逆境にあっても落ち込むな

逆境にあっても落ち込むな

成聖者イグナティ・ブリャンチャニノフ
(12 票: 5.0 分の 5)

聖書にはこんな聖句がある。「子よ、主に仕えるつもりなら、自らを試練に向けて備えよ。心を引き締めて、耐え忍べ。災難のときにも、取り乱すな。身にふりかかる艱難は、すべて甘受せよ。たとえ屈辱を受けても、我慢せよ」(シラ2 : 1、2、4)と。

「逆境がつきまとう」ということは、創世以来、神に選ばれた者のしるしであった。聖太祖はじめ預言者、使徒、致命者、克肖者らは、いばらの道を歩んで試練を受け、つねに逆境に耐えることで神に身を献げ、神に喜んで受け入れられてきたのである。

現代でも、成聖されていく正教徒は、御旨によって次から次へとつらい目に遭い、いかに神を愛しているか明証する機会が与えられている。

どんな逆境も、神が同意して許可しなければ生じることはない。

主イイススにしたがうハリスティアニンは、いつか聖神より生まれて恩寵による神の子となりたければ、とにかく「大きな心で逆境を受けとめて、耐えよ」を座右の銘とせよ。たとい病気になろうがひどい仕打ちを受けようが、悪鬼にやられようが慾に悩まされようが耐え忍ばねばならない。

神に喜ばれるように生きたければ、何があろうと神に望みをかけて耐えつづけることだ。そういう忍耐を武器のようにして持ち、いつも念頭に置いて手放すな。なぜならば、敵の悪魔があの手この手を尽くしてわれわれの気力を奪い、逆境という重圧で苦しめて神に望みをかけさせまいと仕掛けてくるからである。

あなたが真に神に仕えてさえいれば、抗いきれない誘惑に遭うことはない。神が決してお許しにならないからだ。「神は信なり、爾等なんじらが誘いざなわるること、爾等の能よくする所に過ぐるを容ゆるさず、すなわち試誘いざないとともに逃のがるべき法を備えん、爾等の堪うるを得んためなり」(コリンフ前 10 : 13)と、聖使徒パウェルも述べている。

いくら悪魔といえども、しょせん神に造られた僕にすぎない。好きなだけ人を悩ます権限など持っておらず、あくまでも神に許容された範囲内でしか攻撃できない。

われわれ人間でさえ、およそどれくらいの重荷までならば家畜が持ち運べるものか推測できるものだ。ましてや神ほどの限りない叡智があれば、いかほどの試練までならば各人が乗り越えられるか見抜いておられないわけがない。

陶芸家でさえ、陶磁器を窯で焼くとき、どれくらいまで焼けばよいか弁えている。焼きすぎればガシャンと割れてしまうし、ちゃんと火が入っていなければぐにゃぐにゃして使い物にならぬ。ましてや神は、霊智の器たるハリスティアニンをどれくらいまで試練にさらしたらよいか知りつくされている。試練を乗り越えさせることで、天国を受けつぐ能力をつけさせるためである。

だれしも年端も行かない子供のうちは、まだ人様のお役には立てない。家計管理もできなければ農耕作業もできない。つまり、まだ社会人として生活していく力がない。教会の中でも、すでに神の恩恵を受けてきた身だというのに、悪鬼からくる逆境だけは経験しておらず、それを乗り越えていない人が多い。そのような信者は「子供」のままであり、いわば天国に入っていく力がついていない。

そのような信者に対し、聖使徒パウェルもこう述べている。「爾等、もし衆の与るところの懲戒こらしに遭わずば、すなわち私生の子にして、嫡子にあらず」(エウレイ12 : 8)と。

誘惑や試練というものは、ためになるからこそ送られてくるのである。人は試練の篩にかけられると精神的に強まり、主の前に貴い者とされる。ひたすら神に望みをかけて耐えきった暁には、聖神に約束された恵みを授かり、慾にもすっかり悩まされなくなる。

どんなに嫌がらせをされても、みだらな想いや病気に悩まされても、ぐっとこらえて息を引きとる瞬間まで辛抱しつづけることができたならば、致命者(殉教者)と同じ栄冠を授かるだろう。そして、致命者のように毅然として神の前に立つことができるだろう。

致命者は、どんなに人々に迫害されても耐えた。すすんで受難に赴き、致命する瞬間まで勇敢に耐え抜いた。その苦痛が過酷であればあるほど神に称えられ、よりいっそう毅然として神の前に立つことができた。修道士もまた、どんなに悪鬼に迫害されても耐えている。悪魔にやられればやられるほど来世で神に称えられるだけでなく、現世の逆境の極みにあっても聖神の慰めをふんだんに受けている。

永遠の命に至る道というのは、ただ狭いだけでなく困難が付きまとうものだ。だから、大抵はこの道を歩もうとしない。しかし、救われたいと思うのであれば、どうしても避けて通るわけにはいかない。一歩たりとも、この道から逸れるな。いかに悪魔じみた誘惑や試練に打ちのめされようとも、信仰の目で天の報いをしかと見据え、堅忍不抜の精神で耐え抜くのだ。

どんな苦境にあったとしても、しょせん神に約束された永福の喜びとは比較になるまい。それは聖神の慰めを受ける日々とも比べようがないし、罪を赦された解放感や慾の支配から救われた安心感とも比べ物にならない。大きな心で逆境を辛抱しつづけた人は、必ずそういう恩恵を賜るのである。

