聖師父の格言300選

聖師父の格言300選

司祭ゲオルギイ・マクシモフ編
(6 5.0 分の 5)

はじめに

この本は、世界 12か国から 50名以上の聖人が残した言葉を 300点ほど収めた格言集です。だれしも生きていると何かと問題に突き当たることがありますが、それらにどう対処したらよいかという答えがここに集約されています。読み進めていくうちに、いかに神の義がわたしたちの日常生活に関与しているか見えてくるでしょう。神の義によって生まれ変わった人は何百万人にも及びます。なかには完徳を究めて聖人になった人も少なくありません。どの格言も現代文に訳し、なるべく多くの方々に読みやすくしました。

編者による序文

あるところに隠遁生活をしていた長老がいました。いつもどおり修行に勤しんでいたある日のことでした。強盗が押しかけてきて「ここにあるものを全部出せ」と脅されたので、「ほしいだけ持って行きなさい」と促しました。強盗は、僧房内のものをほぼ全部さらって立ち去りました。が、お金の入った財布はしまってあったので見つけられませんでした。そこで、長老はこの財布を取り出し、「お~い、忘れ物をしたよ!」と叫びながら走って強盗を追いかけました。腰を抜かした強盗たちは、その財布を受け取らなかっただけでなく、奪った物品も返したうえで「本当にこの人は神の人だ」と感嘆し合ったのでした。

これは6世紀にパレスチナで起こった出来事です。記録に書き残したのは福イオアン・モスフ(ヨハネス・モスコス)という聖人で、ほかにも修道士たちから直に聞いた話をたくさん書きとめた人です。

さて、この長老は、なにも招かれざる客に説教を垂れたわけではありませんでした。それに責めたり怒ったり説き伏せたりしたわけでもありません。なのに、どうして強盗らは思いを改め、いちど奪った物品を返したのでしょうか。

強盗たちは、長老の中に別次元の人を、すなわち「神の人」を見出したのです。

わたしたち人間は、つい私有物やお金に囚われているものですが、ただ神に満たされている「富者」だけが、そういう執着心からこれほどにも自由になれるのです。ひとえに神に拠って立つ「強者」だけが、身に危険が迫っても揺るがず、穏やかな優しさを保つことができるのです。とはいえ強盗たちが何よりも心を打たれたのは、長老の愛でした。なぜならば、神のような人だけが、自分のものを奪いに来た見知らぬ悪党に対して、自分よりも相手の利益を選ぶほどの愛を抱くことができるからです。

言い換えれば、強盗たちは福音書の言葉の体現者を目にしたわけです。もしもこの長老が、信仰生活では儀式や規則の遵守に終始し、口を開けばもっともらしく神について語るだけの人だったとしたら、このような出来事は起こり得なかったことでしょう。そうではなくて、ひたすらハリストスに生きる実生活を積んできた人だったからこそ、このような出来事が起こったのです。

そういった実生活を積んできた人々のことを、正教会では聖師父と呼んでいます。正教会では 2000年にわたり、使徒から受け継いだ真理を歪曲せずに守り抜くよう留意してきました。そして、どうすれば神と生きた交わりを持てるかという経験則を正しく引き継いできました。だからこそ、地上にいながらにして天国を体験した聖人を次々と輩出してきたのです。

いまご覧いただいている本は、ぜひ皆さまにも東方正教会の属神的体験に触れていただきたいという思いで編纂されたものです。パレスチナ、シリア、エジプト、ギリシャ、ロシア、セルビア、モンテネグロ、グルジア出身の聖人 50名以上による格言を、300点ばかり収録しました。西方教会も紀元後 1000年間は正教会の一員であったため、現代でいうイタリア、イギリス、フランス、チュニジアで生きた古代聖人の格言も含まれています。いずれも世界中の正教徒に共有されるべき属神的遺産であり、最も古い格言は1世紀後半に述べられ、最も新しい格言は 20世紀後半に記されたものです。

正教会の聖人は、いつどこでどんな身分であったかを問わず、まったく同じ属神的現実を語っています。このため、何を説いても声を揃えて補い合っているのです。19世紀に生きた聖イグナティ・ブリャンチャニノフという聖人もこの点を洞察し、次のように言い表しました。

秋晴れの夜空にちりばめられた星。その大小の星が同じ光を発するさまを眺めるとき、「聖師父の著作もこうだ」と思う。あるいは、真夏の大海原に彩りを添える船。そのさまざまな船が帆を張って同じ追い風に乗り、同じ港に向かって走っているさまを眺めるとき、「聖師父の著作もこうだ」と思う。さらに、声をそろえて歌う大聖歌隊。その異なる声部が調和して同じ聖歌を歌うのを聞くとき、「聖師父の著作もこうだ」と思う。(『聖イグナティ・ブリャンチャニノフ著作集』日本ハリストス正教会教団東日本主教教区宗務局、2020年、213~214頁。「わが哀歌」参照)

このささやかな本は、きっと正教会の信者だけでなく、「本当のこと」を重んじるすべての人にとって興味深く、役立つものとなることでしょう。私自身、ここに収録した格言の多くに支えられてきましたし、それらによって悩み事が解決したり、人生の出来事を見つめ直したりするきっかけとなりました。この大切な宝物を、ぜひ皆さんと分かち合うことができれば幸いです。

2011 年 1 月 8 日 輔祭ゲオルギイ・マクシモフ

 

第一章 神と私たち

幸せ

  1. 人は自分以外のものに幸せを求めるとき、どれだけ間違ったことをしているでしょう。亡命しても旅行しても、はたまた財産や名誉を手に入れても、どのみちやりきれなくなるだけです。あるいは豪邸で贅沢三昧し、むなしい娯楽にうつつを抜かしても、結局みじめになるだけです。自分以外のところに幸せの塔を建てるのは、地震で揺れつづける場所に家を建てるのと同じです。幸せは、自分自身の内奥にあるのです。この点を理解した人は幸いです。(中略) 幸せとは、つまり心の清さなのです。心が清いとき、そこは神の宝座となるからです。ハリストスも、心の清い人々を指してこうおっしゃいました。「我彼等のうちにり、彼等のうちに行かん、我彼等の神となり、彼等我の民とならん」コリンフ後 6 : 16と。心の清い人に足りないものなどあるでしょうか。何もありません。何一つとしてありません。なぜなら、その心には最大の善、すなわち神ご自身がられるからです。(エギナの聖ネクタリイ『幸せへの道』 1)

 

  1. 神を愛する人は、ただ神のうちにのみ憩う(後略)。人は、どんな人生を歩んでいようとも、神に希望をかけるようにならないかぎり平安を得られない。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 5689

 

真理

  1. 真理とは、思想でもなければ哲学でもない。もちろん物事の因果関係でもなければ法則でもない。真理とは、生ける神ハリストスに他ならない。ハリストスは万物を貫き、万物に命を与えておられる。(中略) もしあなたが愛をもって愛のために真理(ハリストス)を求めるなら、耐熱しうるかぎりその光を見ることができるだろう。(セルビアの聖ニコライ『善悪についての考察』)

 

  1. ハリストスにせよ真理にせよ、二つとして存在するものではない。(中略)たとえば、波などは色合いが変わっても波自体が変わるわけではない。(中略)真理もまた、表現方法はいろいろあっても本質的に変わるものではない。そもそも一つしかないものが真理だからだ。真理は諸説に分かれるものではない。ただ知ったかぶりだけが、不遜にも真理もどきものを個別に唱えているにすぎない。(シリアの聖エフレム)

 

  1. 真理とは、つまるところ何なのか。神人ハリストス及び福音書である。ゆえに不義とは、ハリストスならぬすべて、福音書にないことや福音書に反するすべてである。このため、ハリストスを信じるならば「義に仕える」ことになるコリンフ後 3 : 9。ハリストスに仕えていないうちは、否応なく不義に仕えている。不義という不義がどれも罪であるように、いかなる罪も不義だからである。(聖イウスチン・ポポヴィッチ『イオアン第一公書注解』 イオアン一 5 : 17

 

私たちに対する神の思い

  1. 神は、われわれを愛してくださっている。父母よりも、友人よりも、他の誰よりも深く愛してくださっている。しかも、われわれが自分自身を愛し得るよりも深く、愛してくださっている。(聖金口イオアン)

 

  1. ある修道士からこんな話を聞いた。幼いころ重病に罹ってうなされていた日、傍で母親が父親にこう漏らしていたという。「こんなにも苦しんでいるなんて……。もし楽にさせてあげられるなら、この身が引きちぎられてもいいくらいですわ」と。主なる神も、同じように人々のことを愛されている。人々をご覧になって心を痛めたあまり、この母親のように、いやこの母親以上に人類のために苦しんでもいいと思われたのである。ただし聖神の恩寵をいただかないと、誰もこの偉大な愛を理解できない。(アトス山の聖シルアン『手記』 9 : 10)

 

  1. 主は、万人を愛しておられる。特に神を求める者をいっそう愛され、選ばれた者には大きな恵みを授けてくださる。選ばれた者は地上のすべてを愛し、包みこむようにして全世界を愛する。そして、どうか万人が救われて主の光栄を見られますように、と熱望するのである。(アトス山の聖シルアン『手記』 9 : 8)

 

神を知る方法

  1. エジプトのピラミッドについて知りたければ、ピラミッドのすぐ近くにいた人の話を信じるか、自らピラミッドまで出向かねばならない。それ以外の選択肢はない。同じように、神について知りたければ、神のすぐ近くにいた人や今いる人を信じるか、あるいは自ら神に近づこうと努力するしかない。(セルビアの聖ニコライ『善悪についての考察』)

 

  1. 蜂蜜を味わったことのない人は、蜂蜜の甘さを知りたいとき、いくら説明を受けても味見してみるには及ばない。それと同じように、主の仁慈というものは実感しないかぎり、どんなに神が仁慈なるお方であると教わっても、はっきり理解できるものではない。(聖大ワシリイ『聖詠についての講話』 33《9》)

 

  1. 富豪や権力者であれば、たいてい主と至浄なる生神女にお会いできるためならば多くのものを差し出すだろう。しかし神は、富のあるところではなく謙遜なたましいにご自身を現される。(中略)たとえ糊口をしのいで暮らしていても、へりくだれば神を知ることができる。神を知るのにお金や財産は要らない。必要なのは謙遜だけである。(アトス山の聖シルアン『手記』 1 : 11, 21)

 

  1. いくら教養を深めても、主の戒めを守って生活しなければ主を知ることはできない。神は教養を深めて知りゆく対象にあらず、聖神によって知るべきお方だからである。実際、神の存在を信じるようになったものの、神のことを知らなかった哲学者や科学者は多い。「神の存在を信じること」と「神を知ること」は別物だからだ。(中略) いっぽう聖神をとおして神を知った人は、寝ても覚めても神への愛に燃え、もはやこの世のものには一切惹かれなくなる。(アトス山の聖シルアン『手記』 8 : 3)

 

神との関わり方

  1. いつも神を畏れているようにせよ。いつどこで何をしていようと、すぐ傍には神がおられることを忘れてはならない。(聖師父教訓集『黄金の鎖』 14 コンスタンティノープルの聖ゲンナディ)

 

  1. 神を信じているのなら、不安がらずに心配事を神に委ねよ。そうすれば、神が慮ってくださる。毫も疑わずに信じていれば、神が憐れんで助けてくださるだろう。(聖大ワルソノフィ『問答集』 166)

 

  1. どんな相手であろうと心から愛するべきである。ただし、望みをかける相手は神のみに限り、神のみに仕えること。(中略)われわれは、神と友(天使)に守られているかぎり敵(悪魔)にやられることはない。しかし、神に離れられてしまうなり、友(天使)も離れていって敵に支配権を与えてしまうだろう。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 4 : 95)

 

  1. 神に慮ってもらっていると信じて明日を気にかけず、ひたすら神を愛して徳に励むとき、その希望の持ち方は賢くて正しい。しかし、自力で万事をこなし、ただ切羽詰まった時だけ神に頼って助けを乞うのなら、そういう希望の持ち方は虚しいし間違っている。ほんとうに真の希望があるならば、神の国しか求めないはずだ。(中略)そういう希望が湧いてくる日まで、心に平安は得られない。ついにそのような希望が湧いてきた時、心は安らいで喜ぶであろう。(サロフの聖セラフィム『教訓集』 4)

 

すべてを慮ってくださる神

  1. 「たまたまそうなっただけさ」とか「おのずとそうなっただけでしょ」などと言ってはならない。存在しているものには無目的で雑然と生じてくるものはなく、無駄なものや偶然なものは一切無いからである。(中略)あなたの頭には髪の毛が何本あるだろうか。その一本たりとも神に忘れられることはない。どんな些末なものにでさえ、神の目が行き届かないということはない。(聖大ワシリイ)

 

  1. どの被造物も、神の最高の摂理のもとにある。これだけは疑いの余地なき真実である。神はあらゆる出来事を備えられ、万物を慮っておられる。それも使徒ペトルの述べたとおり、父親のように慮っておられる。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」ペトル前 5 : 7。(聖イリヤ・ミニヤティ「大斎の説教」 1)

 

  1. 神は何のために摂理されているのだろうか。悪で分散してしまった人々を正しい信仰と属神的な愛で結びつけるためである。そのために、救い主も苦しまれたのである。「散じたる神の諸子を一つに集めんために」イオアン 11 : 52——。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 4 : 17)

 

神を知った人

  1. 人は属神的に生きれば生きるほど、より属神的な者になってゆく。すると何事にも神を見出し、神の力が万事に現れているさまを見抜くようになる。そして、いつどこでも神のうちにいるだけでなく、御手に命運を握られている身に気づく。しかし、肉的に生きれば生きるほど、とことん肉的な者になっていく。あきらかに神の力による奇蹟を目の当たりにしても、そこに神の存在を見抜けない。いつどこで何を見ていようとも、ただ肉体と物質しか見えてこない。なぜならば「その目の前に、神を畏るる畏れ」がないからだ聖詠 35 : 2。(クロンシュタットの聖イオアン『ハリストスにある我が人生』 1 : 5)

 

  1. 神に愛されている身を聖神で悟ると、はっきり感じることがある。主こそ誰よりも身近で、誰よりも親密で、誰よりも大切で最も優れた御父であることを。そのとき「思いと心を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛すること」ほど幸せなことはない、と悟る。そして、そう愛しているとき、もはや何を見ても喜びしかない。(アトス山の聖シルアン『手記』 9 : 15)

 

  1. たとえ神の愛を実感できなくても、くよくよしてはならない。主がどれだけ憐れみ深いか思いめぐらして罪を犯さないようにせよ。そうすれば、やがて恩寵から教わるだろう。(アトス山の聖シルアン『手記』 9 : 16)

 

  1. 釘を炎の中に投げ込めば、熱を帯びて火のように輝き出す。同じように、あなたも神の教えを聞いてそのとおりに生きれば、神のようになる。(ダイバベの聖シメオン『格言集』 26)

 

  1. とことんまで主を知った暁には、もはや他に欲しいものは何もなく、夢中になるものは地上にない。たとえ王国が与えられたとしても欲しいとは思わないだろう。なぜなら、ハリストスの愛があまりにも甘くて喜ばしいため、もはや王のような生活でさえ魅力的に見えないのである。(アトス山の聖シルアン『手記』 9 : 13)

 

ハリストスと私たち

  1. 希求すべきはただ一つ、イイススと共にあることだ。イイススと共にある人は、たとえ赤貧のどん底であっても富んでいる。天のものよりも地のものを愛すれば両方とも失うが、天の国を求めていれば全世界の主人となる。(聖イグナティ・ブリャンチャニノフ『師父言行録』より師父エウゲニイの言葉)

 

