(第1部はこちら)
どうか過ちを犯さないでほしい。相手を正そうとしてはならない。夫婦間で相手を正そうとするのは大きな過ちである。
修道生活でも同じである。修道院に入ったら周囲を正そうとしてはならない。それは許されぬ行為であり、長老や修道士たちを正そうとしてはいけないのだ。修道院では、あなた自身が正しくなるべきであって、そこにいる人や修道院のあり方を正すのではない。「だいたいさあ、ここに住んでいる修道士たちは長老も含めて、もうすこし親切で温厚で気が利くべきじゃないのか」などと思ったが最後、これまでの努力は水の泡となる。いずれそこから出ていく羽目になるだろう。
それと同じく、夫婦間でも相手をこうしたいと思ったが最後、二つのうちいずれかの状況に陥る。伴侶が人が良すぎて気も弱く、単に優しい人だった場合、あなたが伴侶を苦しめることになる。やがて伴侶は息が詰まって音を上げ、「もぬけの殻」になってしまうだろう。逆に、伴侶がそういう人ではなかった場合、二人の間に喧嘩が絶えることはない。
夫婦間では、とにかく自分自身を正すに尽きる。ひたすら自分自身を正すしかない。ちょうど師父たちも教えたとおりである。「相手には正しく向き合いなさい。そうすれば、相手が変わらなくても、あなたが変わる。たとい変わるべきことを理解できない相手でも、その相手にどう接したらよいかが見えてくる」と。
以前、わたし自身も「親が分かってくれないんです。全然話が通じなくて」と嘆いたことがある。そのとき、聴悔神父だった長老がこう教えてくれた。「大丈夫。むしろ君のほうから親御さんを理解してあげなさい。理解してもらえないなら、こっちから理解してあげなさい。そうすれば、問題は解決する」と。実際、そのとおりなのだ。われわれは相手を理解したとき、すでに理解してもらいたいと思わなくなる。
聖人伝を読むと、古代から現代までの聖人の生き様を知ることができる。ぜひカトゥナキヤの長老エフレム師(1912~1998)の聖人伝を読んでいただきたい。暴君も暴君といえる本物の暴君なる長老のもとで、42年間も過ごした現代の聖人である。
この聖人が仕えていた長老は、どの修道士も 15~20分もすれば耐えきれなくなって逃げ出したほどの暴君であった。わが聴悔神父も、「彼のもとで我慢できたのはせいぜい 30分だった。30分後、皆で袂を連ねて逃げ出したのさ」と語っていた。彼と過ごせる人は誰一人としていなかった。それほど気難しい長老だったのである。
そのうえ、もともとエフレム師が選んでついた長老でもなかった。最初についた長老が一年後に永眠してしまったため、その後を引き継いだのが彼なのであった。それはそれは心の病んだ暴君で、悪魔的エネルギーを放つ長老であった。エフレム師は、20歳のときに最初の長老を亡くしたため、その後 42年もこの新しい長老のもとで、このひどく気難しい長老のもとで聴従しつづけたのである。どれほど気難しい長老であったかは、読者の方に衝撃が強すぎるので伏せておく。
エフレム師も、何度も耐えきれなくなって逃げ出そうとしたのだが、いざ逃げ出そうとするたびに恩寵に引き留められたという。なにせ捧神者と言われるほどの聖人だったので、まるで友と語らうかのように大胆に神と対話できていた。にもかかわらず、そのたっての願いは神に聞き入れられず、42年間も苦しむままにされたのである。
42年間も仕えた相手であった長老ニキフォルは、晩年には理性のかけらすら失ってしまった。そんな惨状で3~4年もの月日が流れたのだから、エフレム師の苦しみようは半端なかった。そして、ついに長老ニキフォルが永眠して埋葬された日のことである。ご遺体を墓に収める前に(俗世では遺体に接吻するか知らないが、聖山アトスでは長老の永眠後、墓に入れる前に弟子らが遺体に近づいて最期の祝福と赦しを乞う)、エフレム師も歩み寄って遺体に叩拝した。