聖使徒も、「今の時の苦しみは、われらのうちに顕れんとする光栄に比たくらぶるに足らず」(ロマ 8 : 18)と教えている。つまり「この世で受ける苦難など、わたしたちが聖神の力で刷新されて授かるはずの栄光に比べたら取るに足りない」というのである。

主のためにこそ、逆境を雄々しく耐え抜こうではないか。王のためとあらば死をも厭わないのが勇敢な兵士というものだ。

われわれは、なぜ俗世間にいた頃は今日ほどのしんどさを味わわなかったのだろうか。なぜ神に仕える身となった後から、かくもつらい目に遭ってばかりいるのだろうか。知るべし。ハリストスに献身したからこそ、次から次へと矢を浴びるようにしてつらい目に遭っているのだ。敵である悪魔が逆境をこしらえ、永福を見据える修行者の足をすくって恨みを晴らそうとしている。われわれの気力を削いで修行を止めさせ、何としてでも待望の永福を得させまいと躍起になっている。

だが、ハリストスがわれわれのために戦っておられることを忘れるな。目には見えないものの、この頼もしい無敵の味方のおかげで敵の権謀術数もことごとく泡と消えるだろう。

そもそも救主ハリストスご自身が、この世で生きておられるあいだ「いばらの道」を歩まれたのである。その道から逸れることはなく、ひたすら迫害に耐え、どんなに嘲笑されても辱められても耐え、とうとう盗賊二名の間で恥辱的な十字架刑に処されたのである。

このハリストスについてゆこうではないか。ハリストスに倣ってへりくだり、おのれを低くしようではないか。ハリストスご自身が忍ばれたように、たとい「扇動者だ」「狂人だ」などと罵られても辛抱しよう。名誉を傷つけられても、唾を吐きかけられても、平手で打たれても我慢しよう。この世の名誉や見栄えや娯楽を一切求めず、「枕する所なき」旅人のごとく地上の人生を渡ってゆこう。

たとい罵倒されてバカにされ、鼻であしらわれたとしても受け入れようではないか。これぞ、われわれの選んだ道に付きまとう周囲の反応だからだ。我こそは、という思いが首をもたげてきたら全力で抗い、そういう「古き人」からくる思いに耳を貸さないようにしよう。そうすれば、主が「我、かれらの中うちに居り、かれらの中うちに行かん」と告げられたように(コリンフ後 6 : 16)、 やがてハリストスを心に宿すことができるだろう。そしてそのとき、かの「強い人を縛り上げ、その家に押し入って家財道具を奪い取る力」や「蝮と毒蛇とを踏む力」をいただけるようになるだろう(マトフェイ12 : 29、聖詠 90 : 13参照。聖大マカリイ『七訓話』4 : 15)。

艱難辛苦に見舞われた時は、「なんでこんな目に遭うんだ!」などと愚痴をこぼしたり弱音を吐いたりしないようにしよう。また、極力落ち込まないようにしよう。弱音を吐いたり落ち込んだりしようものなら、ますます苦しくなるだけだ。「いっそやり返してやれ、悪には悪で報いるべきだ」などと思ってはいけない。主は「讐あだを復かえすは我にあり、我報いん」とおっしゃったではないか(ロマ 12 : 19)。

あなたは、うまいこと逆境を乗り越えてみたいだろうか。乗り越えるためには、心底からハリストスのために死のうと決心することだ。日々ハリストスのために死ぬつもりで歩み、常日頃から罪深い思いをことごとく断ち切って自分を殺せ。ああしたいこうしたいという我意を捨て、「古き人」の偽称的知恵がこうでもいいじゃないかと囁いてくる声に耳を貸さず、とことん自我を殺すのだ。

そのうえ、必ず死ぬことになる日をありありと思い描いて、もはや死んだ身になってみることだ。そもそも「おのれの十字架を背負ってハリストスに従え」というのは、いつだって喜んでハリストスのために死ぬつもりでいなさい、という意味の戒めである。いつもハリストスのために死ぬつもりでいれば、いかなる逆境であれ耐えやすくなる。

ハリストスのために死ぬつもりでいるとき、せめてこのくらい耐えてみようと思えない不幸や屈辱などあろうか。

逆境がつらく感じるのは、ハリストスのために死ぬ気になっていないからである。ハリストスだけを生き甲斐とせず、違う何かに望みをかけたり知恵を借りたりして、自分のすべてをハリストスに掛けていないからである。

ハリストスに付いていってその共同相続人になりたければ、ひたすらハリストスの受難を見習わねばならない。主を愛する人や主に従う人は、いかなる逆境にあっても大きな心で耐えるのみならず、いつも逆境を神の賜として喜んで受け入れて感謝する。そうやって、どこまでもハリストスに望みをかけて耐え抜くことで、うちに秘めた心構えを見せるのである。

このような忍耐力は、ハリストスからいただく賜である。

ぜひとも虚心になって「このような忍耐力をください」と祈りつづけよう。そして、いずれ授けていただこう。そのためには、逆境や試練が苦しくて反発心が湧き起こってきても、そういう心情を押し殺してでも耐え、「忍耐」という限りなく貴重な賜を本気で得たいと願っていることを実証しなければならない(シリアの聖イサアク、37訓話)。アミン。

 

原注:本稿はおもに聖大マカリイ全集の第7説教(13~18章参照)に基づいて執筆した。

 

原題:Слово утешения к скорбящим инокам「(直訳)逆境に耐える修道士を慰める訓話」

原文:https://azbyka.ru/otechnik/Ignatij_Brjanchaninov/tom1_asketicheskie_opyty/36

コメントする