死の粉砕機上の進歩

死の粉砕機上の進歩

克肖者聖イウスチン(ポポヴィチ)
(9 5.0 分の 5)

人間はだれしも、この「地球」という死の粉砕機上から逃れられない。よって「死は避けられぬものだ」という通り一遍の教義のもと、古代からまともに進歩することができずにきた。しかし神人ハリストスの復活によって、人類史は大逆転を見る。それ以降、「不死こそ避けられぬものだ」という教義が従来のそれに取って代わり、真の進歩への道が開かれた。

しかるに、欧州では不死という感覚を取っ払って人文主義に走って以来、その形而上の相対主義から倫理上の相対主義に陥り、とうとう無秩序と虚無主義ニヒリズムへ堕ちた。そのような死滅へむかう進歩と対極をなすものが、限りない完徳と永遠の命へむかう神人的進歩である。われわれ(セルビア人はじめ南スラヴ人)は、本邦初の神人的進歩の体現者である聖サワに見守られながら、福音書どおりに修行して自分自身を耕し、罪と悪を退治して死を打ち破り、現世でも来世でも不死を得るようにしなければならない。

キーワード:進歩、死、人文主義、ハリストス、復活

 

訳者まえがき

「地球は生命に溢れた星」と思っている日本人にとって、ここに紹介する聖イウスチンの論文[1]は痛烈な逆説から始まる。福音書の価値観が現世のそれとはしばしば真逆であるのと同様、聖人の世界観は常人のそれとは真逆を行くようである。死を忌避する和文化[2]で育ったわれわれ日本人からしてみれば、これほど死の問題を直視する論考も稀であろうが、この問題を解決しないことには真の進歩も前進も向上もあり得ない。現代の病の遠因もここにある。

克肖者聖イウスチン(ポポヴィッチ。1894 ~ 1979)は、20 世紀セルビアを代表する聖人である。神学者、著述家、哲学者として膨大な著作を残した(『正教会の神学』全3巻、『聖人伝』全 12 巻など)。1916 年元旦に修道士になり、セルビア政府に選出された青年団の一人としてロシアのペトログラード神学大学で学んだ後、1919 年までイギリスのオックスフォード大学で研鑽を積んだ。1926 年、ギリシャのアテネ大学神学部で博士号取得。1948 年以降、チェリエ女子修道院の掌院を務め、1979 年に永眠。2010 年に列聖された。

以下は、克肖者聖イウスチン著『哲学の断崖』の第一章「人文主義の死苦」の中から、第三節「死の粉砕機上の進歩」の完訳である。

 

I 地球という死に満ちた星

まるで宇宙規模の姦計にしてやられたのかと思うほど、地球という星は死に満ちている。無数にある星の中でただ一つ、死の島となっている哀れな星よ。周囲には何千万という星がめぐり、どの星にも死など存在しないというのに、この星だけが死に取り憑かれている。これといって死をよけられる道もなければ、死なずに生き残れるものもない。死から逃れうる者はなく、無残にもすべて死に絶えてゆく。これほど哀れな星があろうか。人間として生きるということは、なんたるむごい悲劇であろう。

どうせ死んでしまう運命なのに、なぜ人生が与えられるのか。どのみち死の罠に捕われてしまう分際ならば、どう生きたって無駄なことに見えてくる。まるでねばっこい巨大な蜘蛛が地球の周りに巣を張って、ひ弱な蝿でも引っかけるように人々を釣っているかのようだ。われわれは死に完全包囲されて足がすくみ、どうにも逃れようがない。

どうにも逃れようがないというのに、なぜ認識や感覚が与えられているのか。かつて絶望したヨブが「墓穴に向かって『あなたはわたしの父』と言い、蛆虫に向かって『わたしの母、姉妹』と言う」ヨブ 17:14と嘆いたように、もしや墓に入って蛆虫に食われることこそ宿命だと痛感するためか。だとしたら、こうして認識できるという能力は何と残酷極まりない賜であることか。もっとひどいことに、感覚まで与えられているのだ。

そう、何のために感覚が与えられているのか。まさか人々が生きていく上で、いちいち死を痛感して身震いするためだったわけではあるまい。どうか「地球」という死の島に生きる一員として、ここで生きることの意義を考えてみてほしい。きっと考えれば考えるほど、死という無情な灰を払いきれなくて気が滅入ることだろう。生きていけるぞという手応えもなく、行き場なき死の渓谷で呻くのみ。たとい何らかの史実をありありと実感できたとしても、やはりその終局にある死にぶち当たるのである。

そう、死こそ、この世で最もリアルな大現実なのだ。このことは、日々あらゆることをとおして思い知らされている。現に、人生の行く末には死という現実が待ち受けており、そもそも私もあなたも最後の最後には死という現実にぶち当たる身ではなかったか。われわれは一人残らず死に感染している。全身全霊が死の細菌に冒され、いつ死んでもおかしくない身で生きている。

この地球上では毎分毎秒、そこかしこで死という慢性流行病に人命が奪われている。いかなる名医もこの流行病には歯が立たず、どんな孤島に身をひそめてもこの病原菌ばかりは除去できない。はたして地上における人生とは何ぞや。まさに、びくびくしながら死と闘って闘いつづけた挙句、どのみち死にやられてしまう代物と言わずに何と言えよう。たとい医学や科学や哲学を駆使しても死そのものは退治できず、しょせん死因となる病気や疾患を治すのが精一杯、それも一時的に何かしら治療できればよいほうだ。いかに科学者が先端技術を誇り、哲学者が最新の研究成果に胸を張ろうとも、日々全人類がやられている死という現実の前では何になろう。そんなのは、ただ腰を抜かしてわなわなと震えながら口走っている幼児のたわごと以外の何物でもない。

 

II 人間という悲劇

この宇宙に悲劇があるとしたら、その主役となるものこそ人間である。人間であるということは悲劇である。よほど蚊やカタツムリや鳥や蛇や子羊や虎であったほうがましであった。どうにかしてこの悲劇を乗り越えようともがいてみても、やはり死という牢獄につながれた囚人だという自覚は拭いきれない。人間は、この世に生を享けるなり死の候補者に抜擢される。そもそも誕生すること自体が「死すべし」という裁きの始まりである。母胎から出るなり墓へむかって歩み始める以上、母胎など、いずれ世話になる墓の実姉のようなものにすぎない。まさに産声を上げた瞬間から死という残酷極まりない仇敵に目をつけられ、死という贈り物を母からもらい、死という不治の病を背負うことになる。たとい申し分のない健康体であったとしても死には打ち勝てない。どんなに上手に生ききったとしても、どのみち墓にすっぽり納まった我が身に気づくのは変わらない。何がどう転んでも死に呑みこまれてしまうパン屑にすぎないことは、教会で「衆を呑む死」(聖枝週間の金曜日の早課、坐誦讃詞)と言われていることからも分かる。かくも哀れな死の囚人たるわれわれに何ができようか。せいぜいびくびく震えながら、苦笑いしてみせることくらいしかできまい。

そうやって人類は、大昔からずっと死に怯えてきた。そのため、産まれ、生き、過ごしてゆくという人生の営み自体が、すべて死という枠内の出来事として捉えられるようになった。「世に産まれた以上、死なないわけにはいかない」という確信が、長い歴史の中で培われてしまったのである。そして、疑うべくもないその確信は、やがていつの時代でも通用する教義となった。情け容赦なく死に滅ぼされる現実を見せつけられているうちに、「死は避けられぬものだ」という確信が教義と化すのも無理はなかった。人類はこのような冴えない教義を親から子へ、世代から世代へと受け継いできたのである。

この異様な歴史を先入観なく見つめるならば、この地球という星が太古からずっとくるくる回りながら人々を葬りつづけてきた巨大な粉砕機であることを認めざるを得ないであろう。私も少しずつ砕かれ、あなたも少しずつ砕かれ、そうやってだれもが少しずつ砕かれ、いずれ砕かれきって事切れる日を迎えるのだ。

さて、あなたはどう思うだろうか。こうして死の粉砕機の挽臼に挟まれて粉になりきるまで挽かれていく人間が、抵抗もせずのほほんとこの世を受け入れられるものだろうか。たとえば、ハエがクモの巣に掛かった状態でジタバタしなかったり、ミミズがウグイスについばまれた状態で身をよじらせなかったり、それこそウグイスがタカのくちばしに挟まれた状態で鳴き立てずにいられたりするものだろうか。