と、その時である。遺体に叩拝した瞬間、心の中で神の声を聴いたのだ。「これまでしてきたことは(つまり長老ニキフォルのもとに居残ったことは)御旨であった」と。エフレム師は思わず神に言い返した。
「43年間も祈って『御旨を教えてください』と訊いてきたのに、一度も教えてくれなかったじゃありませんか。なぜ 43年も経った今、この瞬間におっしゃるのですか。長老も亡くなった今、いったい何ができましょう。もしも長老を見捨ててとっくに逃げ出していたら、どうなっていたのですか」と。
すると「もしも長老を見捨てて逃げ出していたら、おぬしは自滅していたであろう」という声が脳裏で響いたという。
お分かりだろうか。エフレム師は、笑顔あふれる毎日を過ごしてきたからではなく、さんざん辛酸を嘗めて粉骨砕身した後に、成聖されて救いに与ったのである。残念ながら、救いの業とはそういうものなのだ。
十字架を乗り越えなければ、復活はない。陥罪後に人性が病んで堕落のうちに腐りつづけている人類は、十字架を背負わなければ救われることはない。陥罪によるこの病をかなぐり捨てるには、十字架に昇るしかないのだ。ひたすらハリストスの足跡にそって歩まねばならない。さもなくば、つまり、この道を歩むことに抵抗するならば(むろんそうする自由はあるのだが)、十字架に掛けられたハリストスの弟子になることはできない。なぜならば、ハリストスがすすんで十字架に昇られた以上、そして十字架によって全世界に喜びがもたらされた以上、救われたければ自分もすすんで十字架に昇るしかないからだ。自分の十字架に昇って苦しみを乗り越えたとき、大いなる喜びに満たされることだろう。
かといって、奥さんにむかって「なるほど、ここに君という処刑人がいるおかげで成聖されるのか。果報者じゃ」などと口走ってはならぬ。そうではなくて、思いやりと正しい結婚観をもって家庭を営み、修行して慾を断って克己し、「相手を生かすために自分が死ぬ」べきなのだ。
ある日のことである。離婚したいという母親が訪ねてきた。もう旦那を愛していないし、旦那からも愛されていない、という。
「愛していない人と暮らすことはできません」
「なるほど。でもお子さんたちはどうするの」
「子供なんてどうにでもなるでしょう。あたしの将来はどうなるのです。こんな夫婦関係でどうやって生きていけと言うのですか」
わたしは答えた。
「だれが夫婦関係で生きていけと言いましたか」
そもそも人は、夫婦関係で生きていくのではない。夫婦関係においては、生きていくのではなく死ぬのである。生きるために、夫婦生活という墓場で死ぬのである。これは修道士になる時と同じである。あなたは生きようとして修道院に入るのではない。死のうとして修道院に入るのである。実際、われわれは受洗時に「ハリストスによって洗を受けし者は、彼の死において洗を受けたり」と歌っているではないか。ハリストスによって洗を受けた者が、ハリストスの死において受洗した身を忘れられるものか。ひとたび死において受洗した身である以上、もはやハリストスと共に葬られたわけだ。それもこれもハリストスが御父の光栄によって復活されたように、われわれも新しい人生を歩むためである(ロマ 6 : 3~4)。
ハリスティアニンであるということは、「十字架と死を生きる」ということである。よって正教徒たるもの、古い人として死に、新しい人として生まれ変わることだ。いつか新しい人になれたとき、何もかも素晴らしいことを見届けるだろう。
そもそも、われわれの前で悪い人など一人もいない。悪鬼でさえ悪くない。聖人は、悪鬼をも侮辱しないようにしたくらいである。長老パイシイは、悪鬼を侮辱しないよう「悪魔」と呼ばなかった。そう、ある日われわれが悪魔を「悪魔」と呼んだ時、長老はこう言ったのだ。
