして賢者でありながらも愚者だと評された。いっぽう属神的陶酔に浸って荒野や山や洞窟や崖をさまよった修行者もいる。何も整えられていないところで誰よりも快適に過ごした人たちだ。どうかわれわれも神の恩寵によって、このような愚かさに到達することができますように。

謙遜の城に入る以前に、慾が鎮まったような気がしても過信するな。というのは、敵は何らかの落とし穴を用意しているからだ。むしろ穏やかな日々には、じきに大惨禍や大騒動に見舞われるのを待て。徳の家をすべて回りきらないうちは手を休めることができず、聖なる謙遜の家にたどり着くまでは敵の罠から逃れられない。神よ、どうかわれわれも、あなたの恩寵によって謙遜の家にたどり着くことができますように。アミン。

 

第74訓話 徳の種類について

修行は聖なるものの母である。人は修行をとおしてハリストスの奥義を感知することができ、それが属神的なものを認識する第一歩だといわれている。心を浄めもせずに夢想に浸って自分を欺くな。というのも、汚れたたましいは清い王国に入れず、聖なる霊と交わることなどできないからである。

涙を流して斎をし、独りで黙修しながらおのが貞潔を磨け。苦しむことなく偉業を成しとげるよりも、神のために少々苦しんだほうがよい。なぜなら愛の信仰があるのなら、すすんで苦しむようになるからである。逆に霊的に暇にしている人は、楽にできることばかりする。だからこそ聖人たちはハリストスを愛するがゆえに、楽をして生きることなく喜んで苦しみに耐えたのである。なぜなら苦労せずに行なう物事は、世俗人の行なう正義だからである。世俗人は自分の外面にあるもので喜捨をして自己正当化するが、自分自身の内面に完全性を求めない。しかしあなたは、ハリストスの受難にならう修行者として自己の内面で修行し、ハリストスの光栄を味わう恩恵に与れるようにせよ。というのは、ハリストスと共に苦しむのなら、ハリストスと共に光栄を受けるからであるロマ 8 : 17。体がハリストスのために苦しまないのであれば、知性はイイススと共に光栄を受けることはない。ゆえに世の賞賛に見向きもしない者は神の光栄に与り、たましいと一緒に体まで光栄を受けるのである。というのは、体はへりくだって神に従うことで光栄を受け、知性は神における真実を観照することで光栄を受けるからである。真の従順さには二種類ある。すなおに行動する従順さと、苦痛に耐える従順さだ。ゆえに体が苦しむときには心も苦しむ。神を知らなければ、神を愛そうという気にならない。神を見ていなければ神を愛せない。だいたい神を知らなければ、神を見ることはできない。なぜなら知りもしない神を見ることなどできないからである。

主よ、あなたのことを知って愛することができるようにしてください。ただし知力をすり減らして習得するような知識ではなく、知的にあなたを観照しながら神性を讃美し、そのような観照力で神秘的に現世の感覚を奪い取っていただきたいのです。どうか勝手に思い描いてしまう夢想を乗り越えて、十字架に縛りつけられたあなたを見ることができますように。この知性も十字架につければこそ思惟の痕跡から自由になり、絶えず霊妙にあなたを観照しながら安らぐことができます。あなたの愛を追いかけてこの世を捨てることができるよう、あなたへの愛を増し加えてください。聖なる童貞女より身をとり人となってこの世に住んでいらしたときに示された謙遜を、私にも会得できるようにしてください。つねにあなたの謙遜を念頭に置いておくことにより、わが本性の弱さを喜んで受け入れられるようになるためです。

十字架に昇るには、二つの方法がある。体を磔にするか、観照に入るかだ。体は慾から自由になれば磔になった状態になり、知性は精神活動の結果として観照に入る。知性は、体がおのれに服従しないかぎり自ら服従することができない。体を磔にすれば知性の王国が訪れる。つまりおのが自由をすべて理性に服従させたとき、知性も神に服従できるようになるのだ。まだ初心者で年若い者に高度なことを教えるのは難しい。「王が若齢の国は、いかに不幸なことか」コヘレト 10 : 16と書いてある通りである。人は神に服従しようとすれば、ほどなく万物が自分に服従してくるだろう。自分自身を知った者は、すべてを見抜く知恵を授かる。なぜなら自分自身を知るということは、満遍なくすべてを知り尽くすことと同じことだからだ。ゆえにたましいが神に服従した後で、万物があなたに服従するようになるのである。とことん謙遜に生きられるようになれば、あなたのたましいがあなたに服従し、と同時に万物があなたに服従するようになる。なぜならあなたの心に神の平安が生まれるからである。しかしまだその状態に達していないうちは、慾はおろか状況までもが絶えずあなたを迫害してくるだろう。主よ、あなたはまことにわれわれが謙遜するまでは、何とかしてへりくだらせようと工夫せずにはおられません。あらゆる試練を耐え忍んでゆくうちに真の知恵に至り、その知恵が深まったときに真の謙遜に至るからである。

 

第75訓話 絶えず斎をして自己集中することについて。いろいろな知恵を得て、かような事柄を習得したことについて

私は長年のあいだ右からも左からも誘惑を受けて、正道から逸れる試練を何度も味わってきた。敵の無数の攻撃を受けつつひそかに偉大な神に助けられているうちに、経験を深めて恩寵によって以下のことを知った。あらゆる善の基盤、つまりたましいを敵の虜から帰還させて光と命に向かうためには、次の二つを守るにかぎる。自己集中し、つねに斎をすることだ。つまり叡智に基づいて賢く胃袋を自制しようと決め、どこへも出かけることなく同じ場所に留まり、つねに知性を世の慮りから解放して神を思いつづけることだ。するとどうなるか。感覚が鎮まって知性が冴え、体に湧く激しい慾が治まって想念も穏やかになる。考え方も明るくなって徳行に勤しみ、高尚で微妙なことを理解できるようになる。つねに涙がとめどなく流れて死を思う。清くて貞潔であるため、思考を逸らす夢想をしなくなる。遠いものを鋭く見抜いて会得し、聖書を読んで深い神秘を悟る。たましいに内的動きが生じて聖なる天軍とそれ以外の霊を見分け、真の直観と空しい夢想を区別して論じられるようになる。畏怖心が湧き、この先どう進もうか考えているときに楽な道を捨て、燃える熱意で危険を乗り越えてどんな恐怖にも打ち勝つ。あらゆる欲望を無視して知性を浄め、そんなふうに邁進しているうちに現世に関する事柄を何もかも忘れてゆく。端的にいえば、人が真に自由になり、霊的歓喜のうちにハリストスと共に神の国で復活するのだ。

この自己集中と斎という二点をないがしろにする者は、右記の事柄をすべて失うだけでない。むしろこの二つの徳を軽んじたがゆえに、万徳の基盤そのものを揺るがしてしまう。なぜなら、この二点は霊的修行の神聖な礎だからだ。この二点を守っていれば、ハリストスを示してハリストスに導いてもらえるのだが、この二点から逸れて遠のくのであれば、正反対の悪習である放浪と飽食に陥ってしまう。放浪や飽食は右記の徳に反旗を翻す始まりであり、たましいに慾の湧く場所を与えるものである。

放浪するという行為が、何よりも鎮まった感覚を自制から解くものであるならば、その自制から解かれた後にはどうなってしまうのだろうか。まさに思いがけず柄に合わない事件にはまって堕落しそうになり、誘惑の嵐に見舞われる。目から入った印象に身を焦がされて縛られる。やましいことを考えるようになり、抑えがたい想念が堕落へ引きこむ。神の業を成しとげようという気持ちは中途半端になり、徐々に黙修者らしさが失われ、おのが生活形態の規則をすっかり手放してしまう。そして国をまたいで点々と移動しながら、否応なく目に飛び込んでくる形象を次々と思い浮かべているうちに、忘れてかけていた悪習が息を吹き返し、かつて知らずにいた悪習まで学んでしまうのである。

すると慾が、恩寵のおかげですでに心内で死に絶え、記憶にないほど忘れ去っていたのにまたもや動き出して、たましいにこうしろと迫ってくる。これぞ(もしこれ以上くわしく述べないのであれば)放浪者の成れの果てであり、黙修による困窮を耐えきれなかった者の末路なのだ。

ではもう一つの方、つまりわれわれが豚の営みに走ったときにはどうなるのだろうか。ここでいう豚の営みとは、胃袋に際限なく何かを詰め込んでやまない飽食のことだ。理性ある者ならば、理性ある者にふさわしく身体的需要を満たす時刻を定めているものではなかろうか。にもかかわらず飽食に走ったりしたらどうなるか。頭が鈍くなり、体も重たくなって筋肉が弱まる。ゆえに叩拝するのも億劫になるので奉神礼に通えない。日ごろの叩拝すら面倒臭いなり、暗い思いで倦厭な気分になる。想念がどんどん暗躍するため知性も粗くなって判断力を失う。たましいは先の見えない闇にすっぽり覆われ、気が重すぎて神に奉仕したり読書したりすることなんてできない。神の言葉の甘美を味わうことができないからだ。任務を怠っているので暇を持て余し、知性はあてもなく地上をさまよう。肢体のどの部分にも水分が余るほど蓄えられ、夜になれば下品な幻像による汚れた夢を見、その肉慾でたましいを刺し貫いて汚す。この忌まわしい者の寝床も衣服も全身も、昼夜を問わず泉のごとくあふれ出てくる下品な色欲で汚れる。なぜなら体がいつも色欲を発して思考を汚しているからだ。その結果、貞潔なんぞ見たくもない。というのも絶えず抑えがたい甘い情欲を全身で感じているからである。そして魅惑的な美貌を思い描き、いつもイライラして頭はそのことでいっぱいになる。するとすすんでそういう想念を受け入れてしまい、分別が効かなくなったせいで対象を思い描いては欲しくなる。これこそまさに預言者が「お前の妹ソドムは、食物に飽き安閑と暮らしていたからこうなったのだ」と言ったことなのだイエゼキイリ 16 : 49 参照)。そして偉大な賢者の一人が「美食で体を肥やせば、たましいは闘わざるを得なくなる」と言ったことなのである。はやく我に返って自己統御すべく自制しようとしなければ、体が強い興奮に動かされるせいでまったく自制できなくなってしまうだろう。なぜなら肉慾というたましいを虜にする刺激や興奮は、強くて抗いがたいからである。さあ、悪鬼の巧妙さが分かっただろうか。かの聖人はさらにこうも言った。「青年期には体が柔軟なので身体的快楽に陥りやすい。しかしたましいは慾を得るなり死に取り囲まれ、そのまま神の裁きにかかってしまう」と。

しかし、いつもやるべきことを覚えて学んでいるたましいは、やがて自由を手に入れて安らぐようになる。さほど慮るべきこともなく、後悔する必要も一切なく、徳に励みながら慾を統御している。そして徳を守りながら成長しつつ悲しみのない喜びに向かい、善良に生きて安全な港に至る。でも身体的快楽に浸っていれば慾が強まってたましいがやられ、しかもたましいを根こそぎ引き抜かれて胃袋の欲するままに際限なく暴食するようになり、時間外でも身体的需要を満たさずにいられなくなる。この欲にやられた者は、少しの空腹にも耐えられず自制することもできない。なぜなら慾の虜になったからだ。

さあ、大食漢にはいかに恥ずべき末路が待っていることか見えただろうか。それに対して、上述したように忍耐しつづけていれば、つまり同じ場所に留まって黙修しつづけていれば、受ける霊的利益は計り知れない。ゆえに、われわれの生理的欲求の高揚期を知っている敵は、いろいろなものを見たり満腹したりすると頭が乱れることを知っていて、まさに生理的欲求の高揚期をねらって生理的欲求を増幅させ、われわれが必要以上に欲するようにし、邪念で形象を思い描くようにさせ、あわよくば慾が激闘において人性を打ち負かし、人が罪に堕ちて汚れてしまうように仕向ける。敵にその時期を知られているからこそ、われわれも自分の弱さと人性を自覚し、生理的欲求の高揚期にうごめく欲求に対しては力不足で逆らいようがないことを弁えておくべきなのである。それにわれわれから見ると際どい想念など塵のごとくかすかなため見抜くことができず、そういう想念と出会ったときに抗えないことも弁えておくべきなのである。そして試練を積み重ねて敵の誘惑に何度も惨敗した末に賢明になり、楽をしたいと思ってもすぐに楽をせず、腹が減っても勝利を譲らず、たとい飢えて弱って追い詰められても黙修の場所から動かず、誘惑の起こりやすいところには行かず、荒野から脱け出るための言い訳や方法をこしらえないことだ。というのは、それは明らかに敵の姦計だからである。荒野にさえ居続ければ、誘惑に遭うことはない。なぜなら女を見ることも修道生活に支障あるものを目にすることもなく、下品な声を耳にすることもないからだ。

「それなのに、今あなたはエジプトへ行ってナイルの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか」イエレミヤ 2 : 18。どうか、いまから言うことを分かってほしい。とにかく小さな点において、我慢できる経験者であることを敵に見せつけることだ。そうすれば大きな点で誘惑されることはないルカ 16 : 10 参照)。この小さな点で退治できるかどうかが基準になると捉えよ。小さな点で敵を退治できれば、敵に大きな落とし穴を掘る時間を与えずに済むからだ。だいたい敵に「黙修の場所から五歩離れよ」と唆されても耳を貸さない者が、「荒野を去って人里に近づけ」という命令に従うことなどあるだろうか。黙修中に僧房の窓から外を見ることすら拒む者が、僧房から出るという案に賛成するだろうか。せめて夕方には少しぐらい食事を摂ってくれと頼んでも言うことを聞いてくれるか分からないような相手を、定刻前に食べてしまえという邪念で釣ることなどできようか。粗食で腹を満たすことさえ恥じる者が、高価な料理を欲するだろうか。どうやったって自分の体を見ようとしない者に、おもしろいから他人の美貌を見てみろと唆すことなどできようか。

したがって、まず小さな点を疎かにすることで隙ができ、敵に大きな誘惑で襲われて負けてしまうという構図が明らかであろう。この世の人生を少しでも長く生きることなど全く関心のない人間が、待望の死を呼ぶ艱難辛苦を怖がったりするだろうか。小さな点を疎かにしないこと、これこそ賢明な闘い方である。なぜなら賢い者は偉大な修行をしてみようなどと思い描いたりせず、ただ小さな点において我慢することで、ひどい苦労に陥ることから自分自身を守っているのである。