  1. われわれは皆、過ぎゆく流れに押し流されている。その流れの間に、そびえたつ木のように主ハリストスが立っておられる。主は、肉体をまとわれた上に息を引き取られ、復活して天に昇られた。まるで、この過ぎゆく流れの間にいることを甘受されたかのようである。もしもあなたが激流に呑まれそうになったら、その「木」にしがみつけ。この世のものに心が奪われたら、ハリストスにしがみつけ。あなたが永遠になるために、主は過ぎゆく者となられたのである。どんなに過ぎゆく者となられても、やはり永遠のままであられたからである。(中略) 刑務所入所者は、訪問人とはどれほど身分が異なるだろうか。ときどき刑務所へ友人を訪ねてくる人がいる。その瞬間、二人とも同じ刑務所にいるようだが、その違いは大きい。一人は法律を犯したせいで拘留されているが、もう一人は友人への愛ゆえに訪ねてきたわけだ。同じことが、われわれ死の世界にいる者たちにも当てはまる。われわれは罪のせいでここに留まっているが、ハリストスは慈愛ゆえにわれわれのもとへ来られた。囚人たちを責めに来たのではなく、まさに解放しに来られたのだ。(福アウグスティン『イオアン公書の説教』 2 : 10)

 

  1. 人は誰しも、この世に生きているあいだに解決すべき問題が一つある。ハリストスにつくか、それともハリストスに敵対するか。当人が望もうと望むまいと、どのみちこの問題は解決することとなる。みな遅かれ早かれハリストスの味方になるか、ハリストスの敵になる。それ以外の道はない。(聖イウスチン・ポポヴィッチ『イオアン第一公書注解』 イオアン一 4 : 3

 

  1. 怒りや怨念を断ち、恥ずべき妄想から心を清めなさい。そうすれば、心にハリストスが宿ってくださるさまを見届けるだろう。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 4 : 76)

 

神を畏れる心(罪でもって神の愛を傷つけたくないという畏れ)

  1. 神を畏れていると心から明るくなり、(中略)邪念が消え、(中略)慾も鎮まって陰気だった気分も清められてゆく。(中略)神を畏れる心こそ、あらゆる知識の頂点にあるものだ。神を畏れない心に善はない。(中略)神を畏れない者は、いつでも悪魔の攻撃を受けやすい状態にある。(シリアの聖エフレム)

 

  1. どうすれば神を畏れる心を持てるのだろうか。[避けがたい]死を思い、[罪人を待ちうける]永遠の苦しみを思い起こしていなさい。眠る前には、どう一日を過ごしたか思い出し、朝起きたら、どう夜を過ごしたか自省しなさい。以上に加えて、[他人に]ふてぶてしく接しないことである。(克肖なる師父ドロフェイ『たましいに有益な教訓』 4)

 

  1. 罪を犯せば臆病になるが、ハリストスの義にしたがって生きていれば勇敢になる。(聖金口イオアン「彫像について」 8 : 2)

 

  1. 神の僕となった人は、主しか畏れない。いっぽう神を畏れない者は、しばしば自分の影さえも怖がる。(中略)不信仰だから怖がるのである。(中略)傲慢な心は怖がらずにいられない。自分に頼りすぎているから、わずかな音にも震え、影さえも怖がるようになるのだ。(階梯者聖イオアン『天国への階梯』 21 : 11, 1, 4)

 

  1. 主を畏れる者は、ありとあらゆる恐れを超越するようになる。この世で何が起ころうと不安にならず、何が起こっても震え慄くことはない。(シリアの聖エフレム『神を畏れる心と最後の審判について』)

 

不信仰

  1. とにかく虚偽のせいで、ただ虚偽のせいで人は神から離れてしまうのである。(中略)偽教を信じたり嘘をついたり、不誠実だったり背徳的行為を夢見たりするから、どんどん現実から遠のいて妄想に陥り、神を否定してしまうのである。(セルビアの聖ニコライ『善悪についての考察』)

 

  1. 驕り高ぶっていては、主を見ることはできない。たとい全世界の書物を読みあさったとしても、決して主を知ることはできない。その傲慢さが聖神に働きかける余地を与えないからである。ただ聖神の働きによってのみ、神を知ることができる。(アトス山の聖シルアン『手記』 3 : 11)

 

  1. 人はそれぞれ聖神の恩寵を受けてきた経験に基づいて神を捉えている。そもそも見たことも聞いたこともないものについて、すなわち知りもしないものについてどう考えたり論じたりできようか。実際、神を見たという聖人のいる傍らで、神はいないという人もいる。言わずもがな、神を知らないからそう言っているにすぎないが、だからといって神が存在しないわけではない。聖人は、本当に見て知ったことを語っているのだ。(アトス山の聖シルアン『手記』 8 : 9)

 

  1. 思い上がっていては信仰の道に入れない。よく未信者の方々に、こんなふうに神に問うてみてくださいと勧めることがある。「主よ、あなたがいらっしゃるのなら、どうか心の目を見えるようにしてください。そうすれば、思いと心をつくしてあなたに仕えましょう」と。こういうへりくだった思いと神に仕える心構えがあれば、必ずや主の道が見えてくる。(中略)そのとき、心から主を感じ、ああ、主に赦された、こんなにも愛されているんだ、と体験的に思い知るだろう。そして、聖神の恩寵によって救われた身を確信し、全世界に向かってこう叫ばずにいられなくなるだろう。「皆さん、わたしたちはこんなにも主に愛されているんですよ!」と。(アトス山の聖シルアン『手記』 3 : 6)

 

  1. どんな罪も犯さないように注意していなければ、ひたむきに信仰することはできない。道徳的に正しく生きていなければ、信仰しつづけることはできない。(オプチナの克肖者聖ニーコン)

 

第二章 目に見えない世界の現実

悪と罪

  1. 分別において迷うのは欺瞞であり、意志において迷うのは悪である。では、何をもって欺瞞や悪だと判定するのか。その基準となるのが神の戒めである。(中略)われわれは神から正しいことを教わり、善を求めよと命じられたのではなかったか。にもかかわず、それらに反する方向になびくのは、欺瞞であり悪でしかない。(聖ニコライ・カヴァシラ『ハリストスにおける人生について』 7)

 

  1. この世は、神と悪魔という二つの原点を拠り所として動いている。世の中の良いものはどれも神という源を拠り所とし、悪いものはどれも悪魔という源を拠り所とする。つまり、いかなる善も神から来ており、いかなる悪も悪魔から来ているのである。(聖イウスチン・ポポヴィッチ『イオアン第一公書注解』 イオアン一 3 : 11

 

  1. 悪いのは、食べ物ではなく暴食であり、子作りではなく淫行である。また、お金ではなく金銭欲であり、栄光ではなく虚栄心である。ということは、存在しているものに悪いものは何一つなく、ただ悪用するせいで悪となるのである。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 3 : 4)

 

  1. 神と罪は、二つの対極にある。まず罪に背を向けないことには、神に向かえない。正面切って神に向かえば、どこをどう歩んでも神に通じることになる。逆に神に背を向ければ、どうあがいても破滅に導かれることになる。口でも心でも決然と神を棄てた日には、とことん心身を滅ぼすことしかできなくなる。(セルビアの聖ニコライ『善悪についての考察』)

 

自由

  1. ほんとうに自由といえるものは、ハリストスの聖なる自由しかない。われわれはハリストスの自由によって、罪と悪と悪魔から解放された。そして、同じ自由によって神に結ばれる。それ以外の自由など、幻であり欺瞞でしかない。つまり、実際には奴隷状態なのに自由の身だと思いこんでいるだけである。(聖イウスチン・ポポヴィッチ『修行と神学の断章』 2 : 36)

 

  1. 「この人生の後には、ただ虚無が待っているわけではない」という信仰だけが、人を卑屈な生き方から救ってくれるのだよ。この信仰がないと、しょせん取るに足らない人生をどんな犠牲を払ってでも、つまり裏切ってでも屈辱にまみれてでも生き延びようとしてしまう。真心からの深い信仰を持つ人だけが、真に自由になれるんだ。主なる神へ依存しなさい。この依存だけが、卑しくならず惨めな奴隷にもならず、むしろ向上できる唯一の依存なのだから。(聖致命者アレクサンドル・メデム、息子への手紙、1922年)

 

  1. 自由であるということは、何でもやりたいことをできることだろう、と思いたがる人がいる。(中略)実際、なんのこれしきと思って罪や慾や悪習に溺れるのを自分自身に許してきた人は、法の許すかぎりもっと自由をくれとせがむものである。しかし、そういう自由を享受すればするほど、気ままに見える生活とは裏腹に内面はますます奴隷になっていく。真の自由とは、罪に隷属せず、良心にも裁かれず、神の真理の光のもとで最善のものを選択することができ、その選んだものを恩寵に助けられながら実現できる能力を指す。これぞ、いかなる天地にも制限されることのない自由である。(モスクワの府主教聖フィラレート、ロシア皇帝ニコライ1世の誕生日の訓辞、1851年)

 

  1. われわれは、互いに愛し合うよう主に求められている。現に神と隣人を愛しているとき、そこに自由がある。自由だけでなく、平等もある。むろん社会階級における平等などあり得ないが、それはたましいにとって重要な話ではない。だれもが王になれるわけではないし、総主教や取締役になれるわけではない。しかし、どんな身分であろうと神を愛して神を喜ばせることはできるし、その一点のみが重要なのだ。地上でより多く神を愛した人は、神の国でより大きな光栄を受けることになる。(アトス山の聖シルアン『手記』 6 : 23)

 

人生の目的

  1. ハリスティアニンたるもの、聖人になるべきことを自覚しなければならない。そして、何としてでも聖人になろうとしなければならない。もしも聖人となる希望も努力もなく生きるのなら、それは名ばかりのハリスティアニンであって実質的にはハリスティアニンではない。なにせ聖性がなければ主を見ることができないではないか。すなわち永遠の至福に入れないではないか。たしかにハリストスが世に来られたのは「罪人を救わんため」であった。それは聖句のとおりだし、正しいティモフェイ前1 : 15。だからといって、罪人らしく過ごしていれば救われるだろう、などと思うのは自分自身に対する欺きである。罪人は、ハリストスに助けられて聖人を目指せばこそ救われるのである。(モスクワの府主教聖フィラレート、1847年9月23日の説教)

 

  1. 聖性なんぞ修道士らが目指せばいい、と考えている人がいるが、そうではない。所帯持ちの人や、世間で仕事をしている人たちも聖性に召されている。なぜなら「聖性を身につけて完全な者になりなさい」という戒めは、修道士だけでなく万人に与えられた戒めだからである。(神品致命者オヌフリイ・ガガリュク)

 

  1. 人生の一大目的とは、いきいきと神と交わることである。そのためにこそ神の子が藉身され、かの陥罪以降に失った神とのいきいきした交わりを取り戻してくださったのである。ゆえに、神の子・主イイススをとおして御父と交われば、この目的を果たすことができる。(隠遁者聖フェオファン『異なる背景をもつ人々への書簡集』 24)

 

  1. 人々が戦争に行くのは、戦争を楽しむためではなく戦争から身を守るためである。それと同じように、われわれもこの世に生まれてきたのは、この世を楽しむためではなくこの世から身を守るためである。人々が戦争よりも大きなもののために戦争に行くのと同じように、われわれも人生よりも大きなもの、つまり永遠の生命のためにこの一時的な人生にやって来る。そして、兵士が喜んで帰郷する日を想い浮かべているのと同様に、ハリスティアニンも常に人生の終わりを思い起こし、いずれ天の祖国へ帰る身分であることを忘れない。(セルビアの聖ニコライ『善悪についての考察』)

 

聖人

  1. へりくだる者は幸いである。主に愛されるからである。誰よりも深くへりくだっておられた神の母は、地上にてどの世代からも讃えられ、天上ではどの天軍からも仕えられている。そんな神の母を、われわれは主から授かった。そして、いつも守り助けてもらっている。(アトス山の聖シルアン『手記』 3 : 14)

 

  1. 主は、[聖人らを指して]こう告げる。「わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを重んずる者をわたしは重んずる」箴言 8 : 17列王紀一 2 : 30と。そして、聖人らに聖神を賜わった。聖神を受けとった聖人は、聖神にあってわれわれを愛している。そして、われわれの祈りに耳を傾け、手を差し伸べる力を神から授かっている。この事実を知らないハリスティアニンはいない。(アトス山の聖シルアン『手記』 12 : 1, 8)

 

  1. 聖人なんて遠い存在だと思っている人は多い。しかし、遠いのは自ら離れていった者にとって遠いだけであり、ハリストスの戒めを守って聖神の恩寵を宿している人にはごく近い。天上では聖神によってすべて動いている。地上にも同じ聖神がおられる。この聖神が、われわれの教会に住んで機密の中に生きておられる。この聖神が、聖書の中におられて信者のたましいにも息づいておられる。そうやって聖神が万民を結びつけてくれるため、聖人もわれわれに近い。われわれが聖人に祈るとき、聖人も聖神にあって祈りを聞いておられる。だから、祈祷中に「あ、私たちのために祈ってくれているな」と感じるのである。(アトス山の聖シルアン『手記』 12 : 3)

 

  1. 聖人は主に似ている。ハリストスの戒めを守る人も主に似ている。しかし慾のままに生きて悔改しない者は、悪魔に似ている。もし人々がこの秘密を知ったならば、即座に敵に仕えるのをやめ、何としてでも主を知って主に似た者になろうとするだろう。(アトス山の聖シルアン『手記』 12 : 9)

 

  1. 聖神において神の母を知った人は、つまり使徒・預言者・聖人・義人の親族に加わった人は、どんどんその世界に引きこまれていって止まらなくなり、恋しくて苦しくて祈らずにいられなくなる。しかも体が疲れたので寝ようとしても、寝床に横になりながら主に思いを馳せ、たましいでは聖人の国を切望してやまない。(アトス山の聖シルアン『手記』 1 : 28)

 

聖書

  1. 聖書はわれわれを神へ導いてくれる書物である。そして、神を知る道も開いてくれる。(聖金口イオアン『イオアンの福音書についての講話』 59 : 2)

 

  1. 人性にとってはしんどい疾患がある。しかし、いかなる精神疾患にせよ身体疾患にせよ、聖書によって癒されない疾患は一つもない。(聖金口イオアン『創世記についての講話』 29 : 1)

 

  1. 光を奪われた者は、まっすぐ歩くことができない。それと同じく、聖書の光線が目に入らない者は、罪を犯さずに生きていくことができない。最も暗い闇(無分別)の中をさまよっているからである。(聖金口イオアン『ロマ書についての講話』 0 : 1)

 

  1. へりくだって属神的生活を送る人は、聖書を読むとき、どの話も他人ではなく自分自身に関連付けて読む。(苦行者聖マルコ『訓話』 1 : 6)

 

  1. 聖なる書物を読むときには、常に言葉に込められた目的を探し当てよ。聖人の深い考えを洞察し、その考えをきっちり正しく理解するためである。(中略)聖書を読むときは、事前に祈ることもなく読もうとするな。(中略)祈りこそ、聖書の内容を正しく理解するための鍵であることを弁えよ。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 1, 85

 

  1. 聖書を読んだり聞いたりする前に、次のように祈りなさい。「主イイスス・ハリストス神の子よ、どうかこの心の目と耳を啓いてください。啓いてくだされば、御言葉を理解して御旨を行えるでしょう」と。このように祈り、いつも賢明に御言葉の力を汲みとれるようにせよ。おのが理性を信じて道を踏み外した人は多い。(シリアの聖エフレム)

 

  1. 世俗文学を読みふけった後で聖書を読み、その最中に浮かんだ発想を神の法だと勘違いする人がいる。きちんと預言者や使徒の真意を知ろうともせず、ただ自説を裏づける聖句を探して「良いこと」をした気になっている。これぞ、最もたちの悪い教えの一つである。明らかに聖句と矛盾しているにもかかわらず、聖書の教えを都合よく歪めて利用する。こんなふうにして知りもしないことを教えたがるのは、幼児や詐欺師によくあることだ。(聖イエロニム、聖パウリンへの手紙)

 