「まあ、そう呼ぶなよ。それじゃ罵っているようなものじゃないか。そんなふうに呼ぶのはやめよう。かわいそうだし」
「じゃ、なんて呼んだらいいのですか」
「コダテンちゃん(小堕天使、の意)、と呼ぼうよ。コグマちゃん、とでも呼ぶように……」
「さんざん苦しめられているというのに、コダテンちゃん、などと呼ぶんですか?……」
長老は、そう言われても「悪魔」と呼ぼうとしなかった。侮辱してしまう気がしたからである。そして
「君自身も悪魔呼ばわりされたら、どう思う?」と訊いてきた。
これにはもう答えるまでもなかったが、どう見ても奴は本物の悪魔じゃないか。それでも、長老は一度も「悪魔」とは呼ばなかった。また、どんな人のことも悪者と思うことはなかった。
人は、心身を清めて向上し、ついにハリストスにおける完徳に至ると、もはや周囲のすべてが変容していく。どんなにしんどかった夫婦生活にも、神の国が現われる。神がそうされるからである。だからこそ、われわれは婚配機密で致命者(殉教者)への讃詞を歌うのである。「聖なる致命者、善く難を受けて栄冠を冠りし者や……」と。そして、若い新郎新婦の頭に「致命」の栄冠を被せるのである。結婚して(古き人として)死ねばこそ、神の国へ至るからだ。結婚生活とは、まさに致命の道だからである。
伴侶と暮らしながら救われる人は大勢いる。そういう人たちのことを書いた聖人伝は無いかもしれないが、事実として、今どきの修道士よりも優れた妻帯者はいる。この事実は、われわれ修道士も全員知っている。
たとえばだが、「エフレム師は暴君的長老と共に生きた」と言えるだろう。それでもエフレム師は神の恩寵に守られていたし、祈ることもできたし、恵まれたことに(有名な)黙修者イオシフ長老の近くに住んでいた。いっぽう長老ニキフォルの何倍もひどい暴君的主人と暮らしてきた奥さんはどうか。それも 42年ではなく 60年ものあいだ、ただの老人と暮らしてきたわけではなく、昼夜を問わず彼女を殴りつけ、さらには殺しかねない夫と暮らしてきた奥さんはどうか。そういう旦那の八つ当たりをハリストスへの愛ゆえにすべて耐え抜いた奥さんは、エフレム師のレベルに、いや、もしかするとエフレム師以上のレベルに達していないだろうか。
その奥さんのような生涯は書き残されていないから知られていないかもしれないが、実際に世間には苦難や十字架が溢れている。そこに重病の子を育てている親がいる。あちらに旦那に虐げられている奥さんがいる。しかも、どれだけたくさんいることか! そういう話は世間にごまんとあり、われわれも毎日のように見聞きしている。もっとも、そのような苦労人は有名ではない。ただ書いてくれる人がいないだけである。修道士であれば他の修道士が書いてくれるのだが、どこに一般人の生涯を書いてくれる人がいようか。
やはり妻帯者よりも修道士のほうが多く救われるというのは違うだろう。だいいち修道士のほうが数が少ない。今、キプロス島には何人修道士がいるだろうか。100人といったところか。一般市民は 70万人である。これほどの大差である。たった100人の修道士しか救われないなんて、いくら何でもそんなことはなかろう。修道士以外に、どれだけ多くの人が救われることだろう。
実際、夫婦として添い遂げてゆくのは克己の道である。最も幸せな夫婦であろうともそれは変わらない。夫婦関係が続いているということは、すなわち、あなたが自分自身を乗り越えているということだ。
たとえば、毎日へとへとになるまで働いているお父さんがいる。それも、とび職とか鍛冶屋だったら太陽の下で汗を流し、一日50リラほど稼いで家に帰ってくる。すると、子供達が取り囲んできておねだりする。長男は10リラ、次男は20リラ、長女は30リラという具合に、真っ黒になるまで耐えに耐えて稼いできたお金が全額子供に取られてしまう。この父親は、子供たちがワクワクする効果音付きおもちゃを買えるよう、血を流して稼いだお金を分け与えたわけだ。それにより、自分自身を乗り越えなかっただろうか。自分の血を分け与えなかっただろうか。これこそ、自己犠牲ではないか。