そう思うと無力感のあまり、人生なんぞ牢獄でみる悪夢なのかと思えてくる。まるで島流しにされて悪夢にうなされているかのようだ。下手したら、こう話しているわれわれ自身でさえ幻影にすぎないのかもしれない。……などなど、ちょっと思いめぐらしてみただけでも、地球という星が骸骨で埋めつくされた闘技場にすぎず、死に呑みこまれていく舞台に他ならないことがお分かりであろう。では、宇宙とは何なのか。それこそ無限大の棺桶のようなものであり、その中から人々がモグラのごとくどんなに穴を掘っても掘っても一向に抜け出られない密閉空間ではなかろうか。

人類史を振り返れば、死は断じて避けられぬというのは自明の理である。人々は、動乱や災難の渦中でも、平時でも戦時でも息絶えてきたし、歴史に名を残すほどの偉人や軍人でさえも、やはり人は必ず死ぬということを裏付けてきた。死こそ、人間の行きつく終点であり、地球の住民がつねに後世へ残してきた遺言なのだ。ご先祖がわれわれ一人一人に残してくれた遺言書には、「死は避けられぬものだ」という一句しか書かれていない。

では、ご意見を伺いたい。かくなる遺言を手にして死の粉砕機にかけられている分際で、のほほんとご満悦に過ごせる方はいるだろうか。はたして前へ向かって歩めるだろうか。どうせ死んで消え失せるしかない世界で、いったい何のために前進したり進歩したり向上したりするのか。何をもって絶対に進歩すべきだと言いきれるのか。そもそもどうして進歩せねばならぬのか。この質問は、取りも直さず「すべて消滅して何も残らないようなこの世界は、はたして存在する意味があるのか。そんな人生を送らざるをえない人間は、いったい何のために生きているのか」という問いでもある。そう、進歩について問うということは、すなわち人生の意味を問うことなのだ。もし死の粉砕機にかけられた人生に意味があるのならば、進歩することにも意味がある。しかし実のところ、あらかじめ「死とは何か」という問題を解かない限り、人生の意味など解きようにも解きようがない。

ひとえに死の問題を片づけたとき、人間はなぜ生きるのかという問題も根本から解決する。遠回しにせよ直にせよ、いかなる問題も最後は死の問題にぶち当たるからである。あなたの気になる問題をとことん突き詰めてみたまえ。必ずや死の問題に突き当たるだろう。死の問題が未解決のうちは諸問題も片付かないが、死の問題を解決させれば諸問題も片付いていく。にもかかわらず、大半の人は「死は避けられぬものだ」という通り一遍の教義を信じこみ、死の問題を取り上げようともしない。

生きとし生けるものはすべて死に、どうせ森羅万象も消滅するだけだ、という。では、ご教示願いたい。そんな世の中で、本当に進歩なんぞできるのだろうか。死という重圧に押し潰されずに進みつづけられるだろうか。死の粉砕機にやられずに進歩しつづけられるだろうか。これは、神々や人々をためす問いでもある。この問いに答えうる者こそ、真の神である。真の神に出会ったとき、他の神々は神でなくなるどころか無用の長物となる。ただし、まさにこんな世の中でも進歩は可能なのだと請け合える者しか、この問いには答えられない。現世での進歩を保障するということは、死という暴君を打ち破るということだ。はたして科学や哲学や文化や宗教に、そのような技が可能だろうか。

この問いに対して妥当な回答を得るためには、まずは死という問題を科学・哲学・文化・宗教に問うてみる必要があるだろう。この問いへの答え方を聞けば、それらに実際どれだけの価値があるか見えてくる。「われわれは、こうして地球という死の粉砕機上であくせく働いているが、もしも消滅するだけの存在にすぎないとしたら、どうやって進歩できようか。もしや進歩するまでもないのではあるまいか」という問いである。

 

III 死の問題への問い(科学・哲学・文化・宗教)

① 科学への問い

まず、実証主義をかざす現代科学に問うてみよう。科学界では、どうにかして生死の問題を解こうと四苦八苦しているが、どの研究者も「この世は自然法則に支配されており、その法則は変えようがないし避けようもない」という結論しか出せない。そのような世にとって、また、そういう人たちにとって、たしかに「死は避けられぬものだ」。

このように、科学は死という薄気味悪い問題を「避けられぬもの」という神秘的な一言に収めて解決したつもりになっている。しかしながら、じつは何の問題解決にも至っておらず、ただ「そういう問題がある」という事実を取り上げて断言してみせたにすぎない。その断言を裏返して言えば、「あなたにせよ私にせよ、しょせん人類なんてびくびくしながら永遠にのたうち回って苦しむほかないのだ」という宣告を下したようなものである。ただしそう答えている以上、死が避けがたい事実である点は認めているわけだ。だがこの事実こそ、人類にとって恐ろしすぎる呪いなのである。ゆえに、このような教義から、どのような結論が導き出せるか本能的に考えずにはいられない。この教義を突き詰めていくと、要するに「どうせ死滅するしかない以上、人生には何の意味もなく、たいして進歩することなどできない」という結論になる。どっこい、避けようがないものは避けようがあるまい、と。死を避けることができない以上、どの世代もずっとstatus quo ante(現状維持)のまま、ひたすら消滅しつづけるしかないことになる。

最近、ケンブリッジ大学のジェームズ・ジーンズ教授という有名な天文学者が以下のように述べた。

どう考えても、宇宙は永遠に存続しつづける機構には思えない。宇宙も命をもって生きており、私たちと同じように誕生直後から死に向かって歩んでいる。科学的知見によれば、この世にある変化といえば老衰以外になく、この世にある運動といえば墓へむかう運動以外にはないからである。かりに最先端の科学的知識をもってしても、やはり次のように考えざるを得ない。宇宙は物質である以上、いかにそれが巨大な物質であろうとも、やはり「万物は死に向かって動いている」という事実を示す一例にすぎないのだ、と。(The stars in their courses. Cambridge, 1931)

われわれも森羅万象も消滅するだけならば、まともに進歩することなどできなくなる。進歩できなくなるだけでなく、進歩するまでもなくなる。もしも人生というものが揺りかごから墓まで歩む華やかな街道にすぎないとしたら、そんな一生で進歩してみたところで何になる。そんなのは、斬首される死刑囚が刑具の刃に蜜を塗ってもらい、首が切り落とされていく過程を少しでも甘くしてもらっているようなものではないか……。

なぜ私は進歩しなければならないのか。何のために、この揺りかごから墓穴までつづく呪われた途で、延々と悩み苦しみを背負っていかねばならないのか。生を終えた途端に全身全霊が消滅するだけだとしたら、いったい何のために苦労し、努力し、任務をこなすのか。何のために愛し、善をなし、文化や文明を尊ぶのか。およそ進歩・向上・仕事・愛・善・文化・文明というものがその場かぎりの癒しでしかなく、この血を吸い続けてやまない吸血鬼であるならば、そんなものはいっそ呪われてしまうがよい!

誠実であらねばならぬ。かりに丸ごと消滅するしかないのであれば、この人生ほどひどい嘲笑もなく、忌まわしい贈り物もなかろう。まさに災厄、それも我慢ならぬ災厄ではないか……。科学者は「死の不可避性は変えられませんし、打破できません」などと言う。ということは、つまり人生に意味など見出せず、人生の意味は解けない、ということだ。死の問題を突き付けられると、科学そのものがくたばってしまうのである。

科学は力だ、万能だ、という人は多い。しかし胸に手を当てて考えてみてほしい。死の前で無力な力が、本物の力だろうか。死の前で無能な能力が、本当に万能だろうか。そもそも死に負けているようでは勝ったとは言えず、死に勝てないうちは進歩もできない。あくまで死に打ち勝つ能力だけが、万能とか力とか呼べるものなのだ……。「科学者は人類愛に基づいて研究しています」と言う人もいるが、人が死んでいくままにしておく人類愛とは何ぞや。人々を死から守れていないではないか。人類愛とは、死に打ち勝つことである。それ以外の何物でもない。

② 哲学への問い

では、古代から現代まで続いている哲学に、死の問題をどう捉えているか問うてみよう。端的に言ってしまうと、どの哲学理論も「人知の及ぶかぎり、死に打ち勝つことはできない」という一大原則に帰結する。死は、人体が物理的に劣化していく合理的な結果である以上、いかんともしがたく「避けられぬものだ」、と。