だから悪魔は、まず絶え間ない心の祈りを止めさせようとする。この絶え間ない心の祈りを止めさせることができたら、今度は定時祈祷や規則なんてどうでもいいじゃないかと唆して体を休めさせようとする。しかも同じ手でまずは想念を弱らせて、定刻前にちょっとだけつまみ食いさせ、人が斎を破ったが最後、もはや自制できずに淫慾に堕ちるままに放っておく。そもそも自分の裸や身体美をちょっと見てみたいという思いに負けてしまうと(より正確に言うと、何のこれしきと思ってしまうと)、用を足しに行ったり水浴びに行ったりした時に服を脱ぐなり感覚が解放され、たとえば大胆に服の下に手を伸ばして自分の体に触れたりしているうちに、それ以外の欲求が次から次へと押し寄せてきてしまうのだ。するとそれまでせっかく知性の砦を守りながら上述した事柄などを憂いていたのに、危険な入り口を広々と開けてしまう。なぜなら(たとえて言うならば)想念とは水のようなもので、きちんと周りから取り囲まれていれば正しく秩序を保てていても、その防波堤から少しでも外に出てしまうなり、囲いを壊して漏出して元も子もなくなってしまうからである。なにせ敵は、昼も夜もわれわれの目の前に立ち、五感という入り口のどの穴から入ることができそうか精査して見ながら待ちあぐねいているのだ。そしてわれわれが上述した点のいずれかで怠け出すなり、この狡猾で恥知らずな犬(悪魔)は、われわれの中に矢を打ってくる。それに時には本性そのものが、楽をしたくなったり奔放にしたくなったり、笑いたくなったり夢見たくなったり怠けたくなったりして、慾の原因になったり嵐の淵に成り下がったりすることもある。しかも敵がそういう思いをたましいに忍び入れることもある。だからこそ、われわれは偉大な業ではなく、どうでもよく見える小さな苦労をこそ選ぼうではないか。というのも、このどうでもよく見える小さな苦労を負えば、多くの実践しがたい厳しい苦行を負わずに済み、苦闘や重傷も負わずに済むことが証明されているのだ。だとしたらこの小さな苦労で備えて、甘美なる安息をいち早く得ようとするのが普通だろう。

おお、叡智よ。なんじは何と遠くから前もってすべてを見通していることか。叡智を身につけた者は幸いである。青年期に特有の怠惰に陥ることがない。わずかな代価や代償を払って、抗いがたい慾を癒す薬を買う者は良いことをしている。現に、ある賢人が弱さゆえによろめいた時のことである。その賢人は、はっと気づいてすぐに座って居住まいを正した。すると傍にいた人がその所作を見て笑ってきたので、こう答えたという。「いや、よろめいたから焦ったわけではない。ただ自分の不注意を恐れているのだ。というのも、しばしばちょっとした不注意が原因で大きな危険を招くではないか。だからきちんとした状態から崩れるなり立て直すことで、恐れる必要のないことすら見逃さない覚醒の姿を見せたのだ」と。これぞ、切れ者というものだ。つまり小さなことでも些細なことでも何をするにしても、つねに目を覚ましていること。そうすれば大いなる安息を自分に用意することとなり、道を逆行しないようつねに警戒し、そうなる原因を早期のうちに断ち切り、些細な点で小さな苦難を耐えることで、大きな苦難を根絶やしているのである。

ところが賢慮できない連中は、遠く離れた王国よりは目の前の小さな安楽を選ぶ。修行の苦しみに耐えた方が、国王の寝床で休んで怠惰ゆえに裁かれるよりもましなことを知らない。いっぽう賢者は死を渇き求め、つい罪を犯すことだけはしたくないと望みつづける。ゆえに賢明なる方(神)は、「自分の生命のために、目を覚まして懸命に生きよ」とおっしゃったのである。それに捧神者であった聖大ワシリイも「小さなことを怠っている者を目にしたら、その人が大きなことで活躍できるとは思うな」と言ったのである。

生命をもたらす事柄に関わるときに肩を落とすな。それに、そういう事柄のために死ぬ気で取り組むことを怠るな。なぜならおっかなびっくりしているから倦怠感に襲われるのであり、もとはと言えば投げやりになるから臆病になったり倦怠感に襲われたりするのだ。臆病者は、体が大事とおもう疾患と、信仰が弱いという疾患で苦しんでいる。

ちなみに体が大事と思うのは、不信仰のしるしである。その逆に体を軽視する者は、全霊で神を信じて来世の福を待望している証拠である。

危険を冒すこともなく、修行も試練もなく神に近づくことができた人を見たならば、その人に倣え。人の心はいかにして勇ましくなり、危険を省みなくなるのだろうか。残忍になるか、あるいは大いに神を信仰するかによる。残忍になった末には傲慢になるばかりだが、信仰を持った後には心がへりくだるようになる。まずたくさん御旨を実行していかないことには、神へ希望をかけることなどできない。というのも良心に裏付けられてはじめて、神へ希望をかけて雄々しい心になるのであり、知性に真に確証してもらえればこそ、神に期待することができるからである。この知性による確証というのは、人が微塵たりとも良心の呵責を覚えないときに生じるものである。たとえば自分のやるべきことを、その気になればできたのにしなかった、などという呵責があれば、そのような確証は得られない。もしわれわれが自分の心に裁かれない状態であれば、「われら神の前に毅然たり」イオアン一 3 : 21。したがって、徳において上達した成果として、良心が善良になった結果として、人は勇ましくなるのである。だからこそ、体に隷属するなんて霊的に惨めなことだ。ほんの僅かなりとも神への希望を感じた者は、この体という容赦ない主宰に求められても仕えることはしないだろう。光栄はわれらの神に世々に帰す。アミン。

 

第76訓話 沈黙と黙修について

人は次の三つの理由のいずれかにより、絶えず黙って黙修することができる。他人から褒められたいためか、熱心に徳に励みたいからか、あるいは内面で聖なる会話をしていて、知性がその会話に惹きつけられているからか、である。ゆえに、この二つ目か三つ目の理由を自分の中に見出せない場合、否応なく一つ目の病(虚栄心)に苦しんでいる。徳というのは、次々と体で成しとげるいろいろな業を見せることではない。そうではなくて、心から賢く希望できることなのだ。なぜなら心から賢く希望できていれば、頭で正しく判断しながら、その賢く希望できている徳を神の業に結実できるからである。人は、たとい身体的な業を伴っていなくても、知性で徳を行なうことができる。しかし体で徳を行なうときには、心が賢くないと何をなしても益を得ることができない。もっとも神の人と言われるような者は、善を行なえる機会に出くわすなり、苦労してでも神への愛を証明せずにはいられない。つねに成功するのは、前者の徳(心の祈り)である。しばしば成功するがたまに失敗してしまうのは、後者の徳(身体的苦労)である。つまり、知性の営みをなすために慾を刺激する要因から常に離れているのは、意味のないことではないのだ。光栄はわれらの神に世々に帰す。アミン。

 

第77訓話 体の動きについて

情欲を抱けば体が熱くなり、たましいも否応なく巻き添えを食らう。そんな情欲を愚かにも抱いたわけでもないのに体の下部が動くとしたら、まちがいなく食べ過ぎたせいだ。もしもほどよく節食しているのにも関わらず、意に反してどう抗おうとも肢体が動いてくるとしたら、体そのものに慾の源があることを弁えよ。そしてこの闘いにおいては、女の顔を見ないようにすることが頼りがいのある最強の武器であると思ってよい。なぜなら、そうすれば敵は本性の力で達成できることもできなくなるからである。そもそも子供を産むために神がわれわれの本性に注入したものを、あるいはこの修行に留まる者の試練のために備えたものを、本性が忘れわけがなかろう。それでも欲情の対象から離れれば、肢体にある肉慾を殺し、肉慾を忘れて根絶することはできる。

かなり離れたところにある対象については、たとい想ったとしても辛うじて感じられる程度の軽い動きしか思考にもたらさない。ところが目の前にある対象についてはそうはいかない。知性はその対象に没頭して自分自身を忘れ、対象が近いせいで慾を刺激し、まるで燈明を燃やす灯油を得てしまったごとく、すでに死滅していた肉慾を燃やし、思考の船が揺れに揺れて体の深淵をかき乱す。人は、外部の何かと合体しないかぎり、もともと子供を産むために備わっている本性の動きのせいで自由意志が乱れたり、清さから逸れたり、貞潔を脅かされることはない。なぜなら神は、神に向かう善意を打ち負かすような力を本性に与えなかったからである。しかし人がイライラしたり肉慾を抱いたりして興奮した場合、本性の力ではなく、自ら本性に加担することで本性の限界を出ていって責務から離れてしまうのだ。神が造ってくださった物は、どれもこれも素晴らしくて無駄がない。だから本性に適した量を正しく守っているかぎり、本性の動きのせいで邪道に逸れるようなことはない。むしろ体内には秩序正しい動きしか生じず、その動きを見て体内に生まれつき欲があることを知るだけだ。しかも慾にくすぐられて動揺して貞潔な生活が妨げられることもなく、興奮して知性が暗むこともなく、穏やかな状態から怒った状態に移ることもない。しかしながら時々感覚に夢中になって(そのせいでよく本性に逆らって勢いよく興奮してしまうのだが)、暴飲暴食したり、女に近づいてその姿を見たり女について話したりすれば、またたく間に体中に肉慾の火が走って燃え盛ってしまう。そして体内に蓄えた水分過剰のせいか、いろいろなモノを見すぎたせいで、温柔な本性を狂暴化してしまうのである。

ときにわれわれが思い上がったせいで、神が肢体に動くことを許容することもある。この場合、すでに上述した話とは異なる。なにせ上述した闘いは自由な闘いと呼べるもので、その闘いには本性共通の道が見られたからである。いっぽう思い上がるとよく許容されるこの闘いはどうだろうか。これは長いこと自己注視して努力した後、いくらか上達できたかなと思った矢先に送られてくる闘いであり、それも耐えて謙遜を学ぶために送られてくる闘いである。これ以外の闘いは、まさに思い上がりという理由以外で生じる手に負えない闘いであり、怠惰のせいで生じるものだ。というのは、われわれの本性は食べすぎて何らかの感覚に味をしめるや、すでに創造時に定められた従来の秩序を保とうとしなくなってしまうからである。すすんで黙修の悲哀から離れ、僧房内に閉じこもることをやめるならば、否応なく罪を愛するようになる。というのも嘆き悲しまずして、才知に走る魅惑から自由になることなどできないからだ。黙修して嘆くという苦労を負えば負うほど、闘わなくても暮らせるようになる。なぜなら嘆きつつ困難に耐えていれば、慾の中にある情欲が殺されるからだ。逆に楽々と暮らしていれば、慾はどんどん育まれていく。

というわけで、はっきり分かったことがある。われわれが欠乏している時こそ神と天使は喜び、楽に暮らしている時には悪魔とその手下が喜んでいるということだ。神の戒めというのは嘆きつつ追い詰められた中で成しとげられるものなのに、そういう環境を手放すとしたら、戒めを賜うた主ご自身をうまいこと軽んじることになってしまう。それもこれも楽々と暮らして生まれた慾のせいである。楽をすればするほど慾の生じる余地を与える。その反対に、徳の原因つまり困苦と悲哀に向かうのであれば、体を自制した中で想念が徒に飛び回らなくなる。つまり喜んで苦労と悲哀に耐えるとき、しっかりと想念を抑えきることができるのだ。かくなる想念は苦労することで動かなくなるからである。過去の罪を思い出して自分自身を懲らしめるならば、神がわれわれを休ませようとして何かといろいろ慮ってくださるだろう。神は、人が道から外れたことを自分自身で罰する姿を見ると喜んでくださるのだ。なぜなら、その姿は悔い改めている証拠だからである。そして人が自分を強いれば強いるほど、神に褒めてもらえる。徳によらない喜びは、すぐさま肉慾の動きを刺激する。ただしあらゆる欲情を伴った肉慾のことを指して言っているのであり、本性に備わっている欲求のことを意味しているのではない。光栄はわれらの神に世々に帰す。アミン。

 

第78訓話 誘惑のいろいろな種類について。真実のために誘惑を耐えるといかなる甘美があるか、賢い者はどのような水準に昇っていくかについて

徳というのは、一つの徳から次の徳へと進んでゆくものである。それは徳の道がひどく重苦しいものにならないためでもあり、順を追って徳に上達することで上達する喜びを見出すためでもある。そしてそうやって少しずつ進めばこそ、善のために耐えた悲苦も善きものとして親しみを持つことができる。たとえば清貧になろうとしても、まずは清貧の利点を確信してから清貧に向かわなければ実際に清貧になれないし、喜んで誘惑に耐えることもできない。同じく誘惑を耐えきろうとするならば、まずは「この悲苦を乗り越えれば身体的安楽を凌駕する何かを得られる」と確信してから悲苦に飛びこまなければ、実際に誘惑に耐えきることはできない。

これを言い換えれば、だれしもまずは悲苦を愛し、そのうえでこの世にある物を持つなという想念が湧いてはじめて、清貧になる準備が整うのである。そして悲苦を耐える道に進む場合には、まずは信仰を強めてから悲苦の道に入ってゆくものである。ただし目に見える物を捨てても感覚の作用を断ち切らなければ、つまり視覚や聴覚を断ち切らなければ、悲苦を倍増して二重のかたちで足りなくて苦しむことになる。より的確にいえば、感覚に訴える物を断ち切ったというのに、その物で感覚を楽しませようとするならば何の益があろうか。というのも、人はこれらの物から呼び起こされる慾によって、かつて実際にその物を得たときに遭ったのと同じ目に遭わなければならないからである。その物に親しみ慣れていた記憶が頭から離れないからだ。もしその物が目前になくてもそれを想像するだけで痛恨を伴うとしたら、実際にその物に近づいたときに受ける痛恨はどれほどか。というわけで、隠遁の道はすばらしい。隠遁すれば清貧になりやすくなり、ぐっと想念が弱まり、ただ隠遁を貫いているだけで力が湧き、避けがたい悲苦に見舞われたときに忍耐強くあることを学べるからである。

いくら抜きん出て賢い人であっても、自分と似たような生き方をしていない人から助言を乞おうとしてはならない。体験せず頭だけで研究して考察している哲学者よりも、学識がなくてもこの道を体験して知りつくした者に想念を打ち明けた方がよい。ところで、体験とは何か。単に何らかの対象に近づいて、知恵を得ることもなくその対象を見ることではない。むしろ長いあいだその対象と関わり、その対象から得られる益と害をとことん味わいつくすことだ。

というのも、しばしば有害なものに見えても、その中身は役立つことばかりという物もあるではないか。もちろんその逆に、役立つように見えても中身は有害という物もある。だから一見したところ得だと思われる物から損失を蒙る人は多い。そして彼らは損失を蒙っているがゆえに、その知ったところからくる証言は真実とは言えない。だからこそ、判断が欠かせない部分で忍耐強く考察できる者を助言者とせよ。なにせ助言者がだれでも信頼に足るわけではない以上、これまでに上手に自由意志を統御できた者のみを、そして裁かれたり中傷されたりする恐れのない者のみを助言者とすべきなのである。

