神父と信徒芸術家

神父と信徒芸術家

成聖者イグナティ・ブリャンチャニノフ
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人は、神を求めるように生まれついている。しかも自然観察することで神の御業を知り、自己省察することで神の似姿も観ることができる。しかし恩寵による至福を体験しなければ、精神が求めている恒常的至福を味わうことはない。その至福を味わいたければ、福音書の戒めを実践して善を「味わい、見る」ことが先決である。優秀な芸術家が福音書らしさを身につけたとき、天から霊感を受けて輝き、何を語るにしても歌うにしても描くにしても、そのすべてが聖なるわざとしてできるようになるだろう。

教会の聖歌には、人類共通の「痛悔と涙の心」に貫かれた聖歌もあれば、天国から借りてきたかのような「至福の状態」にある聖歌もある。まさに痛悔と涙で罪をまぎれもなく清めたとき、属神的な喜びが得られるのだ。芸術家たるもの、罪を清めておのが痛悔の涙を詠い、やがてその涙から得られた喜びも詠えるようになることが望ましい。

キーワード:正教、芸術、思いと心境、痛悔と涙、至福の状態

訳者まえがき

成聖者イグナティ・ブリャンチャニノフ(1807~1867)は、クロンシュタットの聖イオアン(1829~1908)や隠遁者聖フェオファン(1815~1894)とならんで19 世紀ロシアを代表する三大聖人の一人である。上流階級で当代一流の教育を受け、文豪プーシキンやクルィロフはじめ画家ブリューロフらとも交流を持ち、深い教養を身につけた求道者であった。その聖イグナティが、1833 年に皇帝に命じられてサンクトペテルブルク郊外にある聖セルギイ沿海修道院の院長となり、かつサンクトペテルブルク主教教区内の全修道院の管区長としても活躍していた掌院時代[1]、有名なロシアの大作曲家ミハイル・グリンカ(1804~1857)も、おなじ首都サンクトペテルブルクにて2年間ほど帝室礼拝堂聖歌隊の監督を務めていた(1837~1839)。その国家の中枢部で指導的立場にあった二人の職務からしても、二人の間に少なからず交流があったことは想像に難くない。

実際、サンクトペテルブルクのロシア国立図書館古文書部に保存されている手稿の山の中には、聖イグナティ・ブリャンチャニノフが書き残した「神父と信徒芸術家」という対話形式の論文がある[2]。その論文には、聖イグナティの研究家であったモスクワ神学大学教授・典院マルコ(ロズィンスキー。1939~1973)による以下の注釈が付されている[3]。

掌院イグナティは、教会芸術に関しても属神的体験に基づいた見解を持っていた。そしてグリンカと談話するたびに、ロシア正教会の聖歌はどうあるべきか説き聞かせていた。グリンカはこれぞ正鵠を射た指摘だと思い、ぜひその考えを文章にして紙に残してほしいと願い出た。そこで掌院イグナティは、あらかじめグリンカに口述してあった内容をまとめて、この『神父と信徒芸術家』という論文を書き上げたのである。 修道司祭マルコ(ロズィンスキー)による注。ロシア国立図書館(サンクトペテルブルク)古文書部、蔵書目録1000類、1924番、171号。147枚目(裏面)~153 枚目。ОР РНБ. Ф. 1000. 1924, 171. Л. 147 об. – 153.

 

神父と信徒芸術家

芸術家 お邪魔いたします。きょうはお伺いしたいことがあって参りました。ぜひ忌憚なきご忠言をいただければ幸いです。わたしは幼いころから美しいものに惹かれてきました。なぜなのかよく分からないのですが、何となく大いなるお方というか、高遠な何かを讃えずにいられなくて心から歌が溢れ出てくるのでした。結局、芸術を究めることに一生を捧げてまいりました。でもごらんのとおり、年甲斐もなくいまだに渇き求めてきたものが得られていません。心から讃えてきた高遠な何かは、やはりまだ遠いままなのです。どんなに目を凝らしてみても、まるで透きとおった雲の向こうにあるかのように、あるいは透明なベールの向こうにあるかのように捉えどころがなく、そのおぼろげな何かを讃えようとして心から歌がほとばしってくるのですが、自分でもなぜ歌がほとばしってくるのか理解できません。しいて言えば、まさに神に向かって歌を放ったときにのみ、心が満たされるということは分かってきた気がするのですが……。