このような回答を耳にすると、こう問い返さずにはいられない。もしも人命に関わる死の問題をそのようにしか解けないのだとしたら、いかにして哲学は人生の意味を解きうるのか、と。そんな体たらくでは、厭世主義の思考に使われる算盤に成り下がってしまうではないか。実際に、われわれが墓の傍に立ちすくんで現世を見やったとき、その痛々しい死の神秘を慰めてくれる哲学はない。思い浮かべてみてほしい。今ここで私の兄なり妹なり母なりが息を引き取ろうとしている。私は全身全霊で言いようのない悲痛にもだえている。そのとき、何に寄りかかったら良いのか。だれが慰めてくれるのか。哲学者は黙りこみ、科学者は耳が遠いのか口もきかない。この心を、癒してくれないのだ。この死というおぞましい現実にぶち当たって初めて、私は哲学や科学というものがそもそも福音(福なる知らせ)ではなく、「苦音」(苦い知らせ)であることを悟る。はたして最大の苦悶を癒せぬものが福音といえようか。心痛の極みを和らげられぬものが福音といえようか。死というニガヨモギのごとく苦い神秘を解明できぬものが、どうして福音といえようか。

③ 文化への問い

ならば人文主義を謳ってきた欧州文化に、死の問題をどう捉えているか問うてみよう。欧州文化はすごいと思って勢いづいた素朴な人は億万といる。だが人間という重たい生物は、その勢いにのって死から這い上がることはできなかった。容赦なくバッサバッサ死に断ち切られてきたのである。ゆえに欧州文化を身につけた人たちは、どこまでも孤立無援の身を痛感しながら死という恐怖に向き合ってきた。やはり文化の力でも、死には太刀打ちできないようだ。文化自体が死すべき人々の手によって造られたものだからである。文化のあらゆる側面に、死すべき人間の刻印が押されている。

ある日、私は墓の傍に立ち、死という天秤に文化をかけてみた。するとどうだろう。かくも文化が軽いとは! 文化を死という現実に突き合わせると、まるで青菜に塩のごとく萎えてしまうのだ。あらゆる文化偉業が死によって徐々に蝕まれ、死の淵に葬られてきた。よく「文化は活力だ」と叫ぶ人がいるが、はたして死を打ち破れない文化にそのような活力が本当にあるだろうか。どのみち死の意味を解き明かしてくれない文化に、人生を掛ける意味があろうか。いくら文化に精魂を傾けたとて、いずれ身につけた文化と共に死の粉砕機に掛けられて散るだけだというのに、その粉砕機の上で文化的であることに何の益があるのか。

④ 宗教への問い

ところでキリスト教以外の宗教は、死の問題をどう捉えているのだろうか。どの宗教もこの問題には頭を悩ませている。いざ取り組んでみたものの、しまいには迂回したり拒否したり超越してみせたりする。その顕著な例が、バラモン教と仏教である。

バラモン教においては、死とは現世と同様にマーヤー(摩耶)という幻の現実にすぎず、無であり実在しないもの、すなわち架空のものにすぎない。死の問題は多くの自称「現実」と同列に並べられ、意志の力で超越せよ、という。そもそも目に見えるこの世界ですら、いずれ幻影世界へ変貌していく夢の展覧会にすぎないのだから、死ぬことについてくよくよ悩むな、と。バラモン教ではこのように死の問題を解いているが、これでは一向に死の問題は解決しておらず、むしろ拒否されているようなものである。

では、仏教はどうか。仏教というのは絶望の極みである。ただ単に厭世哲学であるだけでなく、厭世観からくる宗教である。仏教に言わせれば、こうして存在すること自体の苦しすぎる神秘に比べたら、無という神秘の方がよほど心地よい。人は、死ぬことで、ついに現世という得体の知れない化け物の鎖から解放され、死後には涅槃という至福が待っている。このようにして、仏教では死の問題を解決させずに跳び越えている。なにせ死なんぞ克服しようもないので、力なく呪ってみることしかできない。他の宗教もこれと同じように、死という問題の前では破綻する以外に何も示していない。

 

以上のように、「死をどう捉えるか」という点を丹念に調べれば、その科学や哲学や宗教や文化に実際どれだけの価値があるか見えてくる。人間は、科学・哲学・宗教を駆使して死を克服しようと努めているが、どうしても克服できない。何とかこの人体を持ち上げてくれるテコを見出して不死の現実へと邁進したいのだが、その肝心なテコが見出せない。だから、人体の問題の次元で破綻してしまうのである。

この「人体が死滅する」という難問は、その宗教・哲学・科学の能力を問いただす試金石でもある。体の問題すらかつ破綻するのなら、いわんや精神の問題をや。人体の死を克服できない者は、神ではない。ひとえに人体に不死を与え、その不死を保障しうる者こそ、太古から待望されてきた神であり救主である。われわれは、そのお方に出会ってはじめて人生と世界の意味を知り、喜びと慰めを見出す。そのお方に出会うまでは、どうしても厭世観にやられて絶望に陥るほかない。

人間は、孤独な存在である。周囲には死の海が果てしなく広がっており、不気味なほど物音ひとつ立てない……。死の淵に沈んでいく者は心から泣き叫ぶのだが、それに応えてくれる者はいない。応えてくれる人々もいなければ神々もいない。たとい科学なり哲学なり文化なりが何かぼそぼそ呟いてくれたとしても、そんなのは恐怖に総毛立っている心身に効きやしない麻酔にすぎない。もうお気づきだろうか。誰一人として、この呪われた死の粉砕機から、一歩たりとも逃げられないのだ。この陰気な惑星は、あまりにも強く万物を死へ引き寄せている。われわれの心痛や恐怖や悲哀を収斂した電子エネルギーは「死亡」という雷となって轟くが、それを和らげてくれる避雷針はないのだ。

死とは、悪という悪をひっくるめてその頂点にあるものであり、恐怖という恐怖をひっくるめてその頂点にあるものであり、悲劇という悲劇をひっくるめてその頂点にあるものである。この悪の頂点、恐怖の頂点、悲劇の頂点に君臨する死の前では、どの人も気が萎えてへなへなと座りこむしかない……。おや、進歩するはずではなかったのか。めっそうもない。人間にできる進歩など、しょせん死への進歩、墓への進歩以外に何がある。死の粉砕機上では、せいぜい死神にバッサリ断ち切られるまで進歩するのが関の山だ……。

人類の栄枯盛衰の歴史が証明していることはただ一つ、「人は死に打ち勝つことができない」という結論である。しかるに、万が一それが変更の余地なき最終結論であるならば、われわれはいったい何のために生きているのか。何のために歴史を刻み、人類史という壮大なドラマに参加して奔走するのか。そんな歴史は、いわば死という暴君がつづる残酷な物語にすぎず、人の進歩をからかう笑い話にすぎないではないか。自分自身を欺くのは止めよう。この結論に基づいて死を見つめるならば、死とは、虐げられてきた人間に対して惨劇が勝鬨をあげる瞬間であり、茶化されてきた人間に対して笑劇が祝杯を挙げる瞬間じゃないか……。ああ、人間とはなんと滑稽かつ不幸な生き物なのか。次々と同胞が世代ごと粉砕されていくのを眺めつつ、自らも息絶える日まで徐々に砕かれるさまを観察しながら、それでも死の粉砕機上で生きねばならないのだから……。

 

IV ハリストスの復活による死への勝利

このように、人間という名の生き物は愚弄されたまま死を打ち破れないどころか、いつまでも打ち破れない哀れな存在であった。ところが、人間にはできないことでも神人かみびとにはできることが判明した。そう、神人は死に打ち勝ったのである。どのようにして打ち勝ったのか。ご自身が復活することで打ち勝った。そしてその勝利でもって、呪われた死の問題を解決してくださった。理論的にではなく、抽象的にでもなく、演繹的にでもなく、まさに事件によって事実によって、ご自身が死者から復活したという史実によって解決されたのである。

そう、まさに史実によって解決されたのだ。というのも、福音書内にとどまらず人類史上、ハリストス[3]の復活ほど揺るぎなく強烈に確証された史実もないからである。実際、ハリストス教はハリストスの復活という史実を拠り所にして全世界に普及してきた。まさに永遠に生きておられる神人ハリストスご自身の位格を拠り所として、全能の力を発揮してきたのである。このことは、二千年も奇蹟を起こしつづけてきた教会史を見れば一目瞭然である。なにせ主の生涯はじめ使徒の生涯と教会史にとっての究極的史実があるとすれば、それはハリストスの復活という史実になるからである。同じく、福音書内の究極的真実があるとすれば、それはハリストスの復活という真実になるからである。また、新約以降の究極的現実があるとすれば、それもハリストスの復活という現実になるし、新約以降に起こった究極的奇蹟があるとすれば、それもハリストスの復活という奇蹟になるからである。というのは、われわれはハリストスの復活が見えてはじめて、ハリストスの面影や行動もはっきり見えるようになるのであり、ハリストスの復活を確信してはじめて、ハリストスの奇蹟や真実や言葉や福音書の史実も腑に落ちるからである。だいたい神人の復活を真実と認めぬうちは、神人から授かった真実も真実として見えてこないし、神人の復活を現実と認めぬうちは、神人のなさった奇蹟も現実として見えてこないからである。

