結婚とは、人が救われてゆくための道である。教会の理念に鑑みれば、どう見ても結婚の主目的は「救い」以外にはないことを認めるしかない。つまり、幸せになるためとか、子供を産むためとか、それこそ生涯の友を得るために結婚するのではない。それらは後からついてくるものでしかない。
結婚は人生の重大な出来事である。それゆえに、教会でも祝福されて守られている。だが、初代から「どうも結婚は厭わしいものだ。処女童貞ほど清くないので結婚しないほうがいい」と説く一派(もちろん異端者)も教会内にあったことは否めない。しかしながら、聖使徒パウェルは「爾等のうちには婚姻を厭い、結婚するなかれと言う者あり。しかるに婚姻は衆のうちに貴くして、牀は玷なかるべし」(エウレイ 13 : 4参照)と反駁する。
教会では「聖使徒規則」や「全地公会規則」に明記してあるとおり、婚姻を厭うような見解を初代から強く否定してきた。にもかかわらず、ある公会では司祭の妻帯について議論が沸騰するほどの大問題となったうえ、今もなおカトリックでは独身者しか聖職者になれず、妻帯は許されていない。そう、その公会では、まさに司祭の妻帯の是非について議論が分かれたのであった。「妻帯者は童貞ほど清くなく、しかるべき属神的生活を送れない以上、聖職などもってのほかだろう」と考える人たちがいたからである。
もちろん正教会の師父は、このような誤った異端的見解を受け入れなかった。たとえば克肖者聖パフヌティ(訳注。4世紀。上エジプト・テーバイス地方タイス町の主教)は、自分自身に厳しい苦行者であったにもかかわらず、妻帯司祭の立場を弁護し、誠実な夫婦生活によって聖職が汚されることはない、と力説した。それ以降、正教会では聖職者の妻帯が認められてきた。要するに、教会では夫婦生活を祝福し、救いへの道だと位置づけてきたのである。
人は、何のために結婚という大きな節目を迎えるのか。その究極の目的は何か。ひとえに救われるためである。この点を、じっくり理解しなければならない。この土台のうえに夫婦関係を築くべきだからである。出発点が間違っていると、何をやってもうまくいかないからである。実際、私のつたない人生経験で学んだことがある。ただし一度も結婚したことがない以上、言わずもがな実体験で学んだことではない。これは多くの人から悩みを聴き、特に家族問題で窮地に陥った信徒を見てきた経験から述べるのだが、どうも夫婦関係で悩んでいる人ほど「救われるために夫婦になった」と思っていないようである。と言うと、こう反論する人がいるかもしれない。
「いや、だって幸せになりたくて結婚したんですよ。ずっと愛されていたかったし、喧嘩のない家庭を築きたかった。帰宅したら、家庭という波止場で安らぎたかっただけです」と。ふむふむ、よく聞く台詞である。
実際、そう思うのも無理もないし、人間らしい気持ちである。しかし、本当にそう思うべきなのだろうか。そういう幸福主義の思想にハリスティアニンが冒されている現状を示しておくために、修道生活の中から例を挙げておこう。
最近の若者は、修道士を志す時にこんなふうに言うことがある。
「修道士になりたいんです。いい修道院に入って、すぐれた修道士や神父や長老と関わりたい。聖人のように賢く、怒鳴ることも不機嫌になることもなく、今なすべきことを教えてくれる優しい長老のもとで学びたいんです。すてきな修道院で立地条件も良く、夢のような場所へ……」と。
そして、そういう気持ちで修道院に入っていく。わたし自身も修道士になりかけの頃はそうだった。ただ言わずもがな、後々それが的外れであったことを思い知った。現に『砂漠の師父の言葉』を読めば、真逆の世界観が見て取れる。たとえば、ある青年が師父のもとにやってきて、こう尋ねたという。
「救われるためにはどこへ行ったらよいでしょうか」。
すなわち「修道士になるにはどこへ行くべきでしょうか」と訊ねたわけだ。師父は次のように答えた。
「苦労のあるところへ行きなさい。救われたいのであれば、楽に過ごせるところへ行ってはならない。おしゃれに楽しく快適に過ごしたいのであれば、楽に過ごせるところへ行ってもよいだろう。しかし、本当に救われたいのであれば、茨の道で苦労を背負っていくしかない」と。
また、ある青年は師父ザハリヤにこう訊いた。
「共住修道院で暮らしながら救われるためには、どう振舞ったらよいでしょうか」と。
師父ザハリヤは修道帽を脱いで地面に叩きつけ、踏みつぶしながらこう答えたという。
「こうすれば、救われるだろう。この修道帽のように、人々に踏みつぶされるような人間になれば、救われるだろう」と。
決して「温柔で怒らない長老のところへ行き、どんな願いも叶えてもらいなさい」とは言わなかったのだ。到底そんな考えが師父たちの頭に浮かぶことはなかった。
そうそう、わたしが聖山アトスに住んでいた頃の話である。ある掌院(修道院長)がアテネから訪ねてきて、黙修できそうな僧庵を探していた。ひとけのないカトゥナキヤ隠遁所で、エフレム長老にこう訊いていた。
「このあたりで修行できそうな僧庵はありますか。黙修に励みたいのです」
エフレム長老は答えた。
「たくさんありますよ」
もしカトゥナキヤ隠遁所やカルリヤ隠遁所に行ったことのある読者の方がいれば、当地に僧庵がたくさんあるのはご存じであろう。