聖伝

  1. 偽教から身を守って正しく信仰したければ、まずは権威ある聖書を拠り所とし、つぎに聖伝を拠り所として自分の信仰を守らねばならない。……などというと、こんな風に問われるかもしれない。「たしかに聖書正典は非の打ち所がない権威だ。それだけでも完璧なのに、なぜ聖伝の権威まで加えるのか」と。なぜならば、聖書は万人が同様に理解できるものではなく、こう解釈する人もいればああ解釈する人もいるという具合で、その結果、解釈者の人数分だけ異なる意味を引き出すことができるからである。だからこそ、指針となる教会の解釈が欠かせないのだ。(中略)そもそも聖伝とは何か。いつどこでも[教会内の]全員が信じてきた信仰である。(中略)あなたがひねり出した解釈ではなく、あなたが受け入れた解釈である。(中略)今後どう歩むかに注意せよ。自分の好きなほうへ宗教を導くのではなく、自分自身が宗教の導いているほうへ従うこと。自前のものを子孫に伝えるのではなく、祖先から受け継いできたものを守ること。われわれの義務は、ここにある。(レランスの聖ヴィンセント『コモニトリー』《異端に対する護教論》)

 

  1. 福音書をはじめ聖書というものは、あえて自分勝手に解釈してはならない。聖書は、聖預言者や聖使徒が身勝手に語ったものではなく、聖神に導かれて述べたものであるペトル後1 : 21。それを身勝手に解釈してしまうとは、実に愚かなことではなかろうか。聖神は、預言者と使徒をとおして神の言葉を語った後、聖師父をとおしてその解釈を与えた。神の言葉も、その解釈も、聖神の賜物に他ならない。聖なる正教会が認めるのは、この聖師父による解釈のみだ。正教会の真の諸子が認めるのも、この聖師父による解釈のみだ。(聖イグナティ・ブリャンチャニノフ「福音書を読むことについて」)

 

  1. プロテスタントの日本人が時々私のところに来て、聖書のどこそこの箇所を説明してくださいと求めてくることがある。「でも、あなたがたには専属の宣教師がいるじゃないですか。どうぞ聞いてみなされ。何と答えるでしょうか」と訊くと、こう返してくる。「うちの宣教師にも訊いてみたのですが、『自分の思うように解釈しなさい』と言うのです。ただ、こちらとしては、あくまでも聖句に込められた神の真意を知りたいのであって、自分自身の解釈を知りたいわけではありません」と。(中略)われわれの教会では、そういう教え方はしない。どの聖句にも納得のいく明瞭な解釈がしっかり定められてある。なぜなら、われわれは聖書だけでなく聖伝も受け入れているからである。まさに聖伝こそ、ハリストスと使徒のいた時代から現在まで、そしてこの世の終わりまで重視されつづけていく(中略)判断基準に他ならない。そもそも聖伝の中で、聖書全体が定められてきたのだ。(亜使徒日本の大主教聖ニコライ『日記』 1897年1月15日)

 

ハリストス教会

  1. 兄弟姉妹の皆さん、憐み深い神が私たちに望んでおられることは何でしょうか。まさに一人一人が現世でも来世でも幸せになることです。そのためにこそ、神は聖なる教会を設立されたのです。教会で私たちが罪を清めて成聖され、神と和解して天の祝福を受けるためです。教会に行けば、いつでも大歓迎してもらえます。良心に重荷を感じている人は、今すぐ教会へ行きましょう。ぜひとも飛んで行きましょう。教会へ行けば重荷が軽くなり、神に向かう勇気も湧き、なんともいえない至福感で満たされるに違いありません。(エギナの聖ネクタリイ「幸せへの道」 1)

 

  1. ハリストス教会というのは、一つの聖なる公なる使徒の教会である。この世に一つしかない属神的な「体」である。イイスス・ハリストスというかしらを戴き、唯一の聖神を宿している。国ごとにやや異なって見える地方教会も、あくまで公なる教会組織の一部にすぎず、一本の木から伸びた枝のように同じ根から同じ栄養を吸って発展している。「聖なる教会」と呼ばれるのは、神である創始者ハリストスの聖なる言行、贖罪、受難によって成聖された教会だからである。それこそ人類を救って成聖するために主は受難されたからである。「公なる教会」と呼ばれるのは、国や時代の隔たり、民族や言語の違いを超えて普遍なる教会だからである。実際、教会に招かれていない人は一人もいない。正教会が「使徒の教会」と呼ばれているのは、まさに使徒の精神と教義を守り抜き、その布教の業を引き継いできた教会だからである。(セルビアの聖ニコライ『正教要理』)

 

  1. 教会から離れ、分派や異端や新興宗教へ走るのは自滅的行為でしかない。それが属神的な死を意味することは周知のとおりである。われわれの立場からすれば、教会以外のところにハリストス教は存在しない。教会がハリストスによって造られた「ハリストスの体」である以上、その体から離れていくのは死以外に何を意味するのか。(聖イラリオン・トロイツキー「教会生活について」)

 

  1. たやすく教会から得られる真理を、教会以外のところで求めてはならない。使徒たちは教会という豊かな宝庫に、真理に関するすべてを注ぎ込んだ。ゆえに、ほしいだけそこから命の飲み物を得ることができる。教会とは、命への扉なのである。(リオンの神品致命者イリネイ『異端反駁』 3 : 4)

 

  1. 教会は、聖なるものである。もちろん中には罪人もいるとはいえ、聖なるものである。教会内部の者が罪を犯してしまったとしても、真心から悔改して心身を清めるのであれば教会の聖性を汚すことはない。しかし罪を悔改しない信者ないし神品(聖職者)は、主教品などの目に見える働きによって、あるいは神の裁きという目に見えない働きによって、もはや死んだ肢体として教会の体から切り離されることになる。こうして教会は、悔改せぬ罪人が出た場合でも聖なるまま保たれるのである。(モスクワの府主教聖フィラレート『正教要理』)

 

  1. ~72. われわれは、どんなとき「ハリストスと共に生きている」と言えるのだろうか。ハリストスの福音書どおりに生き、教会生活を送っている時である。なにせ教会に通っていれば福音書に耳を傾けるだけでなく、完徳を帯びたハリストスご自身にお会いしているからだ。つまり教会とは、神人ハリストスの永生なる「体」なのである。(中略)われわれは、まずは聖機密をとおして教会に入り、聖なる徳行をとおして教会に留まりつづける。主イイススは、この世では教会と共に留まりつづけ、いつの時代でも信者と共におられた。(中略)そのうえ、ご自身を丸ごと教会に残され、ご自身をわれわれに与え続けておられる。それもこれも、われわれが主と同じようにこの世で生きられるようにするためである。(聖イウスチン・ポポヴィッチ『イオアン第一公書注解』 イオアン一 4 : 9, 17

 

属神的指導者(聴悔神父)

  1. とにかく「聴悔神父の中には聖神が宿っておられて、今なすべきことを私に教えてくださっているのだ」と思いなさい。「いや、この神父はそんなに熱心じゃないし、どうやって聖神を宿すことなどできようか」などと思った日には、そういう邪念のせいで主から試練が送られてきてひどい目に遭い、迷妄に陥って苦しむしかない。(アトス山の聖シルアン『手記』 2 : 1)

 

  1. 聴悔神父に洗いざらい打ち明けない者は、その生き方が曲がっているので救われることはない。いっぽうすべて打ち明ける人は、まっすぐ天国に行ける。(アトス山の聖シルアン『手記』 13 : 9)

 

  1. 聴悔神父には何もかも打ち明けよ。そうすれば、主の憐れみをうけて迷妄に陥らずに済む。しかし、いや絶対に聴悔神父よりもオレのほうが属神的生活については詳しいぞ、などと思い、痛悔機密のときに自分の身に起こっていることを告げないならば、その傲慢さのせいで何らかの迷妄に陥り、正気に返るまで彷徨うことになるだろう。(アトス山の聖シルアン『手記』 17 : 13)

 

  1. [痛悔]機密にて聴悔神父をとおして働いておられるのは、聖神である。ゆえに聴悔神父のもとから立ち去るなり、生まれ変わったように感じるのだ。しかし、立ち去る時に戸惑いを覚えたとしたら、それはあなたが自分の罪を告げきっておらず、心の底から兄弟の罪を赦していない証拠である。(アトス山の聖シルアン『手記』 13 : 11)

 

  1. 主は、われわれのために十字架上で苦しまれるほど、われわれを深く愛された。その苦しみはあまりにも大きく、とても人間に理解できるものではない。それと同じく、属神的牧者である聴悔神父も、われわれのために苦しんでいる(信徒には気づかれないかもしれないが)。その聴悔神父の愛が大きければ大きいほど、痛く苦しむことになる。われわれ羊(信徒)はこの点を理解し、自分の羊飼い(聴悔神父)を愛して敬うべきである。(アトス山の聖シルアン『手記』 13 : 2)

 

  1. 聴悔神父とは路標のごとき存在にすぎず、単に行くべき道を示してくれるだけである。あくまでも弟子自身が、その道を歩んでいくのである。どんなに道を示してもらっても弟子自身が全く動かなければ、どこへも出向かないままその路標のもとで朽ち果ててしまうだろう。(オプチナの聖ニーコン)

 

報い

  1. 死後どうなるか、という問題については、思い違いをしてはいけない。まさにこの世で蒔いた種を、あの世で刈り取ることになるのだ。ここから旅立った後では、もう何もしようがない。(中略)ここでは労苦し、あの世では報いを受ける。ここでは苦闘し、あの世では栄冠を受けるのである。(聖大ワルソノフィ『問答集』 606)

 

  1. 人は神を愛していれば、神のおかげで神と交われようになる。すると、生き生きとして明るくなり、次から次へと神の恩寵を楽しむことになる。ただし、自ら率先して神から離れていった者は、当人の意向にそって神に破門される。光から離れていけばいくほど暗闇に入るように、神から遠ざかれば遠ざかるほど神の恩寵を何もかも失うことになる。ただし神の恩寵は永遠にして終わりがないため、その恩寵を失っていく過程もまた永遠にして終わりがない。このようにして、罪人は自分で自分の首を絞めることになる。ちょうど自分の目を潰してみせた者が、自分自身を照らす光を見ることができないように——。(リオンの神品致命者イリネイ『異端反駁』 5 : 27)

 

  1. 救い主は、迷っている人類を正道に帰らせるべく、従順な信者には天の福楽を約束され、不従順な者には一時的ではなく永遠に終わりなく苦しむことになる来世を示された。(コンスタンティノープルの総主教聖フォティ『アムフィロヒア』 6)

 

  1. 男だけが狭い道を歩んで天国を得たのではない。より弱い性別である女も同じように狭い道を歩んで天国を得た。天国では男も女もない。それぞれ自分の働きに応じて報いを受けるのである。(シリアの聖エフレム「主の再臨についての訓話」)

 

ハリスティアニンの永遠の喜び

  1. いつも喜んでいなさい。なぜならハリストスのおかげで悪も死も罪も、悪魔も地獄も打ち負かされたからである。そういう陰湿なものが何もかもすでに打ち負かされた以上、はたしてわれわれの喜びを冷ませるものなどこの世にあろうか。あなたがたは、罪に屈しない限りこの「永遠の喜び」の主人である。その心は歓天喜地に至り、ハリストスの真実と愛と復活を見て喜び、教会と諸聖人を見て歓んでいる。それどころか、ハリストスのために苦しむ時にも、ハリストスのために嘲笑される時にも、ハリストスのために死ぬ時にも、この喜びが消えることはない。そういった苦しみをとおして、われわれの名前が天に刻み込まれるからである。この地上では、死に打ち負かされているうちは真の喜びはない。死に打ち勝てるものは復活しかない。そして、復活をもたらせるのはハリストスしかいない。教会の創始者である神人ハリストスは復活されたのだ。そして、その復活による永遠の喜びを、聖機密や徳行をとおして絶えず信者に注いでおられる。(中略)われわれの信仰は、この永遠の喜びに溢れている。なぜなら人間にとって真の喜びとは、ハリストスを信じる喜び以外には無いからである。(聖イウスチン・ポポヴィッチ『フェサロニカ前書注解』 5章)

 

第三章 私たちと周囲の人々

他人に対する態度

  1. ハリスティアニンは、すべての人に対して親切であるべきです。何を語るにせよ行うにせよ、心に宿した聖神の恩寵を現していなければなりません。そのようにして御名を讃えるためです。言葉の一つ一つを吟味する人は、行いの一つ一つも吟味します。言おうとする言葉を吟味する人は、やり遂げようとする行為も吟味し、品性や徳行における一線を越えることはありません。恩寵を宿したハリスティアニンは、繊細で親切な話し方をします。ここから親愛が生まれ、平和と喜びを享受できるようになります。その反対に、乱暴な物言いからは憎悪や苦悩が生まれ、敵意をもたらして[討論に]勝とうとする欲求を高めた挙句、ひいては暴動や戦争が勃発してしまうのです。(エギナの聖ネクタリイ「幸せへの道」 7)

 

  1. 人間社会に敵なんかいないと思えるのは嬉しいことだね。たとえ相手が何か勘違いして敵となって喧嘩を売ってきたとしても、やはり助けなきゃいけない可哀想な兄弟であることは変わらないんだ。そういう幸せじゃない人たちは、残念ながら自分自身の中に敵がいることを見落としている。その敵が見えていないから、まずは自分自身の中から敵を追い出して、そのうえで他人の中の敵も一緒に追い散らすべきことも知らない。わたしたち人類にとって敵というのは、悪魔と悪霊しかいないのだよ。人間ならば、どんなに堕落したって光と善の火花を失うことはないんだ。それも燃え上がって炎となるかもしれない火花さ。たとえ年がら年中嫌がらせしたり罵倒したりしてくる相手がいたとしても、争ったところで何の得にもなりやしないよ。(中略)争うことは、相手の誤った立場に立つことを意味するからね。勝ったとしても得られるものなんて何もなく、かなりの時間、なすべき任務から気を逸らされるのが関の山でしょう。(神品表信者聖ロマン・メドヴェヂ、強制収容所から娘へ送った手紙、1932年)

 

  1. 力を尽くして謙遜と兄弟愛を主に求めよ。ただ兄弟愛を抱いているだけで、主から恩寵を授かるのだから。そう、こんな実験をしてごらんなさい。兄弟愛を神に求める日と、求めない日を作ってみる。すると、はっきり違いが分かるだろう。(アトス山の聖シルアン『手記』 16 : 8)

 

  1. ~88. 義をもって身を飾り、誰に対しても真実を語るようにせよ。いかなる人に強いられても嘘の証言をしてはならない。もし真実を述べたことで誰かの怒りを招いたとしても、がっかりせずに主の御言葉に慰めを見出すことだ。主は「義のために窘逐きんちくせらるる者はさいわいなり、天国は彼等のものなればなり」とおっしゃったのだから。(聖師父教訓集『黄金の鎖』コンスタンティノープルの聖ゲンナディ 26, 29)

 

  1. 聖イサイヤは、「兄弟に対してずる賢く立ち回る者は、いずれ悲嘆に暮れるしかなくなる」と教えた。(『古代師父言行録』 10 : 28)

 

  1. ある件で神に信頼を置いた人は、もうその件で隣人と喧嘩はしない。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 103)

 

  1. 義人に近づいて、義人をとおして神に近づくのだ。謙遜な者と交わって謙遜な品性を身につけよ。(中略)神を愛する人に従うならば神の奥義に満たされるが、間違ったことを平気でする者に従うならば神から離れて友にも嫌われる。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 57, 8

 

  1. 聖大ピーメンは、「争い好きな人からは遠ざかれ」と教えた。(『古代師父言行録』 11 : 59)

 

  1. 友人を悪く言う者を黙らせる力がないならば、せめてその人との関わりを避けよ。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 89

 