それだけではない。神人の復活なくしては、なぜ使徒があれほど宣教できたのか説明がつかない。それに致命者(殉教者)の致命も、表信者(証聖者)の表信も説明がつかない。同じく成聖者の成聖も、修行者の修行も、奇蹟者の奇蹟も、信者の信仰も説明がつかないし、愛する者の愛も、望む者の望みも、祈祷者の祈りも、柔和な者の柔和さも、憐れむ者の憐れみも、つまりハリスティアニンのあらゆる修行が説明のつかない代物になる。かりに主イイスス・ハリストスが復活しなかったとしたら、そしてその復活によって弟子たちに生命力と奇蹟的知恵とを授けなかったとしたら、あれほど臆病だった逃走者たちがどうやってにわかに一致団結し、奮起して力強く知恵を発揮しえたのだろうか。かくもひるまず身命を賭し、復活した主を反駁の余地なく宣べ伝え、喜んで主のために信仰を貫いて死んでいけたのだろうか。もしも救世主が復活して弟子たちに聖なる力と知恵を授けなかったとしたら、あんなにも無教養で無学で貧しかった凡人たちが、どうやって新約の信仰という消えない炎を世に点火できたのか。もしもハリスティアニンの信仰が、復活した主への信仰(つまり永遠に生きて命を賜わる主ハリストスへの信仰)ではないものだったとしたら、はたしてどの致命者が致命でき、どの宣教者が宣教でき、どの修行者が修行できただろうか。同じく、どの廉施れんし者が施し、どの斎行者がものいみをし、つまりどの信者が福音書どおりに修行できただろうか。ひとことで言うと、万が一ハリストスが復活しなかったとしたら、そもそもハリストス教なんぞ端から生じなかったはずなのだ。むしろハリストスご自身が最初で最後の信徒となり、ゴルゴタの十字架上で露と消えるや、その教えは遺業もろとも忘却の彼方へ葬られたに違いないのである。したがって、ハリストスの復活という史実こそ、ハリストス教のアルファかつオメガとして、その教えの神人的な高さと深さと広さを支えている一大事実なのである。

かりにハリストスが実際に復活しなかったとしたら、どのようにして賢人までが「イイススは神であり主である」などと信じられただろうか。使徒たちも「イイススこそ神である」などと布教できただろうか。聖金口イオアンはこう問いかける。

お弟子たちは、いったい何を血迷って死んだ人間のために命を張ったのか。死んだ人間から何を貰えると思い、どんな名誉が得られると思ったのか。もとより師の生前でさえ、師が逮捕されるなり逃げ出すほどの小心者だったのである。だというのに師の死後は、かくも大胆に師のために生きた。もしもイイススが復活しなかったとしたら、この豹変ぶりをどう説明できよう。実際、弟子たちは復活を捏造する気などなかったし、捏造するわけがなかった。それは次の点からも明らかである。そもそも救い主は、ご自身の復活について何度も予告されていたのである。主の敵が口をそろえて「自分は3日後に復活する、と言っていた」マトフェイ 27:63と証言しているように、かなり頻繁に弟子たちにも予告されていたのである。ゆえに、もしもイイススが復活しなかったとしたら、弟子たちはまんまと騙されたことになる上、人々に迫害されて家も故郷も失った浪人として師を見限ったはずなのだ。そして、師に騙されたうえに師のせいでひどく落ちぶれた者として、そんな師の話など露も広めたいと思わなかったはずなのだ。そのため、ありもしない復活のお伽噺を「捏造するわけがなかった」という点については言うにも及ぶまい。だいたい何を当てにしてそんな無謀な賭けに出たのか。論証力か。でも無学な者たちだったのだ。経済力か。いやはや杖も靴も持っていないほど赤貧だったのだ。もしや由緒ある血統か。とんでもない、貧困層の親の元で生まれ育った貧乏人であった。では名高い出身地か。いや名高いどころか辺鄙な村の出身者であった。となると弟子が大勢いたことか。たかが 11 名ではとても大勢とは言えまいし、しかも布教時は一人一人バラバラであった。ならば、師がかつて約束してくれた台詞か。しかしそれこそ、いったいどの台詞を信じれば良いのだろう。もしもイイススが復活しなかったとしたら、イイススの与えた口約束なんぞどれ一つとして信じられないではないか。だいたい弟子たちは、いったいどうやって当時いきり立っていた民衆を鎮めることができたのか。統率者(ペトル)は女中に詰め寄られただけで浮足立つほどの臆病者だったし、他の弟子ときたらイイススの連行される姿を見て逃げ出すほどの小心者だった。なのに、何を血迷ってわざわざ国の隅々まで出向いていって、ありもしない復活の夢物語を宣べ伝えようなどと思いついたのか。そもそも女中にすっぱ抜かれただけでうろたえた一番弟子と、師の逮捕劇を目にしただけで青ざめるほど気弱だった弟子たちが、なぜいきなり王や長官や民衆に向かって毅然と立ち、来る日も来る日も仲間が刺殺され湯釜や竈火に放りこまれる地獄絵図を見つつ耐えられたのか。もしも復活した主の全能の力に支えられていなかったとしたら、とても耐えようがなかったではないか……。考えてもみたまえ。そもそもユダヤ人は、主のなさった奇蹟を星の数ほど目にしていながら、その一つにすら良心が痛まず、奇蹟をなさった偉大な主を、まさに自分たちを造ってくださった主を十字架につけたのである。そんな連中が、凡庸な弟子たちから復活などという大それた話を聞いたところで、どうして信じられるわけがあろうか。端から信じられるわけがなかろう! かくして、すべては復活された主の御力によってなされたことなのである。

 

V ハリストスの復活による存在意義の大転換

ハリストスの復活は、人類史上初の大逆転であり革命であった。それによって歴史が二つに分断された。前半は「死は避けられぬものだ」というモットーしか聞こえてこなかったが、後半は「復活こそ避けられぬものだ。不死こそ、避けられぬものだ」というモットーが叫ばれるようになった。こうして、ハリストスの復活は新しい時代を造りだす製パン機となり、死の粉砕機に取って代わったのである。主の復活までは真に進歩することなどできなかったが、主の復活以降は真に進歩することができるようになった。

ハリストスの復活という史実に基づいて、復活の哲学が生まれた。その哲学は「避けがたいのは死でなく、不死である。死に負けることでなく、死に打ち勝つことである」と断言し、そのことを反駁の余地なく論証する。あくまでもハリストスの復活という史実のうちに、また、その史実を拠り所とした生活のうちに、人は真に進歩することが可能になったのである。

通り一遍の「死は避けられぬものだ」という確信や哲学的信念は、積もり積もった厭世観の極みである。そこには「罪も悪も、避けようがない」という公理がある。いっぽう復活の哲学には、「無罪や善こそ、避けようがなく不可欠だ」という公理がある。その気になれば、無罪も善も実現できるという。神人の復活が事実であり実際に起こった出来事である以上、神人がなされた徳行及び神人の特長も、われわれのうちに事実かつ出来事として実現できないわけがない。

ハリストスの復活という事実は、時空間に縛られない。ちょうど神人ご自身の位格がそうであるように、その可能性も際限がなく果てしない。それは、どこまでも神人ご自身のなされた事実でありつつ、全人類・全宇宙をも変える力がある。なぜならば、神人は第二のアダム(新しい人類の始祖)として全人類の代表者となられた上で、その神人の人性にまつわるものは全人類にも起こりうるものとされたからである。こうしてハリストスの復活は、全人類と全宇宙を変えうるほどの事実かつ出来事となった。すでに何千万人ものハリスティアニンが、この事実と出来事を体験してきた。なにせ主ハリストスの復活を信じる者は、ハリストスの体の一部に、すなわち神人の体である教会の一員になるからである。教会とは、そのたった一つの事実かつ出来事を、すなわちハリストスの復活という事実かつ出来事を連綿と実現しつづけてきた組織体に他ならない。これぞ前代未聞の組織体であり、かつてなかった現実である。ずうっと死なずに生きつづける現実である。この現実に立ったとき、時空間という縛りはもはや存在しない。だからこそ、教会も信徒もハリストスの復活という事実を土台とするのである。この土台以外のところに組織を立ち上げたり人生を築いたりすれば、砂上の楼閣を建てることになるだろう。ハリストスの復活という事実に拠らぬ土台は、しょせん砂礫の寄せ集めにすぎないからである。