 

神父 その最後に出てきた「神」という呼称からお話を始めましょう。そう、まさに神のみが、人間の属神的[4]な渇きを満たすことができるのです。いかんせん私たちは神を渇き求めるように生まれついていますし、それこそ神を希求せんがために造られた存在だからです。しかも自然界を観察すれば、ガラス越しに見るようにして造り主の存在が見えてきますし、自分自身の内面を観察すれば、まるで鏡に見るようにして造り主が見えてきます。そして、それらをとおして神を観ることもできるのです。

自然界をとおして神を観ていると、いかに神が全能で途方もなく知恵あるお方であることか分かってきます。そして、それが分かれば分かるほど神が偉大に見えてきて、大自然は小さなものに見えてきます。そもそも自然とはそういう途轍もない知識をもたらしてくれる媒体にすぎないからです。

いっぽう内面を観察しながら神を観ていると、もっと大きな成果が得られます。観察者は自分の内に神を見出したとき、その観察対象と溶け合って一体となります。すると、それまで自分は自立した存在だと思ってきたのに、自立どころかしょせん造られたものにすぎず、ほとんど受け身でしかあれないという現実に気づきます。その現実に気づくなり、むしろこれからは真に自存されるお方をやどす器になるか、もしくは神殿にでもなるべきではないかと自覚するのです。そういうお方を受け入れる使命を持って生まれてくるのが人間だからです。人は、ハリストス教(キリスト教)を学んでゆくことで、神をやどす神殿になるべきだという使命が分かり、さらに信仰生活を歩んでゆくことで、知でも心でも霊でも体でもこの使命を実感してゆくのです。

しかし何よりも深くこの使命を確信できるのは、恩寵による至福を体験したときです。というのも、いくら自然界や自分自身を観察していても、どうしても神しん゜[5]が求めている大いなる恒常的至福を味わえなくて満たされないからです。この完全な至福に満たされていないうちは、まだまだ心に欲求が湧いています。そもそも欲求が湧いている以上、満たされるわけがありませんよね。ですから、心がすっかり満たされるためには、すなわち至福を味わえるようにするためには、何ひとつ頭で考えず心で求めない状態になることが必要なのです。つまり、あらゆる思考も欲求も超越した状態になることが欠かせないのです。しかし、いくら自然観察や自己省察に励んでみても、このような精神状態は体験することも体得することもできません。自然界や人間の心をよく見てください。そこには薬物もあれば毒物もあり、善もあれば悪もありますよね。そのせいで、どんなに自然観察や自己省察に精を出したところで一向に至福を味わえないのです。なぜならば、至福というのは悪の微塵もない完全無欠な善を楽しむことだからです。

 

芸術家 でも、そのような理論を実践している人を見かけないのはなぜでしょうか。

 

神父 いつの時代でも、世間ではなかなかそのような実践者を見つけることはできませんでした。現代であれば、なおのこと見つけにくくなっています。それでも、ハリストス教の歴史を振り返ってみれば、このような理論を実践してきた人はいつの時代にもいましたし、現代でも実践している人はいますよ。たんに大衆が物質的繁栄ばかり求めがちだから、そういう人の存在が目に入らない上に、真に美しいものを見ても共感できず理解できず、その価値を見出せなくなっているだけのことなのです。現に、生まれつき才能に恵まれた人でも、その貴重な賜をどう活かすべきか分かっていませんし、どう才能を活かすべきか説明してくれる相手もいません。かてて加えて自然界にも毒があるように、人間のうちではとくに毒なものが本性を隠して着飾っているため、若い芸術家ほどその不健康な旨味につられて偽物に嵌まりやすく、本物っぽく見える悪にありったけの情熱を傾けてしまうのです。そして心身の力を使い果たした末に、何となく無意識のうちに幻滅してしまうわけです。これまでにも優秀な芸術家の大半が、こってりと人間の慾を描きあげてきました。歌手も画家も音楽家も、ありとあらゆるかたちで毒なものを描きあげてきました。与えられた能力のかぎりをつくして、哀れにも悪の混ざった美を描いて才能を伸ばしてきたのです。いっぽう善を描くのは苦手で、描いてみても色あせてわざとらしい代物が出来上がってしまうのでした。

 