掌院は重ねて訊いた。
「その、水が手に入るような僧庵がいいのです」
「まあ、そういう僧庵もある」
「それに、じめじめしてないところがいいのです。上り下りのきつい山頂のほうではなく、洞窟内でも絶壁の下でもなくて……」
エフレム長老は答えた。
「神父さん、どうぞアテネにお帰りなされ。カトゥナキヤ隠遁所では暮らせませんよ。ここは労苦を負うべき場所であり、快適な場所ではないのです」と。
以上は修道界の話だが、結婚生活においても同じことが言えよう。ハリスティアニンは結婚する時、救いを目的としなければならない。ここでいう「救い」とは、つまりハリストスを誰よりも愛し、ハリストスに結ばれ、どこまでも属神的にハリストスに近づいてゆく上昇の道を指す。結婚するにあたっては、次のように考えることだ。「さあ、いよいよ結婚だ。これからの結婚生活では、救われるように生きていくぞ」と。
そういえば、あるとき長老パイシイのもとに青年たちがやってきてこう懇願したという。
「神父さん、どうかいいお嫁さんをもらえるように祈ってください。今、いい子を探しているのです」と。
長老は答えた。
「何を言うのだい。そんなことしたら、問題ある子はどうなっちゃうの。みんなしていい子ばかり探していたら、問題ある子はどうなりますか」
長老は続けた。
「問題ある子は塩漬けにして、缶詰にでも閉じこめるの? イワシの缶詰みたく閉じこめて永久保存でもする気ですか。問題ある子をお嫁さんにできる若者もいなくちゃね!」
そう言ってさらに続けた。
「いいですか、皆さん勘違いしているのです。間違った考えに基づいて結婚しようとしている」と。
いい子を娶りたい、と思うのは構わない。それが良妻じゃなかったと判明したとき別に驚くべき不幸ではなかったとしても、まあ、そう願ってしまう気持ちは分かる。ただ、その願いを叶えようとするのは間違っている。なぜならば、幸福主義による結婚観で探し求めているからである。「とにかく楽しく暮らすために結婚したいんです。救いなんてどうでもいい」と宣言しているようなものだからだ。すなわち、救われるためでもなければハリストスと結ばれるためでもなく、ひたすら快適な生活だけを渇き求めているからだ。そのせいで、この控えめで大人しかった女性信徒が、結婚後にそれほど大人しくも控えめでもなく、淑徳がないどころか欠点ばかりなのを目にしたとき、そんなのは誰にでもある欠点にすぎないのに、夫婦生活がしんどくなってこう言い出すのである。「こんなはずじゃなかった。こんなにもがき苦しんで、来る日も来る日もガミガミ言われるために結婚したんじゃない!」と。逆に妻の側だったら「こんなにもグズグズして頼りない人だったなんて!」となるのである。
そう、どれもこれも人間臭い話である。しかし、とことんまで突き詰めて考えてみると、どうやらこういった不愉快なこともある環境下で生きていくことこそ、救われるための条件なのである。しかも、お相手を見誤ったことさえ属神的に捉えるならば、それすらも神の摂理ではなかったのか。よりによって結婚ともあろう重大事において、御旨が及んでいないわけがあろうか。
わたしには、大学卒業後にも親友として関わりつづけた同級生が数名いた。何年か歳月が流れ、すでに新隠遁所で暮らしていたある日のことである。レモンの木によじ登ってレモンを取ろうとしていたら、向こうから修道士がやってきてこう呼びかけてきた。
「ねえ、君のことを探している人がいるよ」
わたしは答えた。
「なに、木から降りろって言うのかい? むしろこっちに来てもらってよ」
その人はやってきた。見ると、白髪混じりの髭を生やし、げっそりやつれて虚ろな目をした若者である。
「どなたですか」と訊いてみた。
その人は答えた。
「え? 分からないの? この声を聴いても思い出せないのかい?」
「ううん、どうも思い出せないよ」
「パナヨトだってば。同級生じゃないか」
「おお、パナヨト君か、しかし、どうしてそんな痩せこけてしまったの? 病気でもしたの?」
「いやいや、結婚しただけさ」
こちらとしては、てっきり病気でもしたのかと思ったのである。慰めたくて言葉を継いだ。
「そいつは失敬。すっかり聖人の不朽体みたいな見栄えになっちゃったものだからさ……」
実際、パナヨト君は白髪混じりで肌もガサガサ、息をするのもやっとという感じであった。われわれの同級生と結婚したという。
「まあ、どこから話したらいいかな、神父。○○ちゃんを覚えているかい?」
「ああ、うちらの同級生だね、覚えているよ」
「やつにすっかりやられちまったのさ!」
そうか……。もっとも聖山アトスでは、すぐにパナヨト君に正道を示せる神父たちがいた。
「そんな夫婦関係では、ずっと苦労することになるだろう。ずいぶん変わった相手だからね。君自身にも問題があるし、奥さんにも問題がある。で、お互いに苦しめ合っている。きっと奥さんも悩んでいることだろう。ただ、君自身がこの夫婦関係を属神的観点から捉えることができれば、今の逆境の中にも宝を見出せる。まさに正しく困難に向き合うことさえできれば、その逆境も、夫婦生活全般からくる苦労も、きっと救いへのバネとなるに違いない」と。
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