この道を歩んでいて、どうも最近は平安なまま変わらないなと気づいたときには危機感を抱け。なぜなら、聖人たちが血を流して踏みならした正道から遠く離れているからだ。なにせ神の王都に向かっている道中の身であるうちは、次のような特徴が見られたときにこそ王都に近づいてきたと言えるのである。そもそも激しい誘惑に見舞われることになる。そして王都に近づけば近づくほど、つまり上達すればするほど、ぶち当たる誘惑は増えてゆく。ゆえにこの道を歩んでいて、たましいの中でかつてなく激しい誘惑に見舞われたと感じたときには、そのときこそ、あなたのたましいが実際に今までにない高い水準にひそかに入り、新たな状態において恩寵が増し加わったのだと思え。なぜなら恩寵の規模に応じて、それと同じ規模の誘惑による苦悶が神から送られてくるからである。もちろんその誘惑とは、いわゆる悪習やあからさまな悪行をやめさせるために送られてくる世俗的誘惑とは異なる。それにここでいう「誘惑」とは身体的興奮を指しているのではなく、まさに黙修中の修道士にふさわしい誘惑を指している。この内容については後ほど詳しく述べておこう。もし霊的に弱くて大いなる誘惑に耐えうる力がない場合、そしてそれゆえに大いなる誘惑に陥らせないでくださいと祈り、神もその願いを叶えてくれているときは、たぶんこういうことだろう。つまり大いなる誘惑に耐える力がなければないほど、大いなる賜を受けるには値しないということである。そして大いなる誘惑が入ってくるのを阻止することにより、大いなる賜が入ってくるのも阻止してしまう。なぜなら大いなる誘惑を受けずして、大いなる賜を神から授かることはないからである(コリンフ後 1 : 5 参照)。人は、われわれ受造物には悟りがたい叡智によって、耐えた誘惑に応じた賜を授かるよう定められている。というわけで、摂理によって降りかかってくる強烈な苦しみをたましいで受けることで、偉大な神からいかなる栄誉を授けられているか見抜くことができるのだ。なにせ苦しみが強ければ強いほど、慰められるものだからである。

質問  つまりどういうことですか。まず誘惑があって、その後に賜が来るのでしょうか。それとも最初に賜をいただいて、そのうえで誘惑を受けるのでしょうか。

回答  人のたましいというものは、まずひそかに自分の器以上の規模を受け入れなければ、そして以前に受け入れた聖神の恩寵を持っていなければ、誘惑を受けることはない。これについては、主ご自身の受けられた誘惑が証明しているし、同じく使徒たちも似たような誘惑を受けて裏付けている。かれらは慰むる者(聖神)を受けるまで、誘惑に入ることを許容されなかった。ただし恵みに与った以上は、その恵みからくる誘惑にも耐えるのは当然だ。なぜなら恵みの後には、その恵みからくる悲苦がつづくものだからだ。善なる神は万人にとってそのようにすることがよいと判断されたのである。そして、本当にそれはそのとおりなのだが、つまりまず恩寵が与えられた上で誘惑がくるものなのだが、しかし人としては必ず自由意志を試される誘惑を先に感じてから、その後で恩寵を感じるものなのである。そもそも誘惑で試されてもいないのに恩寵がくることなど、かつて誰にも一度たりともなかったからである。要するに、まず恩寵が知性に降ってくるわけだが、それを感じることができるのは後になる。ゆえにわれわれは、かくなる誘惑を受けているとき、もはや二律背反する二つの感覚を持ち合わせていなければならない。喜びと、畏れである。なぜ喜ぶべきかといえば、聖人が敷いた正道を、いや、万物に生命をたもう神ご自身が敷いた道を進んでいることが判明したからである。本当にそうであるかどうかは誘惑の種類を詳しく調べれば明らかになる。いっぽうなぜ畏れるべきかといえば、もしや傲慢のせいで、このような誘惑を耐える羽目に陥っているのではないかと身を引き締めるためである。もっとも、謙虚な思いを持っている者は、恩寵によって賢くなって右の違いをしっかり見分けて捉えることができる。つまりどれが傲慢から来た誘惑であり、どれが神の愛の鞭による誘惑であるか区別できるのだ。人が善く生活して上達して成長しているときに出遭う誘惑は、傲慢な心を諭すために送られてくる誘惑とは異なるのである。

神の友、すなわち謙遜な者が受ける誘惑とはどういうものか

霊的に成長して学びを深めてゆく者が、属神的な鞭で鍛えられて苦行へ向かうようになる誘惑とは以下のとおりである。気怠さ、体の重たるさ、肢体の無力感、倦怠感、知性の乱れ、病気の心配、一時的な絶望、暗い想念、人的援助や必要物資の不足等々。人はこれらの誘惑を受けて、孤独で孤児のようなたましいになり、心から嘆いて謙遜を深める。そして謙遜が深まったとき、創造主を渇望し始めた証拠なのだ。神は摂理に基づいて、受け手の能力と必要性に応じて誘惑を与えられる。まさに慰安や襲撃を与え、光や闇を与え、闘いや助力を与え、つまり一言でいえば、圧迫感や開放感を混ぜるようにして与えられる。そして人がこういう誘惑を受けているとき、神の助けを得て上達している証拠なのだ。

 

第79訓話 傲慢について。神の敵、つまり傲慢な者が受ける試練について

いっぽう厚かましくも神の慈憐の前で思い上がり、不遜にも神の慈憐をこきおとす者は、次のような霊力にあまる悪魔的試練に真っ向から陥ることになる。まず、人としての賢明な理性が奪われ、尊大さをへし折ってへりくだるために淫らな思いが付きまとってくる。すぐにイライラし、何でも自分の思うようにならないと気が済まなくなる。言葉尻を捕らえては裁き、居丈高に何もかも軽蔑し、知性がすっかり血迷う。さらに神の名を冒瀆し、笑われてもおかしくないような変な、より正確にいえばかわいそうな思いに捕われる。つまり「みんなに無視され、受けるべき敬意すら受けていないじゃないか」といった類のすねた思いである。悪鬼の姦計によってひそかに、あるいはあからさまに恥をかかされて屈辱を味わう。世間と関わって交流したいと願い、のべつ幕なく口を開いて愚かな無駄話をする。年がら年中どんな事件が起こったか気になって仕方がなく、偽りの預言すらも求め、できないことまであれもこれも請け合う。以上が、属神的試練である。

また、次のような身体的試練もある。複雑怪奇な事件ばかり起こって解決しようがなく、しょっちゅう悪人や無神論者に出くわす。つまり暴漢の手にかかったり、心がこれといった理由もないのにいきなり怯えたりする。あるいは、しばしば絶壁や高所などから墜落してひどく怖い思いをして、ついに神の力や信仰力に見捨てられたことに気づく。一言でいえば、本来ならば有り得ないような対処しようのない事柄が自分自身や隣人に降りかかってくるのである。傲慢な者は、これらの試練を受けることになる。

これらの試練はすべて、人がどう見ても自分は賢いと思うことから始まる。そしてそういう傲慢な思いを抱いた分だけこのような災難が降ってくる。というわけで、自分に降りかかってくる試練の種類を見て、自分のきわどい知性の道を知れ。もしもこれらの試練が、先述した属神的試練に混ざってくるとしたら、そういう試練が生じた分だけ自分が傲慢になっていることを知ることだ。

試練については、さらに次のように捉えることもできる。あらゆる苦境や苦難に見舞われたとき、忍耐力がないから余計にしんどくなるのだ。忍耐力があれば災難を追い払うことができるのに、逃げ腰だから苦しむことになる。ふつうどっしり構えていれば忍耐力がつき、耐えていればこそ慰められる。ただ苦難の渦中では、神に与えられない限りこのような忍耐力を自分の内に見出すことはできない。ただひたすら祈って涙を流してはじめて授かる賜だからである。

人は大きな災難にぶち当たることを神によしとされたとき、ついおどおどして臆病になる。すると抗いがたい倦怠感に襲われて、たましいが押し潰された感じがするのだが、これこそ地獄を味わっている瞬間なのだ。この押し潰された圧迫感のせいで気がおかしくなると、どんどん取り乱すようになる。戸惑ってイライラし、冒瀆して運命を呪い、邪念が湧いたり国々を放浪したりする。「どうしてそこまで見苦しくなってしまうのでしょうか」と訊くだろうか。お答えしよう。「あなたが怠けていたからだ。まさに、そこまで見苦しくならないようにするための特効薬を見つけようともしなかったからだ。気がおかしくならないようにするための特効薬は一つしかない。ただその薬によってのみ、すぐに心が癒される」「その薬とは何でしょうか」「心からへりくだることだ。へりくだらずに気を落ち着かせられる人はいない。むしろ災難のせいで、ずたずたにやられてしまったと思うだけだろう」。

いや、本当のことを述べているからといって怒らないでくれ。たしかにあなたは全霊で謙遜を探そうとしなかったのだ。しかし、探したいと思うのならば、ぜひ謙遜の領域に入ってみることだ。謙遜の領域に入るなり、乱れていた自分が落ち着くのを目の当たりにするだろう。謙遜であればあるほど、苦難を耐える力が与えられるからである。そして、耐えれば耐えるほど重苦しかった気持ちも軽くなり、そのようにして癒されてゆくのである。癒されれば癒されるほど神への愛が増し加わり、神を愛すれば愛するほど聖神における喜びが増す。天の父は懐が深いため、真に神の身内の試練を軽減される際にも単に試練を取り除こうとはされない。むしろ試練への忍耐力をお与えになる。すると人は、忍耐力でもって上記の恵みを余すところなく受け取り、霊的完成に向けて成長してゆくのである。願わくはハリストス神の恩寵によって、われわれも神を愛して深謝しつつ苦難を耐える力を授からんことを。アミン。

 

第80訓話 徳の形態の解説。徳の形態はそれぞれどのような特徴と力を持っているかについて

黙修者は、身体的徳行をとおして物質性から体を清める。そして知的徳行をとおしてへりくだることで、身を滅ぼす野蛮な思いからたましいを清める。欲深く野蛮なことを思うのではなく、観照に留まるためである。知性はそのように観照しながら少しずつ物質性を脱ぎ捨てて、いわゆる「物質を帯びていない観照」といわれている観照に入る。これぞ、属神的徳行だ。というのは、思いが地上のことから昇華して、とうとう聖神を観照する状態に近づき、神のことしか考えなくなるからである。そして言いようのない光栄を観照しながら(ここで神性の偉大さを想像できるようになる)、現世や現世の感覚について思い出さなくなる。われわれは、こうしてわれわれのために希望が備えられていたことを確信し、その希望が実現したことを目の当たりにするのだ。これこそ、使徒が「すすめガラティヤ 5 : 8。原語では「確言」の意)と述べていた事柄である。つまり知性が思索中に確証を得ながら導かれて、かの約束された希望を楽しむようになるのだ。さて、ここまで述べた事柄がいったい何を意味するのか、そしてそれぞれの段階がどのような状態であるのか、これから説明するので最後まで聴きたまえ。

人は、まず神にかなう身体的生活をとおして身体的修行に励む。つまり明らかな汚れから肉体を清めるようにし、肉体浄化に資する徳行を積む。

次に、知的生活をとおして心の修行に励み、ひたすら最後の審判について考える。つまり神の義や、神の判決がいかなるものであるか思いめぐらす。また、絶えず心で祈りながら、神がいかなる摂理に基づいていかに個人や社会全体を慮っているのか思う。なおかつ、この世にいながらいかに見えない慾から自分を守ろうか、ひょんな慾が隠れた属神的領域に侵入しないよう熟慮する。これらはどれも心の修行で、知的生活とも呼ばれる。さらに霊的活動とも呼ばれるが、要はこうして心が洗練され、自然に反するような身を滅ぼす生活と関わらくなることだ。そして関わらなくなった後で、ときおり感覚的な物を直観して思いめぐらし、実にこれらの物が体の需要や成長のために造られ、いかに体の四大元素に力を与えているか理解する。

いっぽう〔死後に迎える〕属神的生活というのは、感覚を伴わない活動である。これについては師父たちが詳しく書き残している。聖人の知性は、属神的生活に入るなり物質性を脱ぎ捨て、もはや属神的に観るようになる。とはいえ〔生前の〕物質性を帯びた状態にあるうちでも、最高の本性を備えた受造物(人間)を観照することはできる。人は、この物質を帯びた状態にあっても、観照することで孤高の生活を捉えることができる。孤高の生活とは、神を感嘆する生活であるとみなされている。まさに〔死後〕来世の福を楽しみながら味わう高尚な状態であり、不死身と化した自由な身に、すなわち復活後の生命に与えられるものである。なぜならその状態に入ると、受造物のことを一切思わなくなり、ただ神を感嘆するばかりだからである。というのは、もし神に似たようなものがあったとしたら、知性はそれを感嘆することができたであろう。つまり神に感嘆する時もあれば、受造物に驚嘆する時もある、という具合である。でもいかに受造物が来世でより美しくなろうとも神の美には及ばない以上、どうして知性が神の美から目を逸らすことなどできようか。ということはだ。考えてもみたまえ。これほどの観照に与った者が、この期に及んでなおも避けがたい死や肉体の鈍重さを嘆くことなどあろうか。残してきた親族のことを憂うることなどあろうか。あるいは衣食住に困窮したり不幸に遭ったり壁にぶち当たったりしたからといって、落ちこむことなどあろうか。あるいは前代未聞の蒸し暑さや気候不順や自然災害に襲われ、そういう現象が代わる代わる訪れたからといって、気が滅入ることなどあろうか。あるいは倦怠感や重労働のせいで、ふさぎ込むことなどあろうか。

断じてありえぬ。知性は、いかに世の中でこのようなことが起ころうとも、心眼から慾の覆いが取り除いてあれば来世の光栄を目にして、たちどころに高尚な事柄を思って喜びに満たされるのである。そしてもし現世で生きている者がそのような属神的観照をしているときに、神に制限時間を設けられなかったとしたら、そしてそんな無制限が人間に許されたとしたら、人はきっと死ぬまでその状態から抜け出ることができずに観照しつづけたであろう。そして、現世でさえそうであるならば尚のこと、右に記したような障害のない来世においては、もっとその状態から抜け出られなくなるであろう。というのは、かの属神的徳行には限界がない以上、われわれは霊体で行なっているがまま神の王宮へ入ってゆくからである。もちろんそれにふさわしい生活をし、それに与ることができれば、の話だが。

というわけで、いかにして知性がかの感嘆すべき聖なる観照を差し置いて、何か他のものを見るために降ることなどできようか。ああ、自分自身のたましいのことを知らず、いかなる生活に呼ばれているか分かっていないわれわれは不幸だ。この不健康な人生と生きとし生けるものの状態を買いかぶり、世自体と世の悲哀に同調し、世の悪習や安楽に重きを置いているわれわれは不幸者だ。