芸術家 いやはや、痛いところを突かれましたね。たしかにどの芸術分野においても、慾や毒なものを表現するのにはうんと長けてきた一方で、おっしゃるように何か善いものを描こうとした途端、色あせてわざとらしくなってしまうのです。もしも善いものですらろくに描けないとしたら、聖なるものなど尚更でしょう。たとえば美術史の傑作であるラファエロの聖母像をご覧ください。どことなく恥じらいのある魅力的な風貌に仕上がっていますよね。でも処女は、どのような年齢に差し掛かったときに恥じらいを覚えるのでしたか。女性という役目を感じ始めたときですよね。しかし恥じらいというのは罪を覆い隠すものでこそあれ、聖性の輝きではありません。ボルトニャンスキーの聖歌「ヘルヴィムの歌」も同じような曲想ですし、ラシーヌの史劇「エステル」「アタリー」や、トマス・ア・ケンピスの著書『キリストに倣いて』[6]も同じ傾向があります。どれもこれも研ぎ澄まされた肉慾の香りがするのです。それなのに、大衆ときたらそういう作品を前にして涙を流したり祈ったりする始末……。とは言ってみたものの、われわれ芸術家としてはどうしたらよいのでしょう。わざとらしくなく徳や聖性をありのままに描き上げるためには、いったいどのような方法があるのでしょうか。

 

神父 ぜひとも人間の本質を突いている聖書を開いてみてください。そこには、人は心という宝庫を持っており、その宝庫の中にあるものしか取り出すことができない、と書いてあります。たしかに人間ってそういうものですよね。したがって、正真正銘の才能の持ち主であるならば、真に美しいものは神以外にはないと悟った上で、心の中から慾を取り除き、頭の中から偽りの教えを排除しなければなりません。そのうえで、福音書の戒めを学んで頭に叩き込み、福音書の戒めを実践して心を養うことです。そうすれば、福音書のいうとおりに考えたり感じたりできるようになるでしょう。そのように実践してつかんだ手応えは、努力の成果として心の宝庫に蓄えられていって永遠の財産となります。したがって、芸術家たるもの、そういう福音書らしさを身につけることが先決なのです(それには最初のうちは苦労や内面的闘いを伴いますが)。そしてついに身につけたとき、天から霊感を受けて見事に輝き、もはや何を語るにしても歌うにしても描くにしても、そのすべてが聖なるわざとしてできるようになるでしょう。

だいたいわたしたちは、この人体のことですらも、体中を罪から清めて恩寵で満たさないかぎり正しく理解できていませんよ。この体は、地上で生きている間のみ変化するわけではありません。死んだらピタッと変化が止まるわけではないのです。たしかに地上における変化の様子は(つまり受胎した瞬間から霊たましいが離れる時まで変化していく様子は)、この目で見て知っているつもりです。それでさえ、いつどこがどう変化しているのか気づいている人はほとんどいませんよね。しかも、万人の復活の日を迎えたら、すっかり変わり果てた体になって永久不変の世に入ることになるのです。その日、その人が永福にふさわしく生きてきた場合は体ごと属神的至福に入れますが、罪に仕えてきた場合は体ごと永遠の死に入ることになるのです。

ですから、属神的に考えたり感じたり表現したいと思うのであれば、知と心だけではなく体も含めて属神的になるようにすべきでしょう。ただしそのためには、単純に善について思いめぐらしたり正しい知識を持ったりするだけでは足りませんよ。それどころか自分自身のうちに善を宿らせ、善がほとばしってくるくらいでなければならないのです。なにせ善というのは実践しなければはっきり理解できないものですから、こればかりは実践するしかありません。しょせん理論など、どのように善を捉えたらよいか示しているだけだからです。だからこそ、戒めを実践してはっきり善を理解できたとき、その理解は、すでに善そのものだと言えるのです。なぜなら善とはそもそも福音書の理念であり、福音書の精神であり、神ご自身だからです。聖書も、実践をとおして理解すべきことを指して、「味わい、見よ」(聖詠33:9 /詩編 34:9)と呼びかけていますよね。つまり、人は属神的な手応えに基づいて、属神的に物事が見えるようになるのです。

 

芸術家 となると、いったいどのような思いや心境を抱いたときに、神にもよしとされる思いや心境だと言えるのでしょうか。つまり、芸術家として何を表現できるのか弁えておくために聞いておきたいのですが、たとえば分かりやすい具体例として、教会の聖歌にはどのような思いや心境が表現されているのでしょうか。