他人の罪にどう向き合うか

  1. ~95. 罪人を愛せ、しかし罪状そのものは憎め。ダメな部分があるからといって罪人を見下すな、同じ罪に誘惑されて堕ちないとも限らない。(中略) たとい信仰が違ったり足りなかったりしても怒らず、素行が悪くても嫌うな。(中略) 罪人に嫌悪感を抱くな。なぜならわれわれはみな咎を負っているからだ。(中略)罪人の罪は憎め。だがその人自身のことは祈れ。罪人に対して怒らなかったハリストスは、むしろ罪人のために祈られた。そのハリストスに似た者となれ。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 57, 90

 

  1. 悪の原因は自分自身の中に見出すこと。手に負えなかった相手や物事の中に見出してはならない。どうにもこうにも手に負えなかったという点では、ちょうど子供が火やナイフと格闘したのと同じである。はからずも火傷し、自分自身を傷つけてしまったのである。(カラガンダの聖セバスティアン)

 

  1. ある兄弟が長老に尋ねた。「兄弟が罪に堕ちたのを見たら、それを隠すのは良いことでしょうか」と。長老は答えた。「愛のゆえに兄弟の罪を隠すのなら、神もわれわれの罪を隠してくださる。兄弟の罪を他人の前で暴露するなら、神もわれわれの罪を人々の前で晒されるだろう」と。(『古代師父言行録』 9 : 9)

 

  1. 罪を犯している人に腹を立ててはいけない。(中略)よくやってしまうのだが、片っ端から隣人の罪をつついて裁こうとしてはいけない。誰しも自分の行為に対して神の前で問われる日が来る。(中略)特に年上の罪は、悪意をもって見てはならない。それはあなたに重要なことではなかろう。(中略)むしろあなた自身の罪を断ち、あなた自身の心を正しなさい。(クロンシュタットの聖イオアン『ハリストスにある我が人生』 1 : 6)

 

  1. 隣人が罪を犯しているのを見たら、その罪だけを見るのではなく、その人がこれまでどんな善行をしてきたか、最近もどんな善行をしているか思いめぐらしなさい。すると多くの場合、一点だけでなく全体を検証することで、その人があなたよりも優れていることに気づくであろう。(聖大ワシリイ『講話集』 20)

 

  1. 罪を犯している人を見て胸を痛めないなら、恩寵を手放すことになる。(中略)社会に悪影響を与えている人や罪人を指して、あいつが悪い、こいつのせいだ、と批判するだけで彼らのために祈りもしないなら、どだい神の恩寵を知ることなどできない。(アトス山の聖シルアン『手記』 7 : 3, 8 : 6)

 

  1. 他人の悪行を厳しく追及する者は、自分自身の悪行も大目に見てもらえることはない。(聖金口イオアン「彫像について」 3, 6)

 

罪を犯した者を暴くべきか

  1. いちいち隣人の罪を責め立てるよりも、その人のために敬虔に祈るほうがよい。(苦行者聖マルコ『訓話』 1 : 132)

 

  1. 徳行を鼻に掛けているような人がいたら、それは良くないと指摘して諭そうとするなかれ。しょせん見せびらかすのが好きな人間は、真実を愛することなどできない。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 222)

 

  1. 神を畏れながら罪人を教え導くならば、罪とは正反対の徳を身につける。いっぽう怨念ゆえに罪人をなじって追いつめるならば、属神的法則によって同じ罪に陥ることになる。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 183)

 

  1. 他人を善の道に向かわせたければ、まずは身体的に満たしてあげて愛の言葉で敬意を示せ。あなたから施される身体的恩恵と敬意ほど、人を恥じ入らせ、悪習を捨ててより良い方向に向かわせるものはないからだ。(中略)そして、一言か二言ほど語りかけることだ。決して腹を立てて敵意の兆しが見えてしまうようではいけない。というのは、愛は怒ることができず、人に対してイライラできないはずだからである。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 85, 57

 

人を裁くこと

  1. どうか罪過を赦してくださいと思いながら生きている人は、謙遜を愛するものである。いっぽう他人を裁く者は、自分の犯した罪をますます取り返しのつかないものにする。(苦行者聖マルコ『訓話』 1 : 126)

 

  1. ~108. 罪のない者だけが、他人の罪を裁くことができる。しかし、罪のない者など神以外にどこにいる。これまでどれだけ罪を犯してきた身か思いめぐらしていれば、他人の罪について取り立てて話すことはない。誘惑に負けてしまった者を裁くのは傲慢な証拠であり、傲慢な者は神の敵となる。その反対に、いつ何時なんどきでも罪過を償うつもりで生きていれば、安易に他人の失態をつつこうとはしない。(聖師父教訓集『黄金の鎖』コンスタンティノープルの聖ゲンナディ 53~55)

 

  1. ~110. 知識のある人はぶどうを食べるとき、熟れた実だけを取って味わい、酸っぱい実には触れないものだ。それと同様に、賢い人は他人の徳だけを入念に観察する。いっぽう愚か者は他人の悪習や短所ばかり詮索してしまう。(中略)罪を犯している人をこの目で見たとしても裁いてはいけない。肉眼でさえ、しばしば見間違えることがあるからである。(階梯者聖イオアン『天国への階梯』 10 : 16~17)

 

  1. 隣人を裁いてしまう悪癖があるのなら、人を裁くたびに、その日のうちに三度地面にひれ伏してこう祈れ。「主よ、また裁いてしまった○○さんを救って憐れんであげてください。また、あの人の祈りによって、罪人である私のことも憐れんでください」と。人を裁くたびに、こう祈りなさい。そうすれば、主はあなたの熱意を心に留め、その悪癖から永遠にあなたを救ってくださるだろう。そして、あなたがもう誰のことも裁かなくなれば、神もあなたを裁かない。こうして、あなたは救いを得るであろう。(神品表信者セルゲイ・プラヴドリュボフ)

 

侮辱してくる相手への対処法

  1. 侮辱してくる相手のために祈るならば、悪鬼を打ち倒す。しかし、侮辱してくる相手に逆らうならば、悪鬼に打ち負かされてしまう。(苦行者聖マルコ『訓話』 1 : 45)

 

  1. 馬鹿にされても言い争わず、むかつきもしない人は、真の知識があって神を信じきっている身を示している。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 119)

 

受けた侮辱を赦すことについて

  1. 世の中、こんな決まりになっている。もしあなたが赦すのなら、それはあなたも主に赦されたということである。しかし、兄弟を赦さないなら、あなたの罪も一向に赦されない。(アトス山の聖シルアン『手記』 7 : 9)

 

  1. 親愛なる兄弟の皆さん、私たちは全員いつか死ぬことになります。この世に生きているあいだに互いに愛し合わなければ、やがて苦しむことになるのです。許せない相手とも和解しておかなければ、かりに傷つけ合った仲だとしても赦し合っておかなければ、あの世で永遠の安息と至福を得ることができず、犯した罪も天の父に赦してもらえなくなってしまうのです。(ツェティニェの聖ペトル、ラドゥロヴィチの信徒への手紙、1805 年)

 

  1. 受けた侮辱を赦すとき、それは見せかけではなく真に愛している証拠である。なにせ主もそのようにして世を愛されたのである。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 48)

 

人に悪く言われるとき

  1. 非難してくる人がいたら、こう受け止めるがよい。きっとこの人は秘めた邪念を暴くために神から遣わされてきた人なのだ、と。それこそ、あなた自身が心の中でいつも考えていることを直視し、身を改めていくためである。(中略)たいてい心に秘めた邪念には気づかないものである。ただ完徳に至った人だけが自分の弱点を一つ残らず覚えている。(苦行者聖マルコ『訓話』 6)

 

  1. あなたのことを悪く言った中傷者のために心から祈れば祈るほど、神はその中傷を信じた人たちに真実を明らかにしてくださる。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 4 : 89)

 

褒められるとき

  1. 人に褒められ始めたら、どれだけ過ちばかり犯してきた身か思い出せ。思い出せば、いま褒められたり持ち上げられたりしていることが如何にふさわしくないか痛感するであろう。(階梯者聖イオアン『天国への階梯』 22 : 42)

 

怨念

  1. 誰かに対して怨念が残っているのなら、その人のために祈れ。祈ることによって苦い思い出から悲しみを取り除き、怨念という罪深い慾の動きを止められるからだ。いずれ温かい気持ちで人を愛せるようになれば、怨念をすっかり追い払えるであろう。あなたに対して牙をむいてくる人がいたら、へりくだって優しく応対し、親切にしてあげるがよい。そうすれば、その人も慾から解放されるであろう。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 3 : 90)

 

  1. 人に対して憎しみを抱いているうちは、神と睦まじくあることはできない。主はこう言われた。「もし人にその過ちを免さずば、爾等の父も爾等に過ちを免さざらん」マトフェイ6 : 15と。たとい相手が和解を望んでいなくても、憎しみを抱かないように気をつけよ。憎しみを抱かないようにするためには、わだかまりのない心でその人のために祈り、悪口を言わないことだ。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 4 : 35)

 

敵への愛

  1. 敵を愛せないうちは、主のことも聖神の甘美さも知ることができない。よって聖神は、敵をわが子のように不憫に思って愛しなさい、と教えている。(アトス山の聖シルアン『手記』 1 : 11)

 

  1. 誰かに傷つけられたり罵られたり追放されたりしたときは、いま起こったことではなく、これをきっかけに今後どうなっていくのかを考えよ。そうすれば、自分を侮辱してきた相手こそ、現世でも来世でも多くの恩恵をもたらしてくれた人だと気づくであろう。(苦行者聖マルコ『訓話』 1 : 114)

 

  1. 敵対者にまつわる凶報を待ち望んではならない。そういう知らせを喜んで聞く者は、その邪念に見合った実を刈り取ることになる。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 173)

 

  1. 侮辱されたり体面を傷つけられたり何か所有物を奪われたりしたときには、ぜひこう祈ってみてほしい。「主よ、しょせん私たちは誰しも御手による受造物にすぎません。どうかあなたのしもべたちを憐れみ、悔改へ導いてください」と。そうすれば、たましいに恩寵を宿した手応えを感じるであろう。敵を愛そうと努めていれば、その善意を主がご覧になってあらゆる面で助けてくださるようになる。すると、主の歩まれた後ろ姿が目に浮かんできて、どう敵を愛したらよいかが見えてくる。しかし、敵を恨んでいるうちはまだ神の愛がなく、まだ神を知ってはいない。(アトス山の聖シルアン『手記』 9 : 21)

 

第四章 私たちを神に近づけてくれるものについて

祈り

  1. 祈りをやめてはならない。なにせ体も食事を摂らないと衰弱するようにたましいも祈りという糧を摂らないと衰弱して死に近づき、属神的な思いが湧かなくなってしまうからである。(聖師父教訓集『黄金の鎖』コンスタンティノープルの聖ゲンナディ 44)

 

  1. ~128. 何をするにしても常に祈ること。神の助けを得ずに何かすることのないように。(中略)祈らずに何かしたり苦心したりする人は、やり遂げたとしても良い結果は得られない。主は、このことについて「爾等我なくしては、何事をも行うあたわず」(イオアン15 : 5)と言われた。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 94, 166)

 

  1. 祈らずに言ったことや行なったことは、あとで行き詰ったり悪影響を及ぼしたりする。そして、どういう訳かちょっとしたことでぼろが出て、われわれを暴いてくる。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 108)

 

  1. 祈るときに罪人だという自覚がなければ、主に聴き入れてもらえない。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 55

 

  1. 人が神の戒めを守っていれば、神も祈りを聴いて叶えてくださる。聖金口イオアンも「神の戒めに聴き従いなさい。そうすれば、神も祈りを聴いてくださる」と言う。人は神の戒めを守っているかぎり、賢く忍耐強くあれるし、祈るときにも誠実に祈れる。祈りの奥義とは、神の戒めを守ることにあるのだ。(聖イウスチン・ポポヴィッチ『イオアン第一公書注解』 イオアン一 3 : 22

 

  1. われわれが産声を上げる以前からすべてを知っておられる神に、あなたの願いを[祈りの中で]委ねよ。ただし、万事が思いどおりになるように願ってはいけない。人は何が自分にとって良いか分からないからである。ひたすら「御旨が行われますように」と祈れ。神が行われることは、何もかもわれわれの益になるのだから。(聖師父教訓集『黄金の鎖』コンスタンティノープルの聖ゲンナディ 47)

 

  1. 神に求めても何も得られない場合、間違いなく次のいずれかの理由による。もしかしたら、時期尚早に求めているからである。あるいは、虚栄心に突き動かされて身の丈に合わないものを求めているからである。または、求めたものを得るなり高慢になったり怠惰に陥ってしまう危険性があるからである。(階梯者聖イオアン『天国への階梯』 26 : 60)

 

  1. 指導者なしで祈りを究めようとする者は、つまり傲慢にも書物から学べると思って長老のところへ行かない者は、すでに半ば属神的妄想に陥っている。主が助けてくださるのは謙遜な者だからである。よって、経験豊かな指導者がいなくても聴悔神父に頼るのであれば、主はその謙遜さゆえに守ってくださるだろう。(アトス山の聖シルアン『手記』 2 : 1)

 

  1. 祈っているときに、何かしら脳裏に余計な考えや心配事が思い浮かぶならば、その祈りは清い祈りでない。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 16

 

  1. 祈り求めてきた念願が叶って思い上がった場合、実のところ神に祈っていたわけではなく、神に助けられて念願が叶ったのでもない。言わずもがな、そう思い上がるように悪鬼に全部仕組まれただけである。なぜなら、もし本当に神に助けられたのであれば、念願が叶ったときに思い上がるどころかへりくだり、どうしてこんな罪人を神はこれほど憐れんでくださるのかと驚嘆するはずだからである。(聖大ワルソノフィ『問答集』 418)

 

  1. 主は、ある人を憐れもうとされるとき、その人のために祈りたくなる気持ちを周囲の人に起こさせ、その祈りが続くよう助けられる。(アトス山の聖シルアン『手記』 20 : 9)

 

  1. 慾と苦闘している最中は[祈りの中で]憐れみ深き神に呼びつづけよ。(中略)[祈りの中で]神の名を絶えず呼び求めていると[たましいが]癒され、いま困らされている慾だけではなく、その慾から生じる他の慾まで滅ぼしてもらえる。ちょうど医者からもらった良薬が効くとき、どうしてこんなに効くのか分からないのと同じである。神の名を呼んでいると、それがどうしてそうなるのかは分からないが、慾という慾がことごとく滅ぼされてゆく。(聖大ワルソノフィ『問答集』 421)

 

悔い改め

  1. 悔い改めなかった罪は、死罪と同じ重みを持つ。そういう罪については、たとい聖人が祈ってくれたところで神に聞き入れてもらえるものではない。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 41)

 

  1. 罪を犯した者は、その罪にふさわしいかたちで悔い改めなければ罰を逃れられない。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 58)

 

  1. 今の自分に不満を持ち、完徳に至るまで向上しつづけるならば、神はあなたの罪を清めてくださるだろう。(福アウグスティン『イオアン公書注解』 1 : 7)

 

  1. 聖人たちもわれわれと同じ人間であった。中には罪深い生活からがらりと変わって篤信家になった人も多かった。つまり、聖人も悔い改めたことで天国までたどり着いたわけだから、誰しも悔い改めれば天国にたどり着くわけだ。悔い改めとは、憐れみ深き主が多くの苦しみをうけて人類に授けてくださった賜なのである。(アトス山の聖シルアン『手記』 12 : 10)

 

  1. もしも罪を犯した後で[心から]悲しまないなら、たやすくまた同じ落とし穴に嵌ってしまうだろう。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 215)

 

  1. いちど悔い改めてもまた同じ罪を犯すとき、それはその罪の原因を根絶しきっていない証拠である。ちょうど根から草が生えてくるように、その原因があるうちはまた罪を犯してしまう。(聖大ワシリイ)

 