主ハリストスは復活されて、人が死滅するという悪循環を砕かれた。まさに死から不死への移行を成しとげ、時間から永遠への移行を成しとげられた。その際、人もまた主の位格のうちにおいて死から不死へ移り、時間から永遠へ移ったことになるわけだが、ただし人間としてではなく、まさに神人として移行した。だからこそ、われわれは主の復活という事実を大前提とし、その事実を追い風として信仰生活を送り、その事実にむかって成長してゆくのである。人間に求められていることはただ一つ、ハリストスを信じて復活という事実をものにし、だんだん復活していく手応えを体験し、復活した神人に心を合わせていきながら、死臭にみちた罪の墓から自分自身を甦らせることなのだ。

主イイススが復活されたおかげで、なぜ人体があり物質があり精神があるのかという問いが初めて解決した。「この体は、どうせ死んだら灰燼に帰すだけなのに、何のためにあるのか」という難問が、ものの見事に解決しきったのである。では、何が解決したのだろうか。そもそも人体とは、死なずに神人の永遠の命に与るために造られたものであった。また、全物質も(現に万物の代表格が人体である以上、)人体と共に永遠に残るために造られたものであった。要するに、神人がご自身の復活した体を見せてくれたことにより、じつは人体も永遠に残りつづけるほど価値あるものであったことが明示されたのである。

救主が復活される以前は、物質なんぞさほど重く見られてこなかった。しょせん朽ちて雲散霧消してしまうものだからである。ところが、人体にはもっと貴い価値があったということが主の復活によってついに判明する。まさに人体も神のためにあり、神父かみちちの右に永遠に座せるものだということが明示されたのである。もちろん人類は、ハリストスの復活以前にも、文字どおりの不死ではなかったとしても不死の象徴のようなものは感じていた。不死への希求心がそれである。ただし、もはや萎えきって不死を求められなくなっていた。ところが主の復活を目の当たりにして、不死の感覚をありありと思い出す。そして、死滅しないように生きて心身ともに永遠の命を得られるようになったのである。

 

VI ハリストスへ向かう神人的進歩

ハリストスが復活して死を打ち負かしたことにより、人類は神のごとき完徳へ向かってどこまでも進歩できるようになった。そもそも死を打ち倒さないことには、すなわちこの心身を不死なる心身に変えて死の闇から脱却していないうちは、まともに進歩することなどできやしない。換言すると、人は死の元凶である罪と悪を退治して初めて、ようやくまともに進歩できるようになる、ということである。罪のない人を呼んできてほしい。その人こそ、人類の進歩に貢献できる指導者となるだろう。ところがだ。もしも人類が朽ちて消滅するしかない運命だとしたら、なにゆえにわれわれは前進したい、進歩したい、向上したいなどと思うのか。そんなのは人を愚弄した呪いのようなもので、えらい趣味の悪い「創造主もどき」によって、われわれがこっぴどく笑い飛ばされるために埋めこまれた欲求のようなものではないか。人生がそんなものにすぎないとしたら、よほど見切りをつけてのらりくらり過ごすか、いっそ首でも吊った方がましだろう。この人生ほど耐えがたい苦役もなく、胸糞悪い侮辱もないからだ。

復活があることを認めずに、進歩について議論している人はごまんといる。しかしそのような進歩は、いかに科学的であったり哲学的であったり芸術的であったり文化的であろうとも、死という枠の中で思い描かれた進歩にすぎない。人を裏切って死ぬままにさせておくような進歩は進歩ではなく、進歩の贋造品である。生死の意味すら解明せず、人々に不死も与えられないような進歩は進歩でなく、むしろ進歩という仮面をかぶった退歩である。主イイススの復活に立脚しない進歩や前進や向上は、すべてそのような偽物の「前へ進め」という掛け声にすぎない。

かりに未だに死が打ち破られておらず、主の復活によって不死が保障されていないとしたら、この恐ろしい死の粉砕機上では進歩なんぞできなくなる。だれもが例外なく死の奴隷にすぎず、死の召使にすぎず、死という粉砕機に砕かれていく穀粒にすぎなくなる。ああ、死の粉砕機上にかけられた穀粒よ。もしもそうだとしたら、なぜおぬしは生きていかねばならぬのか。まさか最後の最後の土壇場で、丸ごと砕いてもらって跡形もなく消え失せるためだけなのか……? そう、人格[4]の不死を認めぬ進歩や前進や向上というものは、しょせん魔法の国の物語か作り話にすぎず、その作り話のなかで不幸な人が忌々しい死という龍に抱かれたまま思い描いている夢にすぎないのだ……。

「進歩」(progress)という言葉は、文字どおりおよそ「前向きな歩み」を指す。もちろん、人類が宗教・哲学・科学・技術・経済などをとおして進歩していることは火を見るよりも明らかである。ただし、何にむかって進んでいるのか。まちがいなく究極の現実である滅亡にむかって進んでいる。この死の粉砕機上で生を受けて成長した人々は皆、一生に成しとげた手柄とともに最終的に死に打ち砕かれるのだ。ぜひとも進歩・前進・向上というものの神秘をじっくり見つめてみてほしい。あなたがうかつにも世俗向けの夢に踊らされていなければ、たしかに人類はまっしぐらに一方向へ進み、それも死滅へむかって邁進していることを確信するはずである。われわれの進歩・前進・向上の先には滅亡があるということだ。しかし、そういう前向きな動きが死んで消える代物にすぎないとしたら、もはや「進歩」「前進」「向上」という名で呼ぶのも可笑しくないだろうか。むしろ「退歩」「後退」「堕落」とでも呼んだほうが賢明ではなかろうか。それも致命的な堕落なのだ。なにせ無へ、非存在へ、皆無へと向かっているのだから。

自分の胸に手を当てて、「せめて意識の最後の断片くらい、わざと狂わすようなことはしたくない。せめて感性の最後の端くれくらい、わざと鈍くするようなことはしたくない」と思うのであれば、次の点は自覚して感じとらねばならない。そもそも死を克服していないうちは、つまり「私は人格として消えずに永遠に生き残る」という保障がないうちは、どんなに進歩したくてもまともに進歩できっこないという点である。これを別の角度から言うと、死を打ち破った唯一の神人ハリストスなくしては、進歩しうる者は一人もいないということである。死を克服して人格の不死が保障されてはじめて、ようやく進歩できるようになるからである。人の不死を保障しないものはすべて後退であり、それも致命的な後退であり、人に向かって「とっととくたばってしまえ。どうせ復活なんてできっこないさ」と吐き捨てているに等しいからである。

死を打ち破ったお方は神人しかいない以上、真の進歩(神人的進歩)の創始者となりうるお方も神人しかいない。そもそも「人間」とか「人間味」とか「あまりにも人間くさいもの」は、すべて退歩でしかないのだ。いたって単純な究極の選択である。人間か、それとも神人か。死か、それとも不死か。……友よ、もし一度でも人生の意味を真面目に自問したことがあるならば、ひたすら死へ向かって減りつづける日々の意味を問うたことがあるならば、その問いに対する正真正銘の答えは、ただただ復活したイイスス・ハリストスのうちにのみ見出せるだろう。そして、その個人的な問いを人類全般に向け、眠れぬ夜も激務の日々も真剣に「なぜ人類は存在するのか。どういうときに本当の意味で進歩しているといえるのか」と自問するならば、あらゆる事実を検証した結果として、次の結論に達することだろう。「何をするにしても、ハリストスと復活へ向かっているときこそ進歩だ。そのとき不死が保障されているからだ。その反対に、何をするにせよハリストスと復活から離れていくときは退歩だ。皆が皆そのようにして死に吸いこまれ、無の深淵に引きずりこまれていくからだ」と。