 

神父 そもそも属神的に物事が見えるようになったとき、人はどういう心境になると思いますか。そうです、限りある身として造られたものであることを痛感します。そして、自分の罪や堕落を目の当たりにしながら、いかに罪深い受造物であるか自覚します。そのような自覚に至ったとき、おのずと泣いて悔い改めたくなるものです。まさしく痛悔の思いと、涙の心境です。じつのところ罪深い状態にいる人がほとんどですよ。義人と言われている人でさえ、かなりひんぱんに微かな罪に陥っています。ただ義人たちは念入りに自己省察して人一倍強く罪深さを自認し、この広大な宇宙史における自分の小ささも清い知性でより明瞭に見抜いているため、さほど自己を省みることのない仲間よりもずっと深く痛悔と涙の心に徹しているだけのことなのです。したがって、痛悔や涙の心というものは、もとより全人類に共通した心境だと言えるでしょう。

さて、教会の聖歌を見てみましょう。この痛悔と涙の心に満ちた歌がたくさんありますよね。奉神礼にて何度も反復される「主、憐れめよ」という祈りなどは、その意味深さからいっても代表的な例と言えるでしょう。ここでは全人類がおのおの苦しみを担いながら、こぞって「主、憐れめよ」と祈って涙を流し、まさに牢屋にいる者も王位にある者もひとしく神に憐みを乞うているわけです。

とはいえ、どの聖歌も涙で貫かれているというわけではありませんよ。聖歌によっては、まるで天国から借用してきたかのような思いや心境に満ちた歌もあるわけです。現に、桁外れに崇高な聖歌の中には、物質を超えた観照を目の当たりにして知も心も途方に暮れてたたずんでいる精神状態も見受けられます。そのとき、人は感極まって心身ともに固唾を呑むしかないのですが、それはいかなる言葉よりも尊い絶句であり、賢明なる沈黙なのです。かくなる状態に至るためには、あらかじめ敬虔な生活を送って霊たましいを浄めて備えておかなければなりません。真に神に仕えていれば、神性がいきなり目の前に啓かれてきます。それは常識を超えたかたちで啓かれてくるため、この物質界にて物質的な言葉で説明しても肉の頭には理解できません。この感極まった絶句の状態は、神の宝座を囲む上級天使たちの状態、つまり炎のヘルヴィムや六翼のセラフィムの状態です。この上級天使たちは二翼で飛び回り、残りの四翼で顔と足を隠し「聖、聖、聖なるかな、主サワオフ」と叫びつづけています。何千年ものあいだ同じ一句を繰り返しているのも、ありとあらゆる言葉を超えきった精神状態にあるためです。つまり、絶句したまま言って叫んでいるわけです。そして高く飛びまわっては神の宝座の前に立ち、その光栄を目にしては顔を伏せて全身を隠しています。なにせ観ている対象があまりにも偉大すぎて、驚嘆のあまり相反する動きが同時に生じているのです。

ときおり、まだ地上の旅を歩んでいる間にこのような状態に至った人もいましたよ。大聖人といわれる人たちがそれです。いつか天使とともに味わうことになる来世の至福を、いち早く味わえたというわけです。しかも実体験したその至福の心境を、できるだけ教会の全信徒に伝えようとして書き残してくれました。その際、「驚嘆状態」「畏怖状態」「忘我状態」などと言い表しています。これぞ、神への畏怖心からくる敬虔さの極みでしょう。ちょうど目の前に神の偉大さが現出してきたときの心の状態であり、何ひとつ考えられなくなります。まさに聖預言者ダヴィドが「なんじの知識はわがために奇異なり、高尚なり、われこれを測るあたわず」[7]と謳い上げた、あの状態なのです。

聖体礼儀[8]では、この状態から借りてきた心境で「ヘルヴィムの歌」[9]という聖歌が詠われています。まさに上述した至福の状態を表していますね。また、聖祭品[10]の成聖以前に詠われる「安和の憐れみ、讃揚ほめあげの祭を」という聖歌なども、同じ心境で詠われるものです。そして、いよいよ聖祭品の成聖時には、最も深くこの心境で詠うべき歌が詠われます。そのとき、この聖歌[11]の意味するところにそっていえば、もはや何か言えるような状態ではなく……、何ひとつ考えられなくなっているのです。そこにあるのは、ただ驚嘆した絶句で悟りがたき神を讃えている聖歌のみ、あらゆる多弁や雄弁を退けた清い知性による神学のみ、聖体機密の前で途方に暮れながら全身全霊で畏れ捧げたてまつる感謝のみしかないのです。