しかし、唯一の全能者ハリストスよ、それでも「力をなんじに頼み、心の路をなんじに向くる人は幸いなり」聖詠 83 : 6なのです。どうか主よ、われわれがこの世から顔を背けてあなたを渇望できるようにしてください。世の何たるかを悟り、もうつまらない影を現実として盲信しなくなりますように。どうか息のあるうちに、いま一度この知性に勤勉さを与えて一新してください。知性を一新していただくことで、御旨どおりこの世でなすべき使命を果たすことができますように。そして、どう生まれてどう生きてどう死ぬことになったのか、この世を去る瞬間におのが人生の意義を把握することができますように。その上で、どうかわれわれにも希望をお与えください。まさに聖書にてお約束された、かの新しい時世のために愛をもって用意してくださった大いなる福楽を受けられるだろうと期待することができますように。その大いなる福楽は、信仰をもって教会機密に与るたびに思い起こしているものなのです。

 

第81訓話 体とたましいと知性を清めることについて

肉慾に関わらないようにしていれば、肉体を清めることができる。知性に湧くひそかな慾から自由になれば、たましいを清めることができる。しかし知性を清めるには、奥義の啓示を受けなければ清められない。というのも奥義の啓示を受けてこそ、それまで知性が重ったるく感覚に仕えていた対象から清められるからである。幼い子供は、体も無垢でたましいも無慾である。しかしだれも幼児の知性が清いとは言わない。というのも知性の清さとは、くもりなく天上の事柄を観照しつづけることだからである。人は、感覚ではなく属神的能力でもって天上の奇蹟や華を観ようとする。そのとき目に見えざるきわどいことに仕え、つねに聖なる啓示を理解しようとするしなやかな状態にあるため、人によって属神的生活というものは異なっている。どうかわれわれも神ご自身の恩寵によって、知性の覆いを取り除いて神を観照し、ゆくゆくはじかに神を世々に観照することができますように。神に光栄。アミン。

 

第82訓話 属神的叡智に満ちた役立つ事柄について

信仰は、奥義をひらく扉である。われわれは肉眼で感覚的事物を見ているように、信仰という属神的心眼で奥義を観るようになる。師父によると、この肉眼が二つの目で構成されているように、心眼にも二つの目がある。ただし心眼の場合、二つの目はそれぞれ異なる対象を観る。片方の心眼は、神の光栄の奥義を見る。つまり本性に秘められた神の力と叡智を見、永遠の摂理が見事にわれわれのことを慮って支配しているさまを見る。ちなみに同じ目でもって、天使階級がいかにわれわれに仕えてくれているかも観照する。ただしもういっぽうの心眼では、光栄にして聖なる神性を観照する。この観照はわれわれが属神的機密に入ることを神によしとされ、知性のなかに信仰が海のように溢れるときに与ることができるものである。

 

第83訓話 悔い改めについて

人は、受洗時に悔改という極上の恩寵を与えられる。なぜなら悔い改めることによって、ふたたび神から生まれることになるからだ。また、悔い改めることで、信仰を持ち始めたときに可能性として付与されていた賜をも得ることができる。ひたすら悔い改めようとしていれば憐みの扉が開かれ、この扉をとおって神の憐みに入るだろう。この入口から入らずして憐みを得ることはできない。「けだし人みな罪を得、義とせらるるを得るは、彼の恩寵をもってなり」ロマ 3 : 23, 24と聖書にも書いてあるとおりだ。悔改とは、第二の恩寵〔痛悔機密は第二の洗礼〕であり、信仰と畏怖心を持ったとき心に生まれてくる。われわれは属神的天国の福楽に達するまで、この畏怖心という「父の権杖」(絶対権)を用いて自分自身を統御する。しかし福楽に達するなり、もはやこの権杖は不要となるので返納することになる。

天国とは、つまり神の愛である。人は神の愛においてあらゆる福を楽しむことができる。福パウェルも神の愛において超自然の糧で満たされ、まさに生命の木の実を味わって「神が彼を愛する者のために備えし事は、目いまだ見ず、耳いまだ聞かず、人の心にいまだ入らず」コリンフ前 2 : 9と叫んだのである。そもそもアダムは悪魔に唆されて、この生命の木から追放された。生命の木こそ神の愛であり、アダムはその愛から堕ちてしまったのである。そしてその時から、人はもはや神の愛を見ることなく、ひたすら茨の地にて汗を流して働くようになった。ゆえに神の愛を失った人々は、かつてアダムの陥罪時に命じられたとおり、たとい正しく生きていたとしても汗を流して働いてパンを食べている。われわれは愛を得るまでは、茨の地で修行しているのだ。たとい義の種を蒔いたとしても、蒔いたり刈ったりする場所が茨の中であるため、いつも茨の刺で傷を負い、どんなに正しく行動していたとしても額に汗を流して生きることになってしまう。ところが、神の愛を得るなり、天のパンでこの身を養うようになり、苦労して働かなくてもどんどん力強くなってゆく。天のパンとは「天より降りて世に生命を与うる」イオアン 6 : 33ハリストスに他ならない。これぞ、天使の口にする糧なのだ。

人は愛を得ると、いつでもハリストスを味わい、ハリストスを味わうことで不死なる者となる。というのもハリストスが「このパンを食らう者は世々に生きん」イオアン 6 : 58と言われたからだ。ハリストスという愛のパンを味わう者は幸いだ。イオアンも「神は愛なり」イオアン一 4 : 8, 16と述べ、愛を味わう者こそ万物の神ハリストスを味わうことになると証言した。というわけで、愛に生きる者は神から生命をいただき、まだこの世でこうして生きているあいだに、かの復活の空気を漂わせて香るのである。義人らは復活するとき、この空気を楽しむことになる。愛というのは、王国である。主はこの愛を引き合いに出して、なんじらはわが国でこの愛を味わうことになるだろう、と使徒たちに神秘的に約束された。というのは、ハリストスが「なんじらわが国において、わが席に食飲し」ルカ22 : 30とおっしゃったのは、まさに愛を飲食することを意味しているのだ。人は飲食物の代わりに愛があるだけで、十分に自分を養うことができる。愛こそ「人の心を楽しませる酒」聖詠 103 : 15なのである。この愛という酒を飲む者は、幸いである。愛という酒を飲んで、大食漢は恥を覚え、罪人はつまずきの道を忘れ、呑兵衛は斎をする者になった。愛という酒を飲んで、金持ちは清貧を渇き求め、障害者は希望に満ち溢れ、病人は力強くなった。そして無知な者も賢者になったのだ。

だれしも舟なり船なりに乗らなければ大海原を渡れないように、神への畏怖心がなければ愛にたどり着けない。われわれと属神的天国のあいだにある汚臭に満ちた海をわたるには、悔改という名の船に乗り、畏怖心という漕ぎ手に漕いでもらわなければならない。畏怖心によって悔改という舟を操らなければ、いくら悔改の舟で神を目指そうとしても現世という腐臭ぷんぷんの海に沈んでしまうからだ。ゆえに、われわれは畏怖心を舵手として悔改の舟に乗り、愛という神の港を目指す。畏怖心があればこそ、悔改という舟に乗りたくなり、現世という臭い海を越えて愛という神の港を目指せるからだ。だれしも汗水垂らして悔改しつづければ、この愛という神の港にたどり着く。そして愛に至ったときに神に至り、悔改の航路を終えたことになる。すなわち来世という離島に、まさに父と子と聖神のおられる島に上陸することになる。光栄と国は神に帰す。どうかわれわれも神を畏れる心によって、神の光栄と愛にふさわしい者にしていただけますように。アミン。

 

第84訓話 知恵や信仰は、どれほど増し加わることがあるかについて

信仰よりも先にある知恵がある。また、信仰によって生じる知恵もある。信仰よりも先にある知恵は本性的知恵であり、信仰によって生じる知恵は属神的知恵である。人は本性的知恵で善悪を区別し、とくに研究しなくても善悪を見分けられる。これを本性的判断力という。理性的受造物たるもの、生まれつきこの判断力を神に埋め込まれている。さらに研究することで、この判断力をいろいろな場面で強めることができる。この判断力を持っていない人間はいない。この判断力は、理性あるたましいの中に埋め込まれた本性的知恵の力である。この力が絶えず霊内で作用することで善悪を区別している。この力を失った者は、理性的受造物以下となる。いっぽうこの力を持っている者は、属神的本性がしかるべき状態にあり、神が理性的受造物を重んじて授けてくださったものを何もかも保っている。預言者は、善悪を区別する認識力を失った者のことを指して「ただ人はたっときにとどまるを得ず、彼は亡ぶる獣のごとくならん」聖詠 48 : 13と戒めた。理性的受造物は、善悪を見極める判断力によって栄誉ある者となる。だから預言者が、理性や分別のない者を霊智なき獣に喩えたのは正しい。この判断力があればこそ、神の道に入ることができるからである。以上が、本性的知恵の特徴である。この知恵が、信仰に先立つかたちで与えられており、人はこの知恵をとおして神へ向かう。そして、この判断力を活かして善悪を区別できるようになり、信仰を受け入れられるようになるのだ。それに自然界に見られる巨大な力も、人間ならばこれらすべてを造られた神を信ぜよ、その戒めの言葉を信じ、その戒めを守るべきだ、と論証している。神を信じれば、神を畏れる心が生まれる。そして先述したとおり、いつも神を畏れて行動していれば少しずつ精進するようになり、信仰から生まれる属神的知恵を生みだすことになる。

人は、生まれつき神によって本性的知恵すなわち善悪の分別を埋め込まれている。分別をもって考えれば、すでにそれだけで万物を無から創造された神を信じなさいと説き伏されるようなものだ。神を信じれば、神を畏れる心が生じる。神を畏れれば、悔い改めて精進しようという気になる。このようにして、属神的知恵を授かるのである。つまり奥義を感じてから、信仰をもって真に観照できるようになるのだ。というわけで、ただ単に信仰を持つなり属神的知恵が生じるのではなく、まず信仰を持ったあとで神を畏れる心が生じ、神を畏れて活動してゆくうちに属神的知恵が生まれるのである。聖金口イオアンが「人は神を畏れて正しく考えられるようになって自由になると、奥義の啓示を受ける」と述べたとおりである。ここで金口イオアンが「奥義の啓示」と名付けたものこそ、属神的知恵なのだ。

神を畏れる心が、属神的知恵を生むのではない(なにせ自然界にはない知恵を生み出せるわけがないではないか)。むしろ属神的知恵というのは、神を畏れて精進したことへの賜として与えられるものなのだ。念入りに神を畏れて精進するとはどういうことなのか研究すれば、それが悔い改めに他ならないことを見出すだろう。この悔い改めにつづいて属神的知恵が与えられる。これこそ先述したように受洗時に可能性として授かっていた賜であり、悔い改めたあとで頂戴できる賜なのである。悔い改めて得られるこの賜こそ、既述したように神を畏れた精進への恩賜として与えられる属神的知恵である。そもそも属神的知恵というのは、奥義を感じることである。よって、この目に見えない高尚なものを感じたとき、その抜きんでた行為を属神的知恵と呼び、そう感じている中で当初の信仰とは異なる説得力のある信仰が生まれるのである。この信仰が、観照的信仰と呼ばれる信仰である。つまり、これまでは耳で聞いていただけだがロマ 10 : 17 参照)、もはや心眼で観るようになったわけだ。たしかに観ることができるものは、聞いたものよりも疑いの余地がない。

これらはいずれも、かの本性的知恵にて善悪を区別することから生じてくるものである。本性的知恵こそ徳を生みだす善い種であることは、すでに述べたとおりである。しかしこの本性的知恵を欲情の赴くまま濁してしまうのであれば、これらの恵みを残らず失ってしまう。逆に本性的知恵にしたがっていれば、いつも目覚めた良心で死を思い起こす。そして息絶えるまで苦しむくらい自己注視する。そうなると悲しんだり倦怠に陥ったり神を畏れたり、しかるべく恥を覚えて罪過を嘆いたり、やるべきことに邁進しながら人生の行く末を思うようになる。さらに何を来世に持っていけるか考える。いかなる生命体も通過することになる死という門を、どうか善き状態でくぐれますようにと涙を流して神に乞い、世を軽視して徳をなすために必死に闘うようになる。これらはどれもこれも本性的知恵によって得られるものなのだ。だからだれしも本性的知恵と照らし合せて行動するがよい。というのも、本性的知恵と照らし合せて行動できるようになるや、本性にかなった道を歩むことになるからだ。さらにその道を越えて愛に至れば、本性を超えた者となる。そうなると、もはや闘ったり畏れたり苦労したりすることもなく、あらゆることにおいて疲れることもない。さあ、本性的知恵が何をもたらしてくれるか分かっただろうか。ゆえに欲情の赴くままこの本性的知恵を濁すようなことさえしなければ、自分の内にそういう事柄を見出すことができる。そしてしばらくこの状態に留まったまま、愛がすべての労から解放してくれるまで待つこととなる。というわけで、ここに記した事柄と自分自身を照合し、いま自分がどこを歩んでいるのか、つまり反本性的な道を歩んでいるのか、あるいは本性的な道を歩んでいるのか、それとも超本性的な道を歩んでいるのか点検するがよい。こうして上記に明示した定義に基づくことで、いま自分が人生をどう歩んでいるのか判断しやすくなるだろう。そして、この定義で「本性的」と呼ばれている道を歩んでいないなと気づいたとき、しかも超本性的で永遠なる道にいるわけでもないと気づいたときには、あなたが反本性的な道に逸れてしまっていることは間違いないのである。たといそういうことがあろうとも、光栄はわれらの神に世々に帰そうではないか。アミン。

 

第85訓話 虚心になって聴く相手に愛をこめて語る実用性の高い助言

善い思い[シリア語では「動き」。この単語をギリシャ語訳者はすべて「思い」と訳している]が心に浮かんだとしたら、それはひとえに神の恩寵から来たものだ。邪な想念がたましいに近づいてきたとしたら、それは誘惑や試練に遭うために近づいてきただけだ。人は、自分がいかに弱いか悟りなり、完全な謙遜に至る。いつも心から深謝せずにいられない状態であれば、神の恩賜を呼びよせる。逆に、不満な思いばかり抱いていたら、いずれたましいに試練を呼びこんでしまう。でも主は、いかなる人間の弱さも甘受されているとはいえ、いつも不平をこぼしている者を苦々しく思い、その者を諭さずにはおられない。霊的に何の知恵にも照らされていないと、そういう不満な思いに陥る。しかしいつも謝意を述べている唇には神の祝福が降り、いつも感謝しつづけている心には恩寵が降ってくる。つまり謙遜のあるところに恩寵が降ってくるのだ。その逆に、自惚れていると罰が降ってくる。知識を鼻にかけていれば非難される目に遭い、善いことをしたぞと思い上がっていれば淫慾に陥る。われこそは賢人だと自惚れていれば無知蒙昧の罠に嵌ることになる。