ハリストスへ向かって邁進すること—— これぞ、ぐんぐん進歩できる生命力である。この生命力があれば、死と死性(つまり罪と悪)[5]を打ち破り、その見返りとして不死と永遠の命を自分自身に保障できる。われわれが死の粉砕機上で生きることの真の意味は、「人格としては誰一人として死なない」という点に尽きる。万が一、人格が消滅してしまうのなら、この私にとって向上することに何の意味がある。善悪を区別したところで何になる。真実や愛を重んじたところで何になる。だいたい天も地も何になる。もっと言ってしまえば、神だの世界だのが何になる。

体で生きているうちに自分は死なないと感じられることは至福なことである。この感覚は、主イイススによらなければ見出すことも保障されることもない。ハリスティアニンは息あるうちに不死の感覚を研ぎすませ、その感覚を認識まで高めねばならない。そもそも福音書というのは、「どうすれば死すべき身から不死の身へ変貌できるか」を解き明かす具体的な教科書ではなかろうか。もしあなたが心底から主ハリストスを信じきるならば、この死の島から天の岸までとどく橋を架けることになるだろう。そして、その岸辺から不死への歩みが始まり、やがて幸福に満ちた永世に「沈んで」ゆくことになるだろう。

人は福音書の徳を実践していくうちに、自分の中にある死性に打ち勝ってゆく。そして福音書どおりに生きれば生きるほど、自分の中から死と死性を排除し、不死と永遠の命のうちに成長してゆく。自分の内に主イイススを感じるということは、つまりわたしは死なないと感じることである。もとより不死と永遠の命の源は神であるため、何はさておき神を感じてこそ、不死を感じるようになる。

シリアの聖イサアクという正教会の偉大な哲学者も、「不死とは何か」と問うたうえで「不死とは、神を感じることだ」と答えた第 38 訓話。神を感じるということは、わたしは死なないと感じることである。「神」も「霊魂の不死」も互いに連関し合う事実である以上、この二つの概念は切っても切れない。片方のみ捉えてもう一方を無視することなどできやしない。いつどこで何を考えていようと、何を感じていようと、どんな活動をしていようと神を感じること― これこそ不死である。そのように神を感じることができたとき、己自身に不死と永遠の命を保障できたことを意味する。よって、神を信じず神を感じられないうちは、わたしは死なないと感じることなどできやしない。ひとえに神人的進歩に励んでいれば、わたしは死なないという感覚が研ぎすまされて強まっていく。めいっぱい神を感じるようになるからである。

ハリスティアニンは、日々の生活の中で「人間は不死にして永遠の存在であり、どこかの誰かさん(悪魔)に搾取されたり虐げられたりすべきではない」と感じており、そう認識している。なぜ不死を感じているのかと言えば、神を感じているからだ。神を感じているため罪を犯すことができず、むしろ罪を追い出そうとする。罪のせいで死ぬことになるからである。言わずもがな、人間のもつ倫理観はこのような形而上の問題に左右される。生き生きと神を感じている者は「わたしは死なない」と感じているため、その感覚でもって自分を殺しにくる万事と妥協せずに闘う。つまり罪と闘い、あらゆる悪と闘うのである。

 

VII 人文主義に基づく進歩の問題点

欧州の進歩の原則を調べ上げ、その人文主義の根にある形而上学[6]を見極めねばならない。目を凝らしてみてほしい。人文主義の文化に漬かっていると、不死の感覚がどんどん鈍り、まったく不死を感じられなくならないだろうか。だから欧州文化で育った者は、決然と「私は人間であり、人間にすぎない」と言いきるのである。この主張をもっと分かりやすく換言すれば、「私は体であり、体にすぎない。土くれであり、土つれにすぎない」ということになろうか。いずれにせよ、あくまでも「私は死ぬ存在であり、しょせん死にゆく存在にすぎない」と主張しているのである。ゆえに人文主義に陥った欧州では、「人間は死すべき生き物である」というスローガンにそって生きるようになった。これが、人文主義を標榜する者たちの公理であり、その進歩の本質である。

最初のうちは欧州人も無意識だった。だが徐々に意識的に体系的に意図的に、「人は死んだら何も残らない」という思想が科学・哲学・文化を介して埋めこまれていった。やがてその考えは確信となり、「死は避けられぬものだ」と主張するようになったのである。なんと死が、避けられぬものニオプホディモスチだとは! かくもおぞましい屈辱的な嘲笑があろうか。われわれの最大の敵が、必要不可欠なものニオプホディモスチ(訳注。原文では「避けられぬもの」と同一単語)だとは! 教えてほしい。ここに論理が、せめてちっぽけな論理が、少なくとも子供向けの論理が、せめて昆虫でも納得できるような論理があるだろうか。もしや死の粉砕機上で押し潰された欧州人たちは、とうとう理性の最後のかけらまで潰されて寝言を言うようになってしまったのだろうか……。

人文主義の人は空っぽになってしまった。ぞっとするほど空っぽになってしまった。不死の感覚も認識も取っ払ってしまったからである。はたして自分は死なないと感じることなしに、真に人間らしくあれるだろうか。というか、そもそも人間と言えるだろうか……。おお、欧州風の人は押し潰され、それもすっかり圧縮され蔑まれ不具にされ、人間の殻だか断片だかに片付けられてしまった。無限や無窮に思いをはせるという感覚を綺麗さっぱり取っ払ってしまったからである。しかるに、人間は無限を感じずに生きられようか。無限を感じなければ霊魂のない物体と同然か、そこらへんの家畜と大差ない動物に成り下がってしまわないだろうか。

もちろんこんな逆説が許されるならばの話だが、あまりにも欧州の人文主義者が今生のことしか見ていないため、よほど動物のほうが無限性を感じたり願ったりしているのではないかと私が勘繰ってしまっただけなのかもしれない。人文主義にかぶれた人は、萎えて干からびて枯れて物質的になってしまった。ゆえに自国の哲学者を引き合いに出して「人は猿から生じた」などと主張するのも、形而上においては当然の結論であるし何も間違っていない。なにせ動物と同じ血統なのだから、道徳面でも動物と同じように振舞って何が悪い。このようにして、形而上で「わたしは動物や禽獣の類に属する生物だ」と自認した者は、その道徳や倫理においてもそれらと同類になったのである。

人文主義者による現代の裁判例を見てほしい。「罪や犯罪というものは、当人の置かれた社会層に否応なく左右されるものであり、当人の生まれつきの性質にもよる」と考える傾向が年々強まっていないだろうか。「どのみち人の内部には不死や永遠などありやしないのだから、どんな倫理もしょせん本能的欲求によるものでしかない」と捉えるようになったのである。そのような考え方の論理的帰結として、人文主義者は次第に祖先すなわち猿や禽獣と同じ倫理観を持つようになり、「homo homini lupus」(人類は互いに狼)という原則にのっとって生きるようになった。それ以外の道はなかった。なぜならば、人は死なないと感じることができて初めて、動物よりも高尚で立派な道徳を打ち立てられるからである。もしも不死も永遠の命も存在しないのだとしたら、「どうせ明日は死ぬ身なのだから、どんどん食べて飲め」コリント前 15:32 参照)という気になるだろう。

人文主義とは、もとより形而上における相対主義[7]である。そのため、人文主義に基づいて進歩した欧州では、やむなく倫理観まで相対主義に陥り、そこから無秩序や虚無主義ニヒリズムへ堕ちていった。人文主義者がいくら立派な倫理を唱えようとも、そんなのはしょせん無秩序や虚無主義から生まれた産物にすぎない。欧州の人文主義的進歩を突き詰めていけば、否応なく無秩序や虚無主義という終末的人生観に行きつくからである。これは単に思想の崩壊を意味するだけではない。とうぜん実生活でも無秩序や虚無主義となって現れ、欧州の人文主義的進歩そのものが音を立てて崩れていく形になった。われわれは、ヨーロッパ大陸が思想上でも生活上でも無秩序や虚無主義によって骨抜きにされていく姿を目撃している証人ではなかろうか。欧州の進歩から何か作り上げようとすると、どこをどういじっても結局のところ無秩序や虚無主義しか出てこないのである……。

死を打ち破りもせずに、進歩や人生の意味をやみくもに信じてそのために働くとしたら、それほど愚かなこともあるまい。どんなに前進してもやがてすべて無に帰すだけならば、いったい何のために進むのか。いくら世界中を調べ上げたり星座を見極めたり文化を守ったりしたとしても、いずれそれらと別れて老衰して消え失せるだけならば、何のために骨を折ったのか。人の前方に死が立ちはだかってその先が断たれているかぎり、本当の意味で進歩することはできない。万が一できたとしても、それは鬼哭啾啾とした死の粉砕機上における呪われた進歩でしかない。そんな進歩はとっとと滅ぼして、痕跡すら無くすべきだ。