こうして聖祭品が成聖された後で、神の母(マリヤ)への讃歌が詠われます。この歌を聴きながら、心は緊張状態から解かれます。ちょうど、かのモイセイ(モーセ)が雲や雷鳴を背にして山から下りてきたのと同じです。山の上で神からじかに律法を授かったモイセイは、山から広い平野に出てきたときには聖なる清い喜びを感じていました。そういう心境に満ち溢れているのが、この「常に福さいわいにして」という聖歌[12]です。この聖歌は、たまにこの箇所で詠われる他の聖歌と同様、神言かみことばの藉身[13]を仲介された神の母マリヤを謳い上げており、属神的な楽しみと歓喜に溢れています。なにせ神が人となってくださったおかげで、人間は以前よりもずっと神に近づきやすくなったのですよ。だからわたしたちは神が人となられたという福音を耳にするたびに、思わず嬉しくなるのです。さあ、このあたりでご質問への回答としておきましょうか。

 

芸術家 心に火がついて熱くなりました。これからは、神に献ささげるために歌や聖歌を作っていくつもりです。神父さん、どうか新しい道のりを祝福してください。

 

神父 どの人も道理を究めながら主に近づいて献身するよう、「人となられた主」から祝福を受けています。ゆえに、あなたもすでに主の祝福を受けているわけですから、何もあえてそれに付け加えるまでもないでしょう。私はただ主の祝福の証人にすぎません。とにかく欲深く生きるのだけは止めましょう。それこそ野獣と一緒に荒野でもさまよっているかのように、次から次へと慾を満たして肉的に生きるのを止めましょう。ぜひとも「痛悔と涙」という門をくぐって、ハリストスの牧場に入ることです。いま痛悔して涙を流しておけば、ゆくゆくは喜べるようになります。しかもこの世で息をしているうちに、この世ならぬ喜びに与るようになります。まさに心の中でまぎれもなく罪に打ち勝った時、そういう属神的な喜びに与れるのです。さあ、いまこそあなたの涙を詠いなさい。その涙によって、いつの日か喜びも詠い上げることができますように。そして私もその歌を聴いてご一緒に喜ばせてもらい、その歌とあなたのことを感謝して神を讃えることができますように。アミン。

 

訳者あとがき

このように聖イグナティと重ねた交流の結果、グリンカは教会聖歌「ヘルヴィムの歌」を作曲した(1837 頃)。時期としては、ちょうど傑作オペラ「皇帝に捧げし命」(1836)を発表した頃である。グリンカの「ヘルヴィムの歌」は日本ではあまり知られていないが、実際にネット上でも数多くの演奏動画を観ることができる[14] 。動画を鑑賞すれば明らかなように、この聖歌は本稿でいわれている「天国から借用してきたような至福の状態」を、グリンカなりに見事に表現した出来栄えとなっていると言えるだろう。

以上のような歴史的背景は、ロシア音楽やロシア文化を理解する上で欠かせない。その真髄にはつねに正教がある― それがロシアであり、ロシア人なのである。ゆえにロシア音楽を演奏するときには、そういう属神的な縦軸を持っていないと嵌まらない。「痛悔」の深みから「至福」の高みまで(そしてそれらはしばしば同一の状態でもあるのだが)、いわゆる「自己表現」とは異なる次元の芸術が息づいているからである。

本稿は、かなり高度な内容であることは否めない。題名の示すとおり、ある程度求道心のある芸術家に対して人間の本質的課題を述べたものとなっている。大聖人でなければ到達できないような至福を、一般信徒が同じレベルで味わえるわけがない。それでも芸術家にとって、そして地上を旅するすべての人にとって、鑑として仰ぐことのできる理想があるのとないのとでは雲泥の差である。事実、だれもが自分にできる範囲で福音書の戒めにそって生き、かくも崇高なる聖体礼儀に与ることで、恩寵によってそれなりの至福を味わう可能性は開かれている。そして、だれもが死後、ついに現実として「何か」にぶち当たるという可能性も開かれている。聖イグナティは、本稿でも「痛悔と涙」に徹するよう促している。