  1. ~146. 「こんな大罪を犯してしまったからには、もう神の前にひれ伏す資格すらないんです」などと言ってはならない。絶望してはならぬ。ただ、これ以上は罪を犯さないよう心がけよ。そうすれば、憐み深い全能者に助けられて体面を損なうことはなかろう。なにせ神は、「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」とおっしゃったではないか。思いきって信じなさい。神は清らかなお方であり、ご自分に近づいてくる者を必ず清めてくださる。本気で悔い改めたいのであれば、行動によって示すことだ。傲慢を悔い改めたければ謙遜を示し、酩酊を悔い改めたければ素面しらふを示し、放蕩を悔い改めたければ清い生活を示せ。「悪を避け、善を行え」と書いてあるとおりである。(聖師父教訓集『黄金の鎖』コンスタンティノープルの聖ゲンナディ 87 ~ 89)

 

  1. 一生涯、罪を犯しては悔い改めつづけた人がいた。ついに人生最後の罪を犯し、やはり悔い改めてから死んだ。すると、悪鬼がたましいを奪いにやって来て「こいつはオレのものだ」と言い張った。主は「いや、この人は悔い改めた」とお答えになった。悪鬼は「たしかに悔い改めたけど、やはり罪を犯してばかりいたじゃないか」と言い返した。すると、主は悪鬼に告げられた。「おぬしは悪党の分際でありながら、この人が悔改後に罪を犯すなり受け入れてきたではないか。なのに、いくら罪を犯したからとてやはりこの人が悔い改めたとき、どうしてこの私が受け入れないわけがあろうか」と。(オプチナの聖アンブロシイ)

 

  1. 思わぬ罪を犯してしまった時、(中略)くよくよしたり自己嫌悪に陥ったり、「私ともあろうものが、どうしてこんな罪に陥ってしまったのか」などと叫ぶなかれ。それは傲慢な自己過信からくる叫びである。むしろへりくだって心眼を主に向け、「主よ、これ以外にどんな道がありえたでしょう。あまりにも弱く、悪癖に囚われている身なのです」と打ち明けなさい。そして、その程度で事態が収まったことをすぐに感謝し、「主よ、あなたの計り知れない慈しみがなかったら、もっと悪い状況に陥っていたことでしょう」と吐露することだ。(聖山アトスの聖ニコディム『見えざる闘い』)

 

  1. 自分の罪を憎めば、罪を犯さなくなる。さらに痛悔機密で告げれば、罪の赦しを得る。まずは罪に対する敵意を持たないかぎり、罪の習慣を断つことはできない。まずは罪過を告げないかぎり、罪の赦しを受けることはできない。というのも、犯した罪を告げると、真の謙遜が生じることが往々にしてあるからだ。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 71

 

  1. かつて犯した罪は、その時の様子を思い出すなり悪影響を受ける。思い出した際、悲しくなるなら希望を失い、平然としているようでは内面を汚す。もし神に咎められないように痛悔したければ、どうやって罪を犯したか思い出すのではなく、罪過からくる苦しみを勇敢に耐えよ。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 151, 153)

 

  1. 主は、悔い改める罪人をこよなく愛し、憐れみ深く懐に抱き寄せてくださる。「わが子よ、どこにいたのか。長い間ずっと待っていたのだよ」と。福音書をとおして万民を招いておられる主の声は、もはや世界中の人々の耳にこう届いている。「わが羊たちよ、こちらへおいで。あなたたちを造ったのはこの私だ。あなたたちを愛しているのもこの私だ。まさに愛していればこそ地上まで行き、あなたたちを救うために苦難という苦難に耐えたのだ。どうかこの愛を知ってほしい。そして、ファヴォル山での使徒たちと同じように『主よ、わたしたちがあなたと共にいられることは素晴らしいことです』と喜んでほしい」と。(アトス山の聖シルアン『手記』 9 : 27)

 

  1. 常に罪を告解していれば、罪を犯さなくなっていく。なにせ陥罪後の人性の傲慢さに根づく罪は、とにかく暴かれる恥辱に耐えられないからである。言葉や行いや思いで犯してしまった罪は、痛悔機密で綺麗さっぱり清めることができる。(中略)まさに過去の罪をしかるべく悔改するためにも、将来の罪を未然に防ぐためにも、痛悔機密は欠かせない。(中略)死罪を犯して負った傷を癒したければ、頻繁に痛悔機密を受けるに限る。(聖イグナティ・ブリャンチャニノフ)

 

私たちの意志と神の御旨

  1. 救主の「願わくはなんじの旨は行われん」マトフェイ6 : 10という教えほど、明るい教えはあるまい。この祈りを心から唱えているとき、われわれは自分の意志を捨てて万事を御旨に委ねている。しかし、悪魔の意志に釣られた日には、その逆を行くことになる。悪魔の囁きに頷いて自己正当化し、自分自身を信じるようになる。そのような心境だと、たやすく悪鬼に支配されるようになる。(聖大ワルソノフィ『問答集』 40, 124)

 

  1. 御旨に身を委ねることは、素晴らしいことである。そのとき、心の中には主しかおられず、余計なことを考えず清く神に祈れる。心底から御旨にすべて委ねるようになると、主ご自身によって導かれるようになり、神から直接学ぶようになる。(中略)高慢な者は、御旨に従って生きたいとは思わず、全部自分の思いどおりに物事を運びたがる。神なくしては自分自身すら思いどおりにならないことに気づいていない。(アトス山の聖シルアン『手記』 6 : 1)

 

  1. どれだけ我意を断って我意を弱めることができたか、その度合いに応じて人は成功に近づく。逆に、我意を押し通せば押し通した分だけ、自分自身が害を蒙ることになる。(シリアの聖エフレム『修道初心者への助言集』 12)

 

  1. 御旨に従って生きているかどうかは、以下の兆候を見て判別できる。何かに対して悲しんでいる場合、それは御旨に完全に身を委ねていない証拠である。御旨に従って生きる人は、何ひとつ気を揉むことはない。何か必要なものがあれば、自分自身とその必要なものを神の手に委ねる。そして、必要なものが得られなくても、まるでそれを手に入れたかのように穏やかである。御旨に身を委ねた人は何一つ恐れない。雷雨も強盗も一切恐れない。どんなことが起ころうとも、「つまり神様がこう望んでおられるのだ」と言う。病気になったとしても、「この病気は私にとって必要だった。でなければ、神様から与えられることはなかっただろう」と考える。こうして、心身ともに平安が保たれるのである。(アトス山の聖シルアン『手記』 6 : 4)

 

  1. 主は地上に聖神を賜わった。ゆえに聖神を宿している人は、自らの内に楽園を感じている。あなたはこう言うかもしれない。「なぜ私にはそのような恩寵がないのですか」と。なぜなら、あなたは御旨に従わず、我意に従って生きているからである。何でも自分の思い通りにしたがる者を見てごらんなさい。心に平安がなく、いつも何かに不満を抱いている。いっぽう御旨にすっかり身を委ねた人は、清らかに祈って主を愛し、身のまわりのすべてが心地よく甘美なものとなる。(アトス山の聖シルアン『手記』 6 : 14)

 

神の戒め

  1. 足がなければ歩けない。羽がなければ飛べない。それと同じく、戒めを守らなければ天国に入れない。(隠遁者聖フェオファン「救いへの道にまつわる五教訓」 3)

 

  1. 神の戒めは、世界中の宝よりも優れている。神の戒めを身につけた人は、内面に神を見つける。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 57

 

  1. 神学者聖イオアンは、「神の戒めはかたからず」と述べたイオアン一 5 : 3。つまり、戒めは容易に実践できるものだ、と言う。ただし、戒めを容易に実践できるのは愛があるからであり、愛がなければどの戒めも実践し難い。(アトス山の聖シルアン『手記』 16 : 10)

 

  1. ハリストスは「戒めの実行[自体]」ではなく「たましいを健全にすること」を要求されたのであり、戒めはたましいを健全に戻すための法則として定められたにすぎない。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 34

 

  1. 神は、ご自身の恩寵によって戒め一つ一つの中におられる。つまり、苦行者聖マルコも「主は戒めの中に隠れておられる」と指摘したとおり、主は戒めを守ろうとする闘士を、その遵守行為のうちに助けておられるのだ。(中略)われわれの内に神がおられるという事実は、神から賜った聖神で知ることができる。換言すると、神が内におられる以上、ハリスティアニンは絶対に独りぼっちにはならない。むしろ、いつ何時であっても聖三者と共に生き、聖三者と共に働いているのである。(聖イウスチン・ポポヴィッチ『イオアン第一公書注解』 イオアン一 3 : 24

 

  1. 一人一人のハリスティアニンの中には、ハリストスがおられる。しかもハリストスがハリスティアニンの中で闘って勝利され、神に呼びかけて祈って感謝しておられる。われわれが「この身の中で働いておられるのは全部ハリストスなのだ」と確信しているかぎり、その確信を見抜いてハリストスは以上すべてをなさり、喜び楽しんでおられる。ゆえに、ハリスティアニンたるもの、いかなる善行を成しとげようとも、成しとげたのは自分ではなくハリストスであると信仰表明せねばならない。そう捉えていない者は、むなしくハリスティアニンだと自認していることになる。(新神学者聖シメオン『訓話集』 1 : 4)

 

神は私たちの行いをどう見ているのか

  1. それは神のために行っていることなのか、それとも他の目論見があって行っていることなのか。神は、われわれの意図を常に見ておられる。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 2 : 36)

 

  1. 神は、人の意図にそって行いを評価される。「主は爾の心にしたがいて爾に与えん」聖詠19 : 5 詩篇20:5)と書いてあるとおりである。(中略)[ゆえに]、もし何かをやりたくてもそれが実現できない場合、われわれの意図をご存じである神からすれば、すでに「それをした」ものとみなされる。これは善行にも悪行にも当てはまる。(苦行者聖マルコ『訓話』 1 : 184, 2 : 16)

 

  1. そもそもの魂胆が不純であれば、いくら善行に見えてもその行為自体は悪行となる。(問答者聖グリゴリイ『対話集』 1 : 10)

 

自分の行いをどう捉えるべきか

  1. 「神のために」という狙いを持たずに何ひとつ考えてもいけないし、何ひとつ行ってもいけない。何の当てもなく旅した日には、無駄骨を折るだけではないか。(苦行者聖マルコ『訓話』 1 : 54)

 

  1. ハリスティアニンが取り組んでいる斎・祈り・喜捨などの行いは、それ自体は良いのだが、それだけで信仰生活の目的を果たせるものではない。ハリスティアニンの信仰生活の真の目的は、聖神の獲得である。ハリストスにむけて取り組んでいる斎・祈り・喜捨などの善行は、聖神を得るための手段にすぎない。注意すべきは、善行という善行がどれも同じではない点である。ひとえにハリストスにむけた善行だけが、聖神の実をもたらすのだ。ハリストスにむけずに行なったことはすべて、たとい善行であっても来世で報いを受けられず、現世でも神の恩寵を受けられない。だからこそ、主ハリストスは「我と共に集めざる者は散らすなり」マトフェイ12 : 30と告げられたのである。(サロフの聖セラフィム「信仰生活の目的についての講話」)

 

  1. 何のために敬虔に生きているのか。その目的を忘れたとき、あきらかな徳を実践していても何も得られない。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 51)

 

  1. 神のために手放すものは何もかも保持することになるが、自分のために保持するものは一つ残らず失う。

 神の名のために与えるものは利益とともに受けとることになるが、人に誉められたり自慢したりするために与えるものはドブに捨てるようなものである。

 人から何か受けとるとき、神から受けとるようにして受けとれば嬉しくなるが、人間から受けとるようにして受けとれば思い煩うことになる。(セルビアの聖ニコライ『善悪についての考察』)

 

  1. 何事も分別をもって行い、自分の力量を見極めて後で困らないようにすべきである。力量を超えた喜捨や斎などをするのは無謀である。そんなことをしたら、あとで困って弱音を吐いたり愚痴をこぼしたりしてしまう。そもそも能力以上のことまで神は求めておられない。(聖大ワルソノフィ『問答集』 627)

 

  1. あなたがどんな身分でどんな仕事をしていようと、それは正教徒としてやったことなのか、それとも異教徒のごとく(つまり自己愛や利得のために)やったことなのか、自分自身に説明できるようにせよ。ハリスティアニンは、どんなつまらない行為も道徳観からきていることを忘れてはならない。ハリストスの教えを肝に銘じているのならば、何をするにしても人々の間に神の恩寵と天国を広めるようにせねばならない。(イメレティの聖ガヴリイル「年次報告書」)

 

私たちの善行

  1. 悪がそれ以外の悪から力を得るように、善もそれ以外の善によって増加する。善に励んでいる人は、より大きな善を行わずにいられない。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 93)

 

  1. われわれは罪を犯すたびに悪魔から生まれ、徳を成しとげるたびに神から生まれる。(聖金口イオアン)

 

  1. われわれは罪を犯さないでいるかぎり、神のうちに留まっている。(尊者聖ベーダ、イオアン一 3 : 6 の解説)

 

  1. 成しとげた善行や功績があるならば、とっとと忘れること。(中略)自分の善行を書きとめてはならない。書きとめればすぐに色褪せてしまうが、忘れれば永遠に書き残される。(セルビアの聖ニコライ『善悪についての考察』)

 

  1. やってしまった罪過を神に隠してもらいたければ、成しとげた徳行を見せびらかしてはならない。自分の徳行をどう扱っているかに応じて、神はわれわれの罪を扱われるのである。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 135)

 

  1. 何らかの属神的賜物に恵まれた人は、それを持っていない人たちに同情することで自分の賜物を保つ。しかし自分の賜物を鼻に掛ける者は、自惚れたせいでその賜物を失う。(苦行者聖マルコ『訓話』 1 : 8)

 

つまらない善行でも価値がある

  1. 人に憐れみを施せば、あなたも憐れみを受けるだろう。

 苦しんでいる人に同情したら(別に大したことではないように見えるが)、あなたも致命者の一人に数えられるだろう。

 侮辱してきた相手を許すなら、あなたは罪過が全部許されるばかりか天の御父の子となるだろう。

 ほんのちょっとでも心底から救いを祈れば、あなたは救われるだろう。

 神の前で自分を責め、良心の痛む罪を咎めて断罪するなら、そう断罪したことで義とされるだろう。

 犯した罪を悲しんだり涙を流したり溜息をついたりしたとき、その嘆息が神に届かないことはない。聖金口イオアンも「前非を思い起こして胸を痛める。たとえこの程度のことしかできなかったとしても、神はその気持ちを受け入れて救ってくださるだろう」と述べた。(オプチナの克肖者モイセイ)

 

  1. 神は人々に「愛」という言葉を与えられ、人々が神への関わり方を言い当てられるようにしてくださった。人々がこの言葉を地上のものへの接し方に悪用すると、愛という言葉は本来の意味を失ってしまう。(セルビアの聖ニコライ『善悪についての考察』)

 

  1. 愛の戒めを軽んじてはならない。なぜなら愛の戒めを守ればこそ、神の子となるからである。愛の戒めを破るならば、地獄の子となってしまう。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 4 : 20)

 

  1. どの人への愛よりも、神への愛を優先すべきである。(聖山の聖ニコディム)

 

  1. 主イイスス・ハリストスを信じただけで救われる、などと言ってはならない。というのも、行いで立証できるほど主を愛していなければ救われないからである。単に信じるだけならば「悪霊どももそう信じて、おののいている」イアコフ2 : 19。では、愛の行いとは何か。隣人に尽くすこと、寛大かつ忍耐強くあること、所有物を適切に活かすことである。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 1 : 39~40)

 

  1. もし神に倣おうとするならば、神が万人に等しく日光を照らしておられるように、万人に等しく愛の光を放つべきである。なにせ愛が消えていくところには、必ず憎しみが湧いてくるからだ。もし神が愛であるならば、憎しみは悪魔である。したがって、心に愛があれば神を抱き、憎しみがあれば悪魔を養うことになる。(聖大ワシリイ『修行についての訓話』 3)

 

  1. 聖書には「愛は多くの罪を覆う」ペトル前4 : 8と書いてある。つまり他人を愛するならば、罪過も神に赦されるのだ。(隠遁者聖フェオファン『書簡集』 6 : 949)

 