カレル・チャペック(Karel Čapek. 1890 ~ 1938)というチェコスロバキアの作家は、このような欧州の人文主義的進歩による苦悶を痛感し、それを悲劇的戯曲『ロッサム万能ロボット会社』(R.U.R.)の中で上手に投げかけた。主人公アルクイスト建築士がヘレナと会話している場面である。

 

アルクイスト 「ナーナ(訳注。ヘレナの乳母)のところには祈祷書などなかったかい」

ヘレナ 「あるわ。とても分厚いのが一冊」

アルクイスト 「ならば、おそらく『諸事情の際の祈祷文』もそこに入っているだろうね。悪天候時の祈祷文とか、病気治癒のための祈祷文とか」

ヘレナ 「ええ。それに誘惑時の祈祷文もあったし、洪水時の祈祷文もあったわ」

アルクイスト 「ひょっとして、進歩から逃れるための祈祷文などなかっただろうか」

ヘレナ 「たしか、なかったわ」

アルクイスト 「そうか。残念だ……」

 

VIII 神人的進歩の基本原則

人文主義者とその進歩の対極をなすものこそ、ハリスティアニンとその神人的進歩である。神人的進歩には、次のような大原則がある。人間は、あくまでも神によって、神人によって真の人間となる。換言すると「人間は、あくまでも不死を得ることで真の人間となる。つまり、死を打ち破り、死因となる諸事や死性を克服することで真の人間となる」ということである。

ハリスティアニンは罪と悪を避けて克己していきながら、頭と心の中にある死と死性をも克服していく。それも、ただひとり死せざる神人ハリストスに体合[8]しながら克服していく。これゆえに、神人的進歩の基を築いた偉大な聖使徒パウェルも、全信徒に次のように命じたのである。「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、ハリストスと共に神の内に隠されているのです」コロサイ 3:2 ~ 3と。

われわれの意識や感覚も、主ハリストスによって不死のものとなる。頭と心を神人イイススと体合した者はすでに死ななくなり、この世にいながらにして不死の者となる。もはやその頭はハリストスの不死なる永遠の事柄を思い、その心はハリストスの不死なる永遠の命を感じている……。と言うと、あなたの目は驚いてこう質問しているかのようだ。「この呪われた死の粉砕機上で、どうやったらそんなことが達成できようか」と。ひとえに復活された主イイススを信じ、その信仰の原則にそって生活することで達成できる。

人は、復活された神人を心底から信じるなり不死の感覚を思い出し、自らの死を打ち破ったという手応えを感じる。と同時に、罪も悪も克服したという感覚、すなわち「復活した感覚」に貫かれる。すると内在的な喜びに満たされ、福音書にそって修行に励みたくなる。だからこそ喜んでハリストスの戒めを守り、感動を覚えながら人生行路を無から全有へ、死から不死へと歩んでいけるのだ。ちょうど小さな点が果てしなく広がっていくように、人も神人になってゆく。つまり全身全霊から聖なる無限性を放ち、わたしは死なない、この心身のどの部分も消滅することはない、と感じるようになる。かくして、人文主義の進歩で言われてきた「死は避けられぬものだ」という痛々しい原則は、神人的進歩の「不死こそ避けられぬものだ」という喜ばしい原則に取って代わられるのである。

神人的進歩に励むうえでは、守るべき神人的道徳[9]がある。その道徳を守ればこそ、神人に力強く導いてもらえるからである。善行とは、そもそも「ハリストスにつながる善行」に尽きるため、その点から逸れたら真の善行は成しえない。ゆえに福音書には「ハリストスにつながっていなければ、不死なる善行は一つも成しえない」という大原則があるヨハネ 15:5ヘブライ 13:8 参照)。ここでいう「不死なる善行」とは、至聖なる神人ハリストスから授かる善行を指し、かつ神人ハリストスに帰していく善行を指す。まさに永遠に変わらない善行である。いっぽう「ハリストスにつながらない善行」とは、無限でもなく無窮でもなく神のものでもない。つまり、不死なるものではない。不死こそ、ハリストスにつながる善行の性質である。ゆえにハリスティアニンたるもの、何を感じるにせよ思うにせよ行うにせよ実践するにせよ、そこに不死の性質があるかどうかを道徳基準とすべきなのである。

 

IX 完徳への道

「主ハリストスこそ、わがたましいたましい、わが命の命」と感じているとき、そこに不死がある。そう感じていれば、かぎりなく無限の性質が保障されるからである。そして、どこまでも果てしなく向上できるようになり、神へむかって際限なく道徳的に進歩できるようになる。無限無窮にして完全なるお方にむかって歩んでいるからである。ゆえに、「あなたがたの父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」マトフェイ 5:48という福音書の厳命も、「神のように完全になれ」という理にかなった命令であって驚くに値しない。神人ハリストスであればこそ、そのように要求する権限があったわけだ。ご自身のうちに「完全なる神」と「完全なる人」を示されたからである。つまり、神まで進歩しきった人間を体現され、神の純全性で完徳を帯びた人間を体現され、完全無欠な神と永久に体合した死なない人間を体現されたからである。

ハリスティアニンは思考においても行動においても罪や悪を克服しながら、神聖なる完徳の道を歩んでいく。善から善へ、小さなものから大きなものへ、大きなものから最大のものへと日々前進しつづける。片時も立ち止まったりぐずぐずしたりすることはない。いかなる停滞も属神的な低迷や膠着を、すなわち死を意味するかもしれないからである。日頃から清く考えて素朴に感じ、善いことを願って優しい言葉をかけ、そういう一つ一つをとおして復活へ、不死へ、永遠の命へと進歩してゆく。逆に罪深いことを想像して五感を汚し、悪いことを願って下品な言葉を吐くのなら、そういう一つ一つをとおして復活のない死へと堕ちていくロマ 5:16, 216:237:5 ~ 68:2ヤコブ 1:15 ~ 17 参照)

信徒はそのようにして罪と死を克服しながら、ハリストス教の進歩における三段階を上ってゆく。まずはハリストスのうちに生まれ、やがてハリストスのうちに変容し、ついにハリストスのうちに復活するイオアン 1:123:3ロマ 6:5コリンフ前 15:54コロサイ 3:1。ハリストスと共に復活することこそ、この闘いの最終目標である。この道では、ありとあらゆる苦難に耐えながら救主の戒めを守り、福音書の徳に励むことになる。信仰と希望と愛を抱き、祈って斎をしてへりくだり、慈善に励んで心を温柔にしようとする。それもこれも死者の復活に与るためであるフィリッピ 3:8 ~ 11。嘆く時も泣く時も祈る時も、考える時も感じる時も行動する時も、常に復活すべく邁進する……。

人間よ、もしあなたがすでに復活したかのように、すでに死を打ち破ったかのように、すでに永遠の命に入ったかのように思ったり感じたり行動したりするならば、神人的進歩の事業に加わってそれを創り上げていくことになるだろう。それに実際、もし心を尽くし、たましいを尽くし、思いを尽くして復活した主イイススを信じているのならば、すでに死を打ち破って永遠の命に入っていることになる。主ご自身が「わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得……、死から命へと移っている」イオアン 5:248:51とおっしゃったとおり、信じる者はこの地上にいながらにして、すでに不死の命へ移っている。

そう、主を信じているとき、あたかも心身に不死の「乳清」が注入されるようなものなのだ。まさに信仰をもって兄弟を愛しているとき、われわれは不死の命へ移っている。福音書にも「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです」イオアン一、3:14と書いてあるとおりである。

主ハリストスこそ、途中で途切れることのない唯一のであり、後で裏切られることのない唯一のであり、死で息絶えることのない唯一のである。だからこそ、主おひとりが永久に時空を超えて、全人類に「わたしは道であり、真実であり、命である」と宣告できたのであるイオアン 14:6。しかも復活して死に打ち勝った最初のお方として、まさに人類に不死と永遠の命を保障された唯一のお方として、ご自身のことを次のように宣告できたのである。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」イオアン 11:25 ~ 26と。