本稿は Полное собрание творений и писем святителя Игнатия Брянчанинова. В 8-ми томах. Том 7. «НовоеНебо»(『成聖者イグナティ・ブリャンチャニノフ全集(全8巻)』第7巻、ノーヴォエ・ニェボ出版、2017年、614~618 頁)を底本とした。

 

注

[1] 「掌院」とは、正教会の修道士のみが受け持つことのできる位階の一つで、おもに修道院の院長を務める。聖職を担うことになった修道士は「修道輔祭」を経てから「修道司祭」へ叙聖され、その後、教会全体の指導的立場に任命されるにつれて「典院」を経て「掌院」に昇叙され、最後は「主教」に叙聖される。

[2] Игнатий (Брянчанинов) святитель. Полное собрание творений Т. 4, М.: Паломник, 2002. стр. 503.(『成聖者イグナティ(ブリャンチャニノフ)著作全集』第4巻、モスクワ、パロムニク出版、2002年、503頁)。

[3] 原文は以下のとおり。В продолжительных собеседованиях о духе и характере православно-церковно-русского пения архимандрит Игнатий передал М. И. Глинке свои духовно-опытные воззрения по этому предмету. Глинка, сознавая истинность наблюдений и замечаний Архимандрита, просил его изложить эти мысли на бумаге, что Архимандрит и исполнил, написав статью, озаглавленную им: «Христианский пастырь и христианин художник», в которой изложил все, что предварительно передал устно Глинке. – Примеч. иеромонаха Марка (Лозинского).

[4] 訳注。「属神的」とは、一般的に用いられている「霊的」とほぼ同義であるが、微妙に異なる。正教においては、人間は「体」「霊たましい」「神しん゜」から構成されている。「体」と「霊たましい」は人間と動物に共通するものだが、「神゜」は人間にしかない。「神゜」とは、善悪を判断するところ、まさに「良心の働き」に関わる部分である。よって聖師父の文脈で「属神」ないし「属神的」というとき、それは人間のもっとも人間たる根本的部分を指している。

[5] 訳注。脚注4参照。

[6] 原注。『キリストに倣いて』は、福音書もどきの恋愛小説にすぎない。愚かにもこの本を「第二の福音書」などと高評価する人もいるが、それは聖なる恩寵と研ぎ澄まされた肉慾の違いを区別できていないだけである。

[7] 聖詠138:6 /詩編139:6。共同訳は「その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない」。

[8] 訳注。ハリストスの尊体血をいただく正教会の儀礼。カトリックでいう「ミサ」のこと。

[9] 訳注。聖体礼儀において、大聖入の際に(最も神秘的な箇所に入っていく際に)詠われる聖歌。歌詞は以下の通り。「われら奥密にしてヘルヴィムをかたどり、聖三の歌を生命いのちを施す三者に歌いて、いまこの世の慮りをことごとく退くべし。神使の軍の見えずして荷にない奉る万有の王を戴かんとするによる。アリルイヤ、アリルイヤ、アリルイヤ」。

[10] 訳注。パンとぶどう酒のこと。これが聖体礼儀の中で成聖されて(聖変化して)、ハリストスの尊体血となる。

[11] 訳注。歌詞は「主や、なんじを崇め歌い、なんじをほめ揚げ、なんじに感謝し、わが神やなんじに祈る、なんじに祈る」。

[12] 訳注。歌詞は「つねに福さいわいにしてまったく玷きずなき生神女、わが神の母なるなんじを福さいわいなりとと稱となうるは、まことに當たれり。ヘルヴィムより尊くセラフィムに並びなく栄え、貞操みさおを壊やぶらずして神言かみことばを生みし、じつの生神女たるなんじを崇め讃ほむ」。

[13] 訳注。「受肉」の正教用語。「神が人となられたこと」を意味する。

[14] 日本語でも検索可能だが、「Glinka Cherubic Hymn」「Глинка Херувимская песнь」で検索すると量が多い。

 

初出:「神父と信徒芸術家」尚絅学院大学紀要第85号

原題:Христианский пастырь и христианин художник

原文:Литературно-поэтические сочинения. Заметки о творчестве – святитель Игнатий (Брянчанинов) – читать, скачать

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