人は、神のことを一切思わないような状態にあるとき、過去のことも悪くしか捉えられず隣人に嫌な懸念を抱いている。逆に、いつも神のことを覚えているならば、だれに対しても敬意を抱くため、神の指示によってひそかにどの人からも助けてもらえる。侮辱された人を守るならば、自分も神に守らえる。隣人に手を差し伸べるのならば、自分も神の力に助けられる。

さらにいうと、兄弟の悪習を責めるならば、自分も神に責められる。僧房内にて兄弟に忠告するならば、自分の悪習も癒すことができる。でも集会で他人の非を責めるならば、自分の患いが痛みを増す。隠れたところで兄弟を戒めるならば、愛の力を明証することになる。だが友人たちの前で兄弟を謗るならば、嫉妬の力をさらし出す。隠れたところで間違いを指摘してくれる友人は、賢い医者だ。たとい治してあげるつもりでも大勢の前で指摘するような輩は、単なる誹謗者でしかない。同情しているしるしは、相手の負い目をすっかり許すこと。悪い性格のしるしは、相手の罪過を責め立てること。相手を健康にしようと思って戒める者は、愛をもって戒めている。だが復讐してやれと思って戒める者には、愛がない。神は愛をもって戒めているのであって、復讐する気などさらさらない(そんなことがあってなるものか)。そうではなくて、ご自分の像(人間)を癒そうとされているのであり、治しようのない状態に陥る前に怒りを発しているに過ぎない。このような愛の表現は義勇心からくるものであり、復讐の慾に傾くことはない。公正なる賢人は、神に似ている。というのは、相手の罪に対して一切復讐することなく相手を罰し、その人が身を持ち直すためか、あるいは他の人がそれを見て身を引き締めるために懲らしめるからである。これに似ていない懲罰は、戒めていることにはならない。

報酬が目当てで善行をする者は、気づいたときには裏切っている。しかし知力の及ぶかぎり神の叡智を観て驚嘆している者は、たとい肉体を制御しきったとしても思い上がらず、断じて徳から逸れることはない。神の恩賜を受けてわれわれに学ぼうとする者は、謙虚な思いで心身ともに深くへりくだったといえよう。なにせ知恵に近づくまでは、生き方の規準が昇ったり降ったりするものだからである。だが知恵に近づくなり、全身全霊で高みに昇ることになる。ただしどんなに昇ったとしても、かの光栄なる時世が訪れて来世の富をくまなく受け取るまでは、知恵のみで完全性まで上昇しきることはない。というのは、いくら神の前で成長したとしても、所詮、神の後ろを付いていっているだけだからだ。しかし真実の時世が訪れた後では、神は面と向かってお顔を見せてくださるのであって、ただ「いる」という存在を見せるのではない。なにせ義人といわれる人たちでさえ、いくら神を観照するようになったとしても、現世では鏡で見るように神の像を観ているに過ぎないからだ。だが来世においては、現実がありのまま現出するさまを見届けることになる。

火は乾いた薪に燃え上がると、そうやすやすと消せない。よって神への熱意が世を拒んだ心に降って湧けば、その炎は消せないだけでなく火よりも勢いがある。酒の力が五臓六腑に染み渡れば、知性は何かと精密な知識を忘れてしまう。たましいという牧場が神の記憶で満たされれば、目に見える事柄についての記憶をすべて失う。知性で聖神の叡智を得たとき、海に用意された船を見つけたようなものだ。その船に乗るなり、この世という海から連れ去られて来世の小島まで連れていってもらえる。この世にいながらにして来世を感じることは、広い海の中に小さな島を見つけるようなものだ。その小島に近づくことができれば、もはや目に見えるこの世の波に悩まされることはない。

商人は、商売を終えたらそそくさと家に帰る。修道士は、まだ修行すべき時間が残っているうちは体から離れるのが辛い。だが時間を有効に活かしきり、来世へ持参できるものを得たと霊的に感じたとき、来世を渇望するようになる。商人は、海上にいるかぎり全身もろとも気を張っている。この仕事で得ようとした成果が、押し寄せる波に呑まれて沈んでしまわないようにするためだ。修道士は、この世にいるかぎり気を張って生活している。青年期から老年期まで苦労して修行してきた事柄が、湧き起った嵐に呑まれて無に帰してしまわないようにするためだ。商人は、はるか遠い地を眺めている。修道士は、息を引き取る瞬間を見つめている。

船乗りは、海をわたるとき星を見て、星にしたがって船を方向づけて港までたどり着こうとする。修道士は、祈りを見る。なにせ祈ることで身を正し、絶えず祈ることによってたどり着きたい港の方へ方向づけてもらえるからである。船乗りは、どこかに船をつけられる島がないか目を丸くして探す。その島でこのさき必要となる物資を補填して、次の島へ向かうためだ。修道士の歩みもそれに似ている。この世で生きているうちは島から島へ、つまり知恵から知恵へと進む。そして島を乗り換えるたびに、つまり知恵を乗り換えるたびに成長し、いずれ海から上がって真の町(天国)に至ろうとする。その町ではもはや住民が商売をすることもなく、それぞれ手に入れた富で穏やかに楽しんでいる。この大海原ともいえる波にもまれた慌ただしい世において、(属神的)商売が破綻しなかった者は幸いである。まさに船を壊すことなく、喜んで港に着けた者は幸いである。

潜水夫は、服を脱いで海に潜って真珠を探し出そうとする。賢い修道士は、すべてを脱ぎ捨てて人生という海をわたって自分の中に真珠を探し出そうとする。イイスス・ハリストスという真珠である。そしてその真珠を見出すなり、現存するものを何一つとして得ようとしなくなる。ハリストスのうちにあるからだ。真珠は、宝庫にて保管するものである。修道士の楽しみは、黙修のなかで守られるものである。処女が集会や大衆の中にいるのはよくない。修道士が大勢と会話するのは知性によくない。鳥は、どこにいようとも急いで巣に帰って雛を育てようとする。分別のある修道士は、急いで僧房に帰って生命の実を育もうとする。蛇は、自分の体を攻撃されたとき頭を守ろうとする。賢い修道士は、いつも自分の信仰を守ろうとする。信仰が人生の統領だからだ。雲は、太陽を隠す。くだらない話は、祈りの観照で澄み始めたたましいを曇らす。

賢者の言い伝えによると、サギという鳥は人里を離れて荒野に着くと楽しんで喜び、荒野に住み着くという。それと同じように、修道士のたましいも人々から離れて黙修の地に着くなり天上の喜びを受けて楽しみ、そこで死の時を待つようになる。そう、フクロウという鳥について言われていることがある。どの人もフクロウの美声を耳にすると虜になり、フクロウを追いかけて荒野を進んでいるうちにその美声に自分が生きていることも忘れ、そのまま倒れて死んでしまうそうだ。これと似たことが、たましいにも起こる。感覚や知性で神の言葉の美しさに触れてたましいに天上の甘美を受けるなり、全霊でその甘美を追いかけてゆくうちに身体的生活を忘れ、身体的需要に事欠いてたましいがこの人生から神に向かって昇ってゆく。

木は、まずは古い葉っぱを振り落とさなければ新しい枝を生やせない。修道士も、過去の記憶を拭い去らなければ、ハリストスにおける新しい実や枝をもたらすことはできない。

風は、果樹や畑の実を肥やす。神における慮りは、霊的な実をもたらす。言い伝えによると、貝殻に真珠が宿るのは、稲妻が光ったときに似たような閃光が生じ、空中から真珠をつくる物質を得るそうだ。そうなるまではただの貝殻にすぎない。同じく修道士の心が天上の物質(事柄)を理解するまでは、心の修行はただの修行に過ぎず、自分の貝殻(心)に慰めの実を宿すことはできない。

犬は、のこぎりの歯を舐めて自分の血を吸いながら、血の味が甘くて自分を傷つけていることに気づかない。修道士も、見栄に酔うとき自分の生命を吸っているのだが、その瞬間としては甘く感じるせいで自分自身に害を及ぼしていることに気づかない。世俗の名誉とは海水に覆われた暗礁のようなものだ。船乗りは船の底が乗り上げて水が溢れないかぎり暗礁があることに気づかない。人も見栄を張っていたせいで溺れて死なないかぎり本人は気づかない。師父も言うように、そもそも見栄を張ろうとするから、いちど打ち克って撲滅したはずの慾がまたもやたましいに戻ってくるのだ。太陽は、雲が出るなり輪郭が見えなくなるが、雲が消えてくれれば暑さもひとしおだ。たましいも倦んでしまうなり落ちこむが、倦んだあとには大いなる喜びが待っている。

聖書に秘められた言葉を読むときは、事前に祈ることもなく読もうとするな。むしろ神の助けを乞うて「主よ、どうか聖書の言葉の力を感じられるようにしてください」と祈れ。祈りこそ、聖書の内容を正しく理解するための鍵であることを弁えよ。心から神に近づきたいならば、まずは体で苦労して神への愛を示せ。きちんとした生き方はそこから始まるからだ。というのも心は必需品に欠けば欠くほど神に近づき、来る日も来る日も同じ糧に慣れ親しむほど神に近づいてゆくからである。このように、体で苦労していればこそ神に近づくのである。なにせ主ご自身が、そういう苦労を完全性にいたる基本として定めたではないか。遊惰にしていれば、たましいが道理に暗くなり始める。人とがやがや話していれば、もっと蒙昧になる。逆に人とがやがや話していたせいで、遊惰に陥ることもある。

ためになる話でさえ度を越せば頭がくらくらするとしたら、くだらない話をしたらどれほど朦朧とすることか。いかに神への畏怖心について語っていたとしても、長々と際限なく話していればたましいに傷を受ける。というわけで、たましいはいいかげんに生きているせいで道理に暗くなるのである。

何事においても規律と限度を弁えて生きていれば、知性が明晰になって困惑しなくなる。いいかげんに生きているせいで知性が戸惑えば、たましいも蒙昧となって取り乱れる。よい規律を守っていれば平安になり、平安のもとでたましいに光が生じる。平安であれば、清い空気が知性に輝く。心が世を離れて聖神の叡智に近づけば近づくほど、神から喜びを受けとるだけでなく、たましいの中で「聖神の知恵」と「世俗の知恵」の違いを感じとるようになる。なぜならたましいは、聖神の知恵に満たされている時にはすっかり押し黙るが、世俗の知恵に満たされている時にはいろいろな考えが次々と湧き起こるからだ。聖神の知恵を得れば、深くへりくだって柔和になり、あらゆる想念が鎮まって平安になる。それ以降は肢体も落ち着いて、乱れたり激情にかられたりしなくなる。しかし世俗の知恵を得れば、なんという賢人かと自惚れ、何とも言えない歪んだ想念で知性が乱れ、五感も恥を忘れて自慢するようになる。人間よ、かくも現世に縛られた身でありながら、いかにして神に祈るときに大胆になれようか。

根っからのけちであれば叡智を失うが、慈悲深ければ聖神に教わって賢くなる。

ちょうど灯火が灯油のおかげで光っているのと同じように、たましいは慈悲深さによって知恵をつける。隣人愛こそ、心に聖なる賜を得るための鍵である。そして心が地上の事柄から解放されればされるほど、知恵の扉が啓かれてゆく。人は、霊的に物質界から霊界へ移りながら理解を深める。隣人愛というものは、神への愛から逸れないかぎり、何と称えるべき素晴らしいものであることか。

属神的な兄弟と会話するということは、神との会話を保っているかぎり、何と楽しいものであることか。というわけで、こういう事柄についても気にかけることは、度を弁えているかぎり良いことなのである。つまり隣人愛をだしにして奥深い修行や生活をやめてしまったり、いつも神と会話していたことをやめてしまったりしないかぎり良いことなのである。ときどき前者(隣人愛)を守ることで、後者(神との会話)を妨げてしまうことがある。なにせ知性は二つの会話を同時に行なえるほどの力はないからである。

神の業を行なおうと決めて世俗人から離れた上で、またもや世俗人と会うならば、たましいが乱れてしまう。属神的兄弟と絶えず話すことでさえ毒だとしたら、世俗人など遠くから目にするだけでも毒だ。何かを感じることそれ自体が、身体的活動を妨げるわけではない。だが思いを鎮めて奥深い修行で喜びを刈り取りたいと思っている者にとっては、体験しなくとも声音を耳にしただけで心の平安が乱れる。五感の作用を断ち切るまでは、内面に波立たぬ静寂が訪れることはない。身体的生活は五感を駆使しなければ成り立たない。霊的生活は心を駆使しなければ成り立たない。

生まれつき体よりもたましいの方が優れているように、身体的活動よりも霊的活動の方が優れている。そもそも体が造られた上でそこに生命が吹きこまれたように、まずは身体的に活動すればこそ霊的に活動できるようになる。ささやかな生活をひたむきに継続することこそ大いなる力だ。点滴穿石ともいうように、小さなしずくでもしたたり続けていれば、固い石をも穿つではないか。

あなたの中で属神的な人が復活しそうになると、何に対しても内面的に死ぬようになる。そして桁外れの喜びに心が熱くなって甘い思いに満たされ、もはや他の思いを抱くことはない。

その反対に、あなたの中で世が復活しそうになると、何かとあれこれ思いめぐらすようになり、何かにつけ俗っぽく考えるようになる。ここで「世が復活する」というのは慾が復活することに他ならず、まさに慾がうごめくせいであれこれ思いめぐらしてしまうことを指す。そうやって慾が生じて熟した結果、罪を犯して身を滅ぼすのだ。母がいなければ子は生まれないように、頭であれこれ思いめぐらさなければ慾は生じず、慾が作用しなければ罪を犯すこともない。

忍耐力がついてきたなと実感したら、ひそかに慰めの恩寵を得たしるしだ。胸の高鳴る喜ばしい思いよりも、忍耐力のほうが頼りになる。そもそも神において生活するということは、つまり五感を殺すということだ。きちんと心が生きていれば、五感は強く作用しない。逆に五感が復活してくると、心は死んでしまう。ゆえに五感が勢いを持ったとき、それは心が神において死んだことを意味する。いくら世間で徳を実行しようとも、それで良心が正当性を得られることはない。

どんなに他人をとおして徳を行なったとしても、それで霊的に清まるわけではない。なぜなら神は、そういう徳行に対しては褒賞をお与えになるだけだからだ。むしろ自分自身の内部で行なう徳こそ完徳として認められる徳であり、褒賞もいただければ浄化もしてもらえるという一石二鳥の徳なのだ。だからこそ、見える徳から離れて見えない徳へ向かえ。もしも見えない徳ができないまま見える徳までやめてしまったら、あからさまに神から離れ落ちることになる。だが見えない徳は、たとい見える徳をしていなくても、見える徳の代わりになる。