  1. ~187. ハリストスへの愛を基幹としたとき、その基幹から枝分かれして次のような愛がある。隣人への愛、真実への愛、聖性への愛、平安への愛、清さへの愛、すべて神聖なものへの愛、およそ不滅にして永遠なるものへの愛。(中略)これらの愛は、いずれもハリストスへの愛から自ずと湧き出てきた愛のかたちである。そもそもハリストスが神人であられる以上、「ハリストスを愛する」ということは、常に「神を愛し人を愛する」ことを意味する。(中略)われわれはハリストス神を愛すればこそ、ハリストスにちなんで人々の中にある神聖なもの、ハリストスにた不死なるものを隈なく愛せるのである。この動機で人を愛さなければ、ほんとうの意味で人を愛することはできない。これ以外の愛はどれも偽物の愛であり、あっという間に嫌悪感や憎しみに変わってしまう。したがって、真に人を愛したければ、まずは神を愛することだ。神をもっと愛するには、神の戒めを守るに尽きる。(聖イウスチン・ポポヴィッチ『イオアン第一公書注解』 イオアン一 4 : 20, 5 : 2

 

  1. 愛とは、祈りつづけてきた成果である。(中略)忍耐強く祈りつづけるということは、まさに自分自身を捨てることに他ならない。だからこそ、かくなる属神的な自己犠牲において神の愛が身につくのである。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 43

 

  1. 自分には愛がないからぜひ愛せるようになりたいと願うのなら、最初のうちは愛がなくてもよいので愛の行いを実践せよ。その願望と努力をご覧になって、主があなたの心に愛を与えてくださるだろう。(オプチナの聖アンブロシイ)

 

愛のない者

  1. 罪を犯した人を見て嫌悪感に近いものを覚えたとしたら、全然神を愛していない証拠である。もし神を愛していたら、人を嫌ことなどできないからである。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 1 : 15)

 

  1. 愛から遠のいた者は、惨めであり哀れである。そのような人は夢見心地のまま日々を過ごし、神から離れた光なき闇の中で生きている。(中略)ハリストスの愛がない者は、ハリストスの敵である。闇の中をさまよい、どんな罪にもすぐに釣られてしまう。(シリアの聖エフレム「徳と悪習についての訓話」)

 

  1. 愛のない者は、ただ[属神的な]死に留まっているだけではない。どんなに立派な徳行を積んでいるように見えても、どの業も死んでいて実を結ばず、何を語ってもたましいがこもらない。(モスクワの府主教聖フィラレート「修道誓願を立てる人々への訓辞」)

 

愛はどのように現れるか

  1. 人は神の愛を知ると全世界を愛するようになり、自分の運命について一切不平を漏らさなくなる。なにせ神のために今ここで苦しめばこそ、永遠の喜びに与るからである。(アトス山の聖シルアン『手記』 1 : 27)

 

  1. 愛とは、[困っている]人々に財産を分け与えることだけではない。それ以上に、神の言葉を広めたり、献身的行為に現れる。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 1 : 26)

 

  1. 申し分なく愛するとは、どういうことであろうか。敵のことを、いっそ兄弟にしたいと思うくらい愛することだ。(中略)十字架にかけられたお方は、まさにそのような愛からこう祈られたのである。「父よ、彼らを赦せ。けだし彼らは為すところを知らず」ルカ23 : 34と。(福アウグスティン『イオアン公書注解』 1 : 9)

 

  1. 神の愛を抱いている人は、幸いである。なぜならば、神を宿しているからである。まさに神と共にあって万物を超越し、何ひとつ恐れない。誰のことも嫌に思わず、誰に対しても思い上がらない。人のことは一切中傷せず、中傷者の話にも耳を貸さない。争うことも、ねたむこともしない。他人の堕落を喜ばず、堕落した者のことを悪く言わず、かえってその人に同情して手を差し伸べる。困っている兄弟を下に見ず、むしろ彼のために立ち上がり、彼のために死ぬ覚悟がある。つまり、愛を抱いている人は、神の御旨を行うのである。(シリアの聖エフレム『属神的・道徳的著作集』 3)

 

慈悲

  1. 神の慈悲深さが心に湧いたと実感できるその日まで、とにかく憐れむようにせよ。(中略)憐れみを垂れない冷酷な心は一向に清まらない。憐れみ深い人は、おのれのたましいを癒す医者である。まるで強風で巻き上げるかのようにして心から慾の闇を追い払えるからだ。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 41

 

  1. 財産を蓄えたところで、どのみちあなたのものにはならない。しかし、財産を(困っている人に施して)浪費するならば、決して失うことはない。(聖大ワシリイ『講話集』 7)

 

  1. 人を愛する主は、なぜあなたに多くのものを与えたのだろうか。はたして自分の利益だけを追求するためか。いや、そこにある余剰分で他の人の不足分を補うためである。(聖金口イオアン『創世記についての講話』 20)

 

  1. もしあなたが真に慈悲深いのであれば、所有物を強奪されたとしても内面で悲しまず、こうむった損失について他人に話すな。(中略)心ない人からこうむった損失も、慈悲でもって呑みこんでしまうことだ。 (シリアの聖イサアク『修行訓話』 58

 

謙遜

  1. 神にとって傲慢ほど忌まわしいものはない。なぜなら傲慢であるということは、つまり見えないかたちで自分自身を神格化し、その無能さや罪深さでさえ絶対視するからである。何よりも神に喜ばれるのは謙遜である。謙遜であれば、自分のことを塵のごとく捉え、どんな恩恵も名誉も名声も神のものとしか思わない。傲慢な人は、自分自身に満ち溢れているので恩寵を受け入れない。謙遜な人は、自分自身からも全受造物からも自由なため、すんなり恩寵を受け入れる。神は無から創造するお方である。ゆえに、われわれが自分だって捨てたもんじゃないぞと粋がっているかぎり、神はわれわれの中で事を成されることはない。謙遜とは、徳を引き締める塩である。食べ物が塩によって味つけされるように、徳も謙遜によって完徳に至る。食べ物も塩をかけておかないとすぐ傷んでしまうように、積み重ねた徳も謙遜で引き締めておかないと高慢や虚栄や短気に陥ってあっという間にダメになってしまう。謙遜への道は二つある。自力による道と神の裁定による道である。前者は、自分の不甲斐なさを悟って至らない点を自責し、他人を裁かないことで謙遜に至る。後者は、人から侮辱や屈辱を受けたり財産を失ったりすることで謙遜に至る。(モスクワの府主教聖フィラレート「神の母に光栄あれ」 9)

 

  1. 「謙遜とは何か」と訊ねられたとき、ある長老は答えた。「あなたに対して兄弟が罪を犯したとき、謝ってくる前に赦すことである」と。(『古代師父言行録』 15 : 74)

 

  1. いくら自分自身を裁いたとしても、それで謙遜になったとは言えない(だいたい自己批判に耐えられない人などいようか)。むしろ他人に責められても、その人に対する愛を減らさないとき謙遜を示しているのである。(階梯者聖イオアン『天国への階梯』 22 : 17)

 

  1. 水と火が相容れないように、自己正当化(言い訳)と謙遜も相容れない。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 125)

 

  1. いくら貧困や病気のなかで苦しんでいようとも、へりくだらなければその苦しみから得られるものはない。いっぽう謙遜な人は、どんな運命にも満足する。なぜならば、主を富とし喜びとするからだ。その心の美しさに驚嘆しない人はいない。(アトス山の聖シルアン『手記』 3 : 9)

 

  1. 謙遜とは何か。自分自身をちょっとした者だとみなさないことや、万事において自分の意志を断ち切ることである。また、どんな人にも従うことや、ぶち当たる出来事に落ち着いて耐えることである。これこそ真の謙遜であり、見栄のかけらもない謙遜である。ほんとうに謙遜な人は、あえてへりくだった言い方をしたり、すすんで見下される仕事をしようとしたりしない。なぜならば、そんなことをすれば虚栄心が強まって属神的上達に支障をきたし、役立つどころか害を蒙ってしまうからである。しかし、何かをせよと命じられた時には、逆らわず素直に実行する。そうすれば、[真の謙遜さを求める上で]成功するだろう。(聖大ワルソノフィと聖イオアン『問答集』 275)

 

温柔

  1. 温柔(柔和)とは、名誉を受けようと屈辱を受けようと何ひとつ変わらない心の状態である。温柔であれば、隣人に毒づかれてもうろたえず、心からその隣人のために祈る。いわば激昂した海から突き出た岩のようである。次から次へと波が押し寄せてきては砕け散るものの、なお揺らぐことはない。(階梯者聖イオアン『天国への階梯』 24 : 4)

 

  1. たとえ周りの人から迫害されたとしても、こちらからは迫害するな。磔にされたとしても、こちらからは磔にするな。侮辱されたとしても、こちらからは侮辱するな。中傷されたとしても、こちらからは中傷するな。どこまでも温柔であれ。そして、たちの悪いことで負けまいとするな。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 89

 

  1. 火は火をもって消せない。同じように、怒りは怒りをもって鎮められず、そんなことをした日にはさらに燃え上がってしまう。しかし、温柔な心で相手に接すれば、どんなに激しかった敵でさえ謙虚になって和らぎ、和解できることがよくある。(ザドンスクの聖ティーホン)

 

節制

  1. ハリストスのために[献じた]飢えと渇きを愛しなさい。体を鎮めれば鎮めるほど、霊的な恵みを受ける。なにせ人の言動と思いに応じて報いてくださる神は、われわれが主のために喜んで耐えた微々たる自制にでさえ善をもって報いてくださるからである。(聖師父教訓集『黄金の鎖』コンスタンティノープルの聖ゲンナディ 41)

 

  1. ~212. 食事にせよ衣服にせよ、何事につけ最も質素なものを求めよ。貧相な生活を恥じ入ることはない。この世の中、貧しく暮らしている人が大半だからである。「いや、オレは金持ちの御曹司だ。貧乏暮らしなんてみっともなくてできやしない」などと言ってはならぬ。そもそもこの世には、あなたを聖なる洗礼盤で生み出してくれた天の父ハリストスよりも富める人はいない。にもかかわらず、ハリストスは貧困の中で生活され、頭を枕する場所さえなかったのである。(聖師父教訓集『黄金の鎖』コンスタンティノープルの聖ゲンナディ 24~25)

 

  1. なるべく食べる量は減らすべきとはいえ、業務に支障を及ぼさない程度にし、分別をもって自制すべきである。食事後にも祈りたいと思える程度に節制するとよい。(アトス山の聖シルアン『手記』 5 : 8)

 

聴従

  1. 聴従していれば、傲慢にならずに済む。しかも、聴従していれば神に助けられて祈れるようになり、やがて聖神の恩寵も授かる。だから聴従することは、斎や祈りよりも上なのである。(アトス山の聖シルアン『手記』 15 : 4)

 

  1. 修道士だけでなく、すべての人が聴従すべきである。主でさえも聴従されたのである。何でも思うようにしたがる傲慢な者は、恩寵を内に住まわせないため心に平安がない。いっぽう聴従する人は、聖神の恩寵をすんなり受け入れるので喜びと平安がある。ほんの少しでも恩寵を宿した人は、どんな権威にも喜んで従う。なにせ知っているのだ。天も地も地獄も神が支配しており、おのが心身も仕事も世の万物も神の支配下にあることを。だから、常時穏やかなのである。(アトス山の聖シルアン『手記』 15 : 2)

 

第五章 私たちを神に向かわせないものについて

罪深い慾

  1. 慾とは、たましいの本性に反する動きである。人は、慾に駆られると盲目的に溺愛するか、あるいは、その溺愛した対象をめぐって誰かを無闇に憎んだりする。たとえば食物や女性にのめり込んだり、財産や世俗的栄誉を渇望したり、そういった対象が引き金となって他の何かに執着する。そして、それらをめぐって誰かを無闇に憎んだりする。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 2 : 16)

 

  1. 慾には、体の慾もあれば、心の慾もある。体の慾は体に根ざし、心の慾は外にあるものに惹かれて湧く。とはいえ、愛と自制があればどちらの慾も断ち切ることができる。愛でもって心の慾を断ち切り、自制でもって体の慾を断ち切るのである。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 1 : 64)

 

  1. 邪悪なものはすべて(心を乱す肉慾も含めて)、われわれ自身のものではなく敵の仕業、つまり悪魔の仕業だと捉えるべきである。これは非常に重要な点である。なにせ慾というのはどれも、これは私自身が欲しているものではないと断定した時に初めて克服できるものだからである。(オプチナの聖ニーコン)

 

  1. ~220. 最初は、ただ[罪深いことを]思いつくだけだが、(中略)それをだらだら思いつづけているうちに慾が動き始める。この段階で慾を断ち切らずにいると、もしやこうしちゃってもいいかなと同意するようになり、同意したが最後、現実に罪を犯すようになる。(中略)[思いに注意せよ]。思いの中で罪を犯さなければ、現実に罪を犯すことはない。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 1 : 84, 2 : 78)

 

  1. 汚れた霊は、われわれの怠惰につけ込んで慾をかき立てて強めてくる。いっぽう聖天使は、慾を弱めて徳を成しとげようという気持ちを奮い立たせてくれる。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 2 : 69)

 

  1. 慾にとらわれた罪深い者は、たとい地上の富をすべて所有していても、それこそ全世界を支配していたとしても、穏やかに主にあって喜ぶことはできない。そのような王がご馳走を楽しみ、人々に讃えられながら王座に座っているとき、突然「王様、数分後にご臨終となるそうです」などと告げられようものなら、即座にあわてふためいて震え慄き、自分の弱さに気づくであろう。いっぽう貧乏でもひたすら神を愛しつづけてきた人であれば、「もうすぐ死ぬらしいよ」と告げられるなり、しんみりとこう答える人がどれだけ多くいることか。「どうか御旨のままになりますように。拙者を思い起こして御許へ引き寄せようとしておられる主に光栄あれ」と。(アトス山の聖シルアン『手記』 4 : 3)

 

慾との闘い

  1. 人は慾に夢中になっているとき、その慾が見えず、慾と自分自身の区別がつかない。なぜなら慾の渦中にあり、慾によって生きているからである。しかし、神の恩寵を受ければ変わる。少しずつ慾や罪深いものを見極め始め、慾や罪深いことを告解して悔改し、何とかして避けようと決意する。この瞬間から、闘いが始まる。まずは、愚かなことをしないように闘い始める。愚かな行為をしなくなると、今度は愚かな思いや感情と闘い始める。ここでは多くの段階を乗り越えて闘ってゆくことになる。(中略)闘いは続き、ますます心から慾を追い出し、時にはすっかり追い出せることもある。(中略)慾を心から追い出した兆候は、慾に対して嫌悪感や憎しみを覚えた時である。(隠遁者聖フェオファン「属神的生活の進み方」)

 

  1. ~226. 慾を憎む人は、慾の根源(邪念)まで断ち切る。しかし、根源を断ち切れない者は、どんなに闘いたくなくても慾と闘う羽目になる。(中略)そもそも慾の根源を忌んでいれば、心が慾の方向になびくことなどあり得ない。たとえば、人にどう思われようと構わないと思っている人が、そこへいって見栄なんぞ張りたくなるものだろうか。あえて酷評されたいと思っている人が、面目を潰されたからといって戸惑うだろうか。打ち砕かれてへりくだった心の持ち主が、肉慾の悦びを受けつけるだろうか。そもそもハリストスを信じている人が、過ぎ去る物事に腐心したり、それらをめぐって人と争ったりするだろうか。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 119, 122~123)

 

  1. 邪念から解放されることと、慾から自由になることとは別物である。たいてい慾の対象が目に入らない状態であれば、邪念からは解放されることが多い。でも実際には心に慾が潜んでおり、対象が目の前に現れるなり再び慾が湧いてしまう。したがって、対象物が現れた時の心境を省察し、何に対して慾を持っているのか自己認識すべきである。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 3 : 78《77》)

 