質問 「なぜハリスティアニンでない人たちの人生はバラ色に見えるのに、ハリスティアニンは苦しんで生きなければならないのでしょうか」
回答「どうして信徒のほうが苦しく見えてしまうのですか。むしろ信徒のほうが楽なのではありませんか。だって壁にぶち当たったときにハリストスに寄りかかることができますよね。希望をもっていない人は何に寄りかかったらよいのでしょう。祈ることができない人、来世の命を知らない人、ハリストスのいない人生を歩んでいる人は、壁にぶち当たったときに何に寄りかかるのでしょう。こっぴどい目に遭ったり災難に見舞われたりしたとき、打ちかえす抵抗力のあるハリストスがいなかったら、どのようにして耐えるのでしょう。だから、信仰のない人は毒舌を浴びるなり毒舌で返したり、凶行に及んだり自殺したりして自滅していきますよね。人間というのは一人きりでは耐えきれないからです。その事実を示す体験談があるので紹介しておきましょう。
教会では、若い人を埋葬することもあるのですが、両親が信徒ですと心を痛めつつも信仰が滲み出てきます。2年前、リマソールにて青年を埋葬しました。はるばる新婦と連れ立って出向いた新婚旅行先で、25日後に亡くなった若者でした。遺体は、つい先日婚配機密を挙げた聖堂まで運ばれてきました。せっかくなので結婚式で着た礼服をあつらえて葬りました。ほんの数日前に夫になったばかりの新郎でした。両親は敬虔な信徒でした。集まった弔問者たちは不幸の渦中にいる両親を、打ちひしがれつつも希望をもつ人たちとして、心に揺るぎない抵抗力を持つ人として眺めていました。
数日後、またもや違う青年の埋葬式がありました。今度は、残念ながら教会には縁遠かった両親でした。そのため、そのとき起こった出来事をここで話すのも憚れます。われわれはもう少しでぼこぼこにされるところでした。つまり、母親は聖職者に手を出さないよう押さえつけられていたのです。息子が死んだのは司祭らのせいだ、と思いこんでいたからです。もちろん、悲痛のあまり我を失ってしまっただけの可哀想な母親でした。ただ、希望を持っていない人が不幸な目に遭った時にどれほどのパニックに陥ってしまうか晒していました。希望を持っている人ならば、同じように心を痛めることがあっても、希望があるから何とか乗り越えていくことができます。
たとえばですが、今ここに身近な人が入ってきてこう告げてきたとしましょう。
『いいかい、ほんとうにお気の毒なのだが……ガンだ。余命3ヶ月らしい』と。
まあ、どうしようもないですよね。わたしだって人間ですからショックを受け、ちょっとくらいは落ち込むでしょう。でも、じきに立ち上がってこう言えるのです。『ハリストスはおられる。神の国はある。準備しよう。お祈りしよう』と。もしも希望がなかったら、何をできたでしょう。頭を壁にぶちつけてこう叫んだかもしれませんよね。『おい、それがどういう意味だか分かってんのか? 余命3ヶ月だと? オレの人生はどうなっちまうんだ。仕上げられなかった仕事はどうなる。あんな夢もこんな夢もあったじゃないか!』と。
したがって、信徒のほうが不幸な人生だとはとても思えないのです。ただ単に、信徒は勇気をもって苦難に立ち向かい、まっすぐ取り組んで解決させ、正しく行動する気品を備えているだけです。たとい横で目をつぶっている人がいたとしても、苦難自体がなくなるわけではありません。つまり、信徒にも未信徒にも同じ苦難が襲ってくるわけです。かりに未信徒のほうがひどい苦難でなければの話ですが……」。
2018年2月9日
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