楽をして遊び暮らしていれば霊的に滅びる。そういう暮らしが霊的に害を及ぼす程度は、悪鬼よりもひどい。体が弱りきっているのに体力以上の仕事を強いたりすれば、霊的にどんどん暗くなって大いに戸惑うことになる。逆に体が剛健なのに楽をして遊び暮らしていれば、ありとあらゆる悪がたましいに湧き起こる。すると、どんなに善をしたいと望んでも、ほどなく悪にその善い思いを根こそぎ奪い取られてしまう。心底から来世に望みを託して喜びつつ、聖なる楽しみに酔っているのであれば、体はたとい病んでいても苦を感じない。ただでさえ重荷である体がさらに重荷を抱えていようとも疲れることなく、病床にあっても霊的な楽しみを楽しみながら、たましいが喜ぶよう促すからだ。

兄弟よ。もし余計なことを言わずに舌を守るのであれば、恩寵が降ってきて心が傷感に満ちるであろう。そして、その恩寵の力を借りて自分のたましいを見抜き、聖神の喜びに入るだろう。だが舌を抑えられずに余計なことを言ってしまうのであれば、いいかい、道理に暗くならずにはいられない。福イオアンが述べたように、もしもあなたの心が清くないのならば、せめて唇だけでも清くあれ。

他人を善の道に向かわせたければ、まずは身体的に満たしてあげて愛の言葉で敬意を示せ。というのは、人はあなたから施される身体的福楽と敬意を見届ければ、これほど自分の恥に気づいて悪習を捨てたくなったり、より良くなりたいという気になったりするものもないからだ。神のために修行すればするほど、その分だけ心は祈るときに大胆になれる。逆にいろいろなことに気が散れば散るほど、その分だけ神の助けを失ってしまう。身体的に傷や害を受けても悲しむな。なぜなら死んでしまえば完全にそういうものから解放されるからだ。死ぬことを恐れるな。なぜなら神は、あなたが死よりも強くなれるよう備えてくださったからだ。光栄と国は神に世々に帰す。アミン。

 

第86訓話 たましいが属神的に成長するために、神の摂理によってわれわれの内に生じる天使的動きについて

人はいつか死ぬと思ったとき、はじめて永遠の命に向かうようになる。これは慈しみ深い神が人に与えて、たましいを永遠へ向かわせる最初の思いである。死の思いを心に刻めば、おのずと世を軽んずるようになり、生命へ向かう善き思いが動き出す。つまり神が人を促して、人の内に生命を顕したいときには、いま述べたように「死の思い」を礎として置くのだ。もし世の煩いや無駄口でもって死の思いを消さず、人が黙修して自己沈潜の中で死の思いを育てるのなら、きっと名状しがたい深い直観へ導いてもらえるであろう。だから悪魔は、死の思いを極度に嫌い、何とかして人が死を思わないようにしてやろうと四苦八苦しているのだ。もし娯楽なんかで人の脳内から死の思いを消し去れるのであれば、全世界の支配を人に与えてやったってかまわない。もしできるならば嬉々としてそうしていたことであろう。狡猾な奴め。奴はよく知っているのだ。死の思いが根を下ろした知性はもはや迷いの国には留まらず、悪鬼の謀の犠牲にはならないことを。もっとも、これは最初に降ってくる「死の思い」について話しているのではない。むしろ、絶え間ない黙修で死を思い起こして強くなり、つねに死の思いから感銘を受けているような事の極みを指している。最初に降ってくる「死の思い」は身体的であるが、事の極みに至った「死の思い」による境地は属神的直観にして、驚くべき恩寵なのである。この属神的直観は明るい思いに包まれている。この明るい直観を得ている者は、世に対して無関心となり、己の身について心配することはない。

愛する兄弟よ。実際に、もし神がほんの数か月だけでも人々に真の死の観照を授けたならば、もはや人間社会は次世代を生もうとしなくなってしまったに違いない。死を思っていると動きが封じられ、本能の力でさえ萎えるからだ。しかし、いつも死を観照している者にとっては神の恩寵であり、他のいかなる修行よりも助けになる。この恩寵はちょうど中級にいる者、すなわち正義感から悔い改めたいと願っている者に与えられ、まさに「世を離れて御旨にそってより良く生きよう」という姿勢を神に認められたときに授かる。そして独りで僧庵にて黙修をつらぬくとき、どんどん育まれてゆく。どうかこの観照を得られるよう、祈り求めようではないか。この観照を得るべく長いこと儆醒し、涙を流して「比類なき恩寵として死の観照を与えてください」と神に祈ろうではないか。そうすれば、もはやこの世でどんなに苦労しても疲れることはない。以上が、生命の想念の始まりである。つまり死を思うようになれば、正義に満たされるのだ。

 

第87訓話 その次の段階をなす営みについて

死の思いに慣れたあと、上手に善良な生活を送って悔改まで昇りつめることができれば、観照を味わって悔改の営みに入ることになる。

天から恩寵を受けて聖神の知恵の甘美を味わうなり、次のように悔改の営みに入ってゆく。まずは神にことごとく摂理されていることを確信する。その上で、神に愛されている受造物として啓蒙を受け、理性的存在のつくりに驚嘆するとともに、これほどにも神が知性的存在を慮ってくれていることに目を見張る。このようにして聖なる甘美に包まれて神への愛に燃え、その愛で心に巣食う霊的な慾や身体的な慾を焼き尽くすのである。また、この力を自分の内に感じるなり、明らかに全受造物や目にする対象を考察でき、それらの本性を見極めて属神的判断を下すようになる。こうして清い良心で熱心に献身するあまり神聖な愛に向かって奮起し、またたく間に酔って酒を飲んだようになるのである。すると肢体から力が抜け、知性で驚嘆して心から神の虜となる。かくして、酒を飲んだ者のようになるのだ。さらに言っておくと、内面の感覚が強まれば強まるほど、もっと観照できるようになる上、より善く生きれば生きるほど、つまり身を守って読書と祈りに時間を割けば割くほど、観照力も強まって確かなものとなる。しかも兄弟よ。ときに自分自身のことも忘れてしまい、体を帯びていることや、この世にいることも感じられなくなってしまうことすらあるのだ。

このようにして、知性は属神的に観照し始め、あらゆる啓示を受けるようになる。そして成長して奥義を悟れるようになり、他の、より人性を超えた啓示にも導かれてゆく。端的にいえば、人は、かくなる方法で聖人が現世で受けた聖なる観照や聖神の啓示に与り、人性が地上で把握しうる賜や啓示に与るのだ。これぞ、造物主がわれわれに植え付けた〔属神的〕感覚の根である。この善い種がたましいに落ちたとき、朽ちる諸用に追われて放置することなく大事に育てた者は幸いである。光栄はわれらの神に世々に帰す。アミン。

 

第88訓話 いつも心の内に生じる光と闇の変化について。心が右に逸れたり左に逸れたりすることについて

愛する兄弟よ。ぜひ祈るときに自分の心を見つめ、祈祷文にこめられた教訓や祈りを観照できているかどうか確認しようではないか。真に黙修できていれば、祈祷文の中身を観照できる。たとい頭が朦朧としているときでも、自分のせいではないのならば戸惑わないようにしよう。ただ神のみぞ知る理由によって朦朧となったのであるから、神の摂理に何もかも委ねようではないか。というのも、霊的に落ちこんで聖書を読んでも公祈祷を献げても何をなしても滅入るばかりで波に弄ばれてしまうこともあるからだ。こうして(平安の状態から)離れ、平安に近づくことさえままならない境遇に陥ることも少なくない。すると、もう(良い方へは)変われず平安になることもない気がしてしまう。まさに絶望と恐怖の瞬間だ。心から神を望むこともできなければ、信じて慰めを得ることもまったくできない。ただただ全霊で疑ってしまい怯えるばかりだ。

この誘惑の波を耐えたことのある者は、この疑心暗鬼の時間が過ぎ去ったあとにいかなる変化が起こるのか体験的に知っている。しかし神は、心がそのような状態に一日中放っておかれるようなことはなさらない。なぜなら、そんなことをしたらハリストス教の希望を失ってしまうかもしれないからだ。むしろすばやく「がるべき法」コリンフ前 10 : 13を備えてくださる。もしこの朦朧とした緊張状態が一日以上長引くとしたら、もうじき人生そのものが大きな変化を得るのだと期待してよい。

また、こうも言えると思うので助言しておきたい。もしも自分自身を統御できず、顔を地面につけて祈ることもできないのであれば、その朦朧とした時間が過ぎ去るまで僧服で頭をくるんで眠れ。ただし、僧房からは出るな。この誘惑は、どちらかというと知的生活を営みたいと思っている者や、信仰の慰めを探している者ほど遭遇しやすい。だからこのとき、何よりも知性における疑いに悩まされて疲労困憊するのだ。疑いの中で冒瀆の思いが力を増し、ときには復活を疑ったり、ここに書けないような疑念まで生じたりすることがある。この闘いはわれわれも体験して熟知した事柄のため、読者の皆さんを慰めるために記しておいた。

いっぽう身体的活動のみに従事している者は、断じてこのような誘惑に遭うことはない。かれらに襲いかかる倦怠感は万人共通のものであり、右の誘惑とは異なる作用をもつ。いっぽう右の誘惑に苦しむ者は、黙修すれば癒されて健康を取り戻す。つまり黙修すればこそ、慰められるのだ。どんなに他人と交流しても、決して慰めの光を得ることはできない。なぜならこの種の倦怠感は人々との会話で癒されるものではないからだ。会話すれば一時的に倦怠感に気づかなくなるが、会話を終えた後にはもっと大きな倦怠感に見舞われてしまうからだ。このような場合、こういうことを体験して知っている賢明な人の助言が欠かせない。できれば違う角度から状況を照らし出してもらい、必要な状況下ではつねに支えてもらうべきだが、必要でないときには支えてもらうべきではない。僧房の扉から一歩も出ずに、この誘惑を耐え抜いた者は幸いである。というのも師父が言うように、この誘惑を耐え抜いた後には、大いなる平安と力に出会うからである。

もっともこの闘いは、一時間やそこらで終了するような代物ではない。それに恩寵もすぐに満ち満ちと降ってくるわけではないし、このたましいに宿ってくれるわけでもない。むしろ徐々に降ってくるのであり、この恩寵から少しずつ慰めを得られるのである。要するに、誘惑に遭う時もあれば、慰めを得る時もある、という具合だ。そして人間たるもの、息を引き取るまでそのような変わりやすい状態に留まる。いかにそういう変わりやすさには無縁な者となって常時慰められていたいと思っても、この地上にいる限りそんな夢を見てはいけない。というのも神が、われわれの人生がこの地で変わりやすくあることをよしとされ、修行者がかくも変わりやすい状態に留まることをよしとされたのだから。光栄は神に世々に帰す。アミン。

 

第89訓話 聖なる意気込みの仮面をかぶった愚かな意気込みについて。いかに柔和さなどの道徳的品性に救われるかについて

負けず嫌いな人は、知性が平安になることはない。もしも平安に無縁であるのなら、喜びにも無縁である。知性は平安であるときにこそ完全に健康だと言われているのに、負けず嫌いは平安に逆らう力なので、誤って意気込んでいる者は重病に冒されていると言える。一見したところ他人の悪い部分に対して意気込んでいるようにも見えるが、実際には霊的な健康を失っているのだ。だから、よほど自分の霊的健康を取り戻すよう努力したほうがいい。もし病人を癒したいと思うのなら、病人には看病が必要なのであって非難が必要なわけではないことを弁えよ。だというのに、あなたは他人を助けないばかりか自分自身を重度の難病に突き落としている。負けず嫌いで意気込んでいれば嫉妬が生じるが、嫉妬は知恵ある品性の一つではなく、霊的疾患の一つである。考え方が狭くて無知蒙昧に陥っている。むしろ聖なる叡智の初穂は慎ましさと柔和さであり、これは立派なたましいならではの品性で、人々の弱さを担う。というのも「われら強き者は強からざる者の弱き」ロマ 15 : 1を負うように言われているし、「温柔の神゜をもって、これをただし」ガラティヤ 6 : 1とも言われているからだ。さらに使徒は、聖神のもたらす実として「恒忍ごうにん」などの平安な心境を数え上げているガラティヤ 5 : 22。たといあきらかな身体的活動に従事できなくても、心で悲しんでいれば身体的活動をすべて代行したことになる。いくら身体的活動をしたところで知性の悲しみを伴っていなければ、それはたましいの抜けた体と同じだ。せっかく心で悲しんでいても感覚に自由を許すならば、病体で弱っているのに次々と有害な食べ物を口にする病人に似ている。心で悲しんでいても感覚に自由を許す者は、この手で自分の一人っ子を徐々に地に埋めていく人に似ている。知性の悲しみこそ、神から授かる貴重な賜である。知性の悲しみをしかるべく守り抜く者は、体のどこかに聖器物を隠して運んでいる者に似ている。人々のことを裁いて良し悪し言う者は、知性の悲しみという恩寵にはそぐわない。人々と交流しながら悔い改めようとするならば、割れた瓶のようなものだ。人を持ち上げておいて侮辱を加えるならば、蜂蜜を塗った剣のようなものだ。

女と語らいながら貞潔を保とうとするならば、狐と羊が同じ家に住んでいるようなものだ。神の前で慈悲心を持たずに何事か成すならば、父親の前でその息子を屠るのと同じだ。霊的に病んでいるのに友人を治療するならば、目が見えないのに他人を道案内する人にそっくりだ。

同じ心に慈悲心と公正な裁きが共存するならば、同じ家にいて神と偶像を拝むようなものだ。慈悲心と公正な裁きは正反対のものである。公正な裁きは厳密に調整しようとする。各々にふさわしい物を与え、偏ったり贔屓して与えたりすることを許さない。いっぽう慈悲心は恩寵によって降り注ぐ悲しみであり、ありとあらゆるものに同情して首を垂れる。それこそ悪に値する者にでさえ悪で報いることはせず、善に値する者には溢れるほどの善で応える。ゆえに、もし慈悲心が部分的には公平であると言えるならば、公正な裁きは部分的に悪意があるようなものなのだ。干し草が火と同じ家に住むことができないように、慈悲心と公正な裁きは同じ心に共存しようがない。砂一粒と重い金塊が釣り合わないごとく、神に公正な裁きを求めたところで、とうてい神の慈悲心の深みには及ばない。

生身の人間が犯した罪など、しょせん神の摂理と憐みの深さに比べれば、大海に放り投げた一握りの砂に過ぎない。一握りの粉でもって豊潤な泉を止めらないように、受造物の悪習でもって造物主の慈悲心を打ち負かすことはできない。人に対して嫌な思いを持ったまま祈るのであれば、せっかくの種を海に蒔いて収穫を待つようなものだ。火の明るさが上に飛ぶのを遮ることなどできないように、慈悲深い人の祈りが天に昇るのを妨げることはできない。ちょうど斜面をつたう水流のように、頭に血が上ったときの怒りは抑えようがない。心から謙遜になった者は、世に対して死んだ者となり、世に対して死者となった以上は慾に対しても死ぬ。隣人のためにすべて譲って心から死んだ者にとっては、悪魔も死んだ者となる。だが嫉妬心を抱いた者は、嫉妬心とともに悪魔を抱えこんだことになる。