  1. 神を愛する者は、人や物やそれにまつわる思いと闘うのではない。むしろ、その思いに絡みつく慾と闘うのである。つまり、[特定の]女性とか侮辱してきた相手とかと闘ったり、それらの想像と闘ったりするのではなく、その想像に絡みついてくる慾と闘うのである。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 3 : 40)

 

  1. ひたすら神のことを思いつづけていれば、慾を追放して根こそぎにできる。神を思うことこそ、慾を殺す剣なのだ。(中略)常に神に思いを馳せていれば、悪鬼を追い払ってその罪悪の種を抜き取ることができる。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 8

 

目に見えない間違い

  1. 最悪の罪とは何か。罪人である身を自認しないことである。(アルルの聖ケサリイ、イオアン一 1 : 8 の解説)

 

  1. ~232. 悪の生みの母である自己愛を避けよ。この愚かにも肉体を溺愛する自己愛を避けよ。なぜなら、自己愛から(中略)主だった罪深い慾が三つ、すなわち大食と金銭欲と見栄が生じるからである。いずれの慾も身体的需要を満たすためだと言い訳してくるが、その三点から慾という慾が生じてくることになる。だからこそ、自己愛に溺れないよう最大限に警戒し、あたうかぎり闘わなければならないのだ。(中略)自己愛を断てば、そこからくる他の慾も神に助けられて容易に克服できるようになる。たとえば怒りとか、憂鬱とか、怨念などといった慾までも克服できるようになる。いっぽう自己愛にとらわれていると、どんなに負けたくないと思っても以上の慾にやられてしまうのである。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 2 : 59, 8)

 

  1. 御旨を知ろうともしない者は、いわば深淵の上にかかった道を歩んでいるようなものだ。ちょっと風に吹かれただけですぐに落ちてしまう。おだてられればのぼせ上がり、批判されれば肩を落とす。おいしく食べれば肉慾に溺れ、苦しくなれば泣き散らす。何かを知れば知ったかぶり、分からなければ分かったふりをする。裕福になれば自慢し、貧しくなれば猫をかぶる。食べすぎれば厚かましくなり、斎すれば見せびらかす。批判者とは好んで論争し、赦してくれる奴は間抜けだとみなす。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 193)

 

  1. 次の邪念二点は、肝に銘じて恐れよ。「もしや聖人なのかもしれない」とくすぐってくる邪念と、「もう救われまい」と突き落としてくる邪念。いずれも敵がよこす邪念であり、真実ではない。むしろ自分についてはこう考えるべきである。「たしかにどうしょうもない罪人だ。なのに、憐れみ深き主は人類を深く愛されており、私の罪も赦してくださるに違いない」と。(アトス山の聖シルアン『手記』 17 : 1)

 

  1. 真心から信仰するということは、つまり自分の知性を否定することである。知性を剥き出しにし、白紙のようにして信仰に差し出さなければならない。そうすれば、信仰には無縁な考え方や思想を一切混ぜることなく、ありのままに信じることができる。万が一何らかの思想が頭に残っていると、信仰の命題を書き込んだところで思想の混合物が出来上がってしまう。すると、世俗の知恵とは食い違う信仰的理解にぶち当たり、何をどう捉えてよいか分からなくなる。おのが知恵を保ったまま信仰の領域に入る者は、皆こんな感じになってしまう。(中略)そういう人たちは信仰について履き違えており、人々に悪影響しか与えない。(隠遁者聖フェオファン『一年の日々の思い』 103日目)

 

  1. 教えを宣べ伝える人は多いが、身をもって実践している人は少ない。だからといって、怠慢な身を釈明しようとして都合よく神の言葉を歪めたりせず、むしろ神の真理を公言して自分の弱さを表明すべきである。さもなくば、単に戒めを守れなかったという罪だけでなく、神の言葉を歪めたという罪まで犯してしまうことになる。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 4 : 85)

 

  1. 時期尚早に力の及ばないことまで手掛ける者は、何も得られないばかりか害ばかり蒙ってしまう。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 11

 

  1. 困りきった時に主に問わない人がいるが、本来ならば率直にこう問うべきである。「主よ、罪深い人間ですのでどう行動すべきか分かりません。でも、どうか憐れみを垂れて、どう行動すべきか教えてください」と。すると、憐れみ深き主から、何をすべきで何をすべきではないか示されることだろう。(アトス山の聖シルアン『手記』 20 : 4)

 

  1. 誰一人として、悪の力を借りて善を行うことはできない。なぜなら、悪の力を借りた途端に自分自身が悪に負けてしまうからである。その反対に、善の力で悪を正すことはできる。(聖大ワルソノフィ『問答集』 15)

 

  1. 言い争って難題を解決しようとしてはならない。むしろ属神的法則にのっとって解決するようにせよ。すなわち耐えて祈り、[神へ]希望をかけながら解決することだ。(苦行者聖マルコ『訓話』 1 : 12)

 

  1. 昼に織っても夜にほどくのなら、いつまで経っても織り上げられない。昼に築いても夜に壊すのなら、一向に築き上げられない。せっかく神に祈っても神の前で悪を行うのなら、いつまで経っても織り上げられないし、一生たましいの家を築き上げられずに終わってしまうだろう。(セルビアの聖ニコライ『善悪についての考察』)

 

場所を変えても誘惑は避けられない

  1. 師母フェオドラはこう語った。「あるところに、さんざん辛酸を舐めてきた修道士がいたそうです。ついに『ここから出て行こう』と心の中でつぶやき、サンダルを履き始めた時のことでした。ふと目を上げると、部屋の隅っこに男の姿をした悪魔がいる。悪魔もまた同じように靴を履いているところでした。しかも、靴を履きながら修道士にこう言ってきたそうです。『ここから出て行こう、というのはおいらのせいか? どこへ行ったって同じさ。いつだって先回りしてそこにいるんでね』」と。(聖イグナティ・ブリャンチャニノフ『師父言行録』)

 

邪念(罪深い考え)

  1. ~244. ある修道士が長老の一人に尋ねた。「なぜ淫らなことばかり想像してしまうのでしょうか。どうして一時間たりとも穏やかに過ごせず、こうも心が乱れているのでしょうか」と。長老は答えた。「もしも悪鬼が[罪深い]思いを吹きこんできたとしても、いちいち屈してはいけない。誘惑することこそ悪鬼の性質だからだ。ただ、いくら誘惑できても罪を犯させることまではできない。悪鬼の言いなりになるかどうかは、あくまでも君自身が決めることなのだ」と。(中略)修道士はこう言い返した。「でも、どうしたらいいのでしょう。こんなにも意志が弱くては、もうこの慾に負けてしまいそうです」と。長老はこう答えた。「そういう思いに警戒せよ。そして、またそういう思いが襲ってきたら、それに対して答えてはいけない。ただ神に祈ることだ。『[主イイスス・ハリストス、]神の子よ、我罪人を憐れめよ』と」。(『古代師父言行録』 5 : 35)

 

  1. 敵に邪念を吹きこまれても言い返さず、ひとことも言い合わずに神に祈るとき、知性が恩寵によって英知を得た兆しである。(中略)ついに見つけた短い道を通ることで、ぐずぐず考えてしまう長い道のりを断ち切ったのである。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 30

 

  1. 罪深い思いに夢中になっている者は、その思いに目がくらんでしまい、[自分の中に]罪の悪影響こそ見えるものの、その原因までは見えない。(苦行者聖マルコ『訓話』 1 : 168)

 

  1. 思いを監視していなければ、穏やかではあれない。つまり神に嫌われる思いを追い払い、神に喜ばれる思いを維持するようにしていなければ、心の平安を保つことはできない。冷静に心を調べ、いま心で何が起こっているか、平穏かどうか見極めよ。もしも平穏でないならば、いったい何の罪を犯したのか考えよ。(アトス山の聖シルアン『手記』 14 : 8)

 

  1. 邪念に悩まされたら、神に叫び求めよ。「主よ、私を造られた方よ。いま邪念に苦められているのはご覧のとおりです。どうか私を憐れんでください」と。(中略)即座に邪念を断つ訓練をせよ。うっかり忘れて即座に追い払えなかったときには、心から悔い改めよ。とにかく邪念を断つ習慣を身につけることだ。(アトス山の聖シルアン『手記』 17 : 4, 6)

 

悪魔の罠

  1. 地上のものを溺愛していれば、心が空っぽになってどんよりし、気がすさんでしまって神に祈りたくなくなる。いっぽう敵は、われわれが霊的に神の中にいないのを見るなり、迷わせて好き放題に知性を操り、いろいろな邪念を次から次へと吹きこんでくる。こうして人のたましいは朝から晩までこの混乱状態に置かれ、純粋に主を観照することができなくなってしまうのである。(アトス山の聖シルアン『手記』 4 : 5)

 

  1. 残虐な敵である悪魔は、[ハリスティアニンを淫行にそそのかす時、]神は慈悲深い方なのですぐに罪を赦してくださるはずさ、と吹きこんでくる。しかし、じっくり悪魔の狡猾さを観察していると見えてくるのだが、いざ罪に陥ると神を容赦なき正義の裁き主として提示してくる。つまり、「神は慈悲深いから大丈夫さ」と言ってわれわれを罪に誘い込み、「神は容赦なき正義の裁き主じゃないか」と言ってわれわれを絶望に陥れるのである。(階梯者聖イオアン『天国への階梯』 15 : 33)

 

  1. 小さな罪が微々たるものに見えるのは、悪魔の仕業である。そうしないと、われわれを大きな悪にそそのかすことができないからである。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 94)

 

  1. 人は罪を犯そうとしている時、ついそのことしか考えられなくなって判断が効かなくなる。なにせ悪魔にそそのかされて罪に魅せられ、意志が弱まって良し悪しの判別がつきにくくなっているからである。そして罪を犯すなり、悪魔はその罪を突きつけてくるのはおろか、これまで巧妙に気づかせないようにしてきたその罪の重さまで残酷に見せつけてくる。そうやって罪の重大さを暴き立てながら、罪人を絶望へ追い込もうとするのである。(コンスタンティノープルの総主教聖フォティ『アムフィロヒヤ』 14)

 

属神的な闘い

  1. この心身には病や慾や傷が深く根づいており、一気に消し去ることはできません。消し去るには、忍耐と注意深さが必要です。完徳への道のりは長いのです。ぜひ神様に力づけてもらえるよう祈りましょう。転んでも辛抱強く受けとめ、立ち上がってすぐ神のもとへ駆けつけることです。罪に堕ちたまま留まっていてはいけません。若いころからの罪に繰り返し陥っても絶望してはなりません。その大半は習慣によって根づいてしまったとはいえ、時間と努力を惜しまなければ克服できるのです。どんな目に遭っても希望を捨てないことです。(エギナの聖ネクタリイ「幸せへの道」 3)

 

名誉欲(栄誉や名声を好むこと)

  1. 何をするにしても、地上の栄誉を求めてはならない。栄誉を求めるならば、栄誉は消えていくからだ。栄誉はしばらくの間、強風のように華やかにその人の周りを吹き荒れるが、じきに善行の実りを奪い取り、愚かさを嘲笑しながら去っていく。(聖師父教訓集『黄金の鎖』コンスタンティノープルの聖ゲンナディ 35)

 

  1. 師父ピーメンは言った。「何としてでも人に好かれようとする者は、神の愛を失ってしまう。誰にでも好かれるのは良くないことである。主も『人皆爾等のことを善く言わん時は、爾等禍なるかな』ルカ6 : 26と告げられたとおりである」と。(『古代師父言行録』 8 : 16)

 

  1. 主は、見栄っ張りな人の虚栄心を治すべく、あえて不名誉な目に遭わせることが多い。(階梯者聖イオアン『天国への階梯』 22 : 38)

 

  1. [名誉欲や虚栄心と闘うにはこうするがよい。]あなたの在室時か不在中に、隣人なり友人なりがあなたを非難したという話を耳にしたら、ぜひ愛を示してその人のことを称えなさい。(階梯者聖イオアン『天国への階梯』 22 : 15)

 

偽り

  1. 聖書によると、偽りとは悪魔から生じるものであり、悪魔は「偽りの父」イオアン8 : 44である。いっぽう真実とは神であり、それについては神ご自身が「我は道なり、真実なり、生命なり」イオアン14 : 6と宣言されたとおりである。というわけで、われわれは偽るとき、いかなるお方から離れ去り、どういう奴とつるんでいるか明らかであろう。ゆえに、真に救われたければ全力で真実を愛し、あらゆる偽りから身を守らねばならない。

 偽りには三種類ある。思いによる偽り、言葉による偽り、人間性による偽りである。

 「思いで偽る」というのは、こうかなと思ったことを真実だと思いこむことである。要するに、隣人に対する根も葉もない疑念である。たとえば、兄弟が誰かと話しているのを見て、「あ、私のことを噂しているに違いない」と思いこんでしまう。あるいは話し相手に何か言われただけで、遠回しに嫌味でも言われたのではないかと勘ぐってしまう。(中略)何があろうと憶測や疑念を信じてはならない。歪んだ物差しを宛てがえば、まっすぐなものでさえ歪んで見えてしまうではないか。しょせん人間の見解なんぞ当てにならぬ。いちいち惑わされていたら被害を受けずにいられない。

 「言葉で偽る」というのは、たとえば何となく奉神礼に行くのが億劫になったとき、「すみません。つい怠けて布団から出られませんでした」と謝る代わりに、「いや、熱があって、最近仕事でバテてて起きれなくって、なんか体調もヘンだったし……」と嘘八百を並べて頭も下げず、一向に態度を改めないことである。そして、こういう場面で自分を責めない者は、でたらめばかり言って口論してでも保身に走る。

 「人間性で偽る」というのは、身持ちが悪いくせに純潔ぶったり、儲けに目がないくせに慈善活動を称えたり、横柄なくせに謙遜な生き方に感服したりするような場合である。というわけで、どうか嘘つき(悪魔)と共に断罪されないように偽りを避け、真実を身につけて神と結ばれるようにしよう。(師父ドロフェイ『たましいに有益な教訓』 9)

 

高慢

  1. 自画自賛の念が湧いてきたら断ち切り、自分自身を高く評価するな。[その誇った善行とは]正反対の惨状に陥らないようにするためである。なぜなら善行というものは、決して人間一人で成しとげるものではなく、あくまでも万事を見とおす神に助けられて成しとげるものだからである。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 188)

 

不平

  1. 主は、いかなる人間の弱さも甘受されているとはいえ、いつも不平をこぼしている者を苦々しく思い、その者を懲らしめずにはおられない。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 85

 

  1. 思わぬ状況に陥った時には、「この思いは主がお見通しである。御旨さえあれば、私にとっても皆にとっても良くなっていくはずさ」と捉えよ。そうすれば、心はいつも平安でありつづけるだろう。ところが、「なんてこった、ひどいもんだ」などと不平を鳴らすなら、どんなに斎をして祈祷に励んでいても、心が平安に至ることはない。(アトス山の聖シルアン『手記』 4 : 1)

 

怒り

  1. ある修道院に住んでいた修道士の話である。とにかく[兄弟や訪問者に対して]怒り散らしてばかりいた。とうとう「もう人里離れた所へ行こう。誰とも会わなければ怒ることもあるまい」と決意したという。そして修道院を出て、一人で洞窟に住み着いた。そんなある日のことである。手元にあった壺に水を満たして地面に置いたら、たちまち壺がひっくり返った。手に取ってもう一度水を満たすと、またもやひっくり返った。さらにもう一度水を満たすと、三度目もひっくり返ってしまった。修道士は怒り心頭に発して壺を掴み、ガチャンと叩き壊した。しばらくして我に返ると、悪魔に嘲笑されている身に気づいたという。「ははん、こうして引きこもって隠居してみたものの、やはり悪魔にやられてしまったか。どのみち忍耐と神の助けがなければ何もできやしないのだから、いっそのこと修道院へ戻ろう」と。そして、元の場所へ戻っていった。(『古代師父言行録』 7 : 38)

 