人間は、復活した神人を信じることで、ようやく人となり始める。罪と死から解放され、不死を感じるようになるからである。いっぽう罪を犯せば犯すほど、その闇の力にやられて不死の感覚が鈍り、いずれ麻痺して無感覚になり、どんなに頭や心を働かせても真の神を、つまり生きた神を捉えることができなくなる。そのような者は片端な人であり、一人前でない人であり、人文主義の人である。ひとことで言えば、人間に成りきっていない人である。しかるに、そういった人間を不死と永遠の命に目覚めさせるためにこそ、主ハリストスは降臨して復活して死に打ち勝たれたのである。なぜなら人は主の復活を目の当たりにして、麻痺していた不死の感覚を思い出して研ぎすませば、神と永遠の命を感じられるようになるからである。そして神と永遠の命を感じているうちに、現世と来世における人生の意味を見出すようになるからである。

教会とは、もとより神の作業場に他ならない。人はこの作業場で日々生まれ変わって活気づき、永遠に死なないという感覚や自覚を強めていく。現に、祈っているとたましいが死の壁を越えて神と一体にならないだろうか。慈憐を垂れたり斎をしたり優しく善良な心境であるとき、たしかに心が死を乗り越えてハリストスの真実に満ちた永遠の国に移っていないだろうか。自分自身に嘘をつくのはやめよう。われわれは、祈るたびに少しずつ内にある死を打ち負かし、福音書の徳を行うたびに少しずつ内にある死に打ち勝っている。その積み重ねによって死自体をも打ち破り、永遠の命が保障されるのである。

神人的進歩の道を歩んでいけば、必ずや神の道であられるハリストスがご同伴され、ご自身(神の真実)をとおして永遠の命へ、不死へと導いてくださる。しかも救主は、聖なる完徳という目標を設定されただけでなく、そこへ達するための聖なる力も授けてくださったペトル二、1:3 ~ 9 参照)。たしかに神人的進歩は果てしない道であるとはいえ、喜びと感嘆にあふれた道である。使徒も「兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい」と激励するコリンフ後 13:11。なぜならば「神の国は、飲み食いではなく、聖神によって与えられる義と平安と喜び」だからであるロマ 14:17

 

X おわりに(セルビア人はじめ南スラヴ民族の目指すもの)

人文主義的進歩の反対命題である神人的進歩は、わが国民に親しみやすく、その心にかけがえのないものである。かくも神人的進歩をわれわれに近づけてくれたのは、本邦の神人的進歩の基を築いた偉大な聖サワ[10]である。われわれは、聖サワの人格と行動のうちに、しかるべき民族意識や感覚を見届けることができる。そこに「真の進歩のための思想及び実践法」があるからである。そもそも聖サワにとって進歩とは何であったのか。死を打ち破ることに他ならなかった。つまり悪を打ち破り、罪を打ち破ることで不死を保障し、国民一人一人のたましいの不死及び国民全体の不死を保障することであった。言い換えれば、聖サワにとっての進歩とは、まさに「主ハリストスを見出して、主のうちに主によって主のために生きること」であり、そういう生き方で「自分のうちにある罪と死を克服し、周囲の人々の罪と死をも克服すること」だったのである。

死から不死へと向かい、人から神人へと向かう神人的進歩を体現するためには、福音書どおりに修行して自分自身を変えていくことだ。そういう修行をとおして死を打ち破り、たましいも思いも感覚も死ななくなるからである。神人的進歩の成功事例が見たければ、聖サワの人格を見よ。聖サワはハリストスへむかう修行をとおして、死すべき者から不死の者へと変わり、朽ちる者から朽ちない者へと変わり、聖人でない者から聖人へと変わった。聖サワにしてみれば、奇蹟をなさる主イイススこそ万事におけるすべてであった。そのたましいのすべてであり、その心のすべてであり、その人生のすべてであり、その同胞と国家のすべてであった。ハリストスなくしては、その人生も心もたましいも同胞もしょせん復活できない骸にすぎなかった。そのようにして聖サワは、本邦で初めてハリストスに献身して己を成聖し、死も悪も罪も闇も克服していく真の進歩の体現者となったのである。ゆえに、聖サワの人格や行動のうちに死はなく、むしろ聖サワにまつわるすべてのうちに聖なる不死と永遠性が行き渡っている。

聖サワは、福音書どおりに修行して罪と死を打ち破り、永遠に死なない者となった。だからこそ、死から命への道における「指導者、かつセルビア教会の建立者にして教師」となったのである。そして、いつの時代も本邦にかけがえのない偉大な国民的先導者として、人々を死から不死へ、現世の命から永世の命へと導いてきた。しかるに、われわれは、個人としても国民としても欧州の「文化の担い手」によって、絶えず人文主義的進歩をしつこく押し付けられてきた。そうやってじわじわと心の中の不死の感覚が奪われ、死すべき虫けらや動物と同等にされそうになってきたのである。しかしながら、われわれには聖サワがいる。神人的進歩における非の打ち所がない巨頭がいる。目に見えずとも夜を日に継いで祈りながら、われわれのたましいを永久に死なない霊に変えようとされ、この狂暴な死の粉砕機からハリストスの朽ちない永世の芳香へと導いておられる方がいる。まさに、あらゆる完徳と歓喜が打ちとけた永世へと導いておられる方がいる。

われわれは、つねに聖サワに見守られながら罪や死性と闘う者として、勝利から勝利へ、まさに罪への勝利から死への勝利へと日々突き進んでいこうではないか。そして、そうすればこそ、ひとえにそうすればこそ、この食人鬼たる死の粉砕機上において己の不死を現世でも来世でも保障できるのである。

 

[1] 1933 年に執筆された論文。底本はПреподобный Иустин (Попович). Философские пропасти. М.: Издательский Совет Русской Православной Церкви, 2004, стр. 32-60. ISBN 5-94625-082-5.

[2] 死穢にはじまる死生観のこと。日本では葬儀の際、お棺を祭壇に置き、葬儀後には「清めの塩」で穢れを祓う。いっぽう正教会では死穢という概念がないため、埋葬式ではお棺を聖堂中央(生者たちの間)に、足を至聖所に向けた状態(いずれ復活した時に神のほうを向いて立てるようにという意)で置き、参祷者は永眠者の遺体に別れの接吻をする。

[3] 正教徒は、どの国でも「イエス・キリスト」をギリシャ語風に「イイスス・ハリストス」と呼び、「クリスチャン」を「ハリスティアニン」と呼ぶ。以下、聖書の出典は基本的に正教会の呼称による。「マタイ」は「マトフェイ」、「ヨハネ」は「イオアン」など。

[4] 訳注。原文どおりの訳。つまり、自分自身が内面的に高めてきたものが永遠に残るか否かを問題視している。

[5] 訳注。使徒も「欲望がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生む」(ヤコブ 1:15)と述べているとおり、「慾と罪と死」は切っても切れない関係にある。ゆえに、慾を抱かず罪を犯さなければ、死(=永遠の死)は免れ得るのであり、慾を抱いて罪を犯してしまうからこそ永遠に死ぬことになる。この点から、慾及び慾から生じる悪行は「死の性質を帯びたもの」、すなわち「死性」という範疇に分類される。聖イウスチンは「ハリストスにむかって邁進していれば生命力に溢れ、自分の弱さ(すなわち慾と罪)を克服して不死を保障できる」と断言する。

[6] 訳注。感覚や経験を超えた存在者や原理を捉え、存在の根本(神や霊魂など)を考究する学問。人文主義者は、その形而上学において神や宗教を必要としない。すなわち、不死を必要としない。

[7] 訳注。神という「絶対的な主義」を欠いた思想は、おのずと相対主義である。人文主義者は、神ではなく人間自身を義の尺度とした。この点から、おのずと善悪の基準(倫理)も人間中心になり、ひいては無秩序と虚無主義をもたらした。

[8] 訳注。ハリストスと一致すること。ハリストスに結ばれること(正教用語)。

[9] 訳注。この世の道徳では要求されることのない高尚な道徳。行動はもとより心の動き(思いや考え)が精査される。まさに福音書の求める道徳を指す(マタイによる福音書第5章~第7章など参照)。

[10] セルビア正教会で最も敬愛されている大聖人(1174 頃~ 1236 年)。セルビア王国ネマニッチ朝の初代王ステファンの三男。父と共に、聖山アトスにヒランダル修道院を設立し、父の死後、兄たちの内戦を調停した。現在では世界遺産となったストゥデニツァ修道院にて後継の指導にあたり、セルビア正教会の設立に尽力した。聖サワの不朽体はオスマン帝国によってベオグラードで焼却されたものの、その焼却された場所の上に有名な聖サワ大聖堂が建てられた。

 

初出:「死の粉砕機上の進歩」尚絅学院大学紀要第88号

原文:Прогресс в мельнице смерти – преподобный Иустин (Попович), Челийский – читать, скачать

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