謙遜になるときには、神を畏れるがゆえに謙遜になる場合と、神を愛するがゆえに謙遜になる場合がある。つまり、神を畏れてへりくだる人がいる一方で、喜んでへりくだる人もいるわけだ。神を畏れてへりくだった者は、一挙手一投足が慎ましく、感覚も健康にして心で嘆いている。いっぽう喜んでへりくだった者は、大いに素朴でのびのびとした心を持ち、その心を抑えることはできない。

愛は、恥を知らない。なぜなら体に礼節を守らせることができないからだ。そもそも愛は恥じることなく、おのれの限界も忘れてしまう。愛というあらゆる喜びの港を見つけた者は幸いだ。謙遜な者の集まりは、セラフィムの集合のごとく神に愛される。神の前では、清めた犠牲よりも貞潔な体の方が貴い。というのは、この二つの徳、すなわち謙遜と貞潔こそ、たましいの内部に聖三者から何かを受ける余地を備えるからである。

友人の前では敬虔に振る舞え。敬虔に振る舞っていれば、自分にも友人にも益をもたらす。なぜなら、しばしば愛を口実にして気を緩めてしまうからである。会話には気をつけよ。いつでも会話が益をもたらすとは限らないからだ。人と集まったときには、なるべく黙っているようにせよ。黙っていれば多くの害を受けずに済むからである。腹を監視するようにせよ。だが視線ほどではない。なぜなら、言うまでもなく内部との闘いは外部との闘いよりも楽だからだ。兄弟よ、「何もわざわざ体を律義に善い状態に保とうとしなくても、内面の想念は消えることもあるよ」などと言われても信じるな。敵よりも習慣を恐れよ。悪い習慣に親しんでいく者は、火に油を注ぐ者と同じである。なぜなら習慣にしても火にしても、触れる量が増えるほど力をつけていくからである。たとい悪習が何かしらこうやってしまえと囁いてきても、言うことを聞かなければ次回にはその囁きは弱くなる。だが言うことを聞いてしまうと、次回には比べ物にならないくらい強い力で襲われることになる。

右の事柄をすべて脳裏に刻んでおけ。なぜなら実際に行動してから自己防衛するよりも、あらかじめ用心して自己防衛しておくことの方が肝心だからだ。人を笑わせたがる笑い好きとは友になるな。なぜなら段々だらしなくなることに慣れてしまうからだ。放蕩し放題に生きている者と一緒に喜ぶな。ただし、その相手を嫌ってしまわないよう気をつけよ。もし立ち直りたいと言ってきたら、手を差し伸べて死ぬまでその人を得るためにできるだけ気を配れ。もしもまだ自分自身が弱い身なのであれば、こういった治療には手を出さないことだ。なぜなら「杖の先を与えれば(自分自身も引き込まれてしまう)」などとも言われているではないか。威張っていて嫉妬心に悩んでいる者には、気をつけて話せ。というのも、こちらが何か口走るなり、その言葉を自分勝手に解釈されてしまい、こちらが持っている善いものでさえ、他人をつまずかせるための材料にされてしまうからだ。つまりこちらの言葉はその人の頭の中で、その人の疾患に合わせて歪められてしまうわけだ。目の前で他の兄弟を裁き始める人がいたら、悲しい顔をせよ。その途端、神の前でもその人の前でも、自分を守っていることが証明されるだろう。

困っている人に何か与えるときには、物を与える以前に楽しそうな表情を見せよ。そして心のこもった言葉で相手の悲しみを慰めることだ。そうすれば、その人の意識の中であなたの楽しさがあなたの喜捨を上回ることだろう。つまり身体的需要を満たすことよりも大事なことを成しとげるだろう。口を開いて何かしら反論してしまった日には、たといしかるべく役立つことを述べたように思えたとしても、実際には神の前で死者となり、何をしても空回りする身になったと思え。というのも、はたして自分の家を壊してまで、わざわざ友人の家を修理すべきなのだろうか。

その相手が善人か悪人かを問わず、ただ身体的か精神的に何らかの疾患で苦しんでいるのを悲しんだ日には、自分のことを致命者と思え。そしてハリストスのために苦しんだ者として自分を見つめ、表信者としてみなせ。というのも、ハリストスは罪人のために死なれたのであって、義人のために死なれたわけではないことを忘れるな。ごらん、悪人のことを嘆き、義人より罪人のために善をなすことがどれだけ偉業であることか。使徒もこのことを驚嘆に値する業として思い起こしているロマ 5 : 6~8 参照)。自分自身の中で正しいという確信があるのならば、それ以外のものに認められようとしてあくせくするな。あらゆることにおける大前提は、体の貞潔と良心の清さ。この二点がなければ、何をなしても神の前では意味がない。とにかく考えもせず検討もせずに行なったことは、どんなに立派な行ないに見えても空しいことを心得よ。なぜなら神は、その人の分別を見て義としてくださるのであって、無分別な活動を認めて義とされるわけではないからだ。

いくら義人であろうと愚かであれば、燈明が日光の下で輝いているようなものだ。人を嫌に思いながら祈っていても、石の上に種を蒔いているようなものだ。修行していても慈憐がなければ、実のならない木が突っ立っているようなものだ。嫉妬ゆえに相手を暴き立てるのは、毒矢を放つようなものだ。おべっかが誉めるとき、それは目に見えない罠である。頭が悪いのに助言する輩は、盲目の番人のようだ。愚者と時を過ごすのなら、心に傷を負うだろう。だが賢者と語らえば、甘い泉を得る。賢い助言者は頼りになるが、頭の悪い愚友は百害あって一利なし。愚者を追いかける賢者の姿を目にするよりは、泣く女と暮らす男を見る方がましである。悪習に染まった連中と暮らすよりは、よほど猛獣と一緒に暮らす方がましである。際限なく欲しがる奴といるよりは、いっそ死体を食いつく禿鷹といる方がましである。口論好きの友となるよりは、(悔い改める余地のある)殺人犯の友となる方がましである。大食漢と会話するよりは、豚と語らう方がましである。大食いの口元よりは豚の飼葉桶のほうがましだからだ。高慢ちきと暮らすよりは、皮膚病患者と暮らす方がましである。迫害してくる輩にはさせておけ、でもこちらからは迫害するな。磔にしてくる連中にはさせておけ、でもこちらからは磔にするな。侮辱してくる相手にはさせておけ、でもこちらからは侮辱するな。中傷してくる奴にはさせておけ、でもこちらからは中傷するな。どこまでも温柔であれ。そして、たちの悪いことで勝ち抜こうとするな(聖詠 36 : 1, 7~8 参照)

ハリスティアニンたるもの、言い訳はするものではない。それはハリストスの教えの中に暗示としてすら存在しない。楽しむ者とともに楽しみ、泣く者とともに泣けロマ 12 : 15 参照)。これこそ、清い証拠だ。病人とともに心を痛め、罪人とともに涙を流し、痛悔する者とともに喜ぶことだ。だれに対しても友好的であれ。ただし思考内では孤独を貫け。苦しんでいる人を見たら手助けせよ、ただし体ではだれからも離れているように。たとい相手が極悪人であろうとも、一切悪いところを暴いたり咎めたりするな。罪を犯した者には、自分の着ている服を掛けてあげ庇え。もしも罪を肩代わりしてあげることができず、代わりに罰や恥を受けてあげることができなかったとしても、せめて大目に見てあげてたしなめるな。兄弟よ、なぜわれわれは僧房から一歩も外へ出ない方がよいのか分かっていてほしい。まさに人々の悪行を知ることがないようにするためなのだ。そうすれば、清い知性においてどの人も聖人で善人に見えるようになるだろう。もしも相手の罪をすっぱ抜いて教訓を垂れ、裁いたり審議したり罰したり叱ったりするとしたら、いったいわれわれの生活は都会の生活とどこに違いがある。しかもそういう態度を続けていくとしたら、はたして荒野に留まることほどあくどい生活が他にあろうか。

心の中で黙っていられないのであれば、せめて口では黙れ。良いことばかり思えないのであれば、せめて清らかに感じられるようにせよ。思考において独りきりになれないのであれば、せめて体だけでも独りきりになれ。体で修行できないのであれば、せめて知性で悲しめ。立って覚醒できないのであれば、せめて座ったり寝床に横になったりしながら覚醒せよ。二日間も断食できないのであれば、せめて夕方までは断食せよ。どうしても夕方まで断食できないのであれば、せめて食べ過ぎないように気をつけよ。心が聖人でないならば、せめて体だけでも清くあれ。心で泣くことができないならば、せめて顔だけでも泣くようにせよ。憐れむことができないならば、せめて「罪深い者なのです」と公言せよ。和平を行なうことができないならば、せめて紛争を好む者にはなるな。どうしても勤勉になれないならば、せめて思考内だけでも怠けるな。自分自身も慾に勝てないならば、処分される者の前で思い上がるな。友人を悪く言う者を黙らせる力がないならば、せめてその人との関わりを避けよ。

もしも怒りにまかせて人を深く傷つけてしまったら、神にその傷ついたたましいを返せと求められることを肝に銘じておくべきだ。たとい怒りをぶちまけなかったとしても、実際に怒った者の尻馬に乗って憂さ晴らしをするのなら、最後の審判においてその人の仲間として裁かれるだろう。柔和な心の持ち主になりたければ、平安を貫いて過ごせ。平安を貫くことができれば、いつも喜んでいられるだろう。探すべきは、金塊でなくて知恵だ。まとうべきは、高級服でなくて謙遜だ。得るべきは、王国でなくて平安なのだ。

謙遜がなければ知恵もない。へりくだらなければ知恵はつかない。謙遜な者は、取り乱すことなく平安を保っており、かならず喜んでいる。人は、どんな人生を歩もうとも、神への希望を持たないかぎり平安を得られない。希望を持って平安になって喜びが溢れてくるまでは、苦労や困難に太刀打ちできなくて不安が拭えない。だからこそ主は、拝むべき聖なる唇で「およそ労苦する者及び重きを担う者はわれに来たれ。われなんじらを安んぜしめん」マトフェイ 11 : 28と言われたのである。つまり「さあ、わたしに希望を置きなさい。そうすれば労苦や恐れから解放されて安心できるだろう」と言われたのだ。

神に希望を置けば気高くなれる上、地獄を恐れて慎重になれる。そうやって分別がつけば信仰が芽生え、望んでいるものに慰められて心強くなる。信仰とは、神から賜る眼力だ。われわれは頭が朦朧となるなり信仰を失くし、不安になって希望していたものが見えなくなる。しょせん本で読んで抱いた信仰だけでは、高慢さや疑念を捨てきれない。しかし神から賜った眼力で洞察し、知恵深い信仰で理性が照らされたとき、高慢さや疑念からも解放される。この信仰こそ、「真実の認識」とか「真実の現出」と呼ばれているものだ。神に啓いてもらった眼力で神を神として捉えているうちは微塵たりとも怯えることはない。しかし神に許容されて頭が朦朧となってこの眼力を失ったときには、へりくだるまで怯えることになる。まさに怯えながらへりくだって悔い改めるためだ。

なにせ神の子が十字架の苦しみを耐えられたのだから、われわれもいかに罪深くとも勇気をもって悔改の力に期待しようではないか。というのは、アハブ王の(外面的な)悔改の姿が神の怒りを鎮めた以上列王記上 21 : 27~29 参照)、われわれの真の痛悔が功を奏さないことなどありえないからである。もしアハブ王がへりくだってみせただけで神の怒りを鎮めたのなら、われわれがこうして真心から罪を悲しむのであれば、よりいっそう神の怒りを鎮められるはずではないか。心から悲しむとき、それは十分に身体的修行の代わりとなる。

かつて聖グリゴリイも述べたように、「人は神に貫かれて神の裁きを気にしつづけていれば、恩寵を宿す神殿となる」のである。ここでいう「神の裁きを気にしつづける」とは、どういうことか。まさに神をなだめられるようなことを探し、いつもわれわれの本性が弱いせいで完璧になれないことを悲しんで何とかしようとすることでなくて何か。福ワシリイも述べたように、こうして絶えず弱さを悲しむことこそ、神を記憶しつづけることに他ならない。ひたむきに祈っていれば、しっかり神のことが見えてくる。そうやって神を記憶しつづけることで神の住まいをご用意したとき、われわれの内に神が宿られる。かくして、われわれも神の神殿となるのだ。まさに心から弱さを嘆いて神の裁きを気にしていれば、その心に神が住まわれて憩われるに違いない。光栄は神に帰す。アミン。

 

第90訓話 だらけたり怠けていたりしたことによって、ふいに生じてくる邪念について

神へ奉仕するという目的で、活力が湧くまできちんと食事を摂って少しくらい休みたいと思う人がいる。そして休んでいるうちに、またもや以前の自分に舞い戻ってしまう。だから数日ほど休むときにも、すっかり自己防衛を止めてしまわないようにしよう。まるで二度と職務に戻る気がない連中のように、休んでいるあいだにたましいを壊してしまうことのないようにしよう。また、くつろいでいて敵の矢に撃たれてしまう人もいる。つまり不遜にも手当たり次第に、闘わなければならなくなる毒素をたましいに集めてしまい、聖なる国にいるとき、すなわち祈祷中に、自分の着ている(心の)服が汚れていることに気づくのである。この汚れた服こそ、神を思ったり祈ったりしているときに霊内でうごめく想念そのものなのだ。われわれは祈祷中、まさに怠けていたときに身につけてしまったものに辱められるのである。

人は、従事することよりも覚醒していることで救われる。同じく、安息することよりも感覚を解くことで被害を受ける。安息していれば家のなかの闘いに悩まされるが、まだその闘いは断つことができる。というのは休むのをやめて仕事場に戻れば、家のなかの闘いは消えてなくなるからだ。だが、だらけて休んで感覚を解いたが最後、そうは問屋が卸さない。休んでいる分には自由が利き、また戻って規律どおりに働くことができた。なぜならまだ自由の利く領域に留まっていたからだ。しかし感覚を解くならば、自由の利く領域から出ることになる。だいたい人がすっかり自己防衛を止めさえしなければ、ふいに取り乱すような物事に強制的に服従させられる目には遭わなかったはずなのだ。それに自由の利く範囲からすっかり抜け出ることさえしなければ、抗いようのない事柄に強制的に縛られることもなかったはずなのだ。