  1. 師父アガフォンは言った。「怒りっぽい人は、たとえ死者を甦らせたとしても、神に喜ばれることはない」と。(『古代師父言行録』 10 : 15)

 

  1. あなたは怒りっぽい人だろうか。その怒りを自分の罪にぶつけよ。そして、おのれのたましいをボコボコに殴って良心を鞭打つことだ。自分の罪を厳しく裁いて罰する者となれ。これこそ怒りの効用である。こう用いるためにこそ、神はわれわれに怒りを授けてくださったのだから。(聖金口イオアン『エフェス書についての講話』 2)

 

肉慾

  1. たらふく食べれば肉慾が生じ、女性と軽やかに交流していれば肉慾の火が燃え上がる。(中略)肉慾と闘う日々は、食事を乏しくして邪念を懲らしめ、淫行ではなく空腹について思い悩むようにし、宴会への招待を断れ。(シナイの聖ニール)

 

  1. あちこち目を向けてはならず、他人の美貌を見つめてはならない。さもなくば、この目を敵(悪魔)に悪用されて打ち負かされてしまうからである。(シリアの聖エフレム)

 

  1. あるところに肉慾と闘っている修道士がいた。夜中に起きて長老のもとを訪れ、淫行へ駆り立てられる思いを告解した。長老になだめてもらうと、恩恵を受けて僧庵へ戻った。しかし、またもや肉慾に襲われたので、ふたたび長老のもとを訪れた。そのようなことを何度か繰り返した。長老は、修道士を責めることなく、こう言った。「負けてはならない。また悪魔に悩まされた時は、ここへ来なさい。そして、その思いを告げて悪魔の仕業を暴きなさい。そうやって暴いていれば、悪魔も素通りしていくだろう。淫行の悪魔にとっては、その仕業が暴かれることほど耐えがたいものはなく、淫らな邪念を隠してもらえることほど嬉しいことはないのだよ」と。こうして修道士は、11回も長老のもとを訪れては邪念を告解した。すると、誘惑は消えた。(『古代師父言行録』 5 : 16)

 

  1. 肉慾とは、いわば欲しても欲しても満たされない渇きのようなものである。自然な欲求の一線を越えた欲求であり、法とか節度では抑えがたい情熱である。肉慾も、罪と同じように多様である。(中略)肉慾は通常、宿敵のようには見えず、むしろ友か媚びへつらう従者のようにしてたましいに近づいてくる。すると、どうも肉慾を満たせば何らかの快楽なり至福感なりを得られそうな気がするのだが、それは餌食にすぎない。みじめなたましいはその餌食に魅惑されて、凶悪な捕獲者の罠にかかってしまうのである。肉慾に悩まされた日には、以上のことを思い出すこと。(モスクワの府主教聖フィラレート、1845年7月5日の説教)

 

第六章 信仰の道で忍耐すべきことについて

試練や誘惑

  1. 善なる修行を始めようと思い立ったら、あらかじめ試練が襲ってくるのに備え、真実を疑わないことだ。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 57

 

  1. 少しでも試練や誘惑に陥ってうんざりしなければ、おのが弱さを感じとれる人はいない。誘惑に陥ってはじめて、おのが弱さを神の助力と見比べて、いかに神の力が絶大であるか悟るからである。(中略)やはり神に助けてもらわなきゃ無理だと悟るなり、たくさん祈るようになる。そして祈れば祈るほど、心はへりくだってゆく。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 61

 

  1. だれであろうと学習中はつらく、誘惑や試練の毒を味わえば苦い思いをするものだ。そういう苦い思いを体験しなければ意志の力は強まらない。(中略)人は誘惑に遭ってたびたび神の助力を痛感していくことで信仰が強まる。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 37

 

  1. まだ誘惑いざないを受けていない身では、(中略)聖神の叡智も学べず、心から神を愛せるようにならない。人は誘惑いざないを受けるまでは神に対して他人行儀で祈っているものだ。ところが神を愛するがゆえに誘惑いざないに入って揺るがずにいられれば、そのとき神に貸しがあるかのごとく、あたかも神の親友であるかのごとく神の前に立つことができる。なぜなら神の意志を遂行すべく、神の敵と戦ってその敵を打ち破ったからである。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 5

 

  1. 誘惑には、耐えて祈って打ち勝て。耐えも祈りもせずに抵抗すると、もっと激しく誘惑に襲われてしまう。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 106)

 

  1. 思わぬ誘惑に遭った場合、その誘惑をもたらした相手を責めるのではなく、自分がどうなるためにその誘惑に遭ったのか探れ。そうすれば、心を改められるだろう。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 2 : 42)

 

  1. 人が試練を受けるのは、過去の罪を清めるためか、現在犯している罪をやめるためか、将来の罪に陥るのを未然に防ぐためである。ただし、イオフ(ヨブ)の場合のように、一部の人[の信仰と徳]を試みるために送られてくる試練はこの限りではない。 (表信者聖マクシム『愛についての断章』 2 : 45)

 

  1. 誘惑や逆境は、隠れた慾を露わにするために送られてきます。私たちがその慾と闘ってたましいを癒すためです。それは神が憐れんでくださっているしるしでもあるのです。ゆえに、信頼して御手に身を委ね、この闘う身を支えてくださるよう神に助力を祈り求めましょう。神は、私たち一人一人がどれだけ耐えうるかご存じですし、その力量に応じて試練に陥るのを許容されるのです。まさに試練を乗り越えればこそ属神的歓喜に与ることを忘れないでください。そして、主への愛ゆえに誘惑や逆境に耐えるとき、主に見守られていることを忘れないでください。(エギナの聖ネクタリイ「幸せへの道」 4)

 

苦難

  1. 子供は、母親に体を洗われると泣き出す。信仰の薄い者も、苦難にぶち当たると神に不平を鳴らす。だが、たましいはぶち当たった苦難のおかげで清まるのである。ちょうど顔を水で洗い流すようなものである。(ダイバベの聖シメオン『格言集』 89)

 

  1. 神に仕えたいなら、衣食住に困らない日々の安心を求めるのではなく、試練であろうが貧窮であろうが悲哀であろうが耐え抜くぞという気概を持て。これから降りかかる艱難や斎の日々、属神的修行や逆境の嵐に備えるのだ。なぜなら、「われわれが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」行実14 : 22し、「天国は力をもって得らる、しこうして力を用いる者はこれを奪う」マトフェイ11 : 12からである。(『ラドネジの聖セルギイ伝』 10)

 

  1. 神に近づこうとするとき、苦しまずに近づくことなどできない。苦しみを避けているようでは義を貫けないからだ。(中略)徳を求めるなら、あらゆる苦難に身を委ねよ。苦難を乗り越えればこそ謙遜になるからだ。(中略)つらい苦難を避けて自分勝手な徳に生きる者には、高慢の門が開かれている。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 21, 34

 

  1. 罪は、人間の本性に根ざす病である。人は罪を犯すと、その時の印象と汚れた快感が痕跡となって心身に残り、また同じ罪を繰り返すたびに痕跡が深まり、もっとそれをしたいという性向や渇望を感じる。ゆえに神は、人間の心身を診る医師として、外科医と同じように手術されるのである。外科医は、体内に入りこんで感染を起こした病毒を、痛みを伴いながら焼灼したり鉄鋏で除去したりする。神は、苦難という剪刃せんとうを用いて罪の痕跡を根こそぎ消去し、苦しみの火でもって罪深い快感へ惹かれてしまう性向という病毒を焼きつくすのである。(モスクワの府主教聖フィラレート、1848年7月5日の説教)

 

  1. 師父オールは言った。「どんな苦難にぶち当たっても人のせいにせず、『ひとえに自分の罪のせいでこの苦難を被ったのです』と告白しなさい」と。(聖イグナティ・ブリャンチャニノフ『師父言行録』)

 

  1. 思慮深い人は、いかに神の摂理によって罪の傷が癒されるか思いめぐらし、惨事が降りかかってきても感謝の気持ちで耐え忍び、こうなったのは他人のせいではなく自分の罪のせいだと捉える。いっぽう愚かな人は、罪を犯して罰を受けると、こんな惨状に陥ったのは神のせいだとか人のせいだとか喚き、せっかく神がお示しくださった賢明な配慮を理解できない。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 2 : 46)

 

  1. われわれがお金も空しい名誉も欲しがらず、死も貧困も怖がらない人間だったとしよう。それに敵意も憎しみも知らない人間だったとしよう。もしそんな人間であったなら、自分や他人がどんな災難に遭おうとも苦悶することはなかったであろう。(聖金口イオアン「修道生活に敵対する人々への訓話」 3 : 19)

 

  1. 主の前では、どんな祈祷や献げ物よりも、主のために命懸けで耐える苦難のほうが貴いのだ。(シリアの聖イサアク『修行訓話』 58

 

  1. 神は、アウラアムにとって最善を尽くすためにこそ、アウラアムに苦難を送って試されたのである。すべてご存じである以上、アウラアムの人間性など調べるまでもなかった。ただ、アウラアムの信仰を完璧にさせるきっかけをお与えになったのである。(苦行者聖マルコ『訓話』 2 : 203)

 

  1. われわれは苦難を勇敢に耐えて不平をこぼさないとき、完全にではないにせよ、少しだけハリストスの苦しみに与ることになる。(オプチナの聖マカリイ『書簡集』 473)

 

  1. 義人はどんなに悲しんでも、いずれ喜ぶことになる。いっぽう罪人はどんなに喜んでも、いずれ悲しむことになる。(ロストフの聖ディミトリイ)

 

  1. へりくだって苦しみに耐えれば、どんな罪からも自由になる。へりくだることで心の慾を断ち切り、苦しみに耐えることで体の慾を断ち切るからである。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 1 : 76)

 

  1. われわれは、へりくだっていないし兄弟を愛していないから苦しむのである。兄弟を愛していれば、神に愛される。人々はへりくだりを学ぼうとせず傲慢なため、聖神の恩寵を受け入れることができない。これゆえに、全世界が苦しんでいるのである。(アトス山の聖シルアン『手記』 16 : 4, 6)

 

  1. 神を愛する人は、苦難や試練の時にも忍耐強く揺るがない。しぶとく持ちこたえて属神的に強くなり、神に聴従するようになる。御旨に従って歩み出したということは、つまり生まれつきの弱さを克服したということである。その反対に、おのが無力を自覚しない者は、厚顔にも御旨に従おうとしない。御旨に従わず自力以外には何も頼らないから神の力も助けも得られず、属神的に強まらないから忍耐強くなれない。困苦や苦難に耐えきれないということは、つまり信仰がないということだ。信仰がないということは、つまり神を愛していないのである。(セナキの聖アレクシイ「苦難について」)

 

  1. どんなに悔しいことがあっても、どんなに嫌なことが起こっても、「イイスス・ハリストスのために耐えます」と宣言せよ。そうすれば、気持ちが楽になる。イイスス・ハリストスの御名に力があるからである。御名を唱えるなり、どんなに嫌だったことも嫌に思わなくなり、悪鬼も消え去っていく。苛立っていた気持ちも和らぎ、心強いものを感じるだろう。(オプチナの聖アントニイ)

 

どうすれば救われるのか

  1. [正教徒たるもの、]揺るぎなく正教徒でありつづけ、同志として互いに誠実に愛しつづけよ。心身を清く保ち、不純な想いや邪念を警戒せねばならない。飲食するときも節度を保ち、とにかく謙遜でもって身を飾り、旅人をもてなして争いを避けねばならない。この世の名誉や名声を無とみなす代わりに、神からの報酬、すなわち天国の福楽を期待するのだ。(『ラドネジの聖セルギイ伝』 32)

 

  1. 本当に救われたいのであれば、聖なる教会の教えを隅々まで学んで心に留めよ。教会機密をとおして神の力を頂きつつ、正規司祭の指導の下でハリストスの戒めの道を歩んでゆけば、間違いなく神の国にたどり着いて救われる。以上は、救いに欠かせない前提条件であり、どの条件もひっくるめて満たすことが全員に欠かせない。うち一つでも受け入れなかったり行わなかったりする者は、救われない。(隠遁者聖フェオファン「救いへの道にまつわる五教訓」 3)

 

  1. ある修道士が「救われるためには何をすべきなのでしょうか」と聖大アントニイに尋ねた。長老は答えた。「自分の正しさに頼らず、過ぎ去ったことを悔やまず、発言に気をつけて食欲を抑えなさい」と。(『古代師父言行録』 1 : 2)

 

  1. 別の兄弟が師父マカリイに「どうしたら救われるのでしょうか」と尋ねた。長老は答えた。「死者のごとくなれ。死者のように、人に侮辱されても称賛されても何ひとつ考えるな。そうすれば救われる」と。(『古代師父言行録』 10 : 45)

 

  1. [属神的生活では]悔改なくして何ひとつ相応しいことは行えない。とはいえ、われわれに意図さえあれば、その意図に対して主は大いに憐れんでくださる。あなたが[戒めに従って生きようと]努力し、死ぬ日まで悔い改めつづけるならば、たとい何かしら罪を犯したとしてもその努力ゆえに救われるだろう。主がそのように福音書の中で約束されたからである。(苦行者聖マルコ『訓話』 3)

 

  1. ハリスティアニンは、三つの道を通って[神聖なる]知恵を得る。その道とは戒めであり、教義であり、信仰である。まずは戒めを守って心が慾から解放されてゆき、次に教義を学んで存在物について[正しく]知り、最後は信仰によって至聖三者を観想するようになる。(表信者聖マクシム『愛についての断章』 4 : 47)

 

  1. 裕福な時は、貧しい境遇でも取り乱さずに耐えうるかどうか考えよ。

 幸せな時は、不幸になっても絶望せずにいられるか思いめぐらせ。

 誉められた時は、侮辱されても静かに持ちこたえうるか思案せよ。

 そして一生のあいだ、いかに堂々と死を迎えうるか知恵を絞ることだ。(セルビアの聖ニコライ『善悪についての考察』)

 

  1. というわけで、聖なる神と歩みを揃えるわれわれは(聖なる神の民として)、聖性にかかわる事柄をすべて行うこととしよう。悪口を言わず、不純で堕落した関係を持たず、酩酊せず[教会を]革新したがらず、下品な肉慾や姦淫による汚れを避け、忌むべき高慢に陥らないようにしよう。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恩寵をお与えになる」からであるペトル前5 : 5。要するに、神から恩寵を与えられた人たちの仲間に加わろう。同じ信仰を持ち、へりくだって節制しよう。中傷や悪口などは吐かず、言い訳ではなく行動によって自分の義を立証し、(中略)自賛せずに神に称賛されるようにしよう。自賛する者は神に憎まれるからである。仮に善行をしたとしても、他人に証言してもらうくらいがちょうどよい。(ローマの聖クリメント「コリンフ人宛書簡」 30)

 

  1. ハリスティアニンの皆さん。さあ、いかがでしょうか。私たちは洗礼を受けた身として、みな神の前で大きな責任を負っていることを理解できたでしょうか。まさに神の子供として行動すべきこと、自分の意志を神の御旨に合わせるべきこと、どんなときも罪から自由の身でありつづけるべきこと、心から神を愛して永遠に神と結ばれたいと切に願うべきことを自覚できたでしょうか。はたして隣人にまで溢れてゆく愛を持つというのは一体どういうことなのか思いめぐらしたでしょうか。いずれ完徳を帯びて聖人となり、神の子供として天国の相続人となるべき身を実感できたでしょうか。以上すべてを実現させるためにこそ、私たちは闘わなければなりません。いつの日か天国にそぐわぬ者として追放されることのないよう闘うべきなのです。誰一人として覇気を失くす人など出ませんように。義務を軽んじる人など出ませんように。属神的苦闘の険しさにぶち当たるなり尻込みする人など出ませんように。なぜならば、私たちには助け手として神がおられ、まさに神ご自身が、徳という険しい道を歩む私たちを力づけてくださっているからです。(エギナの聖ネクタリイ「幸せへの道」 2)

原文:300 слов мудрости ~ священник Георгий Максимов ~ читать, скачать

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