人間よ。どうか自由の利く領域に二度と戻れなくなってしまうことのないように、いかなる感覚にも自由を与えるな。休んでいて害を蒙るのは若者に限られるが、感覚を解けば完全な者でも老人でも被害を蒙る。たとい休みすぎて邪念が湧いたとしても、ふたたび自己防衛をしてしっかり高尚な生活を送ることもできる。しかし十分に活動したからといって自己防衛を怠ってしまえば、高尚な生活から堕ちて放蕩生活の虜となってしまうのだ。

たとい敵地で刺された身であろうとも、平和な時代に穏やかに死ぬ人もいる。いっぽう生命を買う(属神的利益を得る)のだという口実で出かけていって、たましいに鋭い刺を受けてしまう者もいる。何かの誘惑に落ちたからといって悲しむのではなく、落ちた状態に留まっている身を悲しめ。なぜなら完全な者でもしばしば誘惑に落ちることはあるし、むしろ落ちた後にその過失に留まっている自分こそ、完全に息絶えた状態だからだ。誘惑に落ちたときに感じる悲しみは、恩寵となって清い修行の代わりとなる。あとで悔い改めればいいやと思ってふたたび罪に走る者は、神の前で邪道に陥っている。そういう者はふいに死に見舞われ、徳に励んで痛悔しようと思っていた時間を手にすることはない。だれしも五感に自由を与えたということは、つまり心に自由を与えてしまったのである。

心の修行をすることで、外側にある肢体を抑えることができる。過去の師父にならって判断しながら心の修行に励む者は、明らかに次の三つの現象を見せるだろう。物を集めようとしない、食べることに興味がない、まったくイライラしない、である。逆にこの三点、すなわち「(多かれ少なかれある)物欲」と「短気」と「大食」を見せる者は、たとい古代の聖人に似ているように見えたとしても、内面で我慢しきれていない。まさに内面で我慢しきれていないからこそ、そのように感覚を解いてしまうのであり、決していろいろな物事を区別するのに無頓着だからという理由で、そのように感覚を解いているわけではない。でなければ、どうして身体的なものを見下しているにもかかわらず、温和さを身につけられないのだろうか。正しい判断に基づいて見下しているのであれば、何にも縛られなくなり、休もうともしなくなり、人々と関わろうともしなくなる。もし覚悟を決めて喜んで神のために損失(悲哀や欠乏や侮辱)を甘受しているならば、その人の内面は清い。もし身体的欠陥のせいで他者を軽蔑していないのであれば、その人は真に自由だ。もし名誉を受けても喜ばず、体面を傷つけられても怒らないのであれば、その人はこの人生を生きながら現世にとって死者となっている。どんなに工夫を凝らした生き方よりも、思慮深さを守っている方がましである。

罪人に嫌悪感を抱くな。なぜならわれわれはみな咎を負っているからだ。もし神のために罪人に立ち向かいたいのであれば、むしろその人のことを泣け。それにどうして罪人を憎むのか。罪人の罪は憎め。だがその人自身のことは祈れ。罪人に対して怒らなかったハリストスは、むしろ罪人のために祈られた。そのハリストスに似た者となれ。ああ、主はどれだけイエルサリムのことで涙を流されたことか(ルカ 19 : 41 参照)。それに、われわれは悪魔に鼻で笑われている点が多い。だというのに、なぜわれわれと同じく悪魔に笑われている者を憎んだりするのか。そもそも人間よ、何のために罪人を憎むのか。もしかして、罪人があなたと同じような正義を持っていないからだろうか。しかし、あなた自身が愛を持っていない状態で、そのどこに正義がある。どうして罪人のことを泣かなかったのか。しかも、あなたはかれを追い払っている。世の中には、罪人の行為を裁ける立場にあると思い込んで、その無知に基づいて罪人に腹を立てる人々がいる。

ぜひとも神の恵みを伝道する者となれ。なぜなら神は、値しないあなたを養ってくださったからだ。そもそもあなたは神に負い目がたくさんあるというのに、とくに神を探そうとしているそぶりもない。それに対して神は、あなたがちょっと成しとげた事柄に対して、大いに報いてくださっているではないか。神を「公正に裁く方」などと呼ぶな。どうも神があなたに対して公正な裁きをされているようには見えないからだ。たしかに預言者は、神のことを指して「義なる方」「正しい方」聖詠 118 : 137と呼んだが、むしろ神の子は「彼(神)は恩に背く者及び悪しき者に慈愛を施す」ルカ 6 : 35と告げて、神が慈しみと愛に溢れたお方であることを示されたではないか。現に、われわれは聖書から次のような譬え話を読んで、神が限りなく憐み深いお方であることを知っている。たとえばぶどう園の働き人の報酬の箇所で、神は「友よ、われなんじに義ならざることを為さず、われこの後なる者にも、なんじと等しく与えんと欲す」マトフェイ 20 : 13~15と告げておられるのに、そのどこが公正に裁く方だと言えようか。さらに放蕩息子の箇所では、財産を食いつぶした息子が痛恨の情を示しただけで、父に走りよられて抱擁されて元の権利を賜わったというのに、そのどこに公正な裁きがあると言えようかルカ 15 : 20~22 参照)。他ならぬ神の子が、このように神の愛について証言されたのだから、その愛の深みは疑いようがない。さあ、どこに神の公正な裁きがある。われわれが罪を犯したというのに、そんなわれわれのためにハリストスが死んだことが公正な裁きか。もはや神がこれほどにも憐み深いお方である以上、その神にかぎって変わってしまうことなどありえないことを信じようではないか。

かといって、神のことを無慈悲なお方と名付けるような無謀な考えを持ってはならない。神は、死者のごとく属性を変えることはない。ご自身にないものを身につけることもなければ、ご自身にあるものを失われることもない。また、受造物のように成長するようなこともない。福キリルが創世記の解説で述べたように、神は原初から帯びておられたものをつねに帯びておられ、永遠に終わりなく帯びておられるのだ。人類が与えた「神」という厳めしい名のゆえではなく、むしろ愛ゆえに神を畏れよ、と福キリルはいう。神を愛すべき立場にある身分として神を愛せ。来世で報いてくださる事柄のゆえではなく、われわれのために造られた事柄のゆえに、この世で受けた事柄のゆえに愛せ。というのも、神にきちんと恩返しできる者などいるだろうか。われわれの愚行に対する神の報復はどこにある。そもそも太古に神が世を創造されたとき、人間に存在を与えよと神に促した者はいたか。われわれが神のことを忘れているとき、人類を見捨てないでくれと神に頼んでいる者がいるか。われわれがまだ世に生を受けていなかったとき、だれがこの体に息を吹き込んだのか。そのうえ、いったいどこから知恵のある考えが、土くれにすぎない体に降ってくるのか。おお、神の慈憐は驚嘆すべきものなるかな。おお、わが造物主たる神の恩寵は何と豊かなることか。何という巨大な力が、万物に満ち満ちていることか。何という限りない恵みのゆえに、神はわれわれ罪人の本性が復活するよう再創造してくださるのか。神を讃美しつくせる者はどこにいる。神は、ご自分の戒めを犯した者を立ち上がらせ、ご自分を冒瀆した者に手を差し伸べ、この愚かな土くれを一新して知恵と霊智を授けてくださる。さらに、気が散って麻痺した知性と無駄遣いした感覚を一新して、神聖な思考のできる理性的性質に変えてくださるのだ。罪人は、神の復活という恩寵を想像することすらできない。われわれを悲しませられたはずの地獄はどこにある。神の愛による喜びを、あらゆる形で脅して打ち負かしてくる苦難はどこにある。もはや神の復活という恩寵を目にした後で、そもそも地獄とはいったい何か。「この朽つる者は不朽をコリンフ前 15 : 54と言われているように、われわれが地獄から起き上がって朽ちない者となり、地獄に落ちた者も光栄を受けるようになった今、地獄とはいったい何か。

思慮深い者よ、来たりて驚嘆せよ。めずらしく賢い知性を持っていて、それにふさわしく造物主の憐みを驚嘆できる者はどこにいる。罪人には、受けるべき報復がある。その公正なる報復の代わりに、神は罪人に復活をお与えになるのだ。そして、神の法を踏みにじった体が朽ちてゆく代わりに、その体に完全に不朽なる光栄を着せてくださるのである。そもそもわれわれが罪を犯した後で復活させてくださるというこの憐みは、存在しなかったわれわれに存在を与えてくださったという憐みよりも優れている。主よ、光栄はなんじの限りなき恩寵に帰す。主よ、あなたの恩寵の豊かなる波を浴びて、とうとう口を閉じるほかありません。あなたへの感謝の気持ちでいっぱいで、もう何も考えられることはありません。われわれの命を愛される恵み豊かなる王よ、いかなる唇であなたを讃美することができましょう。この二つの世界ゆえにあなたに光栄を帰します。なにせ御手にて造られた万物の中からわれわれを引き立て、成長して楽しみながらあなたの光栄を知ることができるようにしてくださったのです。光栄はあなたに帰します、今もいつも世々に。アミン。

 

第91訓話 神を愛するがゆえに耐えることについて。耐えることで得られる助力について

人は世を軽んじて神を畏れれば畏れるほど、神に守られて導かれるようになる。そして、どことなくその助力を感じ、清い想念によって助けられている身を自覚するようになる。また、すすんで現世の福楽を手放せば手放すほど、神に慈しまれてその仁愛に支えられるようになる。

右に左にいろいろな手段を用いてわれわれを救おうとされ、永遠の生命を得られるように工夫されている神に光栄を帰すべし。なぜなら霊的に弱すぎて永遠の生命を得る気になれない者でも、不本意ながら苦難に遭うことによって徳行に導かれたりするからである。かの乞食であったラザリも赤貧になりたくて赤貧になっていたわけではないし、皮膚病に罹りたくて罹っていたわけではなかった。かくもひどい苦しみを二つとも耐え抜き、しかもどちらもこっぴどい惨状であったにもかかわらず、あとあと褒められてアヴラアムの懐に迎え入れてもらえた。人は心を痛めて苦痛の中で神に叫んでいるとき、その傍には神が共におられる。たとい御旨によって必需品がなかったり苦難に遭ったりすることがあっても、そういう苦しみに耐え抜くことで逆に救われる。ちょうど重病患者が病んだ部位を医者に切除されて健康になるようなものだ。苦悩や悲痛が重ければ重いほど、主は大いなる愛を現してくださる。

というわけで、自分の心の状態を見て自分自身を知ろう。いかなる苦も苦としないくらいハリストスにおいて喜んでおらず、ハリストスの愛を渇望していないとき、あなたは世に生きているのであってハリストスに生きていない。病気や貧苦に悩んだり、衰弱して不安になったりするときにも、体に生きているのであってハリストスに生きていない。身の危険を感じてびくびくし、信じてきた事柄を喜べなくなって主の道に向かえなくなったときにも、体に生きているのであってハリストスに生きていない。簡潔にいうと、あなたがより愛して惹かれているものが、あなたの中で生きているのだ。たとえば必需品が全部あって健康体で、身も守られて順風満帆な日々だったとしよう。その状態で、清くハリストスに向かって歩んでいると思うのなら、知性が病んでいて神の光栄を味わったことがない証拠である。これは、あなたがそういう人だからこう言っているのではない。むしろ、たといわずかなりとも過去の聖師父に似た生活をしていたとしても、そう思っている以上はいかに完徳からはほど遠い状態にあるか教えておきたかっただけである。「いや、よりによって病気や苦難に遭っている最中に、毅然としていられるほど強い人なんているわけがないでしょう」などとのたまうな。あるいは「いくらハリストスを愛しているからといって、さすがに杞憂まで捨てられる人なんていないでしょう」などと言い張るな。あえて聖致命者の例を挙げるのは遠慮しておこう。そんな例を出したりしたら、その受難の深みを目の当たりして私自身がへこたれてしまう。だから、聖致命者がいかにハリストスの愛の力に支えられて耐え、辛辣な心痛と身体的激痛に打ち勝ったかということについては語るまい。万が一語ったりすれば、そのとてつもない偉業と奇蹟的光景を思い出すなり、おなじ肉体をもつ身として持ちこたえられないからだ。

したがって無神論者を、そう、哲学者といわれる人を例に挙げておこう。あるところに、数年間は無言を守りとおすという決意を固めた哲学者がいた。時のローマ皇帝がこの噂を耳にして大変驚き、その哲学者を試練に遭わせてみたいと思った。そして手下に命じて皇室まで連れてこさせたのだが、どんな質問をしてみても一向に答えやしない。怒った皇帝は、誉れ高い皇位への不敬罪という理由で、この哲学者を死刑に処するよう命じた。ところが、哲学者は眉一つ動かさずに、無言の自戒を守ったまま静かに死を受け入れる準備をした。皇帝は死刑執行人に対し、「もしも剣を恐れて自戒を破ったら奴の首をはねろ。もし黙りとおす意志を最期まで貫いたら、生きたまま私のところへ連れて帰れ」と命令していた。ゆえに、役人たちは命じられたとおり、刑場に近づいてきた哲学者を見るなり侮辱を浴びせ、くだらない決まりさえ破ってしまえば死なないで済むのだぞと囃し立て、沈黙の自戒を破らせようとした。そのとき、哲学者はこう考えたのである。「ここは意志を貫いて、さっさと死んだ方がましだ。どれほど長い歳月のあいだ、こうして無言を貫くべく修行してきたことか。死ぬのが怖くて口を開いたりしたら、培ってきた知恵が台無しになる。あいつは窮地に陥るなり尻尾を出して逃げ出したなどと囁かれるのはまっぴらごめんだ」と。そして戸惑うことなく首を差し出し、剣による切断を受けいれようとした。皇帝は、役人たちから事の一部始終を聞いて驚嘆し、哲学者を褒め称えた上で解放したのである。

たしかに世の中には、本能的欲求を捨てた人もいる。あしざまに言われてもやすやすと聞き流した人もいるし、重病をもだえずに耐え抜いた人もいる。あるいは、苦難や大災害に襲われても歯を食いしばってみせた人もいる。そして、もしそういう人たちが空しい名誉や希望のためにそれらをすべて耐え抜いたのだとしたら、われわれ修道士は神との交わりに招かれている者として、よりはるかに多くのものを耐えるべきではなかろうか。願わくは、生神童貞女マリヤの祈りと、修行の汗を流してハリストスに仕えた諸聖人の祈祷によって、われわれも苦難を耐え抜く力を賜わらんことを。あらゆる光栄と尊貴と伏拝は、始めなき父と子と永遠に一性にして生命をほどこす聖神に帰す、今もいつも世々に。アミン。

 

底本:Слова подвижнические (СТСЛ 2019 г.) – преподобный Исаак Сирин Ниневийский – читать, скачать (シリアの克肖者聖イサアク『修行訓話』至聖三者セルギイ大修道院、2019年版)

※読者の皆様。訳文は未定稿のため、今後、微修正の入る余地があることご承知